小泉喜美子 『弁護側の証人』 (集英社文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 

 2009年4月発行の集英社文庫。単行本初出は1963年2月であり、1978年4月に同文庫に収録された作品の復刻版である。

 自分の場合、この作品がミステリーの傑作であることは出版当時から承知していたし、読んだものとばかり思っていた。しかし、内容を忘れてしまっているので、再読のつもりで購入したのだ。それにしては、全く覚えていなかった。世評の高さを覚えていて読んだ気分になっていたのか、読んだけれど記憶がすっぽり抜け落ちてしまったのか、これも自分的にはミステリーである。

 だが、さすがの名作、第11章の『証人』の冒頭で、著者の罠に見事に嵌っていたことに気付くのは、心地よい驚きであった。帯の「各氏絶賛」の声の中に、「騙し絵」であるとか、「騙しのテクニックのルーツ」とかがあって、騙しという言葉にはマイナスのイメージが伴ってしまうけれど、要するに、天と地が逆転する、白と黒とが反転する、という印象は、著者の用意した陥穽に落ちたからに他ならない。自分など、思わず序章に戻って、読み返さなければならなかった。しかし著者にアンフェアな態度はなく、しかし巧妙な語り口によって読者を錯覚に導いているだけである。

 作中で起きる事件そのものは、単純である。八島財閥の当主・八島龍之助が殺害され、現場の状況からは、外部から侵入の気配はなく、内部の犯行であることが容易に推定される。当夜、八島家にいたのは、御曹司の杉彦と新妻の漣子、杉彦の姉夫婦である飛騨専務と洛子、顧問弁護士の由木、専属医の竹河、そして3人の女中だ。犯人はこの中にいるに違いない。そして、捜査に当たるのは、緒方警部補である。

 簡単な事件であるはずが、それぞれの証言は利害が絡んで真実を述べておらず、緒方警部補を悩ますことになる。そして、タイトルの『弁護側の証人』とは、緒方警部補を指しているのである。普通、捜査に当たった警察官は検察側の証人にはなっても、弁護側には立たない。彼は自分の捜査に落ち度があったことを知り、弁護側の証人となるのだ。そのために、彼は地方へ飛ばされてしまうという不幸を甘受しなければならないのだが。

 この作品は、漣子が「私」という一人称で杉彦との出会いから事件当夜のことまでを語る独白部分と、事件の発生と捜査状況を綴る客観描写部分とが交互に置かれている。なかでも、漣子が語る独白が曲者であると言えよう。読者を欺く仕掛けはこの部分に集約されているように思う。

 だが、ミステリーの読後感をこれ以上書くのは止めにしよう。ここまで書いたことさえ、すでにルール違反なのかも知れない。読者としては、白紙のままで読み始めて、見事に「騙され」て、満足すればそれでいいのだから。

 なお、クリスティに『検察側の証人 』という作品があって、この『弁護側の証人』はそれに大いに触発されているらしい。久しぶりにクリスティを読んで、比較検討してみるのも一興かも知れない。

  2009年10月29日  読了