フリー | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今でこそ、人気の局アナが独立してフリーになるのは珍しくありませんが、日本で初めてフリーアナウンサーとして活躍したのは誰か、お分かりになるでしょうか?


正解は、NHK出身の


 高橋 圭三 アナ


今日は、私のような中高年の方々にはお馴染み・・・「紅白」・「新春かくし芸大会」・「レコード大賞」という年末年始の3大イベント全ての司会を担当した、この大御所アナの命日にあたります。


高橋アナは、1918年の岩手県花巻市生まれ。


現在の高千穂大学を卒業後、一旦は電気メーカーに就職するも、1942年に日本放送協会が出した新聞のアナウンサー募集広告を見て応募・合格したという、現代ではちょっと考えられない変わった経歴の持ち主でした。


なかなか東北弁が抜けずトイレで何時間も練習したという努力が実ってか、1962年から始まった同局の人気番組 『ジェスチャー』 の司会を担当して知名度が上がると、同年末の紅白歌合戦の白組司会に抜擢され、1961年まで連続して務めました。


同年でNHKを退職し、同局と1年余り専属契約を結んだ後に圭三プロダクションを設立し独立、日本初のフリーアナに。


               ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-高橋圭三


1965年から 『新春かくし芸大会』(フジ)、1969年から 『輝く!日本レコード大賞』(TBS)という民放の年末年始看板番組の司会を担当するなど、まさにアナウンサーの第一人者としての地位を確立。


また日立製作所の提供番組で活躍し、東芝の押坂忍氏や松下の泉大助氏と並んで〝日立の顔〟としても活躍しました。


その後、NHK同期入局の宮田輝アナと共に1977年の参議院議員選挙・全国区に出馬し当選。 一期務めたものの、二期目は落選。


この落選を契機として、司会者より審査委員としてテレビに登場することが多くなりました。


個人的には政治家への色気を出さず、司会者一本で活躍して欲しかったのですが・・・それだけが少々残念ではありました。


2000年、毎年顔を出していた地元の 『花巻まつり』 に参加してから体調を崩し入院。


その後体調が回復することはなく・・・ちょうど10年前の今日・2002年4月11日に腎不全により83歳で逝去されました。


亡くなる少し前には声が出なくなり、見舞いも断っていたとか。

昨年末に亡くなった立川談志師匠もそうでしたが、喋りが商売だった方には辛い最期だったでしょうネ。


定番だった 「どうも、どうも」 というややキーが高い声を懐かしみつつ、元祖フリーアナのご冥福をお祈り致します。笑3



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