こんにちは
前回までの記事で ”ブッダのことば” が 数多く 収録されている・・・
原始仏典の ”スッタニパータ” での “犀の角” について 考えました。
そこでは 繰り返して・・・
”ただ ひとり 歩みなさい” と 説かれていましたが・・・
前回の記事の中で 私は・・・
人間が この世の “真理” を 知ることによって・・・
”さみしさ” を ”まったく 感じなくなる”・・・ということを 申し上げました。
今回の記事では・・・
何故 私たちが この世の “真理” を 知れば・・・
”さみしく 感じなくなるのか?” について・・・
その ”一例” を 示したいと思います。
私たちが 原始仏典での ”ブッダの教え” に そのまま 従うと・・・
私たちは “孤独” を ”強制される” ことになります。
それは 私たち 現代人が これまで 人間社会の中で・・・
数多くの人々と ”共に 生きてきた” ことを 考えると・・・
大変に ”さみしい気持” を 感じざるを得ず・・・
それは “大きな苦痛” であると 思われる方も 多いでしょう。
しかし 私が 2年前から ブッダの教えを 深く 学んでゆくうちに・・・
”人間の魂” とは どこにあるのか? という 疑問について・・・
ある “解答” が 導かれました。
それが この世界の 万物を 構成している・・・
“原子” や ”素粒子” に・・・
”私たちの魂” が 宿っているのではないか?・・・と 考えたのです。(※)
その 根拠になったのは・・・
この世の “真理” というものは・・・
この世界で ”共通するもの” であると 考えられるからです。
それは いったい 何か? というと・・・
この ”宇宙” を 構成している “原子・素粒子” なのです。
そして ブッダが説いていた ”空(くう)” というものも・・・
その “原子・素粒子” の概念を 当てはめると・・・
極めて 上手に 説明できることが わかったからです。(※)
また これまでの 人類の 思想史においても・・・
それと 同じような 思想があったことにも 私は 気づきました。
その代表例が ”ライプニッツの モナド論” でした。(※)
つまり もし それが この世の ”真理” で あるならば・・・
さまざまなことが 次々と 理解できることになります。
それは 私たち 人間を取り巻く ”さまざまな物質” というものも・・・
数多くの “原子・素粒子” によって 構成されているので・・・
それらにも 人間と同じような ”意識” が 存在することになり・・・
つまり ”さまざまな物質” にも ”魂” が 宿っていることになるのです。
皆様も 幼いころには・・・
”ぬいぐるみ” や “人形” で 遊んだことがあると 思われますが・・・
それは 一種の “友だち” のような 感覚になり・・・
まさに ”人間と同様” に 扱っていた ご経験があると 思われます。
私たちの ほとんどは・・・
それは ”子供の時期” だけに 限られた・・・
”幼稚な感覚にすぎない”・・・などと 考えていますが・・・
実は この世の ”真理に触れていた” 経験であるとも 考えられます。
また “機関車トーマス” などの アニメーションでも・・・
そこでは 機関車を “擬人化” した 物語ですが・・・
”機関車” という 物質も・・・
さまざまな “原子・素粒子” で 構成されているわけであり・・・
まさに 機関車であっても そこには ”意識” が 存在しており・・・
”魂” も 存在していることが 考えられるわけです。
つまり もし これが ”真理” であるとすれば・・・
私たちの世界には ”無数の意識” が・・・
いつも ”身近に” 存在しているわけであり・・・
たとえ 私たちの周囲に ”人間” が 存在しなくても・・・
私たちは 決して “孤独ではない”・・・と いえるのです。
つまり ブッダが・・・
何故 ”ひとり で 修行しなさい”・・・と 説いていたのか?
それは 私たちの ”本質” を 知るために・・・
そして この世の ”真理” を 知るためには・・・
人間社会から 一度 “孤立” することによって・・・
その中で 自分を取り巻いている ”自然界” の中で・・・
そこにある “法則” を 見極めることが 必要だったからのようです。
ブッダが生きていた 2500年前には・・・
“原子・素粒子の概念” が まだ 存在しておらず・・・
つまり ブッダの教えは その ”発見法” を 示していたと 考えられるのです。
私たちが “原子・素粒子” の レベルに 還って・・・
自分自身を 考えることは・・・
私たちが いったい ”どこから来て”・・・
そして 今後 ”どこへ向かうのか?” という 大きな疑問に対しても・・・
明確な答えを 導くものであると 考えられます。
私が 2年前から ”ブッダの教え” を 実践してみて・・・
現在のところ まったく ”不安” を 感じなくなったのは・・・
このような 理由によるものであると 考えられます。
皆様の 周囲にも・・・
常に さまざまな ”意識” や ”魂” が 満ち溢れています。
それゆえに もしも 今後・・・
”ひとり” に なったとしても・・・
自分は 決して “孤独ではない” と お考えになってみて下さい。
そうすれば・・・
私たちは そこで ”絶望” することは まったく 無くなり・・・
むしろ ”新しい発想” が 生まれることにもなり・・・
そこで ”自分の生きるべき道” も 発見できると 考えられるのです。
(※) 人間の ”魂” についての 内容を書きました・・・
”魂は どこにあるのか?” という記事は こちらに
“原子・素粒子は 時空を超える” という記事は こちらに
”ライプニッツの モナド論” という記事は こちらです
前回までの記事で ”ブッダのことば” が 数多く 収録されている・・・
原始仏典の ”スッタニパータ” での “犀の角” について 考えました。
そこでは 繰り返して・・・
”ただ ひとり 歩みなさい” と 説かれていましたが・・・
前回の記事の中で 私は・・・
人間が この世の “真理” を 知ることによって・・・
”さみしさ” を ”まったく 感じなくなる”・・・ということを 申し上げました。
今回の記事では・・・
何故 私たちが この世の “真理” を 知れば・・・
”さみしく 感じなくなるのか?” について・・・
その ”一例” を 示したいと思います。
私たちが 原始仏典での ”ブッダの教え” に そのまま 従うと・・・
私たちは “孤独” を ”強制される” ことになります。
それは 私たち 現代人が これまで 人間社会の中で・・・
数多くの人々と ”共に 生きてきた” ことを 考えると・・・
大変に ”さみしい気持” を 感じざるを得ず・・・
それは “大きな苦痛” であると 思われる方も 多いでしょう。
しかし 私が 2年前から ブッダの教えを 深く 学んでゆくうちに・・・
”人間の魂” とは どこにあるのか? という 疑問について・・・
ある “解答” が 導かれました。
それが この世界の 万物を 構成している・・・
“原子” や ”素粒子” に・・・
”私たちの魂” が 宿っているのではないか?・・・と 考えたのです。(※)
その 根拠になったのは・・・
この世の “真理” というものは・・・
この世界で ”共通するもの” であると 考えられるからです。
それは いったい 何か? というと・・・
この ”宇宙” を 構成している “原子・素粒子” なのです。
そして ブッダが説いていた ”空(くう)” というものも・・・
その “原子・素粒子” の概念を 当てはめると・・・
極めて 上手に 説明できることが わかったからです。(※)
また これまでの 人類の 思想史においても・・・
それと 同じような 思想があったことにも 私は 気づきました。
その代表例が ”ライプニッツの モナド論” でした。(※)
つまり もし それが この世の ”真理” で あるならば・・・
さまざまなことが 次々と 理解できることになります。
それは 私たち 人間を取り巻く ”さまざまな物質” というものも・・・
数多くの “原子・素粒子” によって 構成されているので・・・
それらにも 人間と同じような ”意識” が 存在することになり・・・
つまり ”さまざまな物質” にも ”魂” が 宿っていることになるのです。
皆様も 幼いころには・・・
”ぬいぐるみ” や “人形” で 遊んだことがあると 思われますが・・・
それは 一種の “友だち” のような 感覚になり・・・
まさに ”人間と同様” に 扱っていた ご経験があると 思われます。
私たちの ほとんどは・・・
それは ”子供の時期” だけに 限られた・・・
”幼稚な感覚にすぎない”・・・などと 考えていますが・・・
実は この世の ”真理に触れていた” 経験であるとも 考えられます。
また “機関車トーマス” などの アニメーションでも・・・
そこでは 機関車を “擬人化” した 物語ですが・・・
”機関車” という 物質も・・・
さまざまな “原子・素粒子” で 構成されているわけであり・・・
まさに 機関車であっても そこには ”意識” が 存在しており・・・
”魂” も 存在していることが 考えられるわけです。
つまり もし これが ”真理” であるとすれば・・・
私たちの世界には ”無数の意識” が・・・
いつも ”身近に” 存在しているわけであり・・・
たとえ 私たちの周囲に ”人間” が 存在しなくても・・・
私たちは 決して “孤独ではない”・・・と いえるのです。
つまり ブッダが・・・
何故 ”ひとり で 修行しなさい”・・・と 説いていたのか?
それは 私たちの ”本質” を 知るために・・・
そして この世の ”真理” を 知るためには・・・
人間社会から 一度 “孤立” することによって・・・
その中で 自分を取り巻いている ”自然界” の中で・・・
そこにある “法則” を 見極めることが 必要だったからのようです。
ブッダが生きていた 2500年前には・・・
“原子・素粒子の概念” が まだ 存在しておらず・・・
つまり ブッダの教えは その ”発見法” を 示していたと 考えられるのです。
私たちが “原子・素粒子” の レベルに 還って・・・
自分自身を 考えることは・・・
私たちが いったい ”どこから来て”・・・
そして 今後 ”どこへ向かうのか?” という 大きな疑問に対しても・・・
明確な答えを 導くものであると 考えられます。
私が 2年前から ”ブッダの教え” を 実践してみて・・・
現在のところ まったく ”不安” を 感じなくなったのは・・・
このような 理由によるものであると 考えられます。
皆様の 周囲にも・・・
常に さまざまな ”意識” や ”魂” が 満ち溢れています。
それゆえに もしも 今後・・・
”ひとり” に なったとしても・・・
自分は 決して “孤独ではない” と お考えになってみて下さい。
そうすれば・・・
私たちは そこで ”絶望” することは まったく 無くなり・・・
むしろ ”新しい発想” が 生まれることにもなり・・・
そこで ”自分の生きるべき道” も 発見できると 考えられるのです。
(※) 人間の ”魂” についての 内容を書きました・・・
”魂は どこにあるのか?” という記事は こちらに
“原子・素粒子は 時空を超える” という記事は こちらに
”ライプニッツの モナド論” という記事は こちらです