北朝鮮で使われた日本製の葉書 | 郵便学者・内藤陽介のブログ

 北朝鮮で使われた日本製の葉書

 昨日一昨日 と第二次大戦後のヨーロッパでの分割占領の話を書きましたが、分割占領といえば、やはり、朝鮮半島のことにも触れないわけに行かないでしょう。

 

 1945年8月の段階で、ソ連が日本降伏後の朝鮮半島に衛星国を建設するという明確なプランを持っていたのに対して、アメリカは朝鮮半島の戦後処理についてなんら具体的な計画を持っていませんでした。このため、とりあえず、暫定的な境界線として北緯38度線が設定され、朝鮮半島は米ソによって分割占領されます。その後、同年12月にモスクワで開催された米ソの話し合いの結果、朝鮮半島を一定期間の信託統治下に置くというプラン(モスクワ協定)が決定され、発表されます。これに対して、即時独立を求める南朝鮮(大韓民国はまだできていません)では大規模な反対闘争が発生。これに対して、ソ連が着々と金日成政権の地盤を固めていた北朝鮮は、ソ連の意を汲んで、信託統治に賛成の意向を示します。そして、それに引きずられるかたちで、南朝鮮の左翼勢力も信託統治に賛成を表明し、南朝鮮は信託統治の是非をめぐって社会的に混乱しました。


 さて、ソ連は、モスクワ協定の段階では、朝鮮に南北統一の政府を作ることも考えていましたが、その後の南朝鮮の状況を見て南北の統一は無理と判断。とりあえず、自分たちが占領している北半部だけでも、自分たちの意のままになる政府を作り、そこから、影響力を南半部にも拡大していこうとする民主基地路線に大きく舵を切ります。そして、1946年には、事実上の北朝鮮政府として北朝鮮臨時人民委員会を発足させ、南北分断に向けての第1歩を踏み出すのです。


 さて、↓は、その北朝鮮臨時人民委員会の統治下で差し出された葉書です。


 北朝鮮の葉書


 葉書は日本時代のものを接収し、漢字の郵便葉書や朝鮮のハングル表示、額面の五十銭などの文字が入った赤い印を押したうえで使用したものです。この印には、印色や額面などでいろいろとバラエティがあるのですが、それらを全部そろえるのは容易ではありません。葉書は1947年9月に城津から差し出されています。この城津は、後に北朝鮮の要人であった金策にちなんで改名され、現在は金策となっています。


 ちなみに、1945年以降しばらくの間は、南朝鮮でも日本時代の葉書が使われていました。


 我々は、ともすると1945年8月15日を境に、その前後で、日本時代と解放後がデジタル的にスパッと切り分けられるような錯覚を持ちがちですが、人々の生活レベルでは、そうそう簡単に前時代の“遺産”が消滅してしまうわけではありません。そういう当たり前のことを、こうした葉書は改めてわれわれに教えてくれているような気がします。


 さて、10月28~30日に東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の<JAPEX >では、今年が戦後60年ということにちなみ、“1945年”にスポットをあてた特別展示を行います。僕も“戦後世界の形成”と題する作品を出品する予定です。朝鮮半島に関しては、この葉書を含め、1948年に南北両政府が発足するまでの歩みを切手や郵便物でたどります。是非、月末は池袋にお運びいただき、“1945年”の企画展示をご覧いただけると幸いです。


 *右側のカレンダーの下のブログテーマ一覧に1945年 ( 31 ) のコーナーを作って、特別展示“1945年”の予告編になりそうな過去の記事を展示の予告編としてご覧いただけるようにしています。よろしかったら、クリックしてみてください。