愛ある母の言動とは | 我が家はいつも西海岸日和

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Angelina & Tommy です。
いつもブログご訪問有難うございます。

最近は私が個人的に興味のある分野のブログを投稿させていただいています。


子育てや母親業は私が最も興味のあるテーマです。

これからの時代を引っ張っていく子供たちを育てるのは親の重大な責任ですが、
子供一人一人の性格、個性、また特性を引き出しながら柔軟な子育てをしていくことはとても大事なことだと思うからです。

(この世の中の人間で同じ人間は存在しないので、誰もがオンリーワンですね)


興味のある記事を目にすると読まずにはいられません。
さて、今回は子供のころ、発達障害があることが理解されなかった栗原類さんに関する記事を紹介させていただきます。

子育てをしておられる方には是非お読みいただければと思います。
発達障害に悩む栗原類が救われた、愛ある母の言動とは


以下は記事から抜粋しました。

栗原類少年は注意欠如障害の中でも多動や衝動性は目立たず、不注意の症状が顕著なADDと診断されたのは8歳のとき、当時住んでいたNYでだった。語学を含め、物事の習得が遅いと小学校の担任から指摘され、検査をすすめられて判明した。

自分の障害を認識したのは、ピクサーのアニメ映画『ファインディング・ニモ』がきっかけです。なんでも忘れてしまうドリーというキャラクターがいるのですが、僕が“ドリーってすごくおかしくておもしろいね”と言ったら、母が“アナタもそうだよ”と。母はドリーの特徴と僕の特徴を比較して、細かく話してくれました。

そのとき、少しショックを受けた類少年だが、母が周囲の無理解を決して放置せず守ってくれたのが助けとなった。

「日本の保育園に通っているとき、僕は物音に敏感なため、子どもたちの怒鳴るような歌声がダメで飛び出したことがありました。先生方には“情緒がない子”“耳がおかしい”と言われましたが、医師に“誰だって怒鳴るような歌声は不愉快。
この子の耳は何も異常がない”と言われたこともあり、母は“医師も言っていました、この子の耳は何も問題がないそうです”と言い返してくれたんです。


同じく日本の学校で、担任に“類くんだけが自分の名前を漢字で書けない”とも言われましたが、“でも自分の名前を全部、英語で書けるのも類だけですよね?”と、言ってくれたことを覚えています。

ADDと判明後、「自分ができないことを責めないで」と言ってくれた母は、どんなに学校からの風当たりが強くても一切、息子を責めなかった。

「僕の個人的意見ですが、親がいかに学校側に負けないで闘うかは大事。先生が親を責めて、そこで親が謝ったりしたら、先生も“親が謝っているということは、子どもにも同じくらいのプレッシャーを与えてもいいのだ”と錯覚してしまうかもしれない。子どもは追い込まれ、いい未来を歩めなくなるかもしれません。僕は闘ってくれた母に、とても感謝しています。

この記事を読ませていただき、親が子供の目線に立ってサポートすることがどれだけ大切なのかを改めて勉強させられました。

 

自分の親に否定された子供は将来が明るい事すら知らないで育っていきます。

 

親は他人と比較して自分のエゴで子育てをしてはいけませんね。 あくまでも子供が幸せに育ってくれることだけを考えて育てることだと思います。

 

発達障害のあるお子さんを育てる事は健康な子供を育てるよりも何十倍のご苦労があることかと思います。 でも、お子さんが大人になった時には、親がしてくれた素晴らしい事に感謝してくれるものなのだと学ばせていただきました。

 

この世に生まれてきた大事な子供の命を思うと、私達、母親はどんなことがあっても子供の側に立って子育てをギブアップしてはいけないという事を学ばせていただきました。

 

最後までお読みいただき有難うございました。
 

PS
<栗原類さんのプロフィール>
モデル。17歳で“ネガティブタレント”としてブレイク。パリコレのショーモデルなどを経て、現在モデル、タレント、役者として活躍。著書に『発達障害の僕が輝ける場所をみつけられた理由』(KADOKAWA)、『ネガティブですが、なにか?』(扶桑社)などがある。