私が、
「私はこれをやりたい。でも、私が好きなことをやるのは、許されないのではないか」
と思ったり、
あるいは、失敗がとても怖かったの、
多分、
「価値が低い私なんかが好きなことをするのは許されない」とか
「ただでさえ価値が低い私が失敗なんかするのは絶対許されない」
的な自分に対する思い込みが強かったせいと思います。
イメージだと、こんな感じ。
私は「ふつうの人」より相当劣っていて、
「ふつうの人」が、好きなことやったり、失敗しても許されるレベルより相当低い位置にいるから、
好きなことしたり、失敗なんかしたら、ものすごく責められたり、バカにされたり、蔑まれたりして、所属に失敗してしまう。
いっぱい好きなことしたり、失敗したりしても、
責められたり、バカにされたり、蔑まれたりしないのは、
「すごい人」だけ。
私は、必死で努力してやっと「ふつうの人」になれる、相当価値が低い人。
崖に必死でつかまっていて、ちょっとでも手を緩めると奈落の底に落ちていってしまう。
「せめて完璧でいなければ、私はこの世界で生存を許されない」くらい思っていたわけです。(多分)
これは、しんどいよね。
私はふつうより相当劣っている、というこの強い「劣等感」、
アドラー心理学で「劣等感」というと、実は3つの意味があって、ややこしいのですが、
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《劣等感》という言葉には、大別して3つの意味がある。もっとも根本的な意味は、「相対的プラスに対する相対的マイナスの感覚」という意味だ。あるいは、「理想と較べた現実の感覚」といってもいい。第2の意味は「陰性感情」という意味で、怒りや不安や後悔などのことをいう。第3の意味は、「他人と較べて劣っているという感覚」で、これは世間の用法と同じだ。
(野田俊作の補正項2012年08月29日(水)http://jalsha.cside8.com/diary/2012/08/29.html)
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この場合は1つめの「理想と比べた現実の感覚」、もしくは3つめの「他人と比べて劣っているという感覚」が、
どうしてこんなに強かったかというと、
アドラー心理学では、「相対的プラス(理想)と相対的マイナス(現実)」の乖離が大きければ大きいほど劣等感が大きい、と考えるので、
私は相当「相対的プラス(理想)」が高かった、ということになります。
私の相対的プラス、「ふつうの人でありたい」なんです。
なんでこれがそんなに高いの?という話なのですが、
日本人のなんとなくイメージする「ふつうの人」って、
実はめちゃくちゃレベル高いんです。
・5教科すべてまんべんなくできて、
・運動もできて
・お友達もいて
・痩せすぎても太りすぎてもいなくて
・(成人の女性の場合は)家事も育児も親戚づきあいも近所づきあいもできて、(現代日本だと、これにさらに「正規雇用で働けて家事と仕事を両立できて」)
・(成人の男性の場合は)正規雇用で働けて、妻子を養えて家を建てられるの安定収入があって、定年まで働ける。
って、これ、
全然「ふつう」じゃないと思うんですけど。
どこかが飛び出ていたり、
どこかがひっこんでいたりするのが、「ふつう」じゃない?
あー、くそ。
「全部ふつうにできなきゃないのに、全部をふつうにできない私は、ふつうより相当劣っている」って
洗脳されてたわ
って気付いてからは、
「こわいよぅ
私なんかが好きなことしようとしたら絶対怒られるよぅ」
とか恐怖を感じながら、
ひとつひとつ、好きなことをやりはじめている、
今は、そんな実験の最中です。
ちなみに、
「まんべんなくぜんぶできてふつう」
って洗脳してくれる機関の別名、
「学校」
とか言います。
学校では、
「えなちゃんは、国語はできるけど、理科はダメね」とか
「お本ばっかり読んでないで、お友達と遊べないと」とか
「あなたは○○が劣っている」
てとこを注目してくれるんですが、
栴檀は双葉より芳し。
みつごの魂百まで。
人間、ちっちゃいころに苦手だったところは、多分、死ぬまで苦手なんです。
ちっちゃいころに上手だったところは、多分、死ぬまで得意なんです。
「欠点を指摘して矯正させる」教育ではなく、「得意を伸ばす」教育をしてくれれば、
もっと子ども達がラクになるし、そっちの方が合理的、と思うんだけどなぁ。
(マイナス10を0にするエネルギーより、プラス10をプラス50にするエネルギーの方が少ないと思います)