ヤンキー先生・義家弘介氏、日教組へ燃える闘魂! | 日本教育再生ネットワークのブログ

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若者は国の宝です。その宝を育てるのは、教育。国の将来の礎となる教育が、様々な問題を抱え、深刻な事態に陥っています。戦後の教育行政で深刻な問題点を抱える日本の教育ですが、再生へのルートマップが必要な時。様々な問題提起ができれば幸いです。




ヤンキー先生こと、義家弘介参議院議員は、一言で言えば、学校教育の現状を憂い、国家の行く末を憂える愛国者と言えるでしょう。

言葉から発せられる一つ一つの燃える闘魂。

この人の言葉は熱い。

今度、参議院議員から衆議院に鞍替えし、厚木あたりから出馬するそうです。

義家氏は、自称・通称はヤンキー先生。

過去に横浜市教育委員、警察庁バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会、安倍内閣で教育再生会議委員を務めました(内閣官房教育再生会議担当室室長、参議院議員転出で退任)。明治学院大学法学部卒業。



ところで、「大阪から日本を変える」をキャッチフレーズに次々と改革施策を打ち出す橋下徹・大阪市長の動向について、ヤンキー先生はどう思っているのでしょうか。

橋下市長は「維新八策」に掲げられた教育改革をめぐって、教職員組合と激しいバトルを繰り広げてきました。



“ヤンキー先生”こと義家弘介・参議院議員は、橋下氏による教育行政改革は“脱日教組”に繋がると期待しています。

以下は義家弘介参議院議員の話です。

橋下市長は国政への進出を意識した政権公約「維新八策」で4番目に教育改革を掲げ、さまざまな改革案と並べて「教職員組合の適正化」を明記。橋下氏は条例制定で大阪での“組合適正化”の端緒を開きましたが、国政でも同様に法的な整備を通じて「やりたい放題」の日教組をさらに追い込むことになるでしょう。

日教組対策の専門家の方々の意見を総合すると、日教組の過激な政治活動を止めさせるためには、少なくとも3つの法改正が必要だと考えています。橋下氏も法律の専門家だから、それは当然分かっていて、法改正を実行してくれると思う。日教組の政治活動がこれまで野放し状態だったのは、法律が甘いからです。

まず、教育公務員特例法の改正。同法18条は「公立学校の教育公務員の政治的行為の制限」を定めていますが、罰則規定がありません。そのため、この法律には大した意味がない。同法を改正し、国家公務員並みの罰則規定を設けるべきです。

第2に、地方公務員法改正による“日教組マネー”の透明化。民主党・小林千代美議員(当時)への北教組の違法献金事件(2009年)が起こった背景には、組合内部でプールされている巨額資金の存在があります。これを原資とした違法行為を断ち切らせるため、日教組ら職員組合に収支報告を義務づけるのです。

第3は、教育の政治的中立確保法の改正だ。同法には「特定の政党を支持させる等の教育の教唆及びせん動の禁止」が明文化され、罰則規定まで定められています。にもかかわらず、まったく使われていません。

同法5条(教育委員会等が告発しない限り、罪に問われない)により、骨抜きにされているからです。これを、保護者や地域の告発に応じて教育委員会が調査するよう義務づけるなど、改正していきます。

教育委員会の体質改善も急務。橋下氏は現行の教育委員会に信頼を置いていません。かつては「差別を助長する」という理由で全国学力テストの市町村別正答率の公開を阻んだ大阪府教育委員会を「クソ教育委員会」と罵倒したこともあります。「八策」でも「教育委員会制度廃止を含む抜本改革」を謳っているので、総理になっても教育委員会には厳しい態度で臨むでしょう。





義家 弘介(よしいえ ひろゆき、1971年(昭和46年)3月31日 - )は、日本の政治家、で教育者。自由民主党参議院国会対策委員会副会長。自由民主党政務調査会文部科学部会長。参議院文教科学委員会理事。参議院議員(1期)。大学教授(東北福祉大学特任准教授)。北海道芸術高等学校チーフアカデミックディレクター。NPO法人あきらめない特別顧問。

1971年3月31日 - 長野県長野市で生まれる。
1987年 - 長野県長野東高等学校2年の時に暴力事件を起こし、進路変更。両親に絶縁される。里親に預けられる。
1988年4月 - 北海道余市郡余市町の北星学園余市高等学校2年に編入。
1990年 - 明治学院大学法学部法律学科推薦入学。(当初は弁護士目指して司法試験受験を考えていた)
1993年 - オートバイの事故で内臓破裂。奇跡的に一命をとりとめる。生死の境をさまようが恩師安達俊子の励まし(このとき、彼女に「あなたは私の夢なの」と言われた)に感動する。札幌市内の大学進学のための大手予備校に勤務。
1995年
3月 - 明治学院大学法学部法律学科を卒業。
11月 - 北海道内の小・中・高校生向け学習塾である(株)れんせい(練成会グループ)小樽練成会へ就職し、塾講師となる[3]
1999年4月 - 母校北星学園余市高校の教師となる。
2000年4月 - 北星学園余市高等学校36期生1年B組の担任(教諭)となる。
2001年9月 - 同校、大麻事件で大量逮捕者を出し、学校存続の危機に陥る[4][5][6]。
2003年3月 - 北星学園余市高等学校36期生3年C組の担任として、卒業生を送り出す。
2004年度 - 同校で生活指導部長を務める。
2005年
3月31日 - 同校を退職。
4月1日 - 横浜市教育委員会教育委員に就任。
2006年
4月 - 東北福祉大学や一新塾の特任講師に就任。
10月 - 内閣官房教育再生会議担当室室長に就任。
2007年
2月 - 横浜市西区内にデザイナーズハウス一棟を購入。1階には学習机や、黒板を備えた教室・談話スペースが設置された事務所を設けた[7]。
4月 - 東北福祉大学特任准教授に就任。
6月 - 総理大臣・自民党総裁安倍晋三からの要請受諾し第21回参議院議員通常選挙に比例区で自民党から出馬を表明。
横浜市教育委員会教育委員を任期途中で退職。
教育再生会議担当室室長を途中で退任。
7月29日 - 参院選で初当選。
11月15日 - 清和政策研究会に入会。
2009年
2009年自由民主党総裁選挙で河野太郎推薦人(同月の総理大臣指名選では若林正俊両院議員総会会長支持)
10月 - 自民党政務調査会 文部科学部会長に就任。
11月 - 九段会館での靖国神社崇敬奉賛会主催の講演会で講師
2010年
4月6日 - 自民党政権力委員会で教育・人材育成・文化・スポーツ担当。
4月 - 地方政治学校・信州維新塾初代塾長就任。
6月9日 - 自民党本部でJ-NSC設立総会参加。
7月 - 自民党参院会長選で中曽根弘文推薦人
影の内閣自由民主党シャドウ・キャビネット文部科学副大臣。
2011年 - 亀井善太郎後継で自民党神奈川16区支部長就任