近所にご不幸があり、今日はお見送りをしてきたzephyrです。
葬儀屋に会場から細々とした準備まで、すべてを任せるような告別式なら、どうということもないのですが、うちのような田舎で家から送り出すとなると、結構大変です。
なにしろ自宅周辺の道は車1台分がやっとという道幅で、駐車場も大きなものがあるわけではりません。にもかかわらず、公共交通機関はないので、皆さん、車でやって来ることになります。
駐車場は周辺に分散して確保しましたが、この暑さの中、その案内に外に立っていると、気分はこんがりレアです。汗びっしょり。
カンカン照りとまでは行かなかったのが幸いでした。
亡くなられた方は大正生まれの95才で、そのせいか、あまり会場には悲壮感もありませんでした。お身内の方も含めて、「よう生きられた」といった印象なのでしょう。
光に戻られた魂に、ご苦労様でした、と私も申し上げました。
葬式というものを端から見ていると、様々な意味不明のものが目に付きます。
たとえば棺を担ぐ人がわらじを履くとか、出棺後、茶碗を割るとか、わらに火を付けるとか、晴明旗とか、まあ、いろいろと地方で風習の違いはあるでしょう。
それら一つ一つには元を正せば、ちゃんとした理由付けはあるのでしょうが、そうした意味は忘れ去られ、ただ習慣で形だけやっているものもあるように思います。
宗教的行事にこそ、そうした形骸化したものは多いように思います。
世の中、「型」が大事なものもありますが、気持ちや意味の込められないものを、空疎に続けていくことにはやはり疑問を感じます。
私が死ぬときには、できるだけ簡素にやってくれるよう、遺言しておこうと思いました。
法事なんか、そんなに何回もしてくれなくても、自分は勝手にちゃんと行くべきところに行きます。
よく「先祖供養しなければ幸せになれない」と言う人がいます(とくに占いや霊感商法的なことをしている人に)。
「成仏できていないご先祖様がお怒りになっています」とか。
しかし、海外ではほとんど先祖供養など行っていないのです。供養なしで幸せになれないのなら、海外のご家庭のほとんどはもっともっと不幸になっていなければなりません。
この点で、日本は供養の習慣があるから、他よりも幸せなんだという方もいます。
私にはさほど違いがあるとは思えません。少なくとも同じ水準の文明を持つ国の中で、日本だけが突出して幸せだということはないのではないでしょうか。
多少はまし、ちょっといいかな、くらいではないでしょうか。
先祖供養がそれほど決定的な効果を持つのなら、日本はもっともっとダントツの幸福を実現していなければおかしい気がします。
もちろん私は先祖を敬う気持ちを否定するつもりはありませんし、私自身、毎朝、かならず神棚のお供え、仏壇のご飯とお茶の取り替え、線香を上げることなどは習慣的に行っている人間です。
でも、それは自分が幸せになりたいからしているのではありません。
どちらかというと今は、感謝の気持ちで続けていることです。
運命学的なことをいえば、人に運勢があるように、国家にもそれはあります。
国家の成立時のホロスコープ・チャートを読むのです。
人も国家も、ざっくりとした見方では同じです。人がよい選択を行い、喜びに満ちた人生を送り、自分も他人も愛した生き方をすれば、当然、その人の人生には良いものが引き寄せられてきます(因果の法則)。国家も同様です。
自国の利益ばかりを追求し、他国をおとしめ、戦争を仕掛けるような国は、人よりももっと長い周期になりますが、どこかでずどんと落ちます。
私はアメリカ合衆国が近い将来、因果のマイナス面を受けるようになると思います。いや、すでにそれは起こってきていると思います。
この点において、日本人というのは他の民族とは違った、得難い特質を持っていると思います。前の大戦で、度重なる空襲と二個の原爆で、一般市民を虐殺された経緯を持ちながら、不思議なことに日本人は全般的にはアメリカという国を恨んでいません。
これは、ほかのアジアの国には見られない傾向です。
もちろん戦後、アメリカの思惑が日本の社会や教育まで骨抜きにしてしまったのだ、という見方もできるでしょうが、それだけではないような気がします。
日本人は過去の恩讐、マイナスの残留思念を、未来に持ち運びしない民族なのではないか。そういう「和」の精神構造を持っているから、なのではないでしょうか。
「終わってしまったことは、まあええじゃないか」みたいな、一種のいい加減さが、民族を救っているように思います。
戦後、日本が発展を遂げた背景には、こういう負の要素をいつまでも引きずらないことが大きかったのではないかと考えます。
話がややそれましたが、国にも人にも運気があるのなら、私はその中間にある様々な段階の集合意識にも、運気があると思います(運気という言い方が良くなければ、そのものが働く方向性と力、慣性力、ベクトルなどといっても良いでしょう)。
何が言いたいかというと、「家系」にもそうしたベクトルは存在するように思います。
たとえば代々庄屋で、小作人を苦しめ、虐げ続けてきた家系であれば、いつかその与えた苦しみを自らが体験するときが来る(別な形かも知れませんが)という因果の法則です。
この因果の法則は、生まれ変わりの研究では「人間関係波及効果」と呼ばれています。
他人にしたこと、与えたものが、巡り巡って自分に返ってくる現象のことをいいます。
個人の運命の中では、この人生の中でそのサイクルは終了してしまうかも知れません。しかし、代々に引き継がれてきたことは、個体の数十年間の人生では消化しきれない場合もあるでしょう。
そうしたときに、その消化しきれない何かを解消するために、自らその役目を負うために、そういった計画を立てて生まれてくる魂もあると思います。
親の因果が子に報い、という言葉がありますが、親が善良で生前に良い行いをして、良い人間関係を築いていれば、子供がその親が作った人間関係の良い援助を受けられるというのも、当然起こってくることです。逆に悪行の数々(桃太郎侍ではないが)を行う親だったら、周囲が抱く○○家への憎しみといった負の要素を、子供の代が受け取ってしまうことも、当然あります(現実的な行為もあるでしょうし、思念だけであっても現実的なエネルギーですから、何らかの影響はあると思われます)。
そういう損な役回りも、あえて受け取る役目をしようという魂もある、と思われます。
ただ、ここで重要なのは、○○家に憎悪を抱き、そこへ復讐行為を行った人物も、同様な波及効果の対象になるということです。
よく憎悪の連鎖ということが言われます。
パレスチナ問題や、あるいは中東地域の紛争で、よく使用される言葉です。身内の誰かが殺されたから相手を殺す、すると殺された相手方が新たな憎悪を持って殺し返してくる。この連鎖を生み続けるのです(中東はもともとハムラビ法典で知られる「目には目を歯には歯を」という伝統的精神構造を持っていると考えられます)。
こういう現実が、世界には数多く見られます。
ここで戦後の日本のことを考えると、日本と日本人が取った道が、最良のものだったことが分かるでしょう。
アメリカのことを憎悪し、いつまでも許さずにいたら、今日の日本はなかったと考えられます。
先祖供養は、まあ、気持ちのある人はしたらいいと思います。
しかし、先祖供養などしなくても日本と日本人は素晴らしい。
この美質は、いつまでも失わずにいたいものです。
この国に生きてあることに感謝します。(この記事には続編があります。また後日)