吉田修一 『悪人(上)』 (朝日文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。


 2009年11月発行の朝日文庫。

 著者の作品は『初恋温泉 』の一作を読んだだけで、そちらは特にインパクトを感じたわけでもなかったけれど、この『悪人』に関しては、発表当時好意的な書評を目にしていて、その後、大仏次郎賞と毎日出版文化賞を受賞したというニュースにも接したので、読みたい作品として記憶に留めていた。どうやら映画化に備えて、急遽文庫化したということのようだが、出版社の思惑はともかく、文庫ファンとしては、意外に早い発行をうれしく思う。

 上巻を読み終えたばかりで、全体像はまだ見えないけれど、上質の作品であるという手応えはビンビンと感じた。殺人から始まり、しかしミステリーでもないようで、といって男女の愛を綴る物語とも言えず、殺した側、殺された側の家族・友人・同僚など多数の人間が錯綜していくのは、人間の深い部分を探る作業にも思えて、特定のジャンルに分類するよりは、いわゆる純文学的な香気に溢れていると表現したほうが適しているようである。と言って、物語は活力に充ちており、次の展開を期待しながらページを捲る楽しさを備えてもいる。これほどよくできた小説を読むのは久しぶりではないかと、すでにそんな気がしているのだ。

 長崎市郊外に住む若い土木作業員・清水祐一が、福岡市内に暮らす保険外交員の石橋佳乃を絞殺し、その死体を長崎自動車道の脇の三瀬峠に遺棄した、というのがこの物語の発端である。ただ、佳乃は同僚に大学生の増尾圭吾との交際をほのめかしており、当夜も圭吾と逢うかのように振舞っていて、約束をしていた祐一のことは隠していた。したがって、殺人の容疑は圭吾に向かうことになる。佳乃の携帯の記録から祐一の名も上がるが、当初は参考人として事情を聞かれるだけである。

 佳乃は久留米で理容店を営む親元を離れ、保険会社が用意したアパートで一人暮らしをしていたのだが、出会い系サイトを利用して男と会い、ときには金銭を要求するなど、かなり奔放な女性である。また、祐一は、幼い頃に母親に捨てられ、祖母夫婦に育てられたという経歴を持ち、長身で髪を金色に染めているけれど、無口で、車好きである以外には特徴のない若者である。二人が知り合ったもの出会い系サイトだ。

 物語は、当夜のそれぞれの行動から、遺棄された死体が佳乃であることがわかるまでの経過、さらには二人の育ち方、友人の彼らそれぞれを見る目、警察の捜査の進展と、複合的・立体的に進行してゆく。事件発生時から行方不明であった圭吾の行動も途中から加わり、当夜、圭吾も佳乃と接触していたことも明かされる。祐一と佳乃が待ち合わせた公園に、偶然にも圭吾がいて、佳乃を乗せて三瀬峠へドライブしたのは圭吾であったのだ。読者としては、最初に犯人は祐一であると明かされていたのに、一瞬、真犯人は圭吾であったのかと疑ってしまうことになる。

 さらに、祐一の元へ紳士服量販店に勤める馬込光代からメールが入り、二人はデイトすることになる。祐一の心は揺らいでおり、この光代が下巻では重要な役割を担いそうな予感がする。

 とここまで書いてきても、この物語の何を伝えることができたのか、はなはだ茫洋としているようだ。素晴らしい小説だと絶賛しても、どこがどう素晴らしいかがさっぱり伝わらないに違いない。ストーリーを追うだけではわからない魅力が満載なのに、それを表現することが困難なのだ。

 一つだけ言えば、『悪人』というタイトルに、重要な意味が隠されているのかもしれない。もしかしたら、著者はこの作品で、悪人とはどういう人を指すのかと、真摯に考察しようとしているのかも知れないからだ。少なくとも、この上巻において、殺人を犯した祐一を悪人としては描いていないのである。

 さっそく下巻に取りかかりたいと思う。

  2009年11月26日  読了