知の体系家 | 真理は心の中にある

真理は心の中にある

真理は心の中にある。これが私の基本的修行スタイルです。日々、思っていること、考えていることのなかで、読者が参考になると思われることを書いていきたいと思っています。

「ヘーゲルがどう言った、こう言った」と言ったところで、ヘーゲルを読んでいない人からすれば、どうでもいいことだ。

無我も難しく考える必要はなく、結局のところ「人間は神の子だ。一人一人は神の一人子である。」ということ。

これで仏教とキリスト教の垣根は、ほとんど取り払われてしまう。

「難しく専門的にも話せるが、ごく簡単にも話せる」
知の体系化とは、そういうことだ。

あるいは、「一人一人の気根に応じて、適切な話ができる」
ということでもある。

あれこれ、いろんなことを勉強したからといって、知の体系化ができるかというと、実際はたいへん難しい。
やはり、そこには霊的な直観が必要なのだ。

考えに考え続けていく中で、論理的な矛盾が生じてくる。
その論理的矛盾を解決するために、論理的な飛躍が必要となる。  

自分は知の体系家だと自認している人もいる。
しかし、体系化しているというのは、本人の思い込みで、知識を寄せ集めて、それを並べて鑑賞しているに過ぎない。

知識をあれこれ加工して、一定のカテゴリに当てはめているだけで、そこに論理的な飛躍は何もない。
 
言わば知のコレクターだ。
それは、それで有用で、素晴らしい才能かもしれないが、知のコレクターと、知の体系家は全然、違う。

知の体系家は様々なことに思考を巡らし、新しい概念を生み出していく。
一種の直感的な飛躍があるのだ。

思考を積み重ねた結果、そういった閃きの瞬間がある。
そして、その概念は次なる時代の指針となっていく。

知の体系化とは新たな概念の発明家でもある。
過去の文献を学んで、あれこれ、分類するのは、それはそれで、たいへんなことであるが、それだけで知の体系家であるとは言えない。