夜話 616 井上靖の和田芳恵への弔辞 (正)
井上靖は八女に眠っている山本健吉とは親友の中だった。
健吉が文化勲章受章したとき、ガンダーラ仏を健吉に贈った。
いま八女市の「山本健吉夢中落花文庫に陳列してある。
健吉宛の便りなども陳列されているが、どの手紙も、端正な筆跡で、井上の性格がうかがえる。
その井上に和田芳恵への弔辞があることを初めて知った。
和田は樋口一葉の研究でよく知られている。拙もその学恩に感謝しているが、井上の弔辞の和田の仕事についの賛辞に、拙は心深くそれに打たれたので多くの人に知っていただきたくその弔辞を紹介する。
弔辞
和田さん、私は貴方がお亡くなりになった時、山に行っておりました。
四日は穂高の麓の徳沢というところに泊り、五日朝、そこを出て、梓川に沿って歩いておりました。その時、徳澤小屋の主人が追いかけて来て、貴方の御他界の報が東京からあったことを伝えてくれました。
一瞬、天地が暗くなったような思いに打たれました。
貴方が入院なさっていることは人伝てに聞いておりましたが、まさかそれが急に、こんな悲しいことに結び付こうとは夢にもおもっておりませんでした。
それから何時間か、穂高の樹林地帯を歩いている間中、私は貴方のことを思っていました。思いを貴方から逸らすことはできませんでした。貴方の顔がちらちらしました。そのとき私の胸を去来したのは、貴方の晩年に於ける作家としての素晴らしい稔りです。
読売文学賞や日本文学大賞に飾られた作品は勿論ですが、それに劣らぬたくさんの、貴方でなければ書けぬ作品があります。
作家として実に自由な、何でも書ける、また何を書いても文学になる自在な境地に、貴方は立たれました。
一生文学に取り組んでもなかなかあり得ない稀有なことであります。正直に言って貴方がどのようなところに行きどのような作品を生み出すか、端倪すべからざるものを覚えさせられておりました。それを思うと貴方の急逝が、堪らなく残念に、悲しく思われます。(夜話617につづく)
写真 和田芳恵