「サリン事件の河野さんの奥さんが亡くなったとの報道…。人生での出来事は、生まれる前に自分で決めてるみたいなことを教えてもらいましたよね。河野さん夫婦や災害で亡くなっていく人達も、同様なのでしょうか。な~んだか、複雑なような、理解できないような…」
ある女性からタイムリーな質問を受けたので、それに絡めながら<先祖供養などしなくても、この国は素晴らしい>の続編を書こうと思います。
前記事で書ききれなかった部分が、こういった側面に関係しています。
退行催眠や臨死体験などの科学的アプローチによる生まれ変わりの研究では、人は中間生(いわゆるあの世)で次に生まれる自分の人生の計画を立てているという報告が成されています。個人的には、それが西洋占星術の場合、ホロスコープ・チャートに現れている傾向だろうと考えています。
しかし、世の中にはいかにも理不尽な出来事が多い。
松本サリン事件では当初犯人扱いされた河野義行さん、そして奥さんの澄子さんはサリンの被害に遭い、意識不明のままで、この度、亡くなられました。
このお二人の人生はなんだったのか、もし生まれる前に人生の計画を立てるのなら、このような不幸で理不尽なこともその計画に含まれているのか?
これは重大な問いかけです。
というよりも、人類はずっと同じような問いかけを有史以前から行ってきたと思われます。
私は一昨年、「デウス・エクス・マキーナ」を執筆する過程で、人類が神話などの形態を経て、物語、小説というものを文化として所有するに至る過程を考察しました。
原初、人が神話という形態で物語を生み出していったその動機には、おそらく世に起きる主に不幸な出来事と、自分との関わりに何らかの意味を見出そうという努力があったと思われます。
愛する人を失った。
怪我をした。
病気をした。
生まれてくる子が死産だった。
地震、落雷、自然火災といった災害による被害。
これらの出来事を体験した人類は、無意識にでしょう、「なぜ、こんなことが起こったんだ」「どうして愛する者が喪われたのか」といった理由を欲した。
人間が問いかける対象は、自然であり、天であり、神であり、運命であり、宗教だった。
そして、これは太古の昔も現代も、なんと何も変わっていないのです。
近代になって、人類はその答えを科学に求めましたが、科学はなんら解答をよこすことがなく、むしろ人間は様々な分子の結合したただの物体だという結論を打ち出してきました。
つまり、それによると災害や人の死も、すべて物理現象に過ぎない、というものです。
しかし、それでも人は問いかけをやめることができませんでした。
普段、非常に強気でポジティブな考えを持つリアリストの人間でさえ、不幸が身の回りで連続して起き、それが身内や愛する者のところにまで及ぶと、いったい「なんで、こんなことが起きるのか」「自分の何かがいけなかったのか」という問いを発します。
なぜか?
人は自分や他人を愛するようにできているからです。
愛さずにはいられません。
その愛に損失や喪失が生じたとき、痛みを感じない人間はいません。
最愛の人を病気で亡くしたとき、残された者はその理由を知りたがります。
しかし、たとえば癌だったとか、白血病だったとか、その病名や進行状況を説明されても、なんの慰めにもなりません。
その人が本当に知りたいのは、この世の中に生きている数多くのものたちの中で、なぜ他でもない自分たちの身にこの出来事が生じたのか、なぜこれが自分たちに訪れたのか、という問題なのです。つまり世界と自分たちとの関わりの中での、真の理由、意味づけを知りたいのです。
しかし、人類は物心ついて以来、この問題に明瞭な結論を出せずに来ました。
生まれ変わりの研究は、この疑問にもある光を投げかけるものです。
たとえば生まれてすぐ亡くなってしまう命があります。
せっかく子供を授かったのに、その喜びも束の間、それを失ってしまう両親の悲しみやショックは、言葉には尽くせないものがあります。
このすぐに消えてしまった命。この赤ちゃんの誕生と死に、いったいどんな意味を見出せというのでしょう?
普通なら無理です。
なんの意味も見出せず、ただ我が身の不運を嘆くしかありません。
しかし、生まれ変わりの研究の中には、そのことによってしか体験できない、痛烈な悲しみを味わわせるため、その子はあえてその両親の元に生まれ、すぐに亡くなっていくのだという報告があります。
その出来事の裏側には、中間生での親子の取り交わした約束があるようです。
普通では感じ得ない悲しみ、最大級の悲しみ、それを体験するためにお互いがお互いのためにその存在を役立たせるというものです。
これは普通の感覚では、理解できないことかも知れません。
しかし、そう考えたときにだけ、子を喪う悲嘆にわずかな救いが見いだせるようになることも事実です。
ただ、たとえば地震や大きな事故、事件で亡くなってしまう人達もそうなのか、という疑問については、私もここで一度「うーん」と唸らざるを得ません。
ただ個人のホロスコープ・チャートを何千と見てきた立場で言わせてもらえるなら、大往生する人のホロスコープと事故死など横死する人のホロスコープは、実は歴然と違っているのです(そんなことまで分かるのか?! と言われそうですが、実際そういう傾向を読み取ることができます)。
人は生まれてくるときに、両親を含め、環境を自ら選びます。
そして大まかな人生の設計も行っています。
子供時代の過ごし方、初恋の時期やその結果、本当の伴侶となる相手との出逢いの時期や状況、子供は何人授かるとか、仕事の選択、人生の転機となる時期や出来事、そして最終的には寿命、死ぬ時期や状況も、やはり選んでいると思われます。
その選択があるからこそ、それらがホロスコープにそれが反映されていると考えられます。
死の状況は誕生のそれと等しいほど、厳粛なものであり、精緻なものではないでしょうか。ならそこに本人の意志がまったく関与していないということは、なかなか考えられないと思います(ただし生き方によって、ある程度の変更は利くと考えられます)。
そこで災害やサリン事件のようなものの被害にあっての死さえも、本人の計画の中にあることなのか、ということですが……。
そのような悲惨な死に方をすることさえ、ご本人の魂には意味ある体験なのではないでしょうか?
ただ、私はそれを今生で体験している立場ではないので(体験したら、すでに死んでいますが)、あくまでも推測でしかものが申せません。
また幼子の死のように、ご本人の死が両親の体験に大きく役立つ(たとえそれがどんなに悲しいものであっても)場合があるように、社会的に大きく取り上げられる事件に関わった人の死には、ご本人の意志以外にも大きな役目がある可能性があります。
たとえば山口県光市母子殺害事件。
この事件で、奥さんと生まれたばかりのお子さんを殺された木村洋さんは、その後、長い苦闘の中で血を吐くように訴えを続けてこられました。
人の命を奪う行為に対しては、厳罰を持って当たるしかない、日本の現状の法制度の中では「死刑」がそれに該当する……。
この事件は、日本人に死刑制度のありよう、少年犯罪の問題、命の貴さ、犯罪被害者の遺族の問題など、様々なことを問題提起し、考えるきっかけとなっています。
それは木村さんご自身が、妻子を一度に殺される(それもきわめて残虐なやり方で)という体験を、ただ憎しみのみに留まらず、社会問題化させるよう努力されたからです。
奥さんとお子さんの死は、普通では絶対に得られない深い悲しみと憎しみ、その果てに人間としてあらたな選択をしていくという、まさに得難い体験を木村さんに与えたことになります。
サリン事件の被害者である河野さんの事件は、えん罪というものを作り出しかねない警察やマスコミ報道のありように、大きな警鐘を鳴らしました。
その死が無意味なものであったなどとは、私は思いません。
が、このような理屈が、たとえ生まれ変わりの研究という報告事例に基づいて成り立ったとしても、河野さんや木村さんのような立場の方に、かならずしも有効なものだとは思いません。
そんな考え方が救済になる場合もありますが、逆に「何が分かるんだ」と激怒されることだって考えられます。
もし、木村さんの奥さんがあのような死に方をすることが、自分の人生の計画に100%の完全さであったとしたら、では、あの世の世界では木村さんの奥さんはやがて自分が殺される運命にあること、犯人であるその相手がやがて生まれてきて少年として歪んだ犯罪を起こす、その犠牲に自分がなるのだと、そういうことまで分かっていたのか? ということにもなります。
河野さんの奥さんは、松本でオウム真理教が引き起こすサリン事件のことも知っていて、そのことさえ計画の中に入っていて、犠牲になり、死んだのか?
では、オウムの存在やサリン事件なども、すでに決定項目として予定されていたのか?
私はこれは、そうは思いません。
生まれ変わりの研究報告の中には、「やがて人を殺傷すること」などが人生の計画に含まれている、などという事例は今のところ一つも聞かないからです。
つまり人を殺すことが目的で誕生する命はない、ということです。
殺すというのは、人が愛から離れたときに生じる出来事です。
人は両親や環境を選択して生まれてきますが、その中には愛のなかなか感じられない困難な状況の中に、あえて身を投じる魂もあります。
そんな中で、本来は愛を取り戻していくことが人生の課題だったのに、困難さに負けてしまい、歪んだ行動に走ってしまう。
あるいはオウム真理教のように、最初は小さな集まりに過ぎなかったものが、やがて教祖のカリスマの幻想だけが暴走し、思想的にも歪み、自らの教義や立場を正当化するために、自分たちではなく世界の方を作り替えようとした。
個人ならその愛から離れた歪みはごく小さなエリアに留まりますが、これが何百人何千人何万人という規模になっていくと、この歪みはより大きな社会的悪影響に変わっていきます。
私たちは同時代に生き、これらの歪みを見てきました。
私はオウムにせよ、様々な凶悪犯罪にせよ、どちらかといえば、今まではそれを離れた場所から見ていたに過ぎません。その犠牲になったこともありません。
しかし、もしこの同時代に、自分の死によって、配偶者や家族、あるいはその事件を知ることになる多くの人の心に、なんらかのメッセージを残すこと、何らかの大きな体験をさせることを使命とする生まれ方をしてきた人がいたなら、近隣で歪みが発生したときに、パズルのピースがぴたりとはまり合うように、加害者と被害者が出会ってしまう、ということが、世の中にはあるのかも知れません。
地震の発生メカニズムと被害が、占星術的観点からどう考えられるのかということは、私もまだ研究中です。
地震と被災者の方の関係は、今後の研究課題としたいです。が、個体の運勢ばかりではなく、家系や地域にも、ある種のベクトルは存在すると考えられます。
そこに手がかりがあるように思いますが、少なくとも個人の運勢では天変地異で亡くなるという暗示を持つ人がいることはたしかですから、これも上記のようなパズルのピース的要素が背景にあるのではないかというのが、現状での私の考えです。
<先祖供養などしなくても、この国は素晴らしい>を書きながら、私が思っていたこと。
あの記事の中で、私は一般市民さえ虐殺されたのに、アメリカを恨むことなく、マイナスに走ることがなく、戦後、発展を遂げてきた日本は素晴らしいと書きました。
しかし、民族としての大きなベクトルはそうでも、個のレベルでは話は違ってきます。
もし私が愛する妻や子を無惨に殺されたなら、復讐の衝動を抑えられるだろうか?
私はそれを自問していました。
相手に対して報復を行いたいという欲望は、おそらく熾烈なものとなるでしょう。
しかし、それを実行する道は、修羅の道です。
一つの結果が生じるまでは、人は全力でそれを良い方向に変える努力ができます。その機会があります。
しかし、不幸な結果が生じてしまったなら、そこに何を見出し、自分のものとしていくか、それもまた人の自由な選択に関わっています。
河野さん、木村さん。
この方々の生き方は、私たちにそのヒントを与えてくれるように思います。