『まちはだれのもの?』終了 | vivienne sato

シバウラハウスを拠点とした『まちはだれのもの?』の最終プロジェクト「街を想う」(スタジオ05 韓亜由美 http://www.studio-han-design.com/ )。
都築響一さんとのトーク〜ヘッドドレスワークショップ〜極寒のフィナーレマーチが無事終了。
私も計3日に渡り参加させていただきました。
最終日はバンバタカユキさんを迎え、いままでのプロジェクトを投影。

都築さんとのバブル期の芝浦界隈での話や青森のBOROの話、時代や土地を越えて、その固有性や自然発生的に生まれるものの力強さや必然性が語られました。
また年度ごとに担当者が変わる役所仕事や、助成金の弊害、その地域ではなく東京の代理店だけが儲けてしまう構造。
共通することは、「企画書」という設計図ありきでしか動くことのできない現状や発想、、、描くことができないことにこそ価値や行う意味があるということ。

韓さんとは、、、
『新宿サザンビートプロジェクト2007』
https://www.youtube.com/watch?v=kMDngsXxY5s)という、南口の大きな長い工事が行われた際に、ご一緒したのが最初。私はモデルにもなり、ロフトプラスワンでトーク司会を私がしたそうです。

極寒の芝浦の運河を何度も横断し、縫うように練り歩きました。
夜の海風は本当に冷たく大変でしたが、これもまたこの季節、この場所での特徴。WSで自ら製作したヘッドドレスをつけた多くの女子参加者と道行く人々との交流もまた楽しいものでした。

最終のスタジオ05韓亜由美 編ではじめて参加させていただきました。
予てから私も「街や都市、地域は誰のもであるのか?」ということを考えております。不動産開発者か、政治家か、都市計画者か、住民か、、、、もしくは都市や街の機能や規模もいまは曖昧になっており、ネットや情報におけるイメージもまた都市の一部であるならば、その「所有」という考えはどうなっているのか。。
もしくはなぜ「所有」という発想を持つ傾向にあるのか。。それは「責任」の所在を意味するのでしょうか。

ある特定の場所に行くと自然と頭の中に生まれてくる音楽があります。
必ずと言っていいほど、その場所に行くと口ずさんでしまう鼻歌のようなものかもしれません。
それは説明し難い個人に染み付いた無意識の記憶です。もしくはある一定の人数や世代共通の記憶かもしれません。
確固たる経験や体験がない、指し示すものが存在しないインデックスのようなもの。
今回の韓さんのプロジェクトは「ムーン・リバー(唄:オードリー・ヘップバーン)」であったり、「卒業写真(松任谷由実)」(アルファレコードのレコーディングスタジオ跡地)であったり。。
それはその固有の場所に憑依している「声」や「言葉」でもあるのです。

極寒の寒空での街歩きは途中で切り上げられ、いままでのプロジェクト映像は、シバウラハウスの4階の天井に布を張って映し出されました。
参加者は寝転んでただただうつりゆく水面をただ眺めているようでした。部分も全体も始まりも終わりもない運河の水面は、バンバ氏が製作したボロ布のパッチワークとも対応し、また時間や無名の人々の手作業が織り込まれた青森のBOROにも呼応していたはずです。

「ムーン・リバー」
https://www.youtube.com/watch?v=vnoPke8tlAs
「卒業写真」
https://www.youtube.com/watch…