夜話 619 幸若舞と昌平坂学問所
各紙の朝刊が みやま市瀬高町の「幸若舞」を報じている
八女の教学の祖 本荘星川の三男を栄三郎という。
嘉永七年 彼は久留米藩の選抜学生として昌平坂学問所(東大の前身ともいえる)の寮生となる
帰国してからは兄の仲太とともに佐幕派の志士として活躍
森銑三の『松本奎堂』によれば、栄三郎が学を終えて帰国するとき奎堂は送別の詩文を贈っている
当時奎堂は昌平坂学問所の詩文係という名誉職にあった
その送別の辞のなかで「栄三郎は顔色が黒く鼻が高い異相の秀才だった かれの古謡曲は音吐ろうろうたるものがあり群をぬいていた。」とある
当時の寮生活は各藩 よりすぐりの選抜生のために緊張がみなぎり堅苦しいものだった
それをときほぐしたのは鎌倉以来久留米藩に伝わる古謡 幸若舞節で学問所内に大流行したという
森銑三はこの謡曲をつたえたのは異相の栄三郎だったと記録している
当時 柳川・久留米両藩の筑後地区には古謡幸若舞節が流行っていたのだろう
織田信長の 例の「人間<じんかん>五十年」は幸若舞節とか
栄三郎に別れの詩文を寄せた松本奎堂は参州刈谷藩士で文久三年大和義挙に天誅組総裁として殉じた 敬称略
写真 西日本新聞より