蜂谷涼 『雪えくぼ』 (新潮文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 2009年8月発行の新潮文庫。

 蜂谷涼を読んだのは『螢火 』だけだが、非常にしっかりとした物語の紡ぎ手だという印象が残っている。同作品は、小樽を舞台に、染み抜き屋を営む女性を中心とした傑作であった。(女性が主人公であり、そのとき気付くべきであったのだが、著者の名前から勝手に男性作家を連想していた。新潮文庫のカバー折り返しの写真によって、 著者が女流作家であることをようやく知った次第。)

 この作品は、『かわうそ二匹』『藤かずら』『抱え咲き』『名残闇』の4編が収録されている。全体を『雪えくぼ』というタイトルで包んだ連作小説の形式である。帯には、「色香漂う新しき傑作時代小説」と謳われているけれど、明治時代後半、日露戦争前後の近代が描かれ、江差、会津、東京、小樽と、各編ごとに舞台は移り変わってゆく。著者の「あとがき」によれば、小樽以外の土地を舞台にした小説は初めてだということだ。

 第一話の『かわうそ二匹』は、江差の診療所で女医として働くいち子の物語。いち子は治療を求めて訪れた隻眼の男・流れ者の栄三郎に溺れる。彼女は東京・浅草で父の診療所を手伝っていたとき、桂田という若い医師と恋愛関係にあったのだが、桂田はいち子を生殺し状態に愛撫するだけで、ついに結ばれることなく終っていた。どうやらその反動で、桂田に似た指を持つ栄三郎に惹かれてしまったようなのだ。かなり激しい官能描写もあるけれど、決して煽情的とはならず、むしろ女性の性の奥深さを感じさせる。傷が癒えた栄三郎は町の資産家の娘に貢がせて姿を消すし、桂田はいち子が免許を持たぬ偽医者であることを明かしにやってくる。いち子にしてみれば、栄三郎も桂田も「かわうそ」であったということなのだろう。

 第二話の『藤かずら』は、日露戦争で夫を亡くしたりつの物語だ。会津の醤油造りの老舗では、りつが産んだ男の子は将来の跡取りとして大事にするけれど、りつに対しては次第に陰湿な仕打ちをすることになる。りつは子供の成長だけを夢見て耐えようとするが、一家のいじめは執拗である。そんな折、りつは忘夫の戦友として訪れた矢口に心を惹かれることになる。矢口は戦場で片目を失くしていた。小樽で一旗揚げようと旅立つ矢口に、りつは大金を託すのであった。

 第三話の『抱え咲き』は東京が舞台で、老舗呉服屋の養女・すずが婿養子を迎えるシーンから始まり、すずの半生が回想されることになる。時代は少し遡り、日清戦争の頃だ。すずは貰われっ子として学校でいじめられ、女中が暴走する馬からすずを庇って片目を失ったこともトラウマとなって、不安定な処女時代を過ごし、長じてからは、それらを忘れたいために、役者買いに夢中となる。なかでも歌舞伎役者の千吉に激しく惹かれ、ついには、千吉の本性を知った彼女は刃物を振るい、彼の片目を傷つけてしまうのだ。すずの結婚は、そうしたことを清算したうえでのことなのである。この第三話も、色濃い官能シーンが丁寧に綴られている。

 そして、第四話『名残闇』。小樽を舞台とし、前三話より短いこの結末章で、読者は著者が周到に張り巡らしてきた仕掛けに驚かされることになる。この作品は単なる連作集ではなく、『雪えくぼ』という長編であったことを知らされるのだ。いち子、りつ、すずと、明治の女性を描いた作品集が、突然、隻眼の男の物語へと変身するのである。我々読者は、著者の手練手管に見事に欺かれるというわけだが、前三話の挿話がジグソーのピースよろしくピタリと嵌まって、心地よい局面転換なのだ。下手なミステリーよりも、「やられた!」という爽快感・満足感は数段も上ではないだろうか?

 また一人、注目したい作家が増えた。蜂谷涼の名もブログテーマに加えて、今後も読み続けたいと思う。

  2009年8月1日  読了