40年以上、
ずーっと私の中に、
「私には人間の心がない」
という苦しみがありました。
この苦しみ、向き合うのは辛すぎて、怖すぎて、痛すぎて、
ずっと、触らないようにしていました。
けれど、
「自分で自分の話を聴く」
「私は何を感じても、考えてもOKなんだ」
と、自分を勇気づけ続けたら、
この苦しみの正体に、正面から向き合ってみようかな。
と思えるようになりました。
アドラー派の方ではなかったのですが、心のプロの方とご縁ができ、
その方に、この苦しみについてお話を聴いていただいたところ、
意外なところに糸口がありました。
まず、
「どういうときに、人の心がない、と思うのですか?」
と問われ、自分の心を見つめながら、お話していきました。
「卒業式でみんなが泣いていたり、
お葬式でみんなが泣いているときに、
私、全然悲しくないんです。
でも、周りみんなが悲しんでいるので、
悲しくない自分が異常なんだろうと、
ずっとその苦しさを感じていました」
「お葬式で悲しくないと、どんなところが困るのですか?」
「みんなから、えなちゃんは冷たい、えなちゃんは異常だ、と思われると思います」
「みんなと同じ感情をシェアできないことが苦しいですか?」
「はい」
「では、笑う、とか、怒る、とかだとどうですか?」
「…みんなが笑っているときは、私も一緒に笑っています。
怒りは、周りの人も、私自身もあんまり怒らないのですが、
私が怒りを感じるテーマであれば、周りと一緒に怒れると思います」
「では、悲しみ、という感情だけですね?周りとシェアできないのは」
「…ほんとうですね」
「別離、死、に対する場面で悲しみを感じていないようなのですが、
えなさんにとって、死、って、どのようなものですか?」
「そうですね…。
生まれてくる前の世界に戻ること。
本来、自分がいるべき場所に帰ること」
「どちらかというと、うれしいこと、いいこと、と思っていますか?」
「そうだと思います」
「では、人の心がないのではなくて、
死に対する観念が、他の人と違うだけだと思いますよ」
「そうなんですね…。
ただ、お葬式で全然悲しくないと、異常なようで」
「日本人の多くは、死は悪いこと、悲しいこと、忌まわしいことと思っています。
周りの人と一緒に悲しむためには、
えなさんも死は悪いこと、悲しいこと、忌まわしいことと思わないといけないんですが、
こう思いたいですか?」
「いいえ!」
「えなさん、死に対する観念がフラットなんですよ。
多くの人にとって死は、恐怖だし、忌まわしいことです。
でも、えなさんにとって死は、元いた世界に帰る、嬉しいこと。
冷たいのではなく、死に対する観念が、他の人と違うだけです(^_^)」
あなたは異常なのではない。
他の人と観念が違うだけ。
そんなふうにカウンセリングして頂いて、
40年以上、ずっと胸にあった、
「私は冷たい。私は異常だ。私は人の心がない。私は存在してはいけない」
そんな罪悪感が、すぅっと消えていきました。
自分の理想と現実の乖離が大きいほど、劣等感が大きいとアドラー心理学では考えます。
私が、大切な価値として持っている、
「人は優しくあるべき」
「人は誠実であるべき」
にも関わらず、
「心がない私は優しくない。そして、心がないくせに、心があるフリをしている自分は不誠実だ」
と自分で思っていたので、
ずっと自分が嫌いだったのだと思います。
他の人に、「えなちゃんは優しいね」「誠実だね」と言われても受け取れなかった、
私の罪悪感、自己否定、自己嫌悪の根っこ、ここだったんだ…。
ほんとこんな感じでした。
罪悪感が消えたら、
心に空いていた穴が、埋まったように感じました。
生きるのが辛くない。
人が怖くない。
生きるのって、辛くて苦しいことじゃなかったんだなぁ
今まで私、鏡を見ることができませんでした。
(お化粧とかで最小限見ることはありましたが、ほんと最小限です)
鏡の中に、醜くおぞましいものが映っているような気がして。
でも今は、鏡を見るのが平気です。
自分の中にあった苦しさ、
なんで私はこんなに苦しいの?
親の育て方が悪かったから?
私の精神が異常だから?
そんなふうに、誰かを、あるいは自分を責めるのではなく、
私はただ、観念が他の人と違うだけ。
と思えることができ、救われた思いでした。
40年以上、自分を責めることに使っていたエネルギーを、
これからは建設的な方向に使っていきたいと思います