裁判員裁判史上初めて死刑を問われた“耳かき店員殺害事件”で無期懲役の判決が出た。
求刑は死刑、だった。
ここで死刑制度を問うつもりはない。
裁判員裁判がはらむ問題点を考えた。
今回のように死刑が求められた場合、あなたは? そしてオレはどうするだろう?
確かに今回は二人の命を奪った残酷な事件だ。
だが裁判員となった人間はそれが被告の犯した“殺人という罪”とは異なるにせよ、たとえ殺人者といえども一人の人命の生死を左右することになるのだ。
仮に自分がその決断を迫られたときに、
「オレがこの被告を殺すか否かを決めなくてはならないのか?!」
と、悩みすぎて気が狂ってしまうのではないだろうか。
あるいは多数決となった際に自分が無期懲役を主張したとしても、死刑を支持する側が多数派であった場合に、
「オレは反対したのに、なぜ殺さなければならないのか?!」
という意識に見舞われはしないだろうか?
さらに、裁判員として自分が死刑を支持したか無期懲役を支持したかにかかわらず被告の死刑が確定し、最終的にその刑が実施されたときに自分は普通の状態でいられるのだろうか?
裁判員制度が始まって一年以上が経過した。
現在のわが国の裁判員制度では有罪か無罪かに止まらず、その罪の重さまでを決定しなければならない。
個人的には制度そのものに疑問を持っている。
犯罪者の量刑を決めるのは本来、司法のプロである裁判官の仕事であるべきだ。
なぜなら彼らはそのために多くの時間を費やして勉強、学習し、難関を乗り越えてその職業に就いたのだ。
裁判員制度が始まるにあたり裁判員に対する心のケアを問われたが、はたしてそれで補いきれるものなのか?
オレには裁判員制度とは、本職の裁判官が負うべきはずの職務上の負担を減らす、あるいは裁判官の向こうにある国家の責任を減らす、免れるために、裁判員という一般国民に責任を押し付け、なすりつけている制度に思えてならない。