松本清張 『聖獣配列(下)』 (文春文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 2009年8月発行の文春文庫の下巻。

 上巻は、国際機関日本政府代表参事官・杉浦雄之輔の不審な死で終っていたが、この下巻では、アメリカ大統領の随員であったジェフソンも、明らかな拉致・殺害と思われるような死を迎えてしまう。両者の死因は急性心不全とされ、他殺が濃厚であるのに、捜査が開始される様子もない。迎賓館における秘密会談で日米の通訳を務めた二人が、ともに何者かに消されて、公式には病死とされたのである。

 もう一人、杉浦雄之輔とともにベルギーからスイスへのジェラルミンケースの輸送を見届けた倉田重三郎も、オランダのハーグで急死し、これも死因は急性心不全とされた。倉田は、与党の領袖であり磯部首相に近い武藤平吉代議士の秘書であった人物で、可南子がバートン大統領との密会のため迎賓館へ潜入した際に、ジェフソンに協力してもいた。何か大きな力が作用しているようで、何とも不穏な雲行きである。

 雄之輔の妻・美代子と、ジェフソンの妻・節子は、夫の死の原因を追及しようと、二人で連絡を取り合う。特に美代子は、夫の足跡を追って、ベルギーからスイスへの夫の行動をほぼ把握した。彼女たちにも、何かの力が働いたことは推察できるのである。

 それから2年。可南子はスイスにおける複雑な資金ルートを経て、最新鋭の軍事偵察機の手数料が東京へ送金されてくる受け皿として、会社を設立した。全ては、スイスの有名ホテルのオーナーであり、個人銀行の共同経営者であり、さらに国際的フィクサーとして暗躍するシュルツによる手配である。可南子はスイスにおいてシュルツに身を任せ、ついに大きなお金が継続的に入金されるような仕組みを得たのである。

 だが、東京を訪れたシュルツに、秘密会談の証拠写真のネガの一枚を渡したあたりから、彼の態度は変化を見せてゆく。連絡が取れなくなり、手数料ビジネスの仮契約は破棄されたとの通知が届くのだ。入金が中断されれば、可南子の会社はたちまちに破綻する。可南子は、シュルツへの対抗策として、与党非主流派のリーダー・木内泰久に接近する。木内代議士には美代子と節子も接近しており、両名からの情報や、可南子の供述と証拠写真から、日米秘密会談の内容の全貌をほぼ確実に知るところとなるのである

 しかし、政治の世界は老獪がまかり通る。シュルツがスイスの新聞に秘密写真を掲載し、そこには両首脳が仲睦ましい証拠であるとのコメントが添えられていたのだ。木内は可南子の話に興奮を隠せない様子を見せたが、最後には、可南子が持参した写真には価値がないと言うのである。可南子は後ろ盾を得られず、傷心のままスイスへ渡る。個人銀行に預けたままの現金を日本に送金するためである。しかし彼女はナンバーをどうしても思い出すことができないし、個人銀行ではナンバーが全てなのだ。

 この作品では、扱われている題材が微妙な問題を含むからか、すべてのことが示唆的に表現されるだけで、詳しく説明されることはない。早朝の首脳会談の内容もついに明かされないし、ベルギーからからスイスへと運ばれた物についても、金塊らしいと想像させるだけで、具体的言及はないのだ。それがどこに収まり、どのように活用されたかもわからない。3名の死が語られたけれど、その死の真相も闇の中である。物語の最後にバートン大統領の辞任や磯部内閣の総辞職が伝えられるが、その原因も不明であって、我々は木内代議士の暗躍を推測するだけである。

 だから読者としては不満であるかというと、それが全然不満ではないのだ。巨大な権力の存在を暗示しながら、可南子が一人でその権力に相対してゆく姿を描き切った点に、むしろ著者の腕の冴えを感じるのである。最後に笑うのはシュルツ一人であり、可南子もついに敗れてしまうのが、口惜しくもあり、穏当な帰結であろうと納得もでき、いささか複雑な思いが胸を去来するのではあるけれど。

 久しぶりに、満ち足りた読書でありました。

  2009年9月6日  読了