先週、お休みを利用して「ファルージャ~イラク戦争日本人人質事件そして~」を見てきました。
もう、なのか、まだ、なのかあれから10年たちました。
映画はドキュメンタリーであの事件の当事者3人のうち2人のあれからと今を描いていました。
本当に胸が詰まるような想いで見ました。
当時、この事件のあったことで、私は気づいたことがあります。
私はいわゆる世間一般の大多数の意見と異なる考えを持っていることを。
そして異なる意見を交わす時に感情を伴わずにしていられなかったということ。
私は当時から人質となった方々を擁護する意見でした。
ですから、あの大騒ぎは、あの狂気的なバッシングはなんなんだろうと、気持ち悪くて仕方がなかったです。
親しい友人とも身内とも考えを同じくすることができませんでした。
意見の対立により、言い争いに発展するくらいなら、この事件に触れない・考えないでいようとしていました。
今あらためて振り返って、あのイラク戦争に加担したことは是だったのか非だったのか。
その検証はなされたのかどうか。(なされていないけど)
このまま武器の輸出など認めていいのか。
彼らは本当に自己責任と責められるようなことをしたのか。
税金の無駄遣いなどと非難されなければならなかったのか。
(何かあると税金が税金がという人は普段から税金が適正に使われているか目を光らせているのか
無駄遣いしないように努力しているのか怪しすぎる)
イラクで何万人の一般市民が犠牲になったのか。
現在イラクでは劣化ウランの影響で先天性奇形の赤ちゃんがたくさん生まれている事実にどう向き合うのか。
あのとき熱病に浮かされたように彼らをバッシングしていた人たちは今何を思うのか。
また違うターゲットを見つけて攻撃しているのか、それともあのころの自分を恥じているのか。
と、めぐるめぐる思いはとまらないので、今回はコミュニケーション講師としての視点で。
今回の映画で、さまざまなバッシングの手紙も紹介していました。
ほとんどが、非論理的な感情のみぶつけた見るに堪えない罵詈雑言を並べたもの。
勢いで書いても冷静になって読み直せば恥ずかしくて破り捨てたくなるだろうに。
そして思いました。
私たちはあまりにも自分の怒りと向き合うトレーニングをしていない。
(あのとき感情的に彼らを非難していた人たちははたして「自分は何に怒っているのか」自覚していただろうか?)
私たちはあまりにも自分と異なる立場・意見の人と理性を持って議論を交わす練習をしていない。
(TVの討論番組でも最後は聞くに堪えない個人攻撃ばかり)
コミュニケーションは自分と相手と同じところを見つけて仲良しするためのツールではない。
自分と相手がいかに違うかを徹底的に知るためのもの。(鴻上尚史『コミュニケイションのレッスン』より)
自分の感情との付き合い方・自分と他人は違うことを知り、そのことを受け止める方法。
学んでいかないかん。
余談ですが、作中、大規模なバッシングにいたったきっかけとして新聞記事に「人質とその家族あてに非難のFAXがたくさん届いている」と掲載したことをあげていました。しかし実際は非難が500通に対して励ましは800通。
そして当事者の一人、今井さん(当時18歳!)に届いた手紙の中には励ましのものも非難のものと同じくらいあったそうです。
励ましの手紙を流しているとき、斜め前の中年男性が涙をぬぐっているのが見えました。
私もつられちゃいました。