奥田英朗 『東京物語』 (集英社文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

還暦過ぎの文庫三昧

 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。


 
 2004年9月発行の集英社文庫。著者はわが郷土が生んだ直木賞作家であり、応援の意味からも、もっと作品を読まねばと思っている。
 著者を髣髴とさせる田村久雄という若者の、東京の予備校へ入るために名古屋から上京する日から、30歳目前のとある日までの、およそ10年間を綴った青春物語である。全6章からなっているが、凝った構造であり、それぞれ記憶に残る出来事が起きた一日における久雄の行動を追いかけ、そうすることにより、時代の推移と、久雄の東京での暮らしをイメージ喚起しようという試みだ。つまりは10年間をその間の歴史的な6日で描き切ろうというのである。久雄の出身地を岐阜市周辺とせず、名古屋市としたことには不満が残るが、作家誕生以前の著者の周辺が濃厚に描かれているようにも想像でき、着想の目新しさも手伝って、楽しい作品に仕上がっていると感じた。
 『あの日、聴いた歌』は「1980/12/9」とサブタイトルのような日付があり、ジョン・レノンが凶弾に倒れた日だ。大学を1年で中退した久雄の、社員5人の小さな広告会社でこき使われる1日が描かれ、もちろん、背後には『イマジン』などの曲が流れている。
 『春本番』は「1978/4/4」。前章よりわずかに遡り、久雄が予備校へ入るため母親に伴われて上京してきた日の顛末だ。この日はキャンディーズの解散の日。母が帰り、下宿に一人でいることに堪えられなくなった久雄は、不慣れな東京歩きに疲れながらも、後楽園球場の周りをうろついたりする。
 『レモン』は「1979/6/2」。大学に入ったばかりの久雄は、演劇部に入部し、飲み会に忙しい。この日、久雄は同期の女子の行方を追って東京中を動き回るが、実は先輩女子を中心としたグループに担がれていたのであった。ジャイアンツに入団した江川の初登板がこの日であり、当然に、彼の入団を巡る経緯への賛否も語られる。
 『名古屋オリンピック』は「1981/9/30」。久雄は広告会社で新部門を立ち上げ、3人の部下を持つ立場となっているが、とかく人を育て仕事を任せるのは難しい。7年後のオリンピック開催地がソウルに決まり、名古屋が落選したこの日、久雄は人を動かすことの難しさを知るとともに、自己の能力への過信にも気付く。
 『彼女のハイヒール』は「1985/1/15」。久雄は2年前に会社を辞め、フリーランスのコピーライタとして独立している。この日は早稲田と新日鉄釜石でラグビーの日本選手権が行われ、横綱北の湖が引退を発表した日だ。そしてこの日、久雄は母に嵌められて、結果的に見合いをすることになり、やはり不承不承に出てきた相手の彼女との長い一日がユーモラスに語られてゆく。
 そして最後、『バチェラー・パーティ』は「1989/11/10」。ベルリンの壁が崩壊され、東西ドイツが一体となった日である。久雄は独立してそこそこの成功を修め、理恵子という恋人もいる。この日、久雄は仲間の結婚前夜祭のパーティに出席する約束をしながら、大口取引先の社長に引っ張られてしまう。バブル景気のこの頃だが、久雄は金銭的な成功よりは、もっと異なるものを得たいと望んでいるようだ。
 というわけで、我々のようにその時代を経験してきた者にとっては、それぞれの事件と自分の人生とを重ねることもできて、単なる青春成長物語以上のインパクトがあった。自伝的な作品であるかどうかの詮索は別として、こういう語り口を生み出した著者の手腕に乾杯したい気分である。
 なお、蛇足ながら、この作品の会話文に交じる方言は、名古屋弁というよりは、やはり岐阜弁に近い。そういう意味でも、大いに親しみが持てる作品であった。
  2008年4月9日  読了