新潮文庫8月新刊の下巻。
暑くて、本を読むペースが落ちてしまった。ようやく読んでも、ブログを開くのがまた一苦労である。頭がボンヤリして、感想が浮かんでこない。
しかし、この作品の読了に苦労したのは、暑さの所為だけではないような気がする。上巻でも書いたが、面白さをついに発見できず、読み進めることがひたすら苦痛であった。読書好きを自認していて、活字に親しんでいれば楽しいはずの自分としては、これは異例のことである。解説によると、「中山義秀文学賞」の受賞作品とあるけれど、文学賞も案外と当てにならないようだ。
この下巻では、屋島から壇ノ浦へと進み、目覚しい勝利を手中にしたにもかかわらず義経は報われず、有名な腰越状を経て、兄弟対決へと進んでいくわけだが、どこまで行っても義経の魅力が輝くことはないのである。むしろ先を読めない軽率な男だと感じてしまう。特に後半、鎌倉と戦っても勝てる見込みなどないのに、わずかな兵を頼りに対決しようとするあたりは、愚者そのものである。悲劇を背負って主人公を務める必然性が感じられないのだ。
この作品の眼目は、義経が後白河の落とし胤であるというところにあるようだ。だとすれば、頼朝は兄ではなく、何の遠慮も要らないというわけだ。しかし、その眼目が活かしきれていないのではないだろうか。解説では著者が隆慶一郎の後継者であるように書かれているが、隆慶一郎であれば、その設定を生かしてさらに伝奇的な作品に仕立てたのではないかと思う。
もう一つの眼目は、頼朝が義経を泳がせておいて後白河との折衝を有利に進めようとしている点で、義経の逃避行も暢気なものに写ってしまうのである。しかも静を求めて鎌倉から京都と神出鬼没であって、悲劇性の欠片もないのだ。これをもって新しい義経像だと言われても、読者としては困ってしまう。
平家物語の世界はすでに何度も物語化されていて、余程の工夫がないことには受け入れられないのではないかと思う。それとも、この作品に対して辛口の感想になってしまったのも、暑さの所為で、自分の感受性が鈍ってしまっているからなのだろうか?
2007年8月21日 読了