志水辰夫 『青に候』 (新潮文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。


 2009年10月発行の新潮文庫。あのシミタツが時代小説を書いたと評判を呼んだ作品が、早くも文庫化されたわけである。

 初の時代小説であっても、基本的には『行きずりの街 』などで我々が慣れ親しんだ手法で描かれていて、まぎれもない志水辰夫の作品世界が広がっている。著者は時代設定や背景、当時の藩政のありよう、あるいは舞台となる江戸や播磨の地理には考証を重ねたであろうけれど、文章・文体は敢えて現代風のままを持ち込んでいるようだ。会話文なども、そのまま現代小説の言葉使いであり、時代小説を忘れるほどである。これまで著者は「私」という一人称で語る様式が多かったのに対し、この作品は神山佐平という人物に即して語られており、形式的には三人称なのだけれど、主語を削った文章が多用されており、ほとんど一人称感覚で読み進めることができるし、名高いシミタツ節も旋律豊かに鳴り響いている。。例によって、主人公が動き回って謎を追い、途中で危機に瀕するけれど、最後はすっきり終るという構成も健在であって、要するに、どこをどう捉えても、志水辰夫の世界なのである。

 神山佐平は名字帯刀を許された豪農の次男であり、好きな絵を描いて暮らしてゆければいいと考えていた。それが、本家筋の娘で幼馴染の園子が山代家藩主の愛妾となった縁で、佐平も山代家に仕えることになった。国元へ呼ばれ、閑職に就く間もなく、藩主が急死する。朋輩の永井縫之助が忽然と姿を消し、佐平も何者かに襲撃された。佐平は一人を斬って、そのまま無断で国元を抜け、江戸へ戻ってきた。佐平はまず縫之助の消息を訪ねることと、江戸屋敷の信頼できる人物に国元の状況を聞こうとして、動き始める。誰が敵か味方もわからず、スリリングな滑り出しである。

 いわゆるお家騒動であれば月並みであるが、この作品ではもう少し込み入った事情が隠されている。加えて、新藩主は素行に問題を抱えた人物であり、かつてそれを諌めたことのある佐平に遺恨を抱いているらしい。江戸藩邸と国元との関係も必ずしも良好とは言えないようだ。また、国元で親しくしていた目付の小宮六郎太が、佐平を追うように江戸入りしてきた。彼も何かの鍵を握っている人物のようだ。

 佐平をつけ狙う一味との剣劇シーンがあり、江戸の大火事の中を園子を守って懸命に逃げるシーンがあり、敵が雇った用心棒との死闘があったりと、アクションも豊富に盛り込まれている。その上、幼い頃からの憧れである園子への想いと、六郎太の妹のたえへの思慕が交錯し、この物語には二人のヒロインが用意されてもいるのである。物語は、縫之助の出奔とその後や、前藩主の死の真相、佐平が襲われなければならなかった理由などを次第に明らかにしつつ、最後は穏やかに印象的に幕を閉じる。読者である自分としては、六郎太が佐平に語る最終的な事情説明には腑に落ちない部分もあったけれど、これはまあ、個人的な感想に過ぎない。小説としての面白さには何ら不足はないのである。

 なお、『青に候』というタイトルは、全ての事情を知った後に佐平が呟く「俺など、さぞ青二才に見えることだろうな」から来ている。だが、彼が侍になりきれぬ青二才であったとしても、佐平はそれを恥じることはないのだ。人にはそれぞれの立場と生き方があるのだから。

  2009年10月25日  読了