社会問題言及依存症 | 誰もいないどこかへ

 依存症、と言えばアルコール依存症やギャンブル依存症、あるいは恋愛依存症などがぱっと思い浮かぶが、「言葉」にも割と依存性があって、特に生きづらさを抱えた人や虐げられて生きてきた人は、「社会問題言及依存症」に陥っている人が多いように感じる。

 「社会問題言及依存症」というのは、私の勝手な造語で、生きづらさを抱えた人や虐げられて生きてきた人が、諸々の社会問題に関して言及を続けることに自らのアイデンティティを投影してしまい、そこから抜け出せなくなる、あるいはそこに居続けることに固執するようになる症状を指す。

 理屈は分かる。もちろん私自身を含めてなのだが、私たちのような人種は、あらゆる人々から、「愛されていない、理解されていない」と感じながら生きてきた。
 “誰からも”愛されなかった人は、その真逆として、“誰も彼も”に、自らの存在を受け入れてほしいと願うようになる。本来は、“誰からも”愛されなかったとしても、“誰かから”愛されればいいのだが、“誰からも”から“誰かから”は、矢印として直結しない。
 そして“誰も彼も”に、自らの生の正当性を主張する手段として、「社会全体が悪い」「すべての人の意識を変えなければならない」という言説に飛びつくようになる。飛びつくようになる、というより「社会のすべての人間が、自分の存在を正当であると認めなければ、“誰からも”愛されなかった自分の鬱憤は晴らせない」と思っている、と言ってもいいのかもしれない。

 べつに社会問題や政治に興味を持つことは悪いことではないのだが、一番の問題は、はなから仕事を持っている、生活の基盤が安定している、という場合を除き、目下の生活が逼迫している当事者にとっては、社会問題に言及することに自らのアイデンティティを見出したとして、それが救いや次のステップへの足がかりになる確率が極端に低い、ということで、私が見聞きする限り、それは100人中3人から4人くらいの確率のような肌実感がある。
 だから本来は、「“世の中がどうであろうとも”、誰かから愛されるようになり、生活の基盤を整えられるようになること」が、当事者にとっては最も大切なことなのだが、おそらくそれは、ある種の当事者に「ニーズ」として訴えかけることができない。その「ある種の当事者」が、ごく一部なのか、過半数なのか、あるいはほぼ100%なのかは、見当が付かない。

 社会問題に言及していると、例えば閲覧数ゼロのブログに持論を載せたということだけでも、何を為したような気になってしまうし、あるいは数名から褒められたりすると、それが快感になってしまう。
 しかしその「何かを為した気になる」「快感になる」というのは、どちらも「刹那的な快楽」で、アルコールやギャンブルやセックスによって得られる刹那的な快楽と同種のものだ。あえて「依存症」という語を採用したのはそういうことで、本当は生きづらさから脱するチャンスはいくらでもあったのに、「社会問題言及依存症」から抜け出せなかったことで、今なお泥沼にはまり続けている人は、少なくないように感じる。

 社会問題に言及する、というのは刹那的な快楽であると同時に、正義感に訴える正当性を有しているので、そこから抜け出すのは本当に難しい。本当に難しいが、世の中は、そういうことができる余力がある人と、そうでない人がいるのだ、という当然のことを認識するのは大切なことだと思う。
 自分自身が生き延びていくために本当に必要なのは何なのか。そういうことが問われる問題なのかもしれない。