継続審議が決定し、結論が6月に先送りされた、東京都の青少年育成条例改正案(いわゆる「非実在青少年」規制問題)ですが、愚弟のmixi日記に比較的中立的立場からの意見と改正に賛成の意見のリンクが掲載されていたので、こちらでもご紹介したいと思います。

・結論先送りに関する拙ブログ記事「東京都の青少年育成条例改正案、継続審議が決定:6月に先送りへ」
・当該問題に関する外部のまとめサイト「東京都青少年健全育成条例改正問題のまとめサイト」

 まず、比較的中立と思われるのが、2010年03月20日(土)付の愛媛新聞の記事。
・特集 地軸「非実在青少年」

 改正内容に疑問を呈する内容が主体ですが、冷静な筆致で対応しています。


 次に、改正案に先生の立場の意見。
 こちらは、2010年3月23日付けの産経新聞に掲載の記事です。
【主張】漫画児童ポルノ 子供に見せないのは当然

 言わんとしていることは、分かります。
 私も、もしそれを規制しなければ犯罪が無くならないとか、明確に犯罪を誘発するものであるのなら、規制は表現の自由に優先すると思っています。
 と言うか、この改正案に反対している人たち全て、こんな常識的なことは分かった上で、「今回の改正案での規制がなされなければ犯罪(青少年ポルノ)が蔓延することになる。これに反対する者は児童ポルノに賛成する犯罪者である」とまで言い出しかねない(現実の規制を行いかねない)改正案に大いなる危惧感を持っているのです

 上掲の産経新聞の記事を読めば、彼我の温度差は明確です。
 3月19日の結論が先送りとなるまでは、時間的余裕の無さから簡潔に「反対」という立場を表明することが第一義でした。
 今は6月までの時間的余裕を利用して、産経新聞の記事に示された温度差を認識した上で、自らの主張を熟成していくべきでしょう。

 そして、最も大切なことは、常に話題として表出させ、我々が問題意識を持ち続けることなのだと思います。


 What is moral is what you feel good after and what is immoral is what you feel bad after(ヘミングウェイ)
 この言葉、何故か最近、個人的に何度か引き合いに出す機会があったのですが、今回もこれが本質の一つではないかと思えます。

道徳的か非道徳的かは、後味の善し悪しによるものだ
といった意味になるのでしょうか。

 これは、悪い意味で取れば「究極の自己中」になってしまいます。
 しかし私は、人間なら必ず非道徳的な行為に関して、本能的な後味の悪さを覚えるものだと思うのです。少なくとも社会生活を営む過程で、そうしたメンタリティを獲得するものだと思っています。

 いや、「後天的な獲得」ではなく、道徳的素養は本能的に備えているもので、それが顕在化するプロセスを踏んでくるべきものだ、と考えています。
 そのプロセスこそが、本来の「教育」というものでしょう

 卑近な例ですが、私はゴミを道ばたにポイ捨て出来ません。
 誰かの目があって恥ずかしいとか、もしかしたら怒られるとかということではなく、「本能的に気持ち悪いから」ポイ捨て出来ないのです。
 こうした、くだらないと思われるような小さな事の積み重ねが、「教育」というものなのでしょう。

 今回の条例改正案の賛成派が危惧している「児童ポルノ問題」と、反対派が危惧している「表現の自由の規制」とは、「人間の質の向上を目指す本質的な教育」がなされなければ、良いバランスで共存し得ないのだと思います。
 
 私は、今回の条例改正案に対しては、変わらず「反対」です。
 しかし、反対を表明するからこそ、自らの足下を見直すこと、「脚下照顧」の姿勢が必要であるのだと、改めて感じるのです。


追記:
 今回の条例改正問題と「教育」に関しては、いつもお世話になっているアメーバブロガーのfujioさんのブログ記事にて、貴重なご教示をいただきました。以下にリンクしておきます。
・座布団亭主さんへ 青少年育成条例改正案