宮本輝 『草原の椅子(上)』 (新潮文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

還暦過ぎの文庫三昧

 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 新潮文庫の1月新刊。とは言え、新聞連載の後、単行本初出が1999年5月で、2001年4月には幻冬社文庫に収録されたということだ。個人的に幻冬舎を好きになれないので、全然気付かずにいた。

 この作品、上巻を読み終えて、とても心地良いというのが率直な感想である。ともに50歳になる二人の男の日常が穏やかに描かれてゆき、いわば等身大の人物が日々の出来事の前で喜怒哀楽を滲ませているのが心地良いのだ。稀代のストーリーテラーと定評の著者であるけれど、ここでは敢えて物語の筋を追うことを避けて、50男の危うい分別に寄り添おうとしているようだ。それが平明でありながら的確な文章との相乗効果で、読者に快適な時間を与えてくれているように思う。

 遠間憲太郎はカメラメーカーの大阪支社営業局次長。彼は本来は技術系で入社したのだが、10年ほど前に営業局に回された。離婚歴があり、息子は元妻との生活を選び、彼は娘・弥生と二人で暮らしている。

 富樫重蔵は「カメラのトガシ」という量販店の社長で、憲太郎には取引先にあたる。重蔵が愛人との別れ話の縺れから全身に灯油をかけられ、そこを憲太郎が救ったことから、二人は親友の契りを結んだ。

 二人の交友が物語の中心であるが、弥生の交際相手で悩んだり、陶芸店を営む篠原貴志子に一目惚れしたり、事故で半身不随になった部下のために骨折ったりと、憲太郎の日々はそれなりに忙しい。一方で、重蔵の会社は順風満帆とは言えないようで、彼もその対応策にもがいている。それでいて、二人は国家を憂い、政財官のこの国を動かしていると思われる連中に怒りをぶつけ、日本人の品性の下落を嘆き、自分の人生がこのままでいいのかと疑いもするのだ。何よりも、50年の年輪を重ねた彼等が交わす会話には共感できて、聞いているだけで楽しい。実に大人の文学の香りが漂っているように思う。

 冒頭、パキスタンのフンザが短く語られ、物語の進行とともに何度も話題に上り、その5千メートルの高地にある桃源郷が通奏低音となって響いている。そしてもう一つ、憲太郎は母親から虐待を受け心身ともに未発達の幼児・圭輔を預かることになり、彼との交流も下巻では重要なファクターとなりそうだ。

 単なる暇つぶしの読書ではなく、喜びを感じつつ読み浸ることができるのがうれしい。これぞ読書の醍醐味。

  2008年1月18日  読了