吉田修一 『悪人(下)』 (朝日文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 

 2009年11月発行の朝日文庫の下巻。

 三瀬峠で石橋佳乃が絞殺遺棄された事件の詳細が明らかになってくる。あの夜、佳乃は清水祐一と博多市内の公園で待ち合わせをし、しかし保険会社の同僚と飲食して、遅れてやってきた。公園には偶然にも増尾圭吾がいて、佳乃は祐一には目もくれず圭吾に近づいてゆく。その後、祐一に短い言葉を投げつけて、佳乃は圭吾の車の助手席に乗り、スタートして行った。祐一はカッと怒りに包まれて、圭吾の車の後を追う。一方の圭吾にしてみれば、佳乃は魅力のないつまらない女に過ぎない。三瀬峠に入り、圭吾はお喋りを続ける佳乃が次第に疎ましくなり、突然車を止めて、「降りろ!」と助手席のドアを開け、蹴りつけて彼女を放り出し、去ってしまった。深夜の峠道である。ようやく落ち着きを取り戻していた祐一は、彼女を助け、送ってゆこうと、佳乃に近づいた。しかし、彼女は頑なで、祐一を激しく責め、ついには「人殺し!」と叫ぶ。祐一の手はいつしか佳乃の首を絞めていた。

 潜伏していた圭吾が逮捕され、しかし、圭吾の手は絞殺死体に残された斑紋との相違が明らかで、彼は無罪放免となった。こうなると、容疑は祐一一人に絞られ、彼の周囲に警察の手が伸びてくる。下巻の中心を占めるのは、祐一と馬込光代との逃避行である。

 光代は紳士服量販店に勤務し、双子の妹と一緒に暮らしていた。祐一と知り合ったのも携帯サイトである。これまで恋愛経験は乏しかったのだが、祐一と会うことになり、その日にいきなり抱かれて、強く惹かれてしまう。祐一に罪を明かされ、自首すると聞かされても、光代は彼と離れられない。「私を一人にしないで!」と縋り、そうなれば祐一の決意も鈍って、二人はズルズルと逃避行を続けてゆく。ラブホテルを転々とし、祐一の車が手配されていると知ってからは、いまは使われていない灯台の小屋で潜伏することになる。逃げ切れるはずのないことを十分知りながら、しかしその先のことは考えたくなくて、寒い季節に、二人は寄り添って過ごしてゆくのだ。

 光代が食料の買い出しにコンビニへ寄った際、警察官に見咎められたことから、終焉が訪れる。派出所へ連行され、しかし光代はそこを逃げ出して、灯台へ戻ってくるが、やがてパトカーの群れが灯台に近づいてくるのだ。警察官が小屋に踏み込むとき、祐一は光代の首を絞め、殺そうとしていた。それは、光代を被害者としたほうが彼女の立場がよくなると考えたうえでの、祐一のポーズであったと思われるのであるが。

 上巻でも同じことを書いたけれど、こうしてストーリーを追うことは、この作品に関してはほとんど無意味であるような気がする。佳乃の理髪店を営む両親、圭吾の親友でありながらも彼を冷ややかに見ている鶴田、祐一の祖母と彼を捨てた実の母親、祐一の幼馴染の友人、祐一がかつて熱を上げたファッションマッサージ店の女性、光代の妹など、この作品にはさまざまなエピソードや独白が盛り込まれており、それらが複合して、全体を構成しているからである。結果的に、祐一は殺人を犯してしまったけれど、そこに至るには多くの要因が絡み合っている。逆に言えば、ごく目立たない人間でも、こうして『悪人』になってしまうということなのだ。携帯サイトが事件を生むという最近の風俗を扱いながらも、この作品が訴えてくるものは、案外と重いのである。

 「……でもさ、どっちも被害者にはなれんたい」と呟いた祐一の言葉が印象的である。そう言えば、会話文と、独白部分とが九州弁で描かれるのもこの作品の特徴であり、登場人物の個性が際立って、非常に効果的であった。ミステリーの要素が作品に興趣を添え、報われぬ愛の行方に胸を塞がれる想いをしながら読み進めることにもなって、なおかつ読後に人間の育った環境や運命のいたずらに思いを馳せることにもなるのだから、これはやはり第一級の文学作品であろうと思う。

 おそらくは、今年読んだ中のナンバーワンであると、そう評価したい作品であった。

  2009年11月27日  読了