吉田秋生『海街(うみまち)diary 5 群青』 | 柔ら雨(やーらあみ)よ 欲(ぷ)さよ



 もうお読みになっていらっしゃる方も多いことと思います。第5巻が出たばかりですので、ひとこと感想を。未読の方へのネタバレは避けたいので、そうすると、まんがの感想というものはけっこう書きにくくなりますが、まあ、ストーリーに触れない範囲で。

 鎌倉の旧家に娘だけで住んでいる主人公の4姉妹。
 家でよくTVを見ているのは3女の千佳(ちか)だけのようですね。4女のすずも千佳と一緒にTVを見ているシーンがありましたが、番組を選んでいるのは千佳らしい。
 ところが、千佳が見ているのはいつも決まって「草原ちゃんぷるう」のコントで、腹抱えて笑ってますね。長女と次女はTVを見る習慣があまりないらしく、この第5巻では、ふたりの話の邪魔になるといって、千佳がゲラゲラ笑いながら見ているTVを消してしまいます。




 パソコンや携帯電話の普及によるネット社会が到来するまでは、現代日本における家庭のひとつの属性として、《テレビ共同体》というものがあったと記憶します。つまり、夕食の後など、茶の間で家族と一緒に同じテレビ番組を見てひとときを過ごす、そのことが、高度経済成長期以降の日本社会における《家庭》の一つの原像をなした時代がありました。
 千佳たちが子どものころが、ちょうどそうした《テレビ共同体》の家族の時代だったはずです。千佳だけは、この子ども時代の感覚をおとなになっても持ち続けていて、テレビを見ることと、《家庭》の中に今自分がいることとを心理的な等号で結びつけています。

 次女の佳乃(よしの)は、おとこに惚れやすくて大酒飲みですから、TVを見ることは見ても、慣習化はしていませんね。TVを見るくらいなら、酒を囲んでワイワイやっている方が楽しい。ただ、経済的にはひとり暮らしもできそうなのに、この家を離れないのは、はやくに壊れてしまった《家庭》への執着が断ち切れないためでしょう。自己がひとりの自由な自己であろうとすることより、幼年時代の《家庭》への郷愁の方が強くて、いつも親しい人と《ともに》あることを愛するタイプですね。

 長女の幸(さち)は看護婦で夜勤がありますから、TV嫌いではなくても、おのずとTVから離れてしまった印象です。
 幸は、《家庭》を壊していった両親への怒りからなのか、妹たちの中では親の代理として振る舞っており、この旧家と最も深く結びついています。この家は、今はおとこ不在の、実質上の「幸(さち)の家」です。
 ですから、幸をめとるおとこは、この家もろとも結婚しなくてはなりませんね。幸とこの家を切り離してしまったら、幸は幸でなくなってしまう。幸を愛した医者が、妻としてアメリカへ一緒に渡ってくれといってプロポーズしましたが、かのじょという女性を看護婦の一面からしか見ていなかったのでは? という印象を受けます。

 いちばんの主人公である聡明なすずは、女の子ながら地元のサッカーチームに入って、この「幸(さち)の家」を地縁社会へと開いています。





 すずとサッカーチームのキャプテン風太がともに目をやっているのは、海です。こうして、ふたりして見るともなしに海を見るとき、共生感の中へ孤独感が侵入してきて、両者が溶け合わずに入りまじった、温かさと寂しさが同時に感じられる気分が生まれます。すずに限らず、幸や佳乃が強く放っているのもそうした空気感です。

 かなり強引にそれを日本の現代史につなげてしまいますと、《テレビ共同体》が失われた以後における《家庭》の不在が、この4姉妹の生活感覚の基調になっていると言えるでしょう。
 そして、これまで5作刊行された『海街diary』は、《テレビ共同体》以後における、あたらしい《家庭》をさがしもとめる物語だということになります。

 4姉妹を初め、どの登場人物も、うつむいた横顔で黙り込んでしまうシーンが多いですよね。ストーリーをとめて、登場人物をその孤独へと返してしまうこの横顔たちが、ほんとうにまっすぐ顔を上げて正面を見つめるとき、この物語は完成することになるのでしょう。
 それが具体的にどのような絵柄になるのかはわかりませんが、このまんがを読む大きな楽しみのひとつは、登場人物たちとともに自分もうつむいて黙り込み、ともに考えることです。私も、まだ1回通読しただけですので、今後何度か読み返して、ゆっくりとうつむき続けたいと思います。









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