『二十世紀前半の思想状況の中でのアドラー心理学』3 | 「生きる」を楽しむ

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野田先生の論文の読み込み その3です。

 

(要約)

0→「アドラーの提唱した共同体感覚という思想は、第一次世界大戦後のすべての流行思想に背を向けた、特殊な立ち位置の思想だった」

1→「マックス・ウェーバーは、学問は《存在》(ありのまま)にかかわるものであって、《当為》(あるべき)に関わるものではない、《当為》は信仰の問題である、と提唱した。→当時の流行思想へ」

2→「装飾的な戦前の「型」から、すべての「型」を否定する表現へ、終戦によって価値観は崩壊した。フロイトがもてはやされたのは、すべての既成観念を破壊して、人間の生々しい姿を描き出したから。装飾をはぎ取って、「あるがまま」の人間の姿を一切の既成観念から自由になって見る態度を《表現主義》と呼ぶことがあるが、フロイトは心理学における表現主義者と考えても良いかもしれない。フロイトは《当為》については一切語らず、《存在》についてだけ語り続けた。

 

 

『二十世紀前半の思想状況の中でのアドラー心理学』

3.レオ・シュトラウスのウェーバー批判

 

レオ・シュトラウスは、ウェーバーの価値相対という主張を、

 

「ウェーバーが社会哲学および社会科学の倫理的中立性を主張したのは、(中略)当為についての真正の知識などありえないと彼が信じていたから。

このようなウェーバーの命題は、必然的にニヒリズムに行き着く」

 

と批判した。

 

「何が絶対的に正しいのか」

「何が価値の根源的基準か」

などを人間は知り得ない、だから学問は「価値」に触れてはならない、というのであれば、

学者は世の中の諸問題の解決を手助けすることはまったく不可能になる。

 

人々の側から言うと、

「学問」「学者」に頼らないのであれば、

「何が正しくて、何が間違っているのか」

「何が良くて、何が悪いのか」

「何が美しくて、何が醜いのか」

の価値判断を、

 

ある種「直感的」に判断するか、

 

みずからの所属する政党の言うことをきくか、

 

みずからの信じる宗教に従って価値判断をして、

 

はじめて学問が提供する知識を手段として使うことができるようになる。

そういう世界では、異なる価値観の折り合いはまったく不可能になる。

 

 

異なる価値観について、原則的に、科学では決着をつけることができないとウェーバーは言った。

自分の価値は絶対的に正しく、それ以外の価値は絶対的に間違っている、と主張すると、宗教戦争になる。

そこでウェーバーの追従者達は、極端な価値相対論を主張するようになる。

 

ただ、この価値自由思想には落とし穴があった。

すなわち、

「いかなる多様な価値をも認めよ」という命題そのものが絶対的な価値観であることだ。

 

自由主義的相対主義は、

「多様な価値を超える(正不正の)価値判断があるはずだ」

という考え方に対して不寛容になる。

 

どうして彼らが不寛容になれるかというと、

「絶対的に正しいものを人間は知ることができない」

という思想を

「絶対的に正しい」

と思い込んでいるから。

しかし、これはパラドクスである。

相対主義者がある考え方を選んでいるのは、つきつめれば「盲目的な選択」でしかないと、レオ・シュトラウスは言う。

 

 

アドラーは、このような状況の中で、

仮の価値観として

共同体感覚を提唱した。

すなわち、

「この行為の結果、人々が幸福になるかどうか」ということを価値判断の基準にしよう、ということである。

 

【野田先生私見】

これは、ウェーバーが言う《当為》とは、少し次元の違った考え方であるように思う。

二十世紀思想の中にアドラーを置くと、ある調性の音楽を演奏しているオーケストラの中に、ひとりだけ違う調性で演奏している楽器がいるように感じられる。何か、根本的なよりどころが違っているように思える。