松本清張 『火の路(上)』 (文春文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 2009年7月発行の文春文庫。このところ毎月刊行されている清張生誕百年記念の「長編推理小説シリーズ」の一環である。初出は1973年6月~74年10月の朝日新聞連載。およそ35年を経た作品ということになる。

 物語のスタートは明日香村の酒船石の所在地であるし、続いて崇神稜、二上山などが語られ、奈良市高畑町へと移ってゆくので、古代史の息吹を感じたくて奈良近郊を何度も独り歩きしてきた自分としては、非常に楽しく、期待がいや増す出足であった。

 登場する主要な人物は、T大史学科の助手・高須通子、雑誌「文化領域」副編集長・福原庄三、フリーカメラマンの坂根要助、東京美術館の特別研究委員・佐田、そして、かつては俊敏な史学者であったが途中で学問を捨て、いまは保険外交員で生計を立てている梅津信六。福原と坂根は「文化領域」の「特集・奈良」の取材のため酒船石を訪れ、そこで通子に出会う。通子は日本書紀の斉明朝の記述から仏教以外の異宗教の気配を感じ、飛鳥の石造物との関連に考えが及んで、自分の研究の裏付けのために奈良を訪れていたのである。彼らはその翌日、高畠の古美術商「寧楽堂」で偶然再会を果たし、そこには通子の旧知の佐田もいたというわけだ。

 その後、通り魔の被害を受けた梅津を通子が発見し、救急通報をするということがあり、ミステリー的な要素も立ち上がってきたかに見えたのだが、これはあくまで通子と梅津の出会いに過ぎなかったようだ。三度偶然に会った坂根とともに、出血多量の梅津のために供血をするが、結果的にそのことが、通子と梅津のその後の深い交流の端緒とはなったのだが。また、そこで見かけた美貌の婦人と梅津との関係が、謎として物語の背景を流れてゆくことにもなるのだけれど。

 それより、雑誌「史脈」に『飛鳥の石造物』のタイトルで通子の原稿が掲載されてからは、その学術論文あるいは研究ノートが延々と続くことになり、それは専門的な記述であって、古代史が好きだと自認している自分としても、読み進めるのは苦行となってしまった。通子の名を借りて松本清張が石造物の疑問に対する意見を開陳しているわけで、もとより清張が古代史に精通し、積極的な発言もしていることは承知しているし、その博学ぶりは驚嘆に値すると思うけれど、小説としてはどうなのかと疑問を感じてしまう。新聞の連載で読んだ当時の読者は、大いに戸惑ったのではないだろうか?

 T大史学科の内情をよく知る佐田は、梅津がかつて同学科の助手であり、現在の通子の上司である久保教授よりも有能であったが、女性の問題で学問を捨てた、と言う。東京美術館はT大系列ではあるけれど、やはり学問的には傍流であるため、佐田には一家言あるようだ。そして、通子の原稿がT大内で無視されたのに対し、梅津からは懇切丁寧な指摘が届く。ここでも、読者は梅津の専門的な書簡に長く付き合わなければならないのだが。

 この上巻は、梅津のアドバイス的な後押しもあり、斉明朝にペルシャ文化が渡来していたであろうという確信を深め、その裏付けを求めて、通子がイランへ旅立とうとするところまでである。実は、殺人や失踪などの事件は起きず、いまのところ推理小説らしさは見当たらない。論文が主役で、石造物の謎を推理しているではないかということなのかも知れないが、それは小説の趣旨とは異なるのではないか? 第一、本来なら面白さを重要視する清張作品であるのに、ストーリが論文で中断されて、一向に面白くならないのである。

 「これは困った」と思いつつも、下巻を読み通すより仕方がないのだけれど。

  2009年8月2日  読了