結城昌治 『公園には誰もいない』 (講談社文庫) | 還暦過ぎの文庫三昧

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 還暦を過ぎ、嘱託勤務となって時間的余裕も生まれたので、好きな読書に耽溺したいと考えています。文庫本を中心に心の赴くままに読んで、その感想を記録してゆきます。歴史・時代小説が好みですが、ジャンルにとらわれず、目に付いた本を手当たり次第に読んでゆく所存です。

公園には誰もいない (講談社文庫)/結城 昌治

 1974年9月発行の講談社文庫。つい先日、この著者の『暗い落日 』を久しぶりに再読して、楽しくかつ懐かしい時間を過ごしたので、もう一冊、同じ私立探偵・真木を主人公としたこの作品を書棚から探してきた。普段は弁護士からの依頼で証拠固めなどの地道な仕事をこなしている真木が「わたし」という一人称で語るシリーズである。

 続けて読んでみると、プロットと言いトリックと言い、この2作は驚くほど似ている。捜査権がなく武器の携行も認められないわが国の私立探偵を主人公に置き、しかも荒唐無稽に陥らないような工夫を凝らしてハードボイルドタッチのミステリーを創造しようとすれば、必然的にそうなってしまったのかも知れないのだが。

 歌手の中西伶子が失踪し、「わたし」は弁護士の紹介でその捜索を依頼される。伶子はまだ売出し中の歌手だが、新曲がブレイクしそうな気配で、家出などをする理由が見当たらない。なお、本書のタイトルの『公園には誰もいない』は彼女の新曲のリフレイン部分であり、同時にこの物語の最終章で象徴的なイメージを喚起することにもなる言葉である。

 「わたし」は、伶子の関係先を聞き込みに回るが、有力な手掛かりを得られず、念のためにと中西家の軽井沢の別荘を確かめに行き、そこで彼女の死体を発見することになる。本来なら、彼女の死を伝えて「わたし」の仕事は中断となり、その後は警察の仕事となるわけで、実際に警察が捜査に乗り出してくるのだが、「わたし」は真相を知るまでは落ち着けない性質で、独自に動き続ける。軽井沢暑の猪俣部長刑事と「わたし」との駈引きはユーモラスでもある。

 失踪の捜索から物語が始まり、殺人が起き、捜索の途中で「わたし」が一度後頭部を殴られて気を失い、怪しいと踏んで追求する相手は犯人ではなく、最初から登場していて最も怪しまれないところにいる人物が実は真犯人であり、しかも扮装をトリックに用いたという展開は、大筋では『暗い落日』によく似ていて、二番煎じの感がなくもないのである。

 しかし、似ていると思うのは読了後の感想であって、読んでいる間はストーリーに没頭できた。一人称による叙述は、真木と読者とが同一視点で対等に推理を競うわけで、フェアプレイの楽しさがあるのだ。やはり、この作家が好きである。

  2007年1月26日 読了