自己否定するくらいならば、逃げればいい | 真理は心の中にある

真理は心の中にある

真理は心の中にある。これが私の基本的修行スタイルです。日々、思っていること、考えていることのなかで、読者が参考になると思われることを書いていきたいと思っています。

自己否定するくらいならば、逃げればいい。
何も、自分を殺してまで、周りに合わせなければいけない理由は、どこにもない。

中国共産党は文化大革命の頃、目障りな人間を見つけては、人民裁判を行い、ありとあらゆる罪状をなすりつけていった。

その罪が事実であるか、どうかは問われなかった。

そして人民たちは、その人に、罪を認め、自己批判することを強要した。
当然、自己批判を強要された人間のプライドはズタボロになる。

これは極端な例であるけれども、何か問題が起きれば、適当に犯人をでっちあげ、徒党を組んで、批判するというのは、我が国の売国奴マスメディアのよくやる手法でもある。

学校のイジメにも似たような構造があるのではないか。

親に虐待された経験のある子どもが、大人となり、親になったとき、自分の子供を虐待してしまうことがあるという。

自分が悪いことをしたつもりがないのに、無理矢理、反省させられるというのは、子供にとっても、実に不本意なことであるのだ。
自己批判することを強要され、それを受け入れた子供の心の奥には、自己破壊願望が生まれる。

そして、その子供が成長し、親となったとき、その自己破壊願望は、自分の分身である子供に向けられる。

不思議なことだが、自己破壊願望に取り憑かれると、まるで運命の糸を手繰り寄せるように自滅する方向へ導かれる。
その運命から逃れる術があったとしても、自己破壊願望に取り憑かれた人は、その逃れる術に気付くことも、考えることもできない。

反省することは大事であるけれども、無理矢理、反省する必要はない。
主体的な気付きでなければ、霊性進化には、全く役に立たない。

人間関係の調和など、全くもって簡単である。
「相手の立場、自尊心を尊重し、理解するように努めればいい」それだけのことだ。

被害者意識を振りかざし、犯人探しをするのは、もう止めることだ。
そんなことをしても、不幸の根を断ち切ることはできない。