自己愛性人格障害の下位分類の具体的な説明 | MORA RUSH ~モラハラシャワーに射たれて~

MORA RUSH ~モラハラシャワーに射たれて~

夫からモラハラ受けていると気づいたと同時に、実母からもモラハラシャワー浴びまくっていたことに気づいてしまった私の現在と過去についてです。



恐らく私はアダルトチルドレン・・・かつ共依存もあると思われり・・・

私自身の精神疾患についても時々触れています。

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人格障害の分類

人格障害とその治療

自己愛性人格障害の定義

11の人格パターンと自己愛性人格障害の下位分類

自己愛性人格障害の合併症・発生について

自己愛性人格障害の治療



自己愛性人格障害の下位分類には4種類ある。


1・道徳心を欠いた自己愛性人格障害(反社会的傾向)

自己愛者の自信は、反社会性人格障害者の度重なる犯罪行動と結びつく。多くの人は、社会で成功し、法律を守っている。一部の人は、薬物のリハビリテーショントレーニングの中にいたり、若い犯罪者の治療施設にいたりする。あるいは、監獄や刑務所にいる。

この人たちは偶然に身を任せて生きており、何に対しても反対する人たちで、いかさま的である。他人を自分の利益のために利用する。このような人の多くは執念深く、自分の犠牲になっている人たちに対して軽蔑的な眼差しを向ける。

多くの自己愛者は正常な超自我の発展をとげるが、道徳心を欠いた自己愛者は社会的な影響を与える技術を持つ。内向化した道徳的禁止をほとんど持っていない。彼らは良心がなく、道徳心もなく、嘘をつくことも平気である。このような自己愛者は、単に不誠実で人を利用する以上に、他人の福祉に対しても欺瞞的な無関心を示す。また、危険を冒すことにも積極的で、罰を受けることにも恐怖心を持っていない。

道徳心を欠いた自己愛者は恨みのこもった満足ということを、しばしば行い、他人を軽蔑し、支配する。彼らは完全に自分自身の関心にのみ焦点を当て、真実と言うことに対して無関心である。そのようなことに直面したとしても、彼らは正当化された無実の態度をあらわす。例え悪いことをしても、礼儀正しさや品のある態度を見せて、自分の問題のある行動を否定する。もし、彼らに明らかに罪があるとするならば、彼らは自分の行動に無関心ないし冷ややかな感情を示す態度をあらわすことになるであろう。自分のやったことが失敗したり、社会的に無責任であったりしても、彼らが持っている広範な空想や単純な嘘によって正当化する。

反社会性人格障害の傾向をより強く持っている人たちは、強くて傲慢で、恐れのない構えを見せつける。そして、自分の悪意ある傾向や頻繁な家族の問題や、法律的な混乱を作り出す際に恐れを示さず、傲慢さの傾向を見せつける。

他人との関係も、自己愛者が何らかの利益を得る限り持続する。多くの面で、道徳心を欠いた自己愛者は誠実さを欠いた演技性人格者に似ている。


2・自己補償的自己愛性人格障害(否定的、回避的特徴)

自分の欠点を補償していくタイプの下位分類は、自己愛的な性格の精神分析的理解を示している。補償的な自己愛者の人生初期の体験は、回避性人格障害や否定的な人格障害者と違っているわけではない。いずれも人生初期に傷を負っている。

彼らは劣等感や一般市民の見方から逃げるという回避性人格者のような失敗をするのではなく、忠誠心と怒りの間を揺れ動く否定的人格者とも異なって、優越感の幻想を発展させる。

彼らにとって人生とは、地位と名誉を得る欲望を満たすために懸命に努力することである。補償的な自己愛性者は回避性人格者と類似して、極端に他人の反応に敏感であり、批判的な判断や否定がわずかであっても、気づく。ただ回避性人格者と異なって、補償的自己愛者は、他人やあるいは自分自身からくる失敗の感覚は深く隠そうとする。そのかわりに、優越感という外観を繕うのである。

彼らは、自分の内面の動きをある程度洞察できるが、それにも関わらす、個人的な栄光と達成感の誇大的空想に耽るのである。彼らは自分自身の固有の人生を生きるかわりに、実際の世界とはかかわりのない間違った演劇、あるいは想像上の演劇での役割を求め続ける。彼らは現実にさらされた場合にはますます傲慢になり、ほかを無視するようになる。


3・好色的自己愛性人格障害(演技的特徴)

好色的自己愛者は性的な誘惑のゲームが得意であり、当然異性とのセックスの遊びに耽る。彼らはそういう技術において優れ、そそのかし、そして情緒的に恵まれていない人や、ナイーブな人たちを誘惑する。他方で、自分自身の快楽的欲求と性的満足を満足させる。

彼らのゲームは、いつも排他的な関係を計画する。彼らは単に純粋な親しさを強く求めて多くの人との恋愛を競うのではない。

ある人は性的な運動家ともいえ、そういう人は単に性的な操作をたくらんでいるともいえる。一見、純粋な温かい愛情関係を望んでいるかにみえるが、しかし他人がそれを見つけたとき、彼らは落ち着きがなくなり、不満を感じる。繰り返される性的な力は強迫観念になり、自己愛者の力を強化するという勝利感を感じさせるだけである。

このように、他人を圧倒し、勝利を収め、彼らはその恋人たちを格下げして、また別のゲームを続けようとする。多くの場合、彼らのパートナーは単に肉体を与えるだけで、かりそめに自己愛者が利用しているに過ぎない。

好色的自己愛者がある人の病理的な関係から次の病理的な関係に移ろうとするとき、自分の後ろに過剰なセックスや込み入った嘘をたくさん残していく。

直面化や批判、あるいは罰を与えることによって、このような自己愛者の生き方を変えることはできない。彼らは、すぐに嫉妬深い、品の悪い貧相な人間として、このような口やかましい人たちを追い出してしまう。

好色的な自己愛者は実質的に肉体の自己愛者であり、気が弱いながらも身体的な外見や洋服、あるいは他の外見にいつも注意を向けている。


4・エリート的自己愛性人格障害(純粋な下位分類)

「このような人たちは自分に自信があり、傲慢でエネルギッシュである。あごひげをするなど印象的で、自分が社会的ランクの下のほうにいることはとても我慢できない人たちである」

補償的な自己愛者のように、このような人たちは間違った防御的壁を持ち、自己イメージをより男性的に見せ、またより優れているように見せようとする。しかし、自分の深い劣等感を埋め合わせるというような人たちではない。彼らの感情は恐怖であり、このような人の多くは軍人やパイロット、スポーツマンによく見られるという。さらに法律家、医者、様ざまな起業家というのも加えなければならないと思われる。このような専門的的職業を持った人は、多大な攻撃的勇気を持っており、ウィルヘルム・ライヒのいうところの男根的自己愛者の中心的な傾向とみなしている。彼らは自分自身を神の世界の人間の如く思い、普通の人と並ぶレベルの人間ではないと考えている。歴史上ナポレオンやムッソリーニはこの典型的人物である。このようなわけで、彼らはいささかサディスティックな傾向も持ち合わせていると言わざるを得ない。
このエリート的自己愛者は人前で自己顕示欲を発揮しようとするが、その領域は知的領域や富の領域である。このような人たちは学校を選ぶ際にも極めて有名で権威のある学校に行く。さらに特別な排他的クラブに所属し、自分と同じような社会的レベルの階級の人としか結びつこうとしない。

彼らは自分に対して「自分は特別な人間である」という過度な要求を持っているため、実際の自分と他人に見せようとする自己表象の間には、ある種の分裂が生じることになる。彼らの自分に対する優越性は確固としており、例えばIQすら高いことを望んでいる。そして、自分が全てにおいて成功する運命にあると思っている。

認知療法のベックとフリーマンは以下のように述べている。

「自己愛者は、絶対的二分法を持ちやすい。特にストレスがかかった場合には、自己についてのall badかall goodのイメージの間を揺れ動くことになる。

自己愛者で、しかも妄想的な傾向を持つ人は、他人はいつも自分の地位や能力に嫉妬していると考える。このような自己愛者は、自分の友達や家族、または仕事の仲間を、時には完全に忠実であり信頼に足るものと思っているが、別の場合には完全に敵になってしまう。言い方を変えれば、自己愛者は他人を理想化するが、すぐにも相手の欠点を見つけてしまう」

ベックとフリーマンは、自己愛者の中心的な信念を次のような言い方で代表づける。

①私は特別に天から与えられたものを持つに値するのであり、特典と特権を持っている。

②私は誰よりも優れており、周りの人はこのことを知らなければならない。

③私は全ての法則より、さらに高いところにいる。

さらにベックとフリーマンは次のような「信念」を述べる。

「もし、他人が私の特別な地位を認めないなら、彼らは罰せられるべきである」

「もし、私が自分の優れた地位を保つのなら、私は他人の貢献を期待することができる」

ベックのこのような「信念」のリストの中には。「いつも自分の優秀さを主張するべきであり、そしてそれを証明すべきである」とある。

ベックは、最終的には「もし、私が完全でないならば私は何者でもない」という「信念」に至ると言っている。




犯罪スレスレの行為に走るモラ、ナルシストもどきのモラ、有言不実行なモラ、性技で絡め取ろうとするモラ、様々な傾向を示すモラが現われるのは、この下位分類である程度説明できるような気がした。