夜話 617 井上靖の和田芳恵への弔辞(続)
夜話616から
それから、もう一つの思いがありました。
それはこの二、三年、貴方と私の間に小さい誤解がありました。
一時貴方も感情を害し、私も感情を害しました。
しかし、お互いの誤解はすぐ解けました。お互い誤解が解けたということは口に出しませんでした。
解けたということは、お互いに判りすぎるほど判っておりました。
そういう状態にあったので、貴方の訃報に接した時、私は取り返しのつかないことになったと思いました。
お互いに心の中にだけ仕舞っておかないで、やはり口に出して言うべきだったと思ったのです。
その機会がもうなくなってしまったことが、堪らなく悲しく思われました。
私が山から帰りましたのは八日です。
その翌日、私は貴方が病院で、やはり私のことに気を遣っておられたことを、ある友人から伝えられました。
貴方が死の床にあって、なお私への心遣いをしておられたことを知って、暗然とせざるをえませんでした。
和田さん、申訳けなく思います。私が詫びる前に、貴方の方が先に詫びて下さったのです。
貴方の心の優しさ、繊細さ、そして小さいことを蔑になさらなかった強さ、潔癖さを今更のように思って、私は文学の徒として、貴方に遠く及ばないことを感じました。
それにしてももう一度お目にかかりたかつた、それができないのが残念です。
いまは ただ御冥福を祈るばかりです。
昭和五十二年十月十一日
井上 靖
写真
上 井上 靖
下 日本芸術院賞『一葉の日記』