奥田英朗 『空中ブランコ』 (文春文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

 文春文庫の1月新刊。著者の直木賞受賞作である。伊良部総合病院の御曹司にして精神科医の伊良部一郎を主人公としたシリーズの2作目であり、前作の『イン・ザ・プール 』が型破りの面白さであっただけに、文庫化を待ちわびていた作品だ。

 5編の連作短編が収録されており、前作同様、伊良部に診察を仰ぐ5人の患者の視線で物語が進行してゆく。表題作の『空中ブランコ』では、サーカスの空中ブランコのフライヤーで、うまくキャッチされずに落下を繰返して悩んでいる男。続く『ハリネズミ』では、やくざの幹部であるのに、先端恐怖症で先の尖ったものに拒否反応を起こし、刃物にも触れることができない男。『義父のヅラ』では、勤務する大学の学部長でもある義父のカツラを引き剥がしたいという強迫神経症に悩む大学講師。『ホットコーナー』では、スローイング・イップスでファーストへの送球ができなくなってしまったプロ野球のベテラン三塁手。最後の『女流作家』では、同じ設定で似た内容の作品を以前に書いたのではないかという脅迫症に陥り、執筆できなくなってしまった女流作家と、病人なのだから笑っては失礼なのだけれど、本人は真剣に悩んでいても、傍から見ているとユーモラスな病状の5人が語り部である。

 それぞれの短編は患者が主人公であり、伊良部はいわば脇役として登場するのだが、彼のキャラクターは際立っていて、常に主役の患者の意表をつき、思わぬ方向へと引っ張っていって、いつのまにか患者の病状は回復に向かい、読者の側には、伊良部の存在感が強烈に残るという仕組みになっている。伊良部一郎を主人公としたシリーズであるのに、患者側の視線で語るところが、この作品をより愉快にしているように思う。

 なかでも『義父のヅラ』は、読んでいて吹き出してしまうほどの面白さだ。「金王神社前」の道路標識を「金玉神社前」に変える悪戯から始まり、ついには昼寝をしている学部長のカツラを学生たちが見ている前で剥がしてしまうまで、大の男たちが児戯に等しいことを真面目に繰返すのだ。ドタバタ喜劇の様相であって、それでも最後はきれいに収束するあたり、見事なものである。

 冒険活劇でもないのに、読後感は痛快であった。それもこれも、伊良部一郎という特異なキャラクターを造形し、彼を存分に活躍させた著者の力量であると思う。すでに単行本ではシリーズ3作目も発売されているようで、早く文庫化して欲しいものだ。

  2008年1月14日  読了