いつもご覧頂きありがとうございます。
前回の投稿から2ヶ月近く開いてしまいました。
最近はFacebookなどで書く事が多くなり、また本宅ブログ『ゆきのおと』にも書いておきたい事が続いたので、久しぶりの投稿となりました。
さて、今度の土曜日24日と翌週の31日、2週に渡り、
NHK特集ドラマ『どこにもない国』の前編・後編が放送されます。
ブログトップのタイトルに続いて書いてある通り、私の母は、旧満州で生まれ、終戦翌年の昭和21年に姉妹・弟と初めて本土に渡ってきました。
このブログにも以前書いた事があります。
2009年8月3日『family history - 家族の歴史』と、去年10月19日の『ロシア語、ゴンザ、そして左源太』です。
とは言え、詳しい話は書かずにいましたので、今回もう少しだけお話しすると‥‥
母方の祖父は旧満州で警察官でした。
母は私に、「おじいさんは白バイに乗ってたんだよ。パレードなんかでは格好良かったのよ。」と教えてくれました。
母は昭和5年生まれ。
新京で生まれ育ち、冬はスキーを履いて学校に通ったそうです。
生まれたときは仮死状態で、逆さまに抱えられ背中を叩かれてようやく産声を上げた母。
小児リュウマチを煩ったり視力が老人並みだったりと身体は病弱ながらも、元来身体を動かすのは好きで学校で習うバレエやスケートも大好きだったらしい。
わが家のスケートのインストラクターは、母でした。
私たち兄弟が小学生当時は、南国鹿児島にも1件だけ屋内スケート場がありました。
そのスケート場もだいぶ前に無くなってしまいました。今では懐かしい思い出です。
余談ながら、今年ピョンチャンでの冬季オリンピックが開催されましたが、パシュートなどスケートの中継を観ていると、母が
スケート競技を好んで観ていた事や、コーナーでの体重の掛け方や後ろに蹴り出した脚をしっかり伸ばすんだよ、とスケート場で教えてくれたことを思い出しました。
話を戻します。
太平洋戦争の終焉が近づく昭和20年8月当時、母は女学校の3年生、15歳の誕生日が間近でした。
ソ連軍の侵攻も迫り来る中、新京(現・長春)をあとにするのですが、母親(私の祖母)や姉、年の近い妹と一緒に、
母は幼い弟(5歳)や妹(3歳)の手を引いて、銃弾が飛んでくる中を命からがら必死で逃げたと言います。
父親(私の祖父)は任務のため家族とは離れていて不在。
そんな状況の中、線路の上を長い距離歩き、列車に乗ったりして撫順まで移動したそうです。
※確か撫順と言っていた記憶がありますが、現在の地図を見ると瀋陽から東に延びる路線になっています。
「葫蘆島(ころとう)から引き揚げた」と言っていたので旅順ではないと思いますが、今となってははっきりしません。
そして、葫蘆(ころ)島からようやく日本本土に渡れる事になるのですが、
→Wikiより「葫芦島在留日本人大送還(ころとうざいりゅうにほんじんだいそうかん)」
引き揚げ船に乗るためには全員予防接種を受けなくてはならず、母の母親(私の祖母)はその時腸チフスにかかっていてすっかり衰弱していたため、接種を受けると命に関わるとわかっていながらも注射せざるを得ず、船に乗る事も出来ないまま亡くなってしまったそうです。
母親を亡くした悲しみの中、母は子供たちだけで、見知らぬ日本本土へ引き揚げてきました。
その後父親(私の祖父)と一緒に、本土の本籍地へ移ってからも、やはり随分苦労したようです。
(詳しい事はここでは省きます)
ただ、私は、中学生当時は母の苦労話を聞かされるのが好きではありませんでした。
「終戦直後は食べる物が無くて苦労したんだよ」とか「贅沢言ったらいけないよ」とか言われると、想像力の無さもあり思春期の反抗心から「またその話‥‥」とか「昔と今とでは違うんだから!」と心の中で反発していました。
高校生になり、更には高校を卒業して社会人になると、少しは母の話を素直に受け止められるようになり、断片的に思い出を話す母の気持ちを理解出来るようには、なって来たように思います。
母が亡くなり今年で19年。
祖母の事も「水引細工が得意で鶴や亀、宝船なんかも上手に作ってたよ」とか、「ロシア語や中国語も少しは話せたんだよ」など聞いていましたが、よくよく考えると、ほんの15年程の間の思い出なんだな……と、わが母親の事ながら、なんて切ないんだろう…と、今もキーボードを叩きながら涙が溢れてきました。。
そんなことを思いながら、今度の特別ドラマを心待ちにしているところです。
きょうはこの辺で、おやすみなさい。。