生年月日 不明

犬種 スコティッシュテリア

性別 牡

地域 東京府

飼主 秦一郎氏

 

私の家のスコツチのミミーはまだ仔犬の頃、一旦庭に放したら最後、主人の私は勿論、三度々々食事をやつてゐる女中がいくら呼んでも絶對に捕まらなかつた。しかし當時六歳の私の長女がミミちやんミミちやんと呼びさへすれば、彼はすぐに傍らに寄つて來て實に難なくつかまるのであつた。

大人がこれに躍起となつて何んとか捉へようとぢれればぢれるほど、益々彼は捕捉しがたい動物となる。幾度でも手許まではやつては來るが、ひよつと手を差しのべようとすれば、彼は逸早くもう手許をくぐつて逃げて了ふのである。

其後、私が苦心して彼を手許に呼び寄せ、難なく捉へることに成功するまでには、彼の心理の研究に相當長い根氣と時日を要したが、その女中には今以て容易に捉らないのである。

これは決して私の家のスコツチばかりではない。多くの他の實例や文献に徴しても殆ど例外はないやうである。偶には訪問者の誰彼の差別なく膝下に跳びついて、矢鱈に御世辭を振り蒔くスコツチを見たが、それは私の經驗中わづかに一頭だけであつた。

これだkでもスコツチ・テリアが、如何に一條繩ではゆかぬ氣むづかしい氣分の犬だかが解るであらう。

かういふ犬を手なづけるには天地間、ただ自分とその犬との二人きりだ。それ以外には絶對にゐない、といふ深い覺悟を以て臨まなければ駄目である。

この傾向は一見、如何にも偏屈で、冷淡で、ひねつこびた、時には小面憎い犬のやうにさへ考へる人もあるであらうが、それは彼にとつて實は大きな誤解と謂はなければならぬ。

彼のこの並はづれた求愛こそは、何者にもまして深い、貴い愛情の發露なのである。

 

「スコツチテリアの特性について(昭和13年)」より

滿洲軍用犬協会から怒られる編

 

こんな事でも自分で訓練したのだと思ひますと此位嬉しく樂しいものは御座いません。又訓練と云ふ事に非常に趣味が出て來て犬に愛情が増して來、自分の子供よりも可愛くなるものです。使犬も其外、肉屋とか、お菓子屋とか一頭の犬で買ひに行かす事が出來ます。それは喰べ物に依て區別致します。お豆腐屋のは籠、肉屋の時は風呂敷を咥わへさせ、お菓子屋の時は手提をくわへさせ、咥へる物に依つて行く先きが解る様に教へます。學者犬エス子は主人が訓練しましたのですが、これは肉屋と云へば肉屋、お菓子屋と云へばお菓子屋へ、それにお豆腐屋と三ヶ所へ立派に買ひに行く事が出來ました。

軍用犬の訓練を始めましたのは康徳四年七月の始め頃からでした。三年十一月に奉天盲唖學校に参りまして、主人は學校に奉職して居り、其當時も學者犬、獵犬と二頭の犬が居りましたので、各學校の教育参考資料として見て戴きましたので、中には御存じの方もある事と思います。

其内四年を迎へ春になり、學校の傍ら犬の訓練所を設けたら如何か、との人のすゝめに依りまして、七月の始めから訓練を開始しました。看板は軍用犬、番犬、獵犬、使犬訓練所と掲げました。
主人も其時が軍用犬の訓練は初めてでしたが、各所で軍用犬の訓練を見て居りますので、犬好き、訓練好きな主人はすべて見ただけで聲符、視符を皆覺へたのです。見ただけで自信を付けて訓練所を開いた理由です。

開きまして直ぐにシエパードが七頭、スピツツが三頭、テリヤが二頭以上拾二頭の犬が入所致しました。約一ヶ月間二人で一生懸命訓練して居りましたところ、約一ケ月後の或る日奉天支部訓練士中村さんと云ふ方がお見へになりまして、君は誰の許可を得て軍用犬訓練所の看板を掲げたか、又君は免状を持つて居るか、許可もなく免状もなければ今日限り訓練所と止めよ、止めなければ憲兵隊に行き憲兵隊の方より止めさせて貰ふと、非常な劔幕ですので私も側で聞いて居りまして縮み上る程怖い思ひを致しました。

中村さんがお歸りになりまして直ぐ主人に今直ぐ預託犬を連れて行き、皆お返しなさいと云つて、其の日の内に皆んなお斷りして歸しました。其翌日は犬舎も壊しまして、遼陽軍犬育成所にお願ひして入所致し、四ヶ月で免状を戴き此の鞍山にお世話になる事に成りました。

是れでやつと心が落付きまして、好きな犬の訓練が出來ると主人と共喜びました。そして私の受持ちは犬の運動と手入をする事になり、主人は訓練です。其の訓練を毎日見て居りますと、自分も訓練がして見たくてたまらない思ひでしたが、なか〃訓練して見よと云ふ命令が出ませんので、只側で指をくわへて見て居りました。それから十四、五日たちました或日、一寸來いと申しますので訓練をして居ります所へ参りますと、お前今日から此の出來上つた課目だけ復習させよと申しますので、嬉しい思ひで引受けました。

 

田村しげ「軍用犬訓練の體驗(康徳11年)」より

 

この後もシェパード訓練法の解説が延々と続きますが、学者犬とは無関係なので割愛。

「南樺太犬界史」を「樺太犬の歴史」へ作り直そうとして二年前から資料集めをやり直し、ようやく完成しかけたところで「やっぱり構成を変えよう」とか余計なことを思いついて、ああでもないこうでもないと悩んでいたらいつしか夜が明けてそのまま出勤したり、他の記事が全く投稿できなかったりで、こういうのは何年か間を置かないとダメだなと再確認した6月末日。

ニヴフ犬界史と樺太アイヌ犬界史と千島犬界史を追加した結果、肝心の南樺太犬界史だけは未だ完成すらしておりません。和人中心の内容にしたら、やっぱり北海道のカラフト犬史を分離するしかないのでしょう。

15年もこのブログをやっているんだから、もう少し真面目にカラフト犬の資料を集めていればよかったなあ。

 

遊牧の民は牛羊と居を同じうす。彼等は是と共に生き、是と共に死す。

寒帶國の住民は其の生活、亦獸類に近し。樺太の土人、勘察加(カムチャツカ)の異人等は自己が一尾の乾魚に因りて越年生活を爲すと共に、畜犬にも亦一尾の乾魚を與ふ。

糧食の貯蔵には一疋の犬を家族の一人と看做して、時には其の費の人間以上に上るあり。

蠻勇の廃れてより鬪犬を見ざる事久し。文明は智力の競爭にして勇力の競爭に非ず。

人賢くして獸類に及ぶ、近時犬喧嘩の少き聊か物足らざる感なき能はず。

不毛極致の地に於て尚能く安住するを得る者、一には馴鹿(トナカイ)の賜なり。而して他は犬の地からに因らずんばあらず。

駱駝は沙漠の舟なりと云へば、犬は氷原の橇なりと云ふべし。荊棘未だ拓かれずして、夏尚人道を絶つ靺鞨に於ては、滿日の光景只皚々たる時、何を以て交通するを得んや。此の時來往の具となる者は僅に犬橇あるのみ。

雪舟は掉して行るべからず。牛馬を以て曳かしむべからず。樺太に於て之を曳かしむる者、此方には馴鹿あり、南方にはアイヌ犬(※北海道犬ではなくカラフト犬のこと)あるのみ。

 

西田源蔵『樺太風土記(大正元年)』より

 
国立科学博物館にはカラフト犬・ジロの剥製が展示されています。南極へ置き去りにされるも、兄弟のタロとともに一年間生き延びた奇跡の犬。カラフト犬が消滅した現在、目にすることができる貴重な「実物」でもあります。

科博で忠犬ハチ公や甲斐犬と並ぶジロは、長毛のタヌキみたいな姿。初めて見た時は驚きました。てっきりハスキーみたいに精悍な犬かと思っていたんですけど。

戦前に撮影されたカラフト犬たちは、長毛、短毛、立耳、垂れ耳、体格もガッシリ型から細身まで、体毛の色もさまざま。一体どれが標準的なカラフト犬なのでしょうか?

混乱する原因は、「カラフト犬は単一の犬種である」という思い込みです。

たとえば「日本犬」は実在しますが、それは柴犬、北海道犬、秋田犬、甲斐犬、紀州犬、四国犬などを総称したもの。カラフト犬も同じケースで、多種多様な樺太在来犬を分類するのが面倒くさかった和人は、それらをひと纏めに「カラフト犬」と総称したのです。

※外地犬界の「台湾犬界史」や「朝鮮半島犬界史」と同じく、元の記事も「南樺太犬界史」というタイトルでした。しかしカラフト犬は北海道どころか赤道を越えて南極まで行っていたワケですし、千島列島の話をどう扱うのかも面倒なので、今回の再掲載にあたって「樺太犬の歴史」に変えております。

 

上野でジロの剥製を撮影したはずが、ちゃんと写っていたのは忠犬ハチ公ばっかり。ジロはハチ公の背中あたりに足の先だけ見えています。

 

【カラフト犬とは何か】

 

和人がカラフト犬の存在を知ったのは江戸後期のこと。

1792年から樺太南部を調査していた最上徳内の『蝦夷草紙後編(1800年)』、そして中村小市郎の『唐太雑記(1801年)』では、樺太アイヌの犬橇を取り上げています。

 

扨又カラフト島の犬は能く舟を引くなり。小舟一艘に犬六、七疋、綱に犬の首に懸る輪有て、蝦夷人此綱を手に持て、犬を呼び進み来りて、首に懸て、浜辺の岩、流木等綱に支ふる所を傍に除て通り、綱の懸らぬ様に引くなり。
或は冬に至り、氷の上を蝦夷人の帯に綱を付て犬に引かせ、蝦夷人は足に板を履まずして杖をつき、遠路に至る事ありといふ(最上徳内)

 

「カラフトイヌ」という名称が現れるのは、東寗元稹が著した『東海参譚』あたりでしょうか。

1807年、幕府目付遠山景晋(江戸町奉行・遠山金四郎の父親です)と勘定吟味役村垣定行の西蝦夷地見分に同行した彼は、 カラフト犬と北海道犬の違いに着目しています。

彼にカラフト犬の知識を授けたのは最上徳内。当時から「宗谷海峡を往来していた樺太と蝦夷地の犬は別種である」と識別できていたんですね。

 

カラフト狗は眼中淺黄にして光有。彼島にしては狗に舟を引しむと也。牡狗の首に輪をかけて、綱を付て眞先に引かしむれば、牡狗夫につゞきて輪繩にかゝりて舟を引事一日に五、六里も引事也。

よく晴雨をしりて、雨ならんとする時には、輪繩にかゝる事を脱れ去を、無體にかけて引かしむるに、果して雨に成る。其日は多くを引得ず、晴天には悦んで、輪のかけやうの迅きを、飛付てかゝり伏して行と也。

余が見し所の狗はカラフト狗也とぞ。最上子員(※最上徳内)がおしへ也。蝦夷狗(※北海道犬)も又カラフトへわたれば、相共に舟を引とも、カラフト狗蝦夷地へ來れば舟を引得ずと。獸類も其風土にならふものと見ゆ(東海参譚)

 

ここまで和人が見聞してきたのは樺太アイヌの犬でしたが、探索エリアが樺太北部へ及ぶにつれてニヴフ族やウィルタ族との接触が拡大。ニヴフの犬橇文化を記録したのが、幕府御庭番の間宮林蔵でした。

 

樺太探索に当たった間宮林蔵の『北蝦夷圖説』では、ニヴフ族の飼犬たちについて詳しく解説されています。

 

旧石器時代から人が住んでいた樺太島で、いつの時代から犬が飼われていたのかは分かりません。間宮海峡を渡って来たカラフト犬の先祖たちは、それぞれの飼主である先住民族ごとに独自の系統を形成していったのでしょう。

間宮海峡を犬橇が行き来していたことは、前出の最上徳内も記しています。

 

ナヨロ(名寄:ペンゼンスカヤ)より此ヲツチシ(落石:アレクサンドロフスク・サハリンスキー )迄、其間凡百里ばかり。此所より西北に一日路隔て、ナツカウ(拉喀:間宮海峡のラッカ岬)といふ所あり。此所山丹国人(アムール川下流域の民族)の渡場にて、海上凡十里ばかりの瀬戸間なり。冬中に至て氷張り、海上陸地の如になれバ、犬に橇を引かせて通行すといへり。

シラヌシ(白主:クレポスチ・シラクシ)より此辺迄を西カラフトといふ。

 

樺太アイヌは「セタ」、ニヴフは「ガヌグ(成犬)」「ガスグエルハシ(仔犬)」、ウィルタは「ゲンダ」などと呼称していたカラフト犬。

その大まかな特徴は、幅広い胸部をもつ橇犬としての適性、そして分厚いダブルコートのうえ足の裏にまで被毛がある耐寒性の高さ。長い年月をかけ、寒冷な樺太島で犬橇文化に特化した犬でした。

いずれのタイプも、輓曳力と耐寒力だけは天性のものがあったようです。

 

所謂、樺太犬として現在南樺太各地に分布してゐる犬を類別し、その沿革を辿つて見ると、略々以上の五種類に分けられるやうに私は思ふ。
これらは其體型、大きさ、習性等に多少變化はあるにしても、何れも冬期輓曳用として馴鹿(トナカイ)と共に橇を曳かせるに役立つてゐる。その輓曳力は、蓋し天性のもので、生れ落ちてわづか三四十日しか經たぬ可憐な仔犬でも、一本の綱を首にくつつけてさへやれば、後をも見ずにグイ〃面白いやうに引張るのである。まことに不思議な本能といふほかはない。從つてその力は非常に强く、强大な成犬になると、優に二〇〇瓩近くを牽くのである。
しかし、夏は長毛の爲め、その力も半減乃至三分の一に減じるので、冬期犬橇を曳かせる以外にはあまり用ひてはゐない。尤もバチといつて、恰度リヤカアのやうなものに材木などを滿載して一頭曳きで運搬させることもあるが、これとても多くは冬である。
夏は大概戸外に繋留してをく。これはさうすることによつて、犬が氣が荒くなり、冬期の活動に備へさせる爲めでもあるが、もう一つは盗難を怖れるためでもある。
 
秦一郎『樺太犬私見(昭和11年)』より

 

敷香(シスカ)で林業に従事するカラフト犬。優れた耐寒性と輓曳力をもつ犬でした。

 

樺太島の「北方犬」たちが勢力を拡大するのはオホーツク文化時代(3世紀~13世紀)のこと。北海道北部にまで進出した彼らは、縄文犬や弥生犬とは全く異なる大型犬でした。

オホーツク文化やトビニタイ文化時代の遺跡から出土する犬骨は、解体跡が刻まれた若犬ばかり。つまり食用や毛皮用だったワケです。

これら北方犬は、擦文文化の勢力拡大でオホーツク文化が樺太へ撤退するとともに北海道から姿を消しました。

漁業を中心とし、熊への信仰や犬の飼育といった特徴をもつオホーツク文化を引き継いだのがニヴフ族(ロシア語の呼称はギリヤーク)。彼らは、北方犬の子孫やアムール川流域から渡って来た犬などを交配しつつ犬橇文化を発展させます。

ニヴフと犬は宗教的にも強く結びついており、病の治癒祈願や家屋の新築における生贄としての役割もありました。さまざまなタイプの北方犬の中から、犬橇に適した資質や宗教的に好まれた姿、それらの影響を受けてカラフト犬が誕生したのでしょう。

犬の毛色に對しては、ギリヤークはどういふものか赤を喜ばぬ風習がある。病氣平癒に犬を殺すにはシヤーマンの神のお告によつて毛色をも選ぶが、白い犬もあまり好まぬ。最も喜ぶのは黑やブチ等である。先導犬には不思議に黑い犬が多いやうである。土地の人々は黑が一番利口だと言つてゐる

 

日本犬保存会・秦一郎『樺太犬私見』より

唐、明といった外部勢力への朝貢、元朝の樺太侵攻と民族間抗争、山丹貿易の拡大、さらに清国人・ロシア人・和人が樺太へ進出したことで、先住民の文化も変貌。樺太・千島交換条約などによる強制的な移住政策も重なって、カラフト犬の地域性は失われていきました。

和犬でも洋犬でもない、しかも辺境の地にすむカラフト犬を、当時の日本犬界は正当に評価しなかったのです。

 

幸いなことに、戦前にもカラフト犬を調査した人物がいました。それがオタスの杜・ギリヤーク教育所の川村秀彌教諭。

彼はニヴフ族が飼うカラフト犬に興味をもち、さらに日本犬保存会の秦一郎と連携して内地犬界へ向けたレポートを発表しています。

いわゆる「皇民化の先兵」でありながら、川村秀彌・ナヲ夫妻は現地の文化を尊重する人物でした。オタスの児童にとっても良き教師であったそうです(しかし秀弥先生はカラフト犬の研究に熱中し過ぎ、「ナヲ先生に負担がかかっていた」との記録もあります)。

 

川村先生は子どもたちに勉強を教えていただけではない。毎日子どもたちと遊んだり、親たちとも交際し、同時にウイルタとニブフの言葉や伝統を入念に勉強していて、土地の人たちの愛情と信頼をかち得ていた。
1937年に、この学校では20名の男子と17名の女子生徒が学んでいた。

 

ニコライ・ヴィシネフスキー著 小山内道子訳『オタス サハリン北方少数民族の近代史』より

 

オタスに関するフィールドワークで、「先住民への差別」という色眼鏡が介在しない史料はとても貴重です。

以下、川村先生のカラフト犬レポートを紹介しましょう。

 

【カラフト犬のルーツ】
 

アイヌ族は犬を愛育する故に、アイヌと呼ぶのではないかと云ふ俗説まで生ずる程の愛犬民族で、其の飼育する犬も大方の知悉せらるゝ通りの有名なものである。ギリヤーク(ニヴフ)も亦、古來使犬族として定評を得て居る程に縁故の深い民族で、其犬は先年、日本犬保存會理事、秦一郎氏が、親しく當地を視察し、精密な調査に基づいて、詳細發表せられた。一尺八寸の極めて機敏な、狩獵に輓曳によく働く、引締つた犬である。

尚ギリヤークには、體軀の大きい二尺一、二寸程の一寸風貌秋田犬に類する犬もある。秦氏の短毛大型と呼ばれたそれである。

秋田犬の血を引くものでないかと云ふ人もあるけれど、交通不便の時代に極北の北樺太まで秋田犬が移入せられたとは思へないし、よく調べるとやはり黑竜江系の犬で、ハバロフスク下流でよく見る犬であると、其地に居住した目撃者の話である。

彼等民族の手に銃の入らない以前、猛獸狩に使はれた獵犬で、熊と犬とを戰はせて置いて、後方から槍で突いた等の話も殘つて居る。

オロツコ(ウィルタ)は馴鹿族で、犬は馴鹿の敵であるから、犬の肉を喰はず、犬の皮を用ひず、本來は犬は飼はないのであるけれども、一面、山から山へと天幕生活を續けて移動する狩獵民であるから、僅かながら獵犬は昔から飼ひ、大型犬をギルー・ギンダ(ギリヤークの犬)と呼んで珍重したのである。之は又頗る輓曳能力強く、一日六十里を突破すると云ふのも此犬で、一部の人々に狼の血液を混じて居るものではないかと疑はれて居る。

因にギリヤークはサモエド犬、エスキモー犬などの長毛種は侮蔑して滅多に飼はない。又オロツコは今日殆ど馴鹿を失つて犬を飼ふやうになつて居る。大型犬は殆ど滅亡して、ギリヤークには既に一頭もなく、此地方を探索しても十指を屈する程かと思ふが、筆者は幸じてそれらしいものを二頭所有して居る。

日本人、露西亜人は省き、樺太居住各種族の中で古來最も多いのはアイヌとギリヤークで、古い地名は南半はアイヌ語、北半はギリヤーク語より成立つ程の勢力である。之等愛犬二民族が、或は異族の壓迫から免れ、或は生活の窮塞から、安住樂土の地を求めて移行するに當り、如何に波風荒くとも、家族の一員である愛犬を運航しない筈はない。

必ずや彼等に伴はれた相當數の犬が樺太に入つたものと推察する。

文學を有せざる民、元より殘せる文献とてなく、僅かに他國の史書の餘白に、彼等の古い消息を朧氣に傳へられるばかりであるから、今日實證を殘さないことは、あり得る事實を想像して推斷するより仕方がない。

必ずや、彼等に伴はれた相當數の犬が樺太に入つたものと推察する。

 

川村秀彌『樺太犬雑爼(昭和13年)』より

 
ニヴフの犬橇文化は樺太アイヌにも伝播します。沿岸部のニヴフや樺太アイヌは海産物を餌にできる犬、山間部のウィルタは草食のトナカイを橇に用いました。
 
樺太島の北海道犬】

 

降つて我が徳川時代の中葉、文化文政以後に至つては、我が探檢隊に依つて殘された舊記に犬に關する記事も少なからず殘つて居る。

中に黑竜江の犬を樺太に購入したり(東韃紀行)、宗谷の犬を樺太に殘したり(邊要分界図考)等のことも散見するが、それ等は近來のことでもあるし、九牛の一毛にも等しい事で、アイヌ犬の樺太に入つた事實は考へられるのである。

されば、樺太犬はアイヌ犬とライカ犬の混血ではないかと云ふ結論になるやうで、實際その様な意見を持つて居る人もあるやうであるが、今日では實際に觸れぬ空論になつてしまつて居る。

樺太犬の現状調査に於て、或る小區域の例外を除いて、全島何處にもアイヌ犬の片影、痕跡を認めることは出來ない。之には依つて來る處の理由がある。之が樺太の犬界の歴史を語るものであるから、諄言淳くても少し愚見を述べさせて貰ひたい。

アイヌもギリヤークも樺太に移住したのは、一國一族擧げての移動ではなく、同族の大部分は故地に殘り、一部の者のみ永い年數の間に三三五五移入し、尚對岸の故地には始終往復して交渉を絶たなかつたものである。之は彼等の現在移動の状態よりするも、文献に依るも明らかな事實である。

只故地との交渉の量に於ては、僅かに三浬の間宮海峡の狭部と、十八里の海上、而も急潮流を挿む宗谷海峡とでは、地理的關係の上著しき相違のあるのは當然のことである。

故に北方より移入のギリヤーク犬の數と、南方より入るアイヌ犬との數には比較にならない筈である。尚使役價値に於て甚だしき軒輊ありとすれば、アイヌ犬の壓倒されるのは止むを得ないことである。

かく云へば北海道の愛犬家達のお氣に觸れるかも知れんけれども、之は樺太に於てのことで、北海道に於ての事ではないから諒とせられたい。

此の壓迫の事態を急速に展開せしめた進行係は、犬橇使用の土俗の推移である。樺太アイヌには當初北海道アイヌ同様、犬橇使用の土俗はなかつた筈であるが、ギリヤークが十數頭を連結した犬橇で、間宮海峡の氷上をカイ、カイ、トウ、トウと一瞬に乗り越す颯爽たる容姿を見ては、眞似ずに居られなかつた事と思ふ。

今日樺太で日本人も一般に犬橇を追ふ言葉として、トウ(進め)、プレー(止れ)、チヨイ(左へ曲れ)、カイ(右へ曲れ)等の號令を用ひ、多くの人はアイヌ語と思ふて居るけれど、之は完全にギリヤークが橇犬を驅使する號令で、少しは訛つて居るが、割に正しく傳はつて居る言葉である。樺太アイヌに熊祭、シヤ―マン、埋葬様式其他北方民族の土俗を傳へて居るものが少なくないが、永い冬期の交通機關の何物も無い時、犬橇の傳播普及が彼等の生活を助けること尠なかつたと思ふ。

犬橇用法を傳へ、犬橇用語を傳へた者が、それに適する原動力である犬を傳へない筈はない。

かくしてギリヤークの大小二犬が樺太に行き亘り、アイヌ犬が滅亡した。之れ前掲理由の第一である(樺太犬雑爼

 

 

ニヴフ族は中型のカラフト犬を好んだため、大型犬は樺太南部に多く残っていました。

 

【カラフト犬の多様性】

 

次に新西比利亜族であるツングースの諸族が樺太に侵入して來てからは、犬界も益々賑やかになつて來たと見るべきで、キーリンやサンダーに依つて、エスキモー犬、サモエド犬等の長毛種が持ち來らされたもののやうである。

殊にサンダーは北滿の物資を犬橇や舟に積んで毎年幾十人となく渡來し、貂皮、狐皮などゝ物々交換をしたのである。夏期舟で來た状態は徳川時代の探檢家の目撃した通りであるが、冬期交易の状態を云へば結氷を待つて來り、犬橇にて携帶せる交易品を、順次希望者に貸し賣し、自分も山に入りて狩獵に從ひ、融雪期に至り、狩獵擧れば、皮類を集めて歸り去つたのであるが、連行せる數多き犬、何の準備もなき他地に於て、永い冬中飼養すると云ふことは艱難で、希望者があれば賣り散らしたものと思ふ。

歸去に當つて必要數の犬だけ新に買ひ求めたと云ふことは、衆口一致の事實である。

サンダーの連來せる犬は長毛系多く、特にマグブー・ギンダ(サンダーの犬)と云つて、大變毛の長い犬もあつたと云て居るけれども、之は餘り確ではない。

或は秦氏の最長毛種として擧げられたものか、後日の問題として殘すことにする。

この長毛系の移入は又壓倒的事實であつて、かくして長毛犬が樺太の隅々まで行き亘つたものである。之れ理由の第二である(〃

 

犬

ニヴフの高床式倉庫「ニヨ」で飼われるカラフト犬たち。屋根には大型の犬橇が立てかけてあります(明治38年)

 

【変貌するカラフト犬】

 

第三には、長毛種は狩獵性能に於ても、輓曳成績に於ても、短毛大小の二種に比し遥かに劣るのであるが、積雪深き仲を追ふ無理をしなかつたり、十五、六里内の短距離を追ふ分には差したる優劣もなく、性質温順で制馭容易なると、其毛皮を利用して防寒具を製作する關係から、アイヌに歡迎せられた。

以上のような譯で、アイヌ犬は淘汰されるか、又は陸續として入り來る北方犬の多量なる新血液の爲めに全く壊滅させられて、深く北方犬の中に没入し去つたものと推定する。

サモエド犬、エスキモー犬等の長毛種の移入は、主にサンダー族の仲介に據ること前述の通りであるけれども、それ等が黑竜江流域にまで進出した經路は、サモエド地方やベーリング方面の中間に居住するヤクート、キーリン等を通過したものではないか。

然かし大陸のことは全くの憶測で、或は甚だしい誤謬であるかも知れない。

憶測序に、狼又は山犬の混血説に就いては、西比利亜や樺太に、山犬の現存するのは事實であるから、其混血も推測されない譯はないけれども、レナ川以東コリマ川邊の沖合に散在する新シベリヤ群島に住む亜細亜エスキモーと稱される種族の中に、狼の子を捕へて人乳を以て哺育し、曳犬に仕立てる土俗ありと聞くから、それ等の狼犬又は其血を引く犬が對岸の大陸に傳はり、キーリン、ヤクートを通して樺太に入つたものと考へられない事もなからうと思ふが、之も蛇足の一つで、自分は狼混血説を主張する者ではない。

北蝦夷圖説などを見ると、垂耳の犬の繪が掲げられてあるから、樺太に垂耳犬の入つたのも、間宮林蔵以前と推せられるが、それが何種で、如何なる經路を以て入來したものか、今は推斷する由もない。

更に進んで露領時代に名入り、邦領の今日に到つては、各種各様の犬種渡來せられて、犬界混沌壊亂、將に樺太犬潰滅に歸せんとする状態にて、既に南方には樺太犬殆どなしと云はれるまでに立ち到つて居る。

我々の樺太犬と呼ぶものは、正しく云へば、會つて秦氏の述べられた西比利亜ライカ犬に属するものだらうが、樺太在住の北方民族を樺太土人と總稱する如く、それ等民族の随伴した犬も樺太犬と總稱するのである。

細密の區分發表を要する場合は何々系樺太犬とか何々型(大、中、長毛等)樺太犬と呼んでも差支無からうと思ふ(〃)

 

【謎のカラフト犬】

 

多様なカラフト犬の中には、ルーツがよく分からないタイプも存在しました。それが「サモエド型カラフト犬」です。

サモエドは、民族抗争に敗れて北極海沿岸へ追いやられたサモエード族が飼っていた犬でした。それが北極探検隊の橇犬として提供され、ヨーロッパへ持ち帰られた個体群を純白タイプへ交配淘汰した「サモエド」として人気品種となります。

いっぽう、ロシアと国境を接する南樺太には「サモエド型カラフト犬」が定着していました。長い年月をかけ、遠く樺太島まで南下した原種に近い犬だったのでしょうか?

サモエド型カラフト犬を記録したのが、川村秀彌との共同調査にあたった日本犬保存会の秦一郎(翻訳家)。彼は、サモエド型カラフト犬について下記のように伝えています。

 

犬

秦一郎が撮影した敷香のサモエド型カラフト犬(昭和10年夏)

 

それから等しく長毛種ではあるが、前者ほどには長くなく、毛質も密で比較的軟かく、吻はやゝ長目で従つてストツプも浅い、耳の先はやゝ尖り、虹彩は褐色もしくは淡黄色を呈し、顔面角張り、尾は緊張した時は背上に巻上げる。毛色は黑褐、ゴマ、斑、枯草色多く、殊に眼の廻りに隈(眼鏡)をつけたもの、所謂四ツ目のもの等もこの種に多い。體型、風貌共にエスキモオ犬に酷似してゐる。
最後にやはり長毛種で第二型よりももつと房々としてをり、殊に尾端の房状を爲した毛は、恰度ハタキを眞倒(まっさかさま)にでもしたやうに背上に垂れかゝり、顔型稍々長く、吻尖り、サモイエド種そつくりの犬がある。
毛色はやはり白かクリームだが、顔面其他に斑を散らしたものも見かける。

 

犬

敷香で撮影されたサモエド型カラフト犬(〃)

 

これらの長毛種は何れも體高六五糎前後で、體重も大抵三五瓩内外の、前記二つの型の短毛種の中間に位する。
以上、短長毛併せて五種別の他に、明らかに是等が互に交雑して出來たと思へる中間雑種もかなり見かけるが、それらは大概左のどれかに還元されるやうである。
(A) 短毛枝毛種 大型・中型
(B) 長毛枝毛種 第一型・最長毛系、第二型・エスキモオ系、第三型・サモイエド系

 
秦一郎『樺太犬私見(昭和11年)』より
 
サモエド自体は大正時代に来日していましたが、いずれもヨーロッパから輸入されたもの。北海道の隣にいたサモエド型カラフト犬たちは、日本のサモエド愛好家から無視されたまま姿を消します(現在では存在すら忘れ去られました)。
サモエド型カラフト犬がいた敷香は、昭和20年のソ連軍侵攻で焼け野原と化しました。彼らがサモエドの近縁種なのか、それとも姿が似ているだけだったのか。今となっては調べる術もありません。
 
大正時代のサモエド・ブリーダーであった秋月養犬部(昭和2年のカタログより) 。日本人にとってのサモエドは「南樺太で国境を接するロシアの犬」ではなく「ヨーロッパからやってくる舶来の犬」でした。
 
ちなみに、このサモエド型カラフト犬は北海道にも渡っていたそうです。日本犬保存会やアイヌ犬保存会がそちら方面にも目を向けていたら、貴重な資料が残せたかもしれません。
……北海道犬を護るだけで精一杯だった以上、仕方ない話ではあるのですが。
 

犬
南樺太のサモエド型カラフト犬 (昭和10年)

 

明らかにこの種の犬の系統と思はれるもの―否、純粋のサモイエド種と思しきものを私が樺太で見たのは、川村氏の案内で敷香町の鈴木氏の愛犬二頭ぐらゐのものであつたが、この系統の雑種らしいものなら、やはりかなり多く散在してゐた。
敷香町の犬は全身やゝクリーム色で、頭部に黑の斑があつたが、これは今日でも原産のもの(※サモエド)は多くさうであり、現に英吉利のケヌル・クラブでもこの毛色は認めてゐる位だから、立派にサモイエド種として通るであらう。
實際、何處から見ても立派なサモイエド種なので、初めてこの犬を引見した時は、一寸奇異な感じに打たれた事を白状する。樺太にサモイエドがゐるなんてことは、内地では一寸想像もしなかつたからである。
しかし、これもエスキモオ種と同じく、その犬の分布區域及び民族南下の跡を辿つて見れば、決して不思議な事もないので、さう云へば、私が樺太に渡る直前、薄暮、北海道の最北端宗谷岬の燈臺から稚内への歸途、長い海岸線を村長初め、案内役の人々と一緒にハイヤアを驅つて馳走してゆくと、巨大な眞白なサモイエド種そつくりの犬が、半哩も私の車の後を追つかけて來た。
私はその純白な、房々した見事な被毛と、堂々たる體躯にまぎれもないサモイエド種を見出し、どうしてこんな過僻な寒村にこんな見事な犬がゐるのか、近處に西洋人でも住んでゐるのかと一瞬間、不思議に思つたが、今日考へれば、これは樺太から渡つて來たものであらう(〃)

 

【消えゆくカラフト犬】

 

拓務省は北海道への犬の持ち出しを禁じていたものの(狂犬病対策です)、いつの間にかカラフト犬たちは宗谷海峡を渡りはじめました。

なんでルールを冒してまでカラフト犬を連れて行ったのかといいますと、北海道での需要があったからです。

軽自動車やバイクが普及していなかった当時、北海道港湾部の漁獲物運搬には馬車やリヤカーが用いられていました。しかし馬の飼育にはお金と場所と労力が必要であり、自宅で手軽に飼える犬がバイク便的に利用されはじめたのです。

「樺太で犬橇を曳けるんだから、北海道でリヤカーも曳けるだろう」くらいの考えで使ってみて、見事にその役目を果たしたことでカラフト犬を求める荷主も増加。

もっとも、北海道では雪原走破能力や犬橇チームとしての協調性は必要なく、求められたのは「リヤカーを曳ける体力」。つまり、純粋なカラフト犬でなくてもよかったのです。

 

「耐寒能力が高いリヤカー運搬犬」として評価された結果、北海道へ持ち込まれるカラフト犬の頭数は増加。しかし移入個体だけでは需要を充たせず、荷役犬の水増し策としてカラフト犬は土佐闘犬や秋田犬と交配されていきました。

唯是日出彦氏のレポート「小樽地方の輓曳犬(昭和10年)」より、北海道のカラフト犬が交雑化していた様子をご紹介しましょう。

 

帝國ノ犬達-モク
小樽にて、魚屋さんのリヤカーを曳くカラフト犬「モク」と傍らを通りすぎる自動車。一般家庭に自動車が普及するのは20年以上も後であり、当時は荷役犬の役割も大きかったのです。

 

帝國ノ犬達-チビ
こちらは八百屋さんのリヤカーを曳く「チビ」。カラフト犬の雑種で、小柄ながら優れた荷役犬でした。

まだカラフト犬の面影を残しています。

 

帝國ノ犬達-モク

こちらは魚屋さんのリヤカーを曳く「モク」。カラフト犬・秋田犬・大舘犬の交雑犬で、日々の重労働により背骨や前肢が変形していました。

 

帝國ノ犬達-ポン
魚屋さんのリヤカーを曳く「ポン」。土佐闘犬とカラフト犬の雑種で、それゆえに仕事中も他の犬とケンカしていました。

 

帝國ノ犬達-太郎

魚屋さんのリヤカーを曳く「太郎」。シェパードとカラフト犬の雑種で、しかも牝でした(男性名を付けた理由は不明)。

 

無軌道な交配による交雑化はやがて南樺太へ及び、カラフト犬の姿は急速に変化していきました。日本人によるカラフト犬のイメージも「北国の雑種犬」みたいになってしまいます。

後年、南極で生き残ったタロ・ジロ兄弟の報道における解説は下記のとおり。

 

カラフト犬の歴史は、秋田犬ほども古い。日本犬のなかでは、アイヌ犬とともに「日本犬中型」のジャンルに入るが、中型のなかでは比較的大きい部類に属する。厳密にいうと、セパードやスピッツのような人為的純血種ではない。雑種犬である。

 

『週刊東京』昭和34年1月31日号掲載「南極犬は生きていた タローとジローの生存記録」より

 

カラフト犬の交雑化を憂い、その保護を訴える愛犬家もいました。

しかし時間的余裕はないまま、日本は戦時体制へ移行。軍馬徴発による馬橇の不足で犬橇も復活しますが、あくまで荷役馬の代用として重宝されたに過ぎません。

陸軍省の庇護下にあったシェパードや文部省が天然記念物指定した日本犬と違い、カラフト犬は誰からも護ってもらえなかったのです。

 

私は歸途、豊原に立寄り、偶然の機會からここの驛に勤務してゐられる金丸氏始め、他、二三の熱心な樺太犬保存論者と知合ひ、極力樺太犬保存の急務を説いたところ、氏等も非常に喜ばれ、私の紹介でオタスの川村氏とも何れ連絡をはかつて、この會の設立に努力しようとの事であつた。

其後、これらの人々の間に意見の一致が出來、樺太犬保存の仕事も着々進められてゐるとか聞いてゐる。近年、犬の研究熱が盛んになると共に、豊原あたりでも養狐についでシエパードやドーベルマンなどの軍用犬を飼ふものがぼつぼつ出來て來たのは大いに欣しいが、肝腎の地元の樺太犬に對しては寔に慨はしい現状である。一日も早く、この運動が全島に勃興して橇犬として立派な使命を持つ固定種の出來ることを希願してやまない。
 
秦一郎『樺太犬私見(昭和11年)』より)

 

昭和20年夏、北サハリンのソ連軍は国境線を越えて南樺太へ侵攻。沖縄戦に続く内地の地上戦(※樺太は昭和18年に内地へ編入されています)が展開された末に日本軍は降伏、樺太に在住していた40万人の日本人は北海道へ引き揚げました。

避難民にカラフト犬を連れていく余裕はなく、ソ連領となった南樺太へ置き去りにされます。

上記のとおりカラフト犬は北海道でも飼われていたのですが、昭和30年代には1000頭にまで減少。その大部分は雑化していました。

残念ながら、作業犬であるカラフト犬は愛玩用に向かない品種でした。高温多湿な日本の夏を過ごすことも難しく、わざわざ飼育する人もいなかったのです。

やがて北海道のカラフト犬は数を減らし、日本犬のように保護されることもなく、洋犬のように持てはやされることもなく、モータリゼーションの到来と共に荷役犬としての役目も終えます。

 

北海道と同じく、サハリンのカラフト犬も消滅へと向かいます。ロシア人は大食漢のカラフト犬を持て余し、狂犬病対策の名目で駆除してしまいました。

戦後もカラフト犬が注目される機会は何度かあったものの、昭和33年のタロ・ジロの報道が落ち着くと再び忘れ去られます。昭和58年に映画『南極物語』が公開されたとき、道内のカラフト犬は回復不能なまでに減っていたのだとか(仕方なく撮影地のカナダで入手したカナディアン・エスキモードッグを代役としたため、「映画を介したカラフト犬のイメージ」が定着しました)。

カラフト犬が消滅した現在、その姿を知るにはタロ・ジロ兄弟の剥製や南極観測隊の写真だけが頼りです。

日本犬界の多様性を知る上で興味深い存在だったカラフト犬。その姿が消えると共に「北方ルートの日本犬界史」も俯瞰できなくなり、日本列島限定の島国的視野狭窄へ陥ったのです。
 
(次回へ続く)

 

 

ロシア人が島を占領して、ギリヤーク人たちを虐待しはじめた際に、ギリヤークのシャーマン教の僧がサハリンを呪つて、今後この島からは、利益は何一つ得られないだらうと豫言したといふのである。
―だから、その通りになつたんですよ―と、イプセンに似たドクトルは溜息をついた。
 
チェーホフ著・中村融訳『サハリン島』より
 

アイヌ、ニヴフ、ウィルタなどの先住民そっちのけで日本とロシアが争奪戦を繰り広げていた樺太島。両国による樺太・千島交換条約締結から30年、事態が大きく動いたのは日露戦争末期のことです。

「日本大勝利!」のように伝えられる日露戦争も、国力が尽きる寸前で講和へ持ち込んだのが実情。そのポーツマス条約締結を有利に進めるため計画されたのが、日本軍による樺太侵攻作戦でした。
樺太を巡る日本とロシアの戦争は、チェーホフが記した「予言」を不幸にも的中させてしまいます。
 

サハリン
日本軍による樺太上陸作戦を機に、樺太島南部は日本領となります(明治38年)

 

【北サハリンの犬たち】
 

1700年代より、樺太島にはロシア、清国、日本などの周辺諸国が介入。日露の雑居地扱いから樺太・千島交換条約でのロシア領を経てポーツマス条約が締結されると、樺太島は「ロシア領の北サハリン」と「日本領の南樺太」に分割されました。
これにより日本人は南樺太の情報を入手できるようになりましたが、北緯50度線の向こう側、ロシア領サハリンの状況はどうだったのでしょうか?
まだ樺太全土がロシア領だった時代、現地レポートを記した人物がいました。犬に関する記述も含まれているので、今回はそれを引用していきましょう。
 
日本が樺太島へ進出したのは、北方への権益拡大と資源獲得のため。いわば新規開拓エリアとして、日本領事館員とは別に商人や漁業関係者も競って出稼ぎに赴きます。
いっぽう帝政ロシアにとってのサハリン島はといいますと、「犯罪者の流刑地」でした。開拓の労働力として、政治犯や犯罪者を送り込む場所だったのです(流刑される親や夫を追ってサハリンへ移住した家族も苛酷な生活を強いられました)。無計画な開発はサハリンの自然破壊につながり、棲家を追われたヒグマが人畜を襲撃する事件も相次ぎます。
巨大な監獄と化した極東の島に、自ら進んで入植したがる商人や開拓者はいません。結果としてロシアのサハリン開発は停滞しました。
 
明治23年(1890年)、この島を訪れたのが劇作家のアントン・チェーホフ。彼が目にしたサハリンは、シベリアの果てに浮かぶ陰鬱な追放植民地でした。
ちょうど来島していたアムール州総督のコルフ男爵は、チェーホフと面会のうえ自由通行証を発行してくれます(来島目的が学会や新聞社の依嘱ではないこと、政治犯への接触不可などが条件)。
農業植民をすすめたいロシアは「サハリンは豊穣の地である」と宣伝していたため、本音では島外者にウロチョロされたくなかったのでしょう。
 
豊穣の地どころか、粗末な食事で苦役にあえぐ5905名の徒刑囚たちは、刑期を終えても移住囚としてサハリンに留め置かれます(移住囚は10年後に農民へ昇格できますが、大陸側への転居には厳しい条件が定められていました)。
暴力と絶望の中で生きる男性流刑囚、更に悲惨な境遇へ貶められる女性流刑囚、「夫の生活を直しに行って、自分の生活を失った」囚人の妻子、腐敗しきった役人や看守、囚人以下の支給品で極東の警備にあたる兵士(日本の屯田兵と同じく半農生活)。そしてヒエラルキーの最下層に押し込められた先住民たち。
耐えかねて脱走した囚人はヒグマや狼が徘徊する深い森をさ迷い、飢えと寒さに苦しみ、結局は監獄へ戻らざるを得ません。
サハリン島で三ヶ月間を過ごしたチェーホフ(医師でもあった彼は現地医療もおこなっています)は、日本旅行の予定をキャンセルしてモスクワへ帰還。その悲惨な実態を、ルポルタージュ『サハリン島 (Остров Сахалин) 』にて発表しました。
 
まだ日露によるサハリン犬界への影響が少なかった明治20年代、カラフト犬はどのように飼育されていたのか。
チェーホフの著作では犬に関する描写もありますので、幾つか抜粋してみましょう。彼が上陸したのはアレクサンドロフスク・サハリンスキー(亜港)であり、後の北サハリン地域の記録としても興味深いものがあります。
まずはカラフト犬を番犬に用いたケース。
 
見ると、街路を警察署の方へ向つて、こゝの土着人であるギリヤーク人(※ロシア語によるニヴフの呼称)の一群が歩いてゆき、それに向つて、おとなしいサハリン産の番犬どもが腹立たしげに吠えたててゐる。この犬どもは、どういふものか、ギリヤーク人だけに吠えかゝるのである。
また別の群が來る―、帽子は、かぶつたり、かぶらなかつたりまち〃の、足枷をつけた囚人たちが、鎖をガチヤ〃鳴らしながら、砂を積んだ、重い手押一輪車を押して來るのである。
一輪車のあとには、子供たちがぞろ〃つながり、兩側には、汗ばんだ赧(あか)ら顔で銃を擔つた護送兵が、ぞろり〃足をひきずつて歩いてゐる。
 
家(※灯台小屋)の傍には、猛犬が鎖に繋がれて、うず〃してゐる。大砲や鐘もある。また話によると最近こゝへサイレンを持つて來て、取り付けるといふことだが、それは、恐らく、霧のたちこめた折などに唸つては、またアレクサンドロフスク住民の郷愁をかりたてることであらう。
燈臺の燈下に立つて、海と、激浪逆まく「三人兄弟」岬を見下すと、頭がくら〃つとして、氣がすくんでしまふ。(※大陸側の)タタールの沿岸や、デ・カストリイ灣の入口までも、かすかながら見渡せる。
 
カラフト犬は、流刑囚のペットとしても飼育されていました。悲惨な生活の中で、ペットの犬猫はささやかな癒しであったのでしょう。
 
サハリンでは、それを建てる者がシベリア人であつたり、小ロシア人であつたり、フィンランド人であつたりすることによつて、凡ゆる種類の小屋を見ることが出來るが、しかし、一番多いのは、六アルシンぐらゐの小さい掘立小屋で、窓は二つ、三つ。外觀の装飾などは全くなく、屋根は、藁か、樹の皮か、稀には、板で葺かれてゐる。
家についた空地といふものは、普通にはない。周圍にも樹木一本ない。納屋、シベリア式の風呂も、稀にしか見かけない。
犬がゐたとしても、それは、のろ〃した、元氣のない犬で、既に語つたやうに、ギリヤーク人だけに吠えかゝる奴である。恐らく、これは、彼らが、犬の皮でこしらへた履物をはいてゐる所爲ででもあらうか。しかも、このおとなしい、無害な犬が、何故かちやんと繋がれてゐる。また、豚がゐれば、これも、くびに枷がはめてある。鶏も同様、足を繋がれてゐる。
―何だつて君んとこぢや、犬や鶏まで繋いでおくんだね?―と主人に訊ねてみる。
―このサハリンぢや、何でも鎖つきでさあね、―と彼は洒落のめしてしまふ。
―何しろ土地が土地ですからねえ。
 
外觀では、コルサコーフ村は優美な、しかも未だ文明が觸れてゐない、さゝやかなロシアの村落と、見まがふばかりに似通つてゐる。
はじめて、わたしがそこへ行つたのは、日曜日の晝食後であつた。靜かな暖い天候で、いかにも祭日らしい感じであつた。百姓たちは木蔭で眠つたり、茶を飲んだりしてゐた。お上さん連中は、たがひに虱を取り合つてゐた。小庭や菜園には花。窓窓にはゼラニウム。
子供が多く、みんな町へ出て、兵隊ごつこや馬遊びをやつて、腹がふくれて睡たがつてゐる犬を相手にはしやぎ廻つてゐる。
 
貧困や、惡天候や、絶え間ない鎖の響きや、朝夕變らぬ淋しい山々の眺めや、潮騒などのために、また鞭や笞で體刑が加へられてゐる監視室から時たま洩れて來る、呻き聲や泣き聲などのために、この土地では、時間といふものが、ロシア本國に於けるよりも、何層倍も永く、惱ましいものに思はれるのであるが、この時間を、女たちの場合は、どうやつて過ぎて行くのであらうか?といふと、この時間を、女たちは、完全な無爲のうちに過ごしてゐるのである。
主に一室からなる一軒の小屋には、徒刑囚の家族がゐる。いつしよに兵卒の家族もゐる。二、三人の徒刑囚の同居人か、客もゐる。また、そこには、未成年者もゐる。隅つこには揺籃が二つ、三つある。
牝鶏がゐる。犬がゐる。路上には、小屋の傍に塵芥があり、汚水の溜りがある。
仕事もなく、食べ物もなく、話したり罵り合ふのも飽き〃したし、街へ出てもつまらないといつた具合である。
―何とすべてが、單調で、沈滞しきつて、醜惡なことだらう。なんといふ憂鬱さだ!夕方には、徒刑囚である夫が歸つて來る。彼の方は食べたいし、眠りたい。それだのに妻は、泣いたり、喚いたりしはじめる。
 

犬

アレクサンドロフスク・サハリンスキーの郵便局に到着したロシアの犬橇(明治38年)
 
刑期を終えた後、農民へ昇格するまで犬橇運送で稼ぐ移住囚もいました。当り前ですが、先住民族だけではなくロシア人も犬橇を用いていたのです。
 
これらはいづれも、時に四、五人ぐらゐしかゐないやうな見張りの哨兵から端を發したものであるが、時が經つにつれて、この哨兵だけでは不足になつて來て、ドゥエとポゴビとの間の一ばん大きい岬に、有望な、それも家族持ちの移住囚を移住させることに決められたのである(一八八ニ年)。
これらの村を建てゝ、そこに哨兵線を張つた目的はと言へば―、「ニコラエフスクから、こゝを通過して行く郵便物や、旅客や、犬橇馭者たちに、道中の避難所と安全とを保つ可能性を與へしめ、脱走囚並びに、自由販賣禁止のアルコール類運搬にとつて唯一(?)の、可能な通路となつてゐる海岸線に、全般的の警備を設けるため」である。
海岸の流刑地への道路といふものは未だなくて、通行は、干潮時に、海岸傳ひに徒歩によるほかはなく、冬は犬橇による。ボートや小蒸氣船による往來も可能ではあるが、これは、極く上天氣の時に限る。
そして、これらの村々は南から北へかけて、次の様な順序で並んでゐる。
ムガーチ(※アレクサンドロフスク・サハリンスキーの北部沿岸にある村)。住民三八。
―男二〇、女一八、戸數一四、耕作地は全部で一二デシャーチナ近く持つてゐるが、既に三年來、穀類を播かずに、全部の土地を馬鈴薯用にしてしまつてゐる。
戸主一人一人は村の建設當時から分割地に住みついてゐて、うち五人は既に農民の身分になつてゐる。収入のいゝ仕事があるらしく、百姓連が焦つて本國に歸らうとしないのも、それで説明がつく。
七人は、犬橇の馭者をやつてゐる。つまり、犬を飼つてゐて、冬場はこれで郵便物や旅客を運ぶのである。
狩獵を生業としてゐるもの一人。漁業については、一八八九年の監獄局本部報告書の中には述べられてあるが、こゝでは全く行はれてゐない。
 
港湾部の犬橇輸送は拡大し、十数年後の記録では下記のようになっています。
 
アレキサンドルスキー附近、コルサコフ附近、ルイコフ附近には、夏の末から秋の初め迄で三官三頭曳の客馬車が動いて居る。冬は無論馬車は通ぜず、數頭又は數十頭に曳かせたる犬橇が走つて居る。
この犬橇はなか〃愉快なもので、韃靼海峡の氷結した時などは、婦女子小兒すらそれを走らせ、數里の氷結せる海面を渡つて對岸沿海州に行く事も屢々ある。
 

『樺太大觀(明治38年)』より

 

北サハリンの犬橇

 
とあるニヴフの集落ではブルドッグが飼われていました。この村にはロシア人流刑囚も居住していましたが、「ブルドッグ」がイングリッシュ・ブルのことなのか、そうであってもどのように持ち込まれたのかは不明です。
当時の帝政ロシアにブルドッグがいたのか?と思われるかもしれませんが、日露戦争で捕虜になったロシア軍将校がブルドッグを連れていた記録などもありますし、いたんじゃないですかね?
 
やゝ暫くたつと、腐つた魚の臭ひが強く鼻をつき出した。現在のウスコーヴォ村にその名を與へるに至つたギリヤーク人の村、ウスク・ヴォへ近づいたのである。
川岸では、ギリヤーク人とその妻子やブルドッグなどに出會つたが、往年、今は亡きポリャーコフがその到着によつて喚び起したやうな驚きの影は見當らず、子供も犬も平氣でわれ〃を見やつてゐた。
ロシア人の村は岸から二露里のところにあつて、このウスコーヴォの風景はクラースヌイ・ヤルに似通つてゐる。
 
役人のペットは一頭のみ登場。全体から見て、愛玩犬はごく少数だったのでしょう。
 
ウラヂーミロフカ村には、移住監督のヤ氏が細君の産婆と一緒に住んでゐる官舎に附属して、農園(フェールマ)があるが、土地の移住囚や兵卒たちはそれを、フィルマ(屋號の意)と呼んでゐる。
ヤ氏は自然科學のうちでも、殊に植物學に興味を持ち、植物の名は必らずラテン語で呼ぶことにしてゐる。だから、例へば、自分の食事に隠元豆が出ると、彼は―「こりや―ファセオラスだな」といふし、自分の黑犬にはフェーヴァス(favus 白たむしのこと)などといふ呼び名をつけてゐる。
 
猟犬、愛玩犬、在来犬、野犬、アイヌ民族の犬がハッキリと区分されていた北海道犬界と違い、同時代のサハリン犬界は何だかアヤフヤです。
「樺太の猟犬はヒグマ狩り用」「毛皮獣の捕獲は猟犬を使わない罠猟が中心だった」みたいな記述もあり、流刑囚は監獄外での居住が認められていたので警備犬も必要なし。たとえ脱走しても島外へ出られませんし。
交通機関が未整備ゆえ犬橇に適した犬種しか必要とされず、流刑地にわざわざ洋犬を連れてくる移住者も滅多にいません。日本犬界のような畜犬行政によるコントロールすらなかったと思われます(サハリンどころか極東エリア全体の狂犬病対策も未整備で、明治29年には狂犬病予防注射を受けるためにシベリアからロシア人2名が来日しています)。
島外からペットを持ち込めるのは官僚や軍人くらいで、その数も少なかったことが樺太在来犬の交雑化を防いだのでしょう。
 
シベリアで撮影されたロシア人のペット。これらのロシア犬がどれくらい樺太へ持ち込まれたのかは不明です(大正11年)
 

【南樺太の犬たち】

 
犬橇文化となじみのあるロシア人はともかく、犬の用途といえば猟犬や闘犬しか知らなかった和人にとっての樺太は異世界でした。特に、橇犬を多頭飼いするニヴフとの接触はナカナカ大変だったようです。
ニヴフの集落を訪れた和人は、橇犬の大群から手荒い歓迎を受けました。1808年に樺太を探索した松田傳十郎は下記のように記しています。
 
海岸より岸を見渡す處、入江見ゑしゆへ、其所に舟を附け、番人萬四郎義召連れ上陸し、砂路二丁程を行した。
入江の際に出たり。此所に山靼家三戸あり。いづれも庭上に犬を飼置く事、一軒に二十疋或は三十疋飼置き、此犬ども傳十郎を見るより聲を發し、三軒飼置犬ども一時に吠へ出し、其聲に土人外へ出し處、傳十郎幷萬四郎兩人を見て仰天したる氣色にて、大勢集、何やら云といへども一向向らず。
中には子供抔は泣きながら家に這 入り、暫く騒動し、船は右の砂崎を廻して入來る故、未だ來らず、流木の有しを幸ひに腰を懸け、休居る故、土人大勢來りて取巻き、銘々何やら申せども言語さらに分らず。
暫くして一人夷言(アイヌ語)を遣ひしゆへ、右のものに尋る處、此所はノテトと云所のよし。山靼家の方に指さして、ニシツパ(役名:旦那の意味)、チセ(家と云事)、アルキ(行と云事)と、夷言にて申に付、右のものを案内にして行し處、男女とも大勢此家に來り、銘々何をか咄すといへども、一向通ぜず。
 
松田傳十郎『北夷談』より
 
数十頭~100頭近くの犬から一斉に吠えられるというのも滅多にない体験でしょう。
……と思いきや、それから約100年後に松田伝十郎と同じ体験をした人がいます。
 

日露戦争も終盤となった明治38年7月、カラフト南部のメレイへ上陸した海軍陸戦隊に続き、陸軍第13師団がロシア守備隊と交戦しつつ北上を開始します。

南部作戦完了後、こんどは北部攻撃軍がサハリン中部のアレクサンドロフスクへ上陸侵攻。ロシア軍主力の南下を阻止すると共に、樺太南部の占領を確実にしました。

同年9月にはポーツマス条約が締結され、樺太島は北緯50度線を境に日本とロシアが分割統治することとなります。
 
樺太に設置された日露国境線の標識(南樺太側)
 
「新領土獲得!」に沸き立つ世の中で―日比谷焼討ち事件とかありましたけど―さっそく樺太へ赴く人々が現れます。中には勢い余って、ロシア領に上陸するケースもありました。
北サハリンの鉱山を調査するため、とある探検家が小樽を出航したのは同年11月のこと。日露戦争終結直後の無謀な渡航でしたが、上陸した亜港(アレクサンドロフスク・サハリンスキー)には日本軍が駐屯していたので、比較的安全だったのでしょう。

彼が現地で接触したのは犬橇文化をもつニヴフ族でした(ニヴフの人口は樺太全体で4500人程度、明治38年時点で日本領に居住していたニヴフは37名)。

脇道に逸れますが、北サハリンのカラフト犬に関する貴重な記録なのでご紹介しましょう。

※当時の差別的表現につきましては、原文のまま引用しております。

 

シベリア出兵における尼港事件の保障占領として、北サハリンには大正11年まで日本軍が駐屯していました。

アレクサンドロフスク・サハリンスキーの日本人街にて、日本兵が連れているのはカラフト犬の仔犬でしょうか。

 

亜港へ上陸後、雪が降り始めるのをみた探検家氏は「冬眠前のヒグマを狩りたい」と現地の日本軍へ相談。

樺太占領直後で大忙しの日本軍に熊狩りを手伝う余裕はなく、「ギリヤーク族に猟犬を借りたらいい」とロシア人ガイドを紹介されます。

 

其日の正午頃、海岸近い山の麓にあるギリヤクの部落に達した。

實をいふと吾輩は此處で適當な獵犬を手に入れたいと思つたのだ。アレキサンドルスキではK大尉が心配してくれたが、どうも適當なのがなかつた。何しろ講和談判結了後(※ポーツマス条約のこと)で、陸軍當局は非常に多忙を極めつゝあつた場合だから、とてもアレキサンドルスキで手に入れるのは困難だと思つたのでさてこそ、ヒヨドル(※ロシア人ガイド・日露戦争で刑務所から釈放された殺人犯)と共に先づギリヤク部落を訪れたのである。

 

天風子『猛犬義犬奇談(明治42年)』より

 

探検家氏が目撃したニヴフの橇犬については下記のとおり。ほぼ立耳巻尾の中型タイプで統一されており、「ニヴフは大型犬を嫌う」という後年のカラフト犬調査記録とも一致します。

 

樺太にはギリヤクの部落、露領沿海州では韃靼人の部落に、それは〃澤山犬が居る。

北極探險家がエスキモーから犬を傭入れて橇を曳かせるのは有名な話だが、ギリヤク人も同じく飼養の犬に、自分等の乗つた橇を曳かせる。それだから十數軒の部落でも、犬はどうしても二、三百頭は飼つてある。

是等の犬の群には必ず二、三頭の大將犬が居る。是は橇を曳くとき一隊の犬の嚮導(リーダー)になつて、雪の上でも氷の上でも駈けずり歩くので、平日の給與が既に部下の雑輩とは異つて著しく贅澤である。

ギリヤク部落の犬には體の餘り大きいのはない。毛色は大抵黑で、耳は尖つて突立つて居る。尾は純粋の日本種と同じく上方に巻いて居る。

性質は頗る獰猛で、知らない人間を見ると、今にも嚙み付きさうに吠える。こんな場合にも例の大將犬は先頭に立つて、齒をムキ出して居る(猛犬義犬奇談)

 

せいぜい集落あたり20~30頭単位かと思ったら、その10倍も飼われていたんですね。ニヴフにとって犬橇がいかに重要だったかが分かります。

しかし、多数の橇犬を飼うためには膨大な量の餌が必要となりました。沿岸部で暮らすニヴフや樺太アイヌだからこそ、豊富な海産物を飼料として調達できたのです(山間部のウィルタは草食のトナカイ橇文化でした)。

 

吾輩とヒヨドルの二人が、後の山から馬を此部落に乗り入れたときには、忽ちの内に犬の猛烈なる包圍攻撃を被つてしまつた。

一疋や二疋ならまだ仕末がよいが、一時に二、三百飛出して吠え付かれたから堪らぬ。オイコラ位では容易に退かぬ。ヒヨドルも困却(こま)つたやうな顔して、稍々もすると棒立ちになる馬の手綱をしかと控へ、何か露西亜語で大きく怒鳴つた。

此聲に驚いたのか十五、六人がゾロ〃と小屋の中から出て來た。そして狂つたやうに吠え付く犬を叱り飛ばした。

顔は其犬の如く頗る獰猛であつた。色の黑い、唇の厚い、鼻の低い、頬骨の高い、一寸見たばかりでは咬み付きさうであるが、性質は左程でもないと見え、吾輩等二人を見ても、別段驚き訝しむ様子もなく、唯無言の儘ニコ〃として居た。

ヒヨドルは其中の酋長らしいのに向つて何か話しかけて居たが、完全に要領は得なかつたらしい。時々兩方共小首を傾けて變な顔をする。

K大尉が「ヒヨドル、ギリヤクの部落に行つたら、土人と犬を傭へ」といふことだけは申付けて置てくれた筈だから、多分それを談判してるのだらうと思ふが、其點は露西亜語もギリヤクの土語も解らない吾輩には、何の事だか更に合點が参らぬ(猛犬義犬奇談)

 

ニヴフにはアイヌのイオマンテと似た熊送りの儀式があり、各家庭では儀式用の仔熊を飼っていました。熊を神とあがめる信仰心を知らない探検家氏は、仔熊を買い取ろうと交渉しはじめます。

 

此時吾輩フト土間の隅に黑い獸が繋いであるのを見た。初めは犬かと思つたが、犬にしては少し様子が變であつたから、其方へ近寄つて能く〃見ると、案外にそれが一疋の熊の兒であつたので、こいつは面白いものを見付けた。錢の有難さを知らぬ土人は、幸い用意のウイスキーがあるから、是と引換へに熊兒を貰つてやらうと思ひながら、中でも物の解りさうな土人に手眞似の談判に取掛ると「徒勞(だめ)だ。それやることならない」と突如として叫ぶ奴があつた。是には吾輩面喰つた。

極北の蠻地に、此明瞭な日本語を聞かうとは、誰しも殆んど思ひ及ばぬことであらう。

吾輩も日本人が此小屋の中に居るのかとも思つて見たが、そんな様子は少しもなくて、軈て十七、八歳のギリヤクが焚火の傍からつと立つて來た。

「貴様はアイヌぢやアないか」

吾輩はアイヌがギリヤクより多く日本に縁故があるので、先づさう訊ねて見た。

「アイヌぢやアない。俺ギリヤクだ」

「此部落のギリヤクか。それにしてもお前何うして日本語を知つとるか」

「ハゝゝゝ、驚いたか」

 

亜港で日本人と働いたことのあるニヴフの少年に通訳を頼み、仔熊の購入を諦めるかわりに猟師と猟犬3頭を借り受けることができました。

 

犬は此部落でも粋を抜いたので、其中の一頭の如きは、前年土人の獨木船(カヌー)が沖合で轉覆したとき、折柄海岸で此有様を見たが、忽ち身を躍らして寄せ來る荒波の中に飛込み、今や溺れんとする一少女の裾をくはへて、無事海岸へ泳ぎ歸つたことがある程の猛者で、他の二頭は其勇敢なる血統受けた若い犬であつたのだ(猛犬義犬奇談)

 

ニヴフの少女を救助するカラフト犬。ブルドッグにしか見えませんが、明治時代の東京の画家に「カラフト犬を描け」という方が無理なのです(明治42年)

 

日露戦争でロシア軍の負傷兵捜索犬に遭遇した日本軍は、大正2年の歩兵学校軍用犬調査レポート作成時までその役割を理解することができませんでした。

ヨーロッパの水難救助犬も明治初期には知られていましたが、その訓練運用マニュアルが邦訳されたのは明治40年代のこと。

探検家氏にとっても、「樺太のレスキュー犬」は珍しいエピソードだったのでしょう

 

露營の地點は密林の木下蔭で、此處だけは雪が繁つた枝に遮ぎられて、地上には積つて居なかつた。斧鉞(ふえつ)未だ嘗て入らざる千古の森とは正に是をいふのであらう。四人の聲と働きに依つて掻き亂さるゝ外、森の寂寞は永久に悠々たるものであるかの如くに思はれた。

天幕の中は焚火が盛だから少しも寒くない。ヒヨドルは吾輩の與へたウオツカを仰顧(あお)りながら、少年を相手に何か愉快さうに話しかけて居る。ギリヤクはウヰスキーをちびり〃飲みながら、三頭の犬に干鱒を與へては其頭を擦でゝ何か言ひ聞かせて居る。

馬は寒さうに天幕の外で鼻を鳴らす。

吾輩はギリヤクの部落で買つて來た毛皮を敷いて、其上にゴロリと横になつた。探險刀と銃だけは枕元に置た。スワといへば直ぐにも役に立つやうに……。

トロ〃としたと思ふと、けたゝましい馬の嘶きに續いて嚙み付くやうに犬が吠え出したので、吾輩は思はず眠りから醒めた。

ヒヨドルとギリヤクと少年は、犬の後に續いて天幕を出た。で、吾輩も銃を提げて飛出した。

「何うした?」と吾輩は少年の肩を叩いて訊いた。

「熊です!熊です!」

「何?熊?」

「大きい奴、二疋。ソラ彼處(あそこ)逃げます」

火の付くやうに犬が吠えながら飛んで行く方を指して、少年は吾輩に教えてくれる。

吾輩は彼等蠻人に對し、其視力の點に於て、到底匹敵し得べきでない。從つて殘念ながら吾輩には其逃げつゝあるといふ熊の姿が見えなかつた。

ヒヨドルとギリヤクは暫らくの間、熊の後を追いかけて行つたが、遂に其影を密樹の間に失ひ、頭から雪を綿帽子のやうにかぶつて天幕に歸つて來た(猛犬義犬奇談)

 

翌朝になってヒグマ狩りを再開した探険家一行でしたが、ヒグマは逃げることなく逆襲してきました。文中には「二頭の大熊」とありますが、片方はカラフト犬に咬み伏せられる位のサイズ。おそらく母仔グマを誇張して伝えたのでしょう。

 

軈て森が些(すこ)しまばらになつた處に出ると、急に熊の足跡が亂れて、雪の上を四方八方に走つて居る。そこで吾輩は捜索列を張つて進むことにした。

吾輩は少年と犬を一疋、ヒヨドルとギリヤクは各々犬を一疋宛連れて、互に三方に向つて散つた。

吾輩は號笛を一個宛ヒヨドルとギリヤクに與へて、危急の場合若くは獲物のあつたときに吹くことを命じて置いたが、ものゝ二時間も經つに何處からも號笛の音が起らない。で、吾輩心中聊かがつかりしてると、三十米突ばかり前を嗅ぎつゝ進んで居た犬が、突如として立止まり、きつと耳を聳てゝ何物かを聞取らんとする様子であつたが、一聲高く吠いると共に、頂界線を一目散に麓の方に下つて行つた。

吾輩は急に胸が轟いた。で、少年を促して其後を追ふて行くと、遥かの彼方の木陰にギリヤクが牡牛程もあらんと覺しき大熊に取挫かれて仆れて居る傍に、之は又意外なるかな、彼の引連れた犬が他の一頭の大熊を地上に咬み伏せ、今や死力を盡して格鬪最中である。

吾輩は直ぐにも發砲しやうと思つたが、距離が遠過ぎるので、發砲を思止まり、尚ほも其方へ駈けて行くと、吾輩の連れた犬が、ギリヤクに咬み付いて居る大熊に飛び掛つて行つた。

此間に仆れたギリヤクは起き上らうとしたが、重傷を負ふたかヨロ〃とよろめいて又も地上へバタリと仆れた。

二疋の犬はワン〃森を搖がすやうに吠えつゝ戰つた。

此時ヒヨドルの連れた犬が、此聲を聞き息せきゝつてやつて來た。そしてギリヤクに又も咬み掛らんとする大熊を襲ふた。

 

巨熊は土人を喰はんとし、猛犬は巨熊を嚙倒す。この一大活劇は樺太北方に起りし事實なり。

 

曩きにギリヤクの仆されたときに、一方の熊を引受けて戰つた犬は、漸くのことに其敵を動く能はざる程度にまでして置くと同時に、他の二頭の犬が一方の犬を拒(ふせ)ぎつゝある間に、人事不省に陥つたギリヤクの長い防寒着の裾をくはへてヅル〃と安全な場所へ曳きづり行き、更に引返して二頭の犬に加勢し、尚ほも其猛威を揮ふて止まなかつた。

斯くする内に吾輩は適當なる射距離に近づき來たが、此日の功名を三頭の犬に讓づるために斷然發砲することは止め、其代りギリヤクを抱き起し、活を入れて彼を蘇生せしめた。

其處へ恰度ヒヨドルが駈け付けて、重傷を負ふて七轉八倒する二頭の大熊に絶息(とどめ)の彈丸を一發射込んだ。

三頭の犬は呻唸するギリヤクを圍んで悲しげに鳴いた。

後で聞くとギリヤクは全く不意を襲はれたのであつて、其上に折角の彈丸が不發であつたゝめに、遂に斯の如き目に遇つたのだといふことだ。

併し彼の重傷は其後二、三日にして癒えた。

彼は若し此三犬が勇敢にして義を知ること斯の如くでなかつたならば、當然其場で無殘の最後を遂げなければならなかつたのだと現今でもそれを口癖のやうにいつて居る(猛犬義犬奇談)

 

この作品のイラストを担当した小杉未醒はヒグマやカラフト犬の姿を知らなかったようで、なぜか流氷上におけるホッキョクグマと土佐闘犬の戦いを描いております。これが当時における樺太のイメージだったんですね。

日露戦争を機に、カラフト犬の存在は広く知られるようになりました。

いっぽう「戦争の混乱に乗じてカラフト犬の殺処分がおこなわれた」という話があります。日本とロシアの争いは、カラフト犬にとっても迷惑きわまりなかったのでしょう。

 

鬪犬鬪鶏は小人の樂む所、固より賤むべしとするも、今日の如き志氣痛く振はずして人皆柔弱に流れつゝある時は勇ましき、犬の喧嘩の偶以て壮快ならずとせず。蠻勇と稱すと雖も其の勇あるは總ての勇を失ひたるには勝る。

犬の都たる豊原には一日八合の米を食する贅澤なる犬すらあり。彼れ門を守るを欲せず、又獵犬たる事能はず、而して物を運び人を曳く事をも欲せずして、然も鬪犬で覇を唱ふるに足らずとせば、殆んど生存の意義を失ふ。

寒國の獸毛程高貴なるはなし。寒氣に對する必然の結果として樺太犬の毛皮は多く綿毛の密なる者あり。この故に犬皮一枚にして上なる者は十圓に値すべし。

嘗て樺太占領の際、主人を失ひたる多くの犬は原野の間を徘徊したりき。利に敏なる某は一々之を撲殺して物資の乏しかりし時に其の肉を賣り、其の所得數百圓に上りしと云ふ。

然も豊原、大泊の犬を飼ふや此の如き殘忍なるを目的とはせず、彼門を守らず、又獵犬なる能はざるも可なり。冬季小なる橇を作り米穀、雑貨店の如きは之に米又は石油を積みて引かしむ。其の用を爲す事大なるも、是が爲めに食する米は大人以上なりと。

要するに犬の都の畜犬は、亦是れ一種の道樂ならずとせず。

 

西田源蔵「犬の國(大正元年)」より

 

犬

樺太西海岸の日本人漁労者たちとカラフト犬の仔。積み上げられた米俵は越冬用の備蓄です(明治38年)

 

【南樺太の犬橇文化】

 

サハリンがロシア領だった時代も、宗谷海峡が鉄のカーテンで閉ざされていた訳ではありません。
日露戦争以前から樺太には日本領事館が設置され、漁業関係者や商人が往来していました。現地の日本人も樺太アイヌの犬橇をみならい、カラフト犬を荷役に用いていたようです。

先住民の生活手段であった樺太の犬橇は、日本統治下において変化を遂げます。

やがて和人も犬橇を使い始め、旧来の多頭曳きから少数、または単頭曳きへ、さらに橇すら無くした犬スキーも登場。冬季の手軽な移動手段、またはレジャーにも応用されていきました。

和人には、冬しか使えない犬橇のために多数のカラフト犬を飼育するような思考はありません。宗教的にも犬を必要とするニヴフと違い、犬との関係が希薄ゆえにコンパクト化を選んだのです。馬橇の普及や樺太庁鉄道課による鉄道敷設により、犬橇の需要もなくなっていきました。

犬橇が復活するのは、軍馬徴発によって馬橇輸送が減少した戦時中のこと。ニッチ産業として、犬橇文化は辛くも延命できたのです。

 

帝國ノ犬達-漁犬
樺太におけるカンカイ(コマイ:タラの一種)漁の様子。周囲のカラフト犬は、漁獲物や漁具を運搬するために連れて来たものです。
 

樺太の東海岸、殊にトンナイチヤ附近に於いては紅魚と青魚の漁獲必ずしも土人の口を支ふるに足らずとせず。然も通年彼等の貧窮しつゝある者、一に犬飼病の慢性に因らずんばあらず。道樂は斯る種類の社會にすらありと見ゆ。

樺太犬の土人に須要なる事前述の如し。然らば之を飼ふの一種の道樂と云ふは不可ならずや。答へて曰く不可ならず。

未開時代に於ける土人の生活にはアイヌ犬の必要さもありしならん。今日に於ては貂獵の稍巧みなる必ずしも犬を要せず。交通機關の發達せる又必しも犬を要せず。而して年々暖氣を加へつゝある樺太は、又必ずしも獸毛を要せざればなり。

然し本島冬季の犬橇は正に一種の奇觀ならずとせず。獰猛なる犬數頭相連りて狺々として廣漠たる氷原を疾驅す。其の之を御するや目的の地に至らずんば一塊肉をも與へず。飢えたる此の猛者の狂ひ走る様は、何れか狼の群走するに異ならんや。

一人の飼主を乗せたる橇は十數頭の犬に因りて矢の如く曳かる。其の疾き事飛鳥の如し。富内より大阪に至る間、山河凡そ十八里。然も僅に一日にして達す。彼等は狂奔せり。主人の指揮ある外眼中何物も有らざるなり。是故に中途一の旅行者が端なく是と會する時、指揮者が撕(てい)しを過るに於ては、忽ちにして嚙み殺さる。

嘗て大谷より榮濱に至る犬橇の群あり。大谷驛逓主の頗る親切ならざるを怒れる犬橇の主人は、路頭に驛逓主の牛數頭徘徊するを見て敢て先導犬を撕しする所なかりき。是故に一頭の牛は忽ちにして嚙み倒され、雪上紅血の淋漓たる者ありき。

 

西田源蔵『樺太風土記』より

 

 

此の如く強猛なる犬は早くより共同生活に馴らされたり。是故に仲間同士の喧嘩の如きは殆んど之を見る事能はず。

遺傳の如き動物性に大なる影響を及ぼす者は有らず。雪の都、火の都、酒の都たる豊原大泊は更に犬の都たらずんばあらず。

到る處の巷く衢(ちまた)に大小の犬數十群を爲して横行するも、嘗つて喧々囂々として血を流し肉を咬むが如き事あらず。

此の如きは偏に共同生活に慣れたるアイヌ犬の血脈を傳承せる爲めならんとせんや。

樺太犬はアイヌ犬の外、西伯利亜を經て多くの犬族雑居したり。是故に純粋なる者少なからざるも、雑種も亦多し。而して各々其の特性を失ふ(樺太風土記)

 

樺太の家屋は畜犬をして門を守らしむべく餘りに單純なり。斯る都に於て盗を爲さんとする者誰か犬に咎めらるゝの迂愚に出でんや。是故に其の吼え方に於てサガレン犬の拙なるが如きは稀なり。

吼えず爭はざる樺太犬は、或る意味に於ては殆んど猫の如し。彼等は猫と爭はざるのみならず、常に頸を並べて相眠る。此の余 惠恵に因りて彼等は冬季中座敷の中を横斷闊歩する事を得。

大泊の如き、豊原の如き小犬を飼ふ者、寒中戸外に放畜する事能はず。且つ清浄塵なき雪路を走る樺太犬は座敷に上すも甚しき不潔有らざるなり。是故に彼等は常に主人の褥に入りて眠る事を許さる。

旗亭の大なる者にして主婦に犬を愛するあり。彼れ常に室内に起居して甚しきは客の座敷を横行す。小なる者は怒すべきも、三尺の大犬が宴席の膳に鼻を延ぶるが如き何人にも氣持善きものに非ず。然も客の之を怪まざるのみならず、旗亭の主婦は却つて之を得意にす(樺太風土記)

 

南樺太における犬橇の運賃や定員は下記のとおり。最大4人乗り、4kmごとに1円とのこと。
 
犬橇は冬期、荷物を運搬するのみならず、旅客をのせて長途の旅をするには、是非とも缺くことの出來ない交通機關である。追人の他に米三俵、旅客ならば三人を定量とする。賃金は一里一圓の割である。
近年はしかし、交通機關が便利になるにつれ、犬橇を用ふることも次第に尠なくなつて來たやうであるが、なほ交通の不便な地方では絶對に必要なのである(秦一郎)
 
犬橇の走行距離は一日当たり40~80kmだったようです。特別な場合にはその数倍を走ることもあり、先導犬の頭にはセタ・キラウ(犬の角)という円錐状の革飾りを装着しました。
 
樺太犬の勞役の任務は何としても輓曳が第一である。犬體の大小によつて頭數に多少の増減を免れないが、普通一人乗なら五六頭、二人乗なら十頭内外を聯繋して犬橇一台の一日行程は約三十里と云ふ所である。
緊急を要する場合の強行では、俊足のみを選抜して編制すれば、一日五十里乃至六十里の踏破は至難ではない。新間又内路から榮濱まで、敷香から馬群潭又眞縫まで、敷香から露領ルイコフまで等一日突破の實例は幾何でもあるのであるが、之は夜中の十二時一時に出發して、到着も夜中の十一時十二時に及ぶのである。
 
オタス教習所教諭・川村秀彌『樺太犬雑爼(昭和13年)』より

 

伝統的なニヴフの犬橇(大正8年)
 
当然ながら、文献で伝えられるのは伝統的な犬橇が中心。しかし南樺太の史料には、さまざまなタイプの犬橇が登場します。
「量産型犬橇」が存在しなかった以上、個々の橇には作り手の意向が反映されていたのでしょう。

個人的な試作品だったのか、地域や用途別に派生型が存在したのか、時代を追うごとに近代化改修されたのか。今となっては謎ですが、それらを見比べて当時の犬橇風景を想像するのも楽しかったりします。

 

帝國ノ犬達-犬橇

大泊港の犬橇。周囲にはさまざまなタイプの橇が並んでいて、たいへん興味深い写真です。

 

帝國ノ犬達-樺太
ヌソを簡素化したような軽量犬橇。伝統的な橇では前方へ傾斜する「ムエヘ(衝突防止バンパー部分のこと:Brush Bow)」が垂直構造になっています(秦一郎・昭和11年撮影)
 

犬橇

白瀬矗の南極探検隊も使用した多頭曳きの荷役用犬橇。ヌソやトナカイ橇とも違う、頑丈な構造となっています(大正8年)

 

アイヌ集落で撮影された荷役用犬橇。ニヴフも同型の橇を使用していました(大正8年)

 

木材運搬用の犬橇(樺太林業界では馬橇、トナカイ橇、人力橇も活用されました)

 

 

単頭曳き一人乗りタイプ。重心が高くなるものの、手荷物くらいは積載できました。

 

帝國ノ犬達-スキー

 

スキー犬

レジャー用の犬スキー。南樺太にもスキー愛好家は多く、中にはこんなことを試してみるスキーヤーもいました。

江戸時代の文献によると、ニヴフ族も簡便な雪中移動法として犬スキーを用いていたとあります。

 

【南樺太のペットたち】
 
ロシア人や和人が樺太島に洋犬が持ち込むようになると、ペットの数も増加しました。こうして「使役犬」と「愛玩犬」が区分されるようになったのです。
珍しいものとしては、サハリンから北海道へ渡った「ポーランド産の狆」の記録があります。

このポメラニアンらしき小型犬は陸軍第七師団の横地長幹連隊長が入手、嘉仁親王(後の大正天皇)へ献上されました。

 

旭川で、殿下(※嘉仁親王)に献上した二匹の犬は、日露戰争前、北カラフト守備隊の露國將校が飼つて居つた純白の名犬であつた。

豆犬とも稱すべき小型の犬で、身長僅かに一尺あまり、毛の長さ八寸、父(横地長幹旭川連隊長)はポーランド産の狆だと申してゐました。

如何なる經路で此犬が旭川に來たのかは不明だが、或日父が市内を散歩していると、奇麗な仔犬が二匹チヨロ〃歩いてゐるのが、犬好きの父の眼にとまり、直ちに其飼主に交渉して手に入れたとの話を聴いて居る。父は此狆を非常に可愛いがり朝夕懐に入れて愛撫した。時には左右の掌上にのせ、世界一の小さな名犬だと戯れてゐた。毛が深いので夏期になると如何にも暑苦しさうに見えるので、頭部を除き、全身の毛を短く刈り込んだので、小さなライオンの姿になり、旭川ではライオン犬だと評判された。

 

福原八郎『横地鬼將軍と動物愛護』より 横地碌夫氏の証言

 

第七師団長の上原勇作も愛犬家であり、南樺太や北海道で入手した犬たちをいつも引き連れていました。それゆえポーランド産の狆についても覚えていたのでしょう(他には樺太で入手したテリアも飼っていたそうです)。

 

上原師團長の犬は揃ひも揃つて妙な犬ばかりであつたが、一匹トヨといふて、黑色のテリアの雑種で、毛の長い足の短かい小さな犬が居つた。このトヨと名づけたのは、將軍が、樺太の豊原から連れて来られたから豊と名づけられたので、仲々藝を澤山上手にやる犬であつた。

 

陸軍少将大場彌平「犬好きであつた上原元帥(昭和8年)」より

 

明治41年に陸軍第七師団旭川大演習を天覧した嘉仁皇太子は、上原勇作師団長から「横地連隊長の小犬」の話を聞き、実物を見せて貰いました。その可愛らしさと敏捷さを褒める皇太子に、横地連隊長は「御意に召されましたならば、二頭とも献納申上げたう存じます」と申出ます。

「二匹ともいなくなつたら、お前の子供達が定めし淋しがるであらう。夫れは氣の毒だ」と遠慮する皇太子に、「子供等は愛犬が殿下の御側にあがりまして出世をするのを無上の光榮として非常に喜んで居ります」と答えたため、献上が決定。

「ソーカ、ソレナラ二頭とも東京に持ち歸り、一頭は御母君(※美子皇后なのか柳原愛子なのかは不明)に御土産に献上しやう」ということになったのだとか。

サハリンから北海道へ渡り、更に皇室へ献上された「ポーランド産の狆」について、その後の消息は不明です。

 

南樺太で撮影されたポインター(大正8年)

 

外地犬界史で最も困るエリアが南樺太。大量の記録が残っている朝鮮半島や台湾と違い、「樺太先住民族と犬橇文化」が中心で「一般家庭のペットの記録」がなかなか見つからないのです。

人と犬の関係が最も親密だった南樺太において、犬の記録がない不思議。

モチロン樺太関係の文献を片っ端から調べれば何かしら発見できるはずですが、ここは日本犬界史のブログなので樺太史に深入りするつもりはありません。

そういうワケで、南樺太のペットたちについては画像を羅列するのみにとどめます。

 

敷香(ポロナイスク)近郊のオタスで飼われていたニヴフのカラフト犬たち(オタス教育所の川村教諭撮影)

 

珍内(クラスノゴルスク)にて、道路の往来を妨害するワンコ

 

豊原(ユジノサハリンスク)西一条通りにて、街灯に繋がれたワンコ

 

同じく豊原旧市街にて、民家の玄関先にいる仔犬
 

豊原の樺太神社を参拝するワンコ
 

豊原近郊(豊栄郡)の小沼農事試験場にて、小さく牧羊犬が写っていますね

 

こちらも小沼農事試験場の牧羊犬

 

真岡(ホルムスク)南濱町にて、電信柱の桶(防火用水?)の横に犬がいます。

 

大泊(コルサコフ)栄町の十字路を散歩中の女性と小型犬

 

 

大泊停泊中の明大丸から積荷を運ぶ犬橇

 

戦前のペット誌出版は東京の「犬の研究社」と大阪の「狩獵と畜犬社」が中心だったので、北や南へ行くほど記録が少ないのは仕方ありません。中央に取り上げられることなく消えていった畜犬文化がどれだけあったのか。それを考えると大変残念です。

昭和20年に南樺太が崩壊したことで、南樺太犬界の記憶も断絶してしまいました。

戦後犬界においては「忠犬ハチ公以外の犬に語る価値はない」という傲慢な思考が広がり、名もなき犬たちの存在は抹消されたのです。

 

【樺太犬界の崩壊】

 

昭和に入ると、北海道・樺太地域でも続々と畜犬団体が発足。冷涼な気候とフィラリア症の少なさを見込まれて、戦時中にはシェパードの飼育も奨励されました。
このような「異国の犬」の進出は、南樺太犬界に深刻な影響を与えたそうです。カラフト犬は洋犬との交雑化によって激減。日本犬と同じ運命を辿り始めました。
闘犬の流行が秋田犬保存運動の端緒となったように、消えゆくカラフト犬の保存運動も土佐闘犬へのカウンターとして始まりました。
 
川村氏は又、非常な愛犬家で、氏の教育所にも樺太犬が數頭飼つてあつた。氏は又、土佐犬の牽引力非凡なのに着眼され、現に氏のところにも土佐犬と交配させて出來た樺太土佐雑種を數頭飼育してあつたが、鬪争性があるため、あまり橇曳には適せぬやうに言はれてゐた。
敷香町あたりでは近頃、この土佐犬を飼ふことが流行し出し、土佐犬に車を曳かせたり、鬪犬用の曳綱で引いて歩いたりしてゐるのをよく見かけたが、私は土佐犬が結局、鬪争性に富んでゐるのと、古くからこの土地にゐる樺太犬保存の目的からしても、かういふ犬の入り込むことの危險を氏に説いたところ、氏も私の意見を深く諒解されて、樺太犬保存の運動を起さうと言うてゐられた。
 
秦一郎『樺太犬私見』より
 
まさか、敷香で土佐犬ブームがあったとは。
日本統治時代において、南樺太における犬種の独自性は大きく損なわれてしまったのでしょう。距離的な問題もあってか、日本犬保存会の運動が実を結ぶことはありませんでした。
 
帝國ノ犬達-S
唯是日出彦「小樽地方の輓曳犬(昭和10年)」より 
 
こちらは北海道の小樽で魚屋さんが飼っていたリヤカー荷役犬「エス」號。カラフト犬と土佐闘犬の交雑犬でした。
リヤカー荷役においてはカラフト犬の血統維持など関係なく、大型で力強い犬を求めて無軌道な交配が繰り返されます。
南樺太の各地でも、このような交雑化が拡大していったのでしょう。
 
このまゝで進めば、樺太に於ける各種の犬は絶滅に瀕するほかはないであらう。それといふのも、土地の人々があまりにも犬に對して無智の結果である。
彼等の多くは唯犬を橇用として使ふことを知つてゐるのみで、何等系統的に之を調べるやうな努力をしないのである。又、その方法も必要ないからであらう。土地の古老などといふものは、唯古い昔話をするだけで、その記憶とてもどうやら怪しく、しかもまちまちである。唯、犬好きといふぐらゐではかうした眞面目な研究には何等資するところはないのである(『樺太犬私見』より)
 
そして戦時下の樺太犬界については、僅かな記録しか残っていません。犬が迫害された時代、どうせ毛皮が狙われたんだろうと思ったら抜け毛の収集でした。
 
敷香町字多蘭部落の多蘭樺太犬保存組合では、豫てから樺太犬の優秀性を活かし、これを今日の勞力不足緩和の一助にしようと計畫してゐた犬市を、同地で開設する事となつた。
樺太産犬は純樺太犬に限らず牽引力に富み、又毛皮も優良なので相當高價に取引されてゐるが、この市開設によつて畜犬熱は一段と昂まるであらうと見られてゐるが、同組合では夏期に於ける抜毛を農漁村の副業として採取せしめ、毛糸の代用品に製造する計畫もしてゐる。
 
樺太日々新聞『敷香の犬市(昭和15年)』より

 

犬の毛皮は満州国産と朝鮮半島産が主流で、温暖な日本の犬皮は著しく品質が劣りました。

戦前には樺太地域から満洲へ犬皮が輸出されていたという逆パターンも記録されています。犬皮の輸入・移入ルートは想像以上に複雑だったのでしょう。

 

樺太犬の皮が防寒用毛皮として滿洲地方に百圓以上に賣れると云ふ、養殖狐と一寸間違はれ相な話がある。樺太廳畜産係東技手は「樺太犬の皮は樺太島内でも良いものは三十圓も四十圓もするから、満洲方面では百圓位はするかも知れぬ。しかも犬は狐や其他の毛皮動物 と違ひ、非常に飼ひ易いから百圓が五十圓でも十分引合ふだらう」と愈よ樺太犬も養殖狐なみに副業飼ひが始まり相である。


『毛皮になる樺太犬(昭和8年)』

 

同時期、内地では犬革(加工革)の統制が犬皮(原料皮)へ拡大されようとしていました。

昭和18年に南樺太が内地編入された頃には、戦況も次第に悪化。昭和20年には樺太混成旅団を再編した第88師団が設置され、アメリカ軍の上陸作戦に備えます。

しかし南樺太へ侵攻したのは、北サハリンのソ連軍でした。

 

昭和20年8月11日、ソ連軍は南樺太への越境攻撃を開始。これに日本軍も反撃し、ポツダム宣言を受諾した8月15日以降も地上戦が継続されます。

逃げ遅れた住民の集団自決、スパイ容疑による朝鮮人労働者の虐殺など、南樺太の各地で惨劇が繰り広げられました。ソ連軍も避難民へ無差別攻撃を加え、多数の民間人が犠牲となりました。

敷香では焦土作戦がとられ、自警団の放火により市街地は焼失。避難民には犬を連れて宗谷海峡を渡る余裕もなく、先住民にいたっては避難船に乗る事すらできませんでした。

 

オタスの杜・ギリヤーク教育所の川村秀彌教諭は、戦後しばらく樺太に残留。その際、彼が研究を重ねてきたカラフト犬の記録も失われてしまいます。

こうして南樺太犬界は終焉を迎え、その存在も忘れ去られたのでした。

 

川村先生の家に灯がともっているのを見て、昔の教え子たちが立ち寄った。川村は準軍服を着て、目を閉じて畳に正座していた。
生徒たちが入っていくと、先生は深く頭を下げて、たった一言発しただけだった。

「許してくれたまえ!」と。彼の妻(※川村ナヲ)も同様に深く頭を下げるのだった。

「私はもはや先生ではない」

川村は苦渋をこめて口を開いた。

「先生というのは決して噓をついてはならないのです。私は皆に本当に罪深いことをしました。どうか一つだけ願いを聞いてください。私は日本人だが、私の人生の最後の日まで皆とともにここに残ることを許してほしいのです」
川村先生は、ようやく1947年に日本へ去っていくことになる。その本国帰還のとき、彼は国境で、オタスの先住民族の生活について書いた原稿を持ち帰ることを禁止されるのであった。

それはノート10冊以上もある18年におよぶ勤労の成果であった。

1956年12月9日、彼は黄泉の国へと旅立っていく。

 

ニコライ・ヴィシネフスキー著 小山内道子訳『オタス サハリン北方少数民族の近代史』より

 
(続く)
犬は私のうちに十六ぴきゐます。犬がながい毛をしてゐます。冬になつて風が吹くと犬がうちの中へはいつてねてゐます。
又"かんこあば"へ二人の人をのせて行きます。又"あさせ"の方へのそ(※ヌソ:犬橇)で行きます。氷がながれると氷の上で小犬があそんでゐるうちにながれて、"すしか"の方へゆくことがあります。又澤山ながれて丸木舟もながれて行くことがあります。
又なつになると犬がたべものがなくなります。そしたら海へ行つてあざらしをとつてきて、あぶらを犬にやります。
 
オタスの杜・ギリヤーク教育所5年生 上村ケサ子(本名:ケルウイック)『犬(昭和11年)』より
 
ウィルタ族のトナカイ橇や和人の馬橇が中心となりつつあった昭和11年、オタスではニヴフ族(ギリヤーク)の犬橇文化が辛くも維持されていたようですね。
しかし同年には樺太東線が敷香駅まで開通し、後に三井内川炭鉱線や日本人絹パルプ工場引込線も伸長。交通機関が整備されるにつれ、オタスの犬橇も衰退していきました。
 
海の民であるニヴフにとって、犬橇は重要な漁獲物の運搬手段でした。また、これらを餌とすることで橇犬の多頭飼いを可能としていたのです。
 
同じ統治下にあった朝鮮半島や台湾の犬界と比較して、南樺太は「北方ルートの日本犬界史」に関わる重要なエリアです。本州犬界と異質であった北海道犬界の向こう側には、更なる別世界というべき「樺太犬界」や「千島犬界」が広がっていました。
明治38年以降、北緯50度線以南が日本領となったことで南樺太犬界と北海道犬界との交流が拡大。その境界線もアヤフヤになっていきます。
昭和2年、樺太庁は敷香(ポロナイスク)近郊に「オタスの杜」を建設し、先住民族の集住と和人への同化策を進めました。観光地となったオタスで、ニヴフ古来の犬橇文化は衰退してしまいます。
 

「オタスの杜」で撮影されたニヴフの夏用住居(カウラ)。たくさんのカラフト犬が写っています。

 

【ゴールデンカムイの犬橇】

 

樺太の犬橇を調べる場合、最良の入門書となるのが野田サトル先生の『ゴールデンカムイ』です。

あの作品の主人公は北海道アイヌのアシリパさん(と杉元佐一)ですが、第141話から樺太アイヌの犬橇「ヌソ」が登場。橇犬への掛け声、カウレ(舵棒)やヌソホストー(スキー状の足板)による橇の制御、橇犬の繋留方法、過積載による橇犬への負荷(谷垣ニシパが蹴落とされてましたけど)、橇犬の飼育費が経済的負担になっていたことなど、クズリの襲撃シーンを利用しながら犬橇文化が描かれていました。

いきなり下記のような資料をあたるより、漫画で楽しく犬橇を学ぶのもよいでしょう。児童書としてはオススメできませんけど。

犬橇のことを、アイヌ語では「ノソ(ヌソ)」、オロツコ語では「オクソ」、ギリヤーク語では「オミゾクン」と謂ふ。
長さ二米半乃至三米、幅三六糎、高さ三〇糎位。樺やスケニポーニ、鯨骨、海豹の皮等でつくる。これに七八十貫の荷物を載せて、七八頭から十數頭の犬が一日の行動平均十四五里宛を疾驅しながら、數時間の休養と少量の食物によつて翌日は又、同じぐらゐの行程を繼續して、毫も疲勞を見せないのである。急を要する時は一日二十五里から三十里近くも疾走することも亦罕ではない。
宿泊所一つない結氷海上の長距離を行くには、食物を求めてチユンドラ地帶から次のチユンドラ地帶まで、死物狂ひで疾駆する馴鹿(トナカイ)橇と共に、北國にはなくてはならぬ大切な交通機關であらう。
橇犬の使ひ盛りは十二歳から八歳位までゞ、老衰して役に立たなくなると、撲殺して毛皮や肉を利用する。橇犬としての訓練を施すのは、大がい五六ヶ月頃からで、その中の成績の良好なものをやがて先導犬に仕立てる。先導犬は必ずしも强大なものとは限らぬが、一群中最も利口なもので、よく主人の命令を聞き分け、萬一、列を紊したり、言ふことを利かぬものがあつたりすると、威嚇して主命に從はしめる。それ故、何處の家でも先導犬を仕立てるには、非常な苦心を要し、どんなに所望されてもよき代りが出來るまでは、絶對に他人には譲らないのである。
 
日本犬保存会 秦一郎『樺太犬私見(昭和11年)』より

 

『ゴールデンカムイ』で特筆すべきなのが、樺太南部に上陸した鯉登少尉たちは樺太アイヌの犬橇を、ロシア国境の北緯50度線を突破するキロランケたちはウィルタ族のトナカイ橇を用いていたこと。各地域の民族ごとに犬橇文化とトナカイ橇文化に分かれていた事実を、きちんと表現していたワケです。

樺太先住民の橇は冬期の生活手段であり、その動力となる犬やトナカイは貴重な財産でした。スチェンカの代償に先導犬(イソホ・セタ)を盗まれてエノノカが狼狽していたのは、優秀な橇犬がとても高価だったからです。

 

北海道へ帰還する前、尾形と月島軍曹を治療するため立ち寄ったのがニヴフ族の集落。漫画ではひとコマだけニヴフの犬が登場していましたが、もともと樺太の犬橇文化はニヴフ族をルーツとしています。

北海道アイヌには存在しない犬橇文化や犬への宗教観を樺太アイヌがもっているのは、樺太進出の過程でニヴフの文化を採り入れたたため。

つまり、樺太の犬橇文化はアイヌではなくニヴフを軸に語るべきでしょう。

 
間宮林蔵が『北蝦夷圖説』で伝えたニヴフの犬橇(シカリ)と履板(ハラシー)
 
【ニヴフの犬橇文化】
 
明治時代の日本には西洋式の動物愛護観が持ち込まれ、ペットや鳥猟犬として洋犬が大流行し、「愛犬家」という言葉も一般化します。
しかし近代日本において、犬との結びつきが最も強かった人々は南樺太のニヴフ族でした。独自の使役犬文化をもち、愛玩犬としてはもちろん、犬橇用の荷役獣として、宗教的な存在として、更には肉や毛皮まで余すところなく利用していました。
その飼育訓練技術も江戸時代までは和人を凌駕しており、犬橇に特化した品種改良が重ねられます。こうして誕生したのがカラフト犬でした。
 
産業また漁獵を勤め交易を事とす。且亦犬を伴ふ事南方のごとくにて尤甚し(ヲロツコ夷に異り)。
貧富の者に論なく、家〃是を飼ざる者なく、其恵養の厚き事亦南方に倍せり。
一家の内男女の論なく各犬を養ひ、是ハ家翁の犬、彼は老嫗の狗、嫡子の犬、二男の狗など称して、各三頭、五頭を養ふ故に一家の養ふところといへども、其數許多なり。その用ゆる所は初島の所用に異なることなし。
 
(現代語訳)樺太東海岸のニヴフの主要産業は漁獲物の交易である。ウィルタと違い、樺太南部のアイヌ以上に犬を活用している。
貧富の差にかかわらず犬を飼わない家はなく、それを大切にすることも樺太南部以上である。一家は男女の区別なくそれぞれ犬を飼い、「これは祖父の犬」「これは祖母の犬」「長男の犬」「次男の犬」などと言って各人が3~5頭の犬を飼うため、家庭での飼育頭数も多くなる。
その用途は樺太アイヌと同じである。
 
間宮林蔵『北蝦夷圖説巻之四 スメレンクル夷の部』より
 

カラフト犬とともに船で移住する樺太先住民

 
蝦夷地の隣に「樺太」という土地があることは、日本人も古くから認識していました。樺太探索はロシアや松前藩が1700年代から始めており、次第にその実態が明らかにされていきました。樺太南部にもアイヌ民族が住んでおり、北部にはニヴフやウィルタといった先住民族が混在。それぞれの民族が独自の文化を有していたのです。
 
文化5年(1808年)、松田傳十郎とともに樺太探索を命じられたのが幕府御庭番の間宮林蔵。日本、ロシア、清国は樺太の価値をはかりかねていましたが、文化露寇(ロシアによる樺太襲撃)が起きたことで幕府も本格的な調査に踏み切ったのです。
二度目の樺太探索において、林蔵は「樺太北部の民族は恐ろしい」と制止するアイヌを振り切って北上を強行。樺太が島であることを確認しました。
 
間宮林蔵が樺太北部で遭遇したのは、アイヌが「スメレンクル(東海岸居住民)」や「ニクブン(西海岸居住民)」、ロシア人が「ギリヤーク」と呼ぶ民族。
彼らは自らを「ニヴフ」と名乗っていました。
江戸にもどった間宮林蔵の証言は、口述筆記を担当する村上貞助によって『北夷分界余話(1811年)』として纏められます(村上青年は、間宮林蔵が語る「北蝦夷島」を「蝦夷地と間違えないように」という理由でカラフト表記としていました)。
同書ではスメレンクルの犬橇文化についても詳細に記されており、その正確性は100年以上後の調査資料と内容に矛盾がないほどです。今回は、その写本である『北蝦夷圖説』をもとにニヴフの犬橇文化を解説していきましょう。
※『北蝦夷圖説』における犬の解説は、間宮林蔵が同行した松田傳十郎も『北夷談』にて同じ内容を転載しています。

こちらが安政2年に出版された北蝦夷圖説(全4巻)。ボーナスはたいて購入した後、安価な復刻本が出版されていたことに気づきました。
 
奥地夷圖(一巻より)
間宮林蔵は犬と共に暮らすスメレンクル(ニヴフ)の姿を伝えています。
 
一、此島の夷生産の第一事となすものは犬なり。貧賎の夷は其失費に堪ざれば是を養ふことあたはざれども、富貴の者ハ家に是を置きざるものなし。

一、一家養ふところの犬、大抵五、六頭より十二、三頭に至る(是其用をなす者此他牡犬児犬の類絆養せざるもの猶多し)。其平生飼置所ハ圖のごとく庭砌に木を建て横木を結び一犬毎に是を繋ぎ漫行せざらしむ。

若其犬大病するか又は精氣の虚脱せしものは繩を解て随意ならしむ。厳冬積雪の時に至といへども皆かくの如く別に窂を設くることを見ず。
一、犬をして食飼せしむる事詳なることを知らずといへども、大抵一日中一、二度なるべし。生魚の肉を食せしめず。煮熟志てニマムと称せる木器に盛り、二、三犬をして同食せしむ。然れども犬を放つて自ら食せしむることなし。其時ハ夷自ら絆繩を解き、是を曳て食物の所に至り、食し終るの間杖を以て其後に立、其奪食咬嚙する者は撻(むちうつ)て、忘陵のことならかしむ。
一、犬児を養ふ事繩を以て繋ぐこと初のごとく、食餌も又同じといへども、魚骨を去り、肉のみ小く裂て、是を食せしむ。
一、此他大犬、小犬に限らず、撫育の懇至なること枚擧すべからず。實に小児を養育するが如し。故に犬の夷を慕ふことも亦嬰児の母を慕ふがごとく、晝夜其側を離るゝことなく、夷等出行する時は、其前後必兩三頭を從へ、夜は夷等の側に伏し、椀中の物を分て是を喰しめなどする様は、實に禽獸と同居するものと云べし。児夷の嬉戯多く犬を弄し、圖の如く人の児を負ふごとく衣中に入れて是を負ふ。犬児も亦晏然として衣中にあり。是亦愛育の状を察するに足れり。
一、児犬漸に長じて後其猾猛なる者を撰て家狗となし、其懦弱(じゅじゃく)にして用に堪ざるもの、或は牝犬の小懦にして乳せしむべからざるものは、悉く縊り殺て其皮を取り肉を喰ふ。
 
 
二巻の畜犬圖には、橇犬を繋留する犬竿(カヌン・イクル)が描かれています。樺太アイヌも同型の犬竿(セタ・クマ)を用いており、樺太庁博物館の山本祐弘館長によって紹介されました。
 
樺太アイヌはサハ・チセ(夏の家)の南側、日當りの良いところに一般に犬を繋ぐ竿を設けた。白濱、多蘭泊共に設置したことを古老は謂つてゐる。
昔は犬橇を物持ちの家では大抵所有してゐて、この橇を曳くため數頭の樺太犬を日頃飼育してゐた。白雪中に埋れて過ぎる半年は犬橇を利用して交通、運輸の具とした。
この役犬(※荷役犬のこと)として、樺太犬は最も適したものである。樺太の酷寒や雪中に易し粗食に耐へ、然も橇曳犬としての體形、性能を具備してゐる。
 
 
この犬を飼育するため犬繋竿が設けられた。北海道にはこの設備は稀である。智來、新問はこの竿を設けず玄關内に飼育した。
一般にこの設備は犬橇と相俟つて樺太の住居に附属した特有の構築である。
これを白濱ではセタ・クマ(seta kuma「犬・竿」)といひ、多蘭泊ではセタ・コホ・ニ seta-kox-ni(<seta kot ni「犬・繋がる・木」)といつてゐる。構棒を兩端で土中に掘立てた又木によつて受けた簡單なものである。圖35は白濱で故老よりの聴き書である。竿の大小は犬の頭數によつて色々ある。
又木の一方を稍々長くし、それに各々幣(inau)をつけるのが慣しである。普通橇曳用のため犬は十數頭要する。それ故に犬を多く繋ぐ場合には横木を長くし、この又木の横木受を三木にすることもある。
 
山本祐弘『建築新書・10 樺太アイヌの住居(昭和18年)』より
 

畜犬圖に描かれた牡犬の去勢法(二巻)
 
「家畜を品種改良する」という概念がない和人には去勢の知識もなく、明治政府の馬匹改良政策も日露戦争まで停滞する有様でした。
いっぽう、ニヴフは犬の去勢技術を有していました。優れた橇犬を交配淘汰する外、犬橇チームを制御するうえで闘争性を抑え、餌の量を少なくする効果があったといいます(同じ目的で舌骨の除去手術もおこなわれていました)。
 
一、犬児漸に長じて後甚しき淫犬は、悉く陰嚢を破りてその陰卵を取去る。是其妄淫を禁じ、其筋骨を強くせしむると云ふ。
一、陰卵を去るの方圖の如く、犬の四足を木に束縛し、又縄を以て其口喙を巻き、兩三の夷是を擁して、動揺跋躍せざらしめ、一夷刀を以て陰嚢を裂き其陰卵を取出して是を去り、直に縄を解きて是を放つに、犬痛傷の趣なく、暫時其刀痕を嘗め、忽然として走り去る。其後常に異ることなし。
然れども妄りに是を去るにあらず。天時を考へ、其狗の生質を按じて是をなす。若其裁割の術拙なる時ハ即死する者あり。故に此事に熟練せざるの夷は是をなすことを得ず。林藏其詳なることを聞ざれば、其方を陳ぶることを得ず。
 

間宮宗倫の樺太探検記『北蝦夷圖説(安政2年)』で描かれたニヴフの犬橇。彼らの犬橇文化は樺太アイヌへ伝播していきました
 
其用ふるところは艝(そり)を挽しむるを第一とし、又舟を牽しめ、山獵を助く。艝船ともに其馭法大に巧拙ありて、拙なるものは漸く四、五疋(ひき)の犬を用ひ、巧なるものは八、九疋十餘疋といへども是を馭す。此島の犬を見るに其性本邦の犬と異るが如くにして、物を挽くことを悦ぶの情ありと云。
艝舟に限らず、挽しめむと欲する時は、圖の如く先犬を連繋して立木に繋ぎ置き(牝牡に論なく綱をつくる時は忽ち前行して挽曳す。故に三、四頭を連繋する時ハ一、二人の力を以て留べからず。故に木に絆す)装するの内既に連挽すること頻りにして、聲を發し跋躍す。
装成て植木の繩を解を待ずして馳出すこと矢の如く、一艝七、八頭をして挽しむる時ハ一日中十七、八里を馳すべし。
 
 
 
一、馭術は圖の如く、兩手に木杖を持して艝(そり)の上に跨居し、犬差(やや)馳傍行する時は、トウ〃と云聲を發し、艝觸るゝ處ある時は、杖を地中に刺して是を留む。地勢中に云し如くなる海岸の冰(こおり)を馳驅することなるに、碎氷また其上に磊々とし轉びたれば艝常に動揺すること甚し。故に暫時の間も目を放ち、心を安ずるのひまなし。
一度其馳を誤る時ハ、艝忽ちに轉覆して其身雪中に投じ、冰上に傷るゝのみならず、艝は何地へか引行き、幸に木の根岩角などありて、其艝轉滯して、如何程に引といへども、行くべからざることあるにあらざれバ、留ることなし。
其幸にして留りたるも艝は悉くやぶれ、積むところの物は總て破却し、縄は衆犬の足にまとひ、漸にして追付、其處に至り得るとはいへども、是を修理すること容易のことにあらず、林藏時々犬を馭してみづから此艱苦を知ると云。
一、舟を挽しむるも亦、大抵斯如といへども、其心を勞すること頗少しといふ。
一、多力猾猛なるものにして、能挽曳のことに馴れたる犬を連頭に置て挽しむ。是を名付て前導犬(イシヲセタ)と称す。島夷此犬を撰むことを専務とす。此犬あしき時は、衆犬情逸して其用をなさず。故に是を交易することあるに、其價大抵斧一、二頭より、高價の者は五、六梃に至る。
一、島夷は近所に行といへども、もたらすところの雜器ある時は、悉く艝に積て犬をして是を挽しむ。其道近き時は児犬牝犬に論なく、更に犬を撰むことなし。犬弱く路難ふして挽得ざる所は、夷等助け引て其所に至る。
一、山獵に用ゆる時は、能猛獸と戰ひ、深山幽谷に入て諸獸を追出し、夷等の助となること枚擧するに遑あらず。
一、家狗の病みて死するものは、只其皮を取のみにして其肉をくらはず。
 
ご近所用の犬橇。長距離の輸送から集落近郊の配送まで、用途にあわせて橇犬の数も変更されていました。
 
日本とロシアの樺太争奪戦が本格化すると共に、先住民族の暮らしは変貌しはじめました。
まず千島アイヌには正教が布教され、毛皮税徴収のための「ロシア化」が進められます。明治8年の樺太・千島交換条約によって、日本国籍を選んだ樺太アイヌと千島アイヌは北海道と色丹島へ移住させられました。
ニヴフやウィルタに対しては、昭和2年に樺太庁が「オタスの杜」への集住策をスタート。このような強制移住によって先住民は住み慣れた土地と断絶され、同化策によって古来の風習も廃れていきました。
 
帝國ノ犬達-ギリヤーク
ニヴフの集落とカラフト犬(『樺太犬私見』より)

 

他に類似の民族なく、全然孤立した言語等を構成してゐるギリヤークは、黒龍江の下流に住んでゐる南方ツングース族ゴリドと共に由來使役犬族と謂はれ、常に犬と起居を與にしてゐる特異な民族で、犬を操縦することがアイヌと同じやうに先天的に巧妙である。
そして恰度アイヌが神の使者(アペフチカムイ)として可愛いがつてゐる熊の仔を殺して之を祭るやうに、萬一家族の者に重病人があると、彼等の信奉するシヤーマンの神のお告によつて、その身代りに自分達の一番可愛いがつてゐる犬を殺し、その頭骨を木の枝に曝らして祭る習慣がある。
これは犬を自分達よりはるかに傑れた能力あるもの、神通力さへ持つてゐるものとして崇める精神から出たもの(秦一郎)


帝國ノ犬達-ギリヤーク

病気治癒のため、身代わりとして捧げられたカラフト犬の頭骨(『樺太犬私見』より)
 
ニヴフには犬を魔除けとする風習がありました。葬儀、病気療養祈願、自宅の新築、縁起の悪いとされる行為があった際などに、犬を殺して魔除けとしたのです。
 
南カラフトのわが領土に住んでいたギリヤークのなかでも、敷香附近の者は、死者があると火葬にしないで埋葬していたが、そのときは死体のそばに犬を殺して副葬した。
この犬は死者の家族でない他人が撲殺することになっていた。また家人が重い病気になると、その平癒のまじないとして犬を殺すことがあった。
ギリヤークは北方の諸民族と同様に熊祭りをする。これはアイヌとおなじく生けどった子熊を飼育しておき、明け三歳になって盛大な祭をしてこれを殺す。
殺した熊には神の国へ帰る土産物として犬を殺して供える。このとき熊に対して祈りの言葉をささげる。
「今までに行届いた飼い方もしなかったがいよいよお前を神様のもとに送りかえすのだ。この後もギリヤークのところに熊を沢山つかわしてもらいたい。
お前には贈り物として犬を持たせてやる。神様のもとに行ったら、この犬は自分たちからもらってきたと伝え�てほしい」というのである。この贈り物にする犬は多くは黒犬を用いるが、熊祭りをする主家の犬ではなくて、隣人の飼った犬か、あるいは来客がくれる犬に限られている。
この犬を殺すのには、熊祭りで熊を殺してからその熊の頭を東に向けて寝かせ、そこで皮ひもで犬を絞殺する習慣になっている。
殺した犬には柳で作った削りかけの幣(ナウ)をつけてていねいに取扱い、熊祭りの後に神々に満足をあたえるため一定の方式にしたがって解体する。
 
犬飼哲夫『カラフト犬の起源と習俗(昭和57年)』より

何かにつけて犬を生贄に捧げるのは、犬に特別な力があると信じられていたためです。手当たり次第に犬を犠牲にしていたのではなく、「この犬の肉は神の供物として皆で食い、骨は全部あつめて庭に作った一メートル四方ほどの木の枝の囲(ナフ)の中におさめる(犬飼哲夫)」とあるように、すべて厳格な儀式にのっとっていました。
似たような信仰は樺太アイヌ、そして遥か南方の台湾山岳民族でも見られます。
 
魔除け
これは犬を殺してその新血をもつて新家の桁内側に各々三ヶ所宛塗ることである。これに就いては本文中に一言觸れて置いた。
その方法は殺した犬の血をニパポ nipapo「木の食椀」に受ける。別に気を削つて作つた木屑を束ね、これをニパポの血に浸して圖2の如き形を桁上に描く。圖2のロの如く三ヶ所へ塗るから、家を圍む四桁で十二の眞赤な模様が新しい木肌の上に生々しく描かれる。圖2のイは血の形象を白川氏が自ら畫き私に示したものである。
 
 
この模様そのものゝ意義、呼稱は同氏及コタンの古老も既に忘れてしまつてゐる。
アイヌは犬の血を斯様に塗ることによつて家の魔除けとなるのだと云ふ。犬は牡、牝何れでもよく、屠殺後にはその頭骨を、家裏の幣のそばへ突き建てた先が叉になつてゐる木の一方の叉にかけておく。
これは犬の靈がこゝから天の神の國へ歸つて行くとアイヌは考へてゐるからである。この木をケヨッニ(kejoxni)と云ひ、上部の叉の部分が一方長く、他方が短い。この長い方へ幣をつける。
その際、殺した犬が牡であればこの木を蝦夷松で作り、牝の場合は椴松で作る。アイヌは蝦夷松を男、椴松を女の木としてゐるからである。尚その日の行事がすべて終ればこの殺した犬の肉を煮て村人に御馳走するのが習はしである。
 

山本祐弘『樺太アイヌの住居(昭和18年)』より

 

臺灣ツオウ族フルト社蕃の迷信に、犬が屋内で遠吠えすると家族が病死する兆だとて、首をしめて殺し、之を棄てると云ふ極端なのがあるそうだ。
しかし、文明の風は此の蕃界にも及んで、今日では一日だけ外へ追ひ出すに止め、首を締めることはやらぬと云ふ。

岡田謙(昭和11年)

 

近代化の影響を受けつつ、長い年月をかけて完成されたニヴフの犬橇文化は昭和期まで維持されました。

後期にあたる昭和11年の運用法は下記のとおり。

 

犬橇の編成法は、個人や土俗によつて異なるが、普通一列縦隊もしくは二列縦隊に竝べるのが最も有効であるらしい。之を曳くには馴鹿や海豹の皮で作つた革紐で犬の頸に繋ぎ、之を一々背中に通して橇に結びつける。
別にその順序には犬の性別や年齢等は關係しないが、自らそこに整然たる順序があつて、一番利口な奴が先頭に立ち、後はその利口さ、訓練の程度によつてきまる。先頭から橇までの距離は大がい十八尺から二十尺ぐらゐであり、最後の犬との距離は九尺から十尺ぐらゐのところにあるので、十頭あまりの犬が一つのチームを作つてゐる時には、犬と犬とは殆どくつつき合ふので、時には犬同士嚙み合ひを始めることもあるが、操縦者は一本の長い鞭で巧みに之を捌くのである。熟練の結果はこれと思ふ犬の背中に鞭を加へて懲戒することも困難ではない(秦一郎)
 

一般的なニヴフの犬橇(大正8年)

 
樺太に於けるギリヤークの命令語は次のやうである。
TooToo! 走レ!
Kai! 右ヘ!
Choi! 左ヘ!
PeraPera! 止レ!
これが更に轉訛して同じ島内でも多少の相違を來してゐるやうである。
進メ=ドウドウ(もしくはトト)
右へ=カイ
左へ=チヨイ
止レ=ラ(もしくはプレプレ)
單純な命令語ではあるが、それらの言葉を先導犬はよく聞き分けて、絶對に誤ることはない。若し前方に何か氷の割目とか、危險物があると先導犬は鼻を下にすりつけて嗅ぎ分け、危險を知らせる。
スピードを出してゐる時は、操縦者は二本の棹で巧みに左右の調子をとりながら進む。さうしないと轉覆する虞れがあるからだ(秦一郎)
 
【ウィルタと犬】
 
幌内川上流域におけるウィルタ族のトナカイ橇(ナリタ)
 
漁民であるニヴフ族と違い、遊牧民のウィルタ族(オロッコ)はトナカイを家畜としていました。トナカイを脅えさせる犬は自然と飼育が敬遠され、ニヴフやアイヌとは対照的に犬との関係は希薄だったようです。
樺太のトナカイ文化も興味深いのですが、日本人にとってのトナカイは「サンタさんが飼っている鹿」「あはははーっ!!こいつトナカイ信じてるよ!!」程度の認識であり、犬のブログとしてもトナカイ関係を掘り下げる気は一切ありません。
ちなみにウィルタの馴鹿文化とニヴフの畜犬文化の差異については、江戸時代から記録されていました。人に馴れるでっかい鹿を初めて見た和人は驚愕し、物珍し気に観察するうちニヴフとの違いに気づいたのでしょう。
 
此入江より枝流有りてテツカ(川名)と云。此川筋にヲロツコ人住居。風俗はスメレングル(ニヴフ)に同じ。所業大いに替る事多。
スメレングルは犬を養ひ、ヲロツコ人はトナカイと云獸を仕ひ、いづ方へ往返するにも此獸に荷物を附け、乘行也。
大い成る事本邦の馬のごとし。兩角有りて其形ちおそろしく見へ、角は鹿の通のごとくにて、猶小俣有り。飼置く處至て柔和にして無事也。傳十郎是に乘りて通行してこゝろ見し事也。
 
松田傳十郎『北夷談』より
 
一、生産の事。漁獵の態、総て南方初島に異ることなし。只犬を養はずしてトナカイ獣をつかふ。是初島に異るところなり。
貧者によつて其數多少有のみにして、大抵家毎に此獣を養はざる者なし。富貴なる者は凡拾二、三頭を養ふ。初夏より秋末に至るの間は、野間に放養し、冬月に至り草葉枯盡す時は、山に入つて松蘿を食せしむ。
一、夷遷移するごとに、諸雜器或ハ漁獵の皆具悉く此獣に約して、至る所に運送す。故に終歳此獣なかるべからず。是を以て恵養惰(おこた)ることなし。
一、此獸性軟柔にして、犬を恐る。故に使犬の夷落に入て、居を同うすることを得ず。
 
間宮林蔵『北蝦夷圖説 ヲロツコ夷の部』より
 
此夕、土人等は弓箭を持て出で、程なく馴鹿一頭を荷ひ歸り、直ちに屠りて振舞ふ。鹿肉より硬き様に覺ゆ。ニクブン人は好みて喰けるも、ヲロツコ人は喰はず。
其故を問へば、彼等は常に馴鹿を使役するが故に誓つて喰はずと(嘉永7年 鈴木重尚)

 

帝國ノ犬達-m16
ウィルタ族のアウンダウ(冬季住居)とカラフト犬
 
南樺太の時代になっても、行政的に放置状態だったことで民族ごとの文化は維持されます。昭和2年にはオタスの杜への集住策が進められ、「トナカイ王」ことヤクート人のドミトリー・ヴィノクーロフが亡命してきた後はトナカイ橇文化も隆盛しました。
 

オロチヨン人は馴鹿の飼養が大主眼であるから、其の住所の如きも常に馴鹿の便宜に因つて一定しない。
元來馴鹿はツンドラ帶に生ずる苔を以て重なる食料として居るから、彼等も亦自然此の濕潤なツンドラの附近に遊牧する。然るに夏期になると馴鹿には猛烈なる蚊群が集るので、若し此の蚊群に着かれると馴鹿の困難は云ふまでもなく、是が爲めに馴鹿の皮に孔が出來て之を種々の製作物にするにも非常に不便である。
随つて彼等は夏期になると越年中に住居して居た部落を去つて海岸に移ると云ふ様な事になる。
だから彼等の家屋は永久的の者ではなく、柳又は松の木を骨にして之に樹皮又は獸皮を巻く天幕式の者である。オロチヨン人の器具と云ふが如きも至つて簡單な者で、銛、獨木舟(まるきぶね)、橇及び鐵砲や槍は其の重なる者である。
馴鹿はオロチヨン人に取つては最も必要な家畜で、彼等は冬季之に乗り、又は橇を曳かせ、皮は衣服や靴や其の他の物を作り、肉は之を食ひ、丁度露人に於ける牛、アイヌに於ける犬よりも大切な者である。
だから彼等の財産とも云ふべき者は馴鹿の數と馴鹿の皮で拵えた革箱の數に因つて定められるのである。

 

西田源蔵『樺太風土記(大正元年)』より

 

長根(※建築技師の長根助八)は1925年にウイルタの人口を全部で81戸、670人と記述している。ニブフは、彼が数えたところでは当時100人以下であった。

オタスのニブフとウイルタの食べ物も違っていた。ニブフは日本人同様、大量のお米を消費したが、ウイルタの場合、基本的な食物は、トナカイとアザラシの肉だった。また、ニブフは農業を行った。しかし、それにもかかわらず食物は野菜を用いない単調なものだった。夏には大量にギョウジャニンニク(ラムソン)を食べた。ビタミン不足はしばしば結核罹病者を増大させ、幼児の死亡率を高めた。出生率は高かったが、集落住民の数は伸びなかった(1941年にオタスには92家族、全部で425人が住んでいた)。

どの家でも独特のサハリン種の犬を飼っていた。この種の犬は酷寒も平気だった。人の食べ残しやトナカイの骨、魚、アザラシなどを与えた。
冬期には橇につけ、引かせた。犬たちは自力で行き来し、荷を運んだ。住民の中にはトナカイを飼育している者もいた。猟に使ったり、商品として売ったり、物々交換のためである(例えば、数頭のトナカイで銀の耳飾りと交換した)。もし若い男が誰かの娘に結婚を申し込んだら、必ず家の娘に橇をつけてトナカイか犬を贈らなければならないのだった。

 

ニコライ・ヴィシネフスキー著 小山内道子訳『オタス サハリン北方少数民族の近代史』より

 

ニヴフの犬橇文化は次第に変化し、大正期にはウィルタのトナカイ橇文化と交じり合うようになりました。トナカイ橇にも適応していったニヴフですが、オタス移住後の昭和期は使い慣れた犬橇へ回帰したそうです。

 

ギリヤーク人の衣服は、冷えて、湿めつぽく、それに非常に變り易い氣候によく合つてゐる。夏は青い支邦木綿か、綿布で作つたシャツに、同じ半ズボンをはき、肩にはいつも萬一の用意に、膃肭獸(オットセイ)か犬の皮でこしらへた短い外套か、ジャケツを投げかけてゐる。
足には毛皮の長靴をはき、冬は毛皮のズボンをはく。一ばん暖かい服でさへも、狩獵の時や犬を連れて乗り廻す際の敏捷な行動を妨げないやうに、裁たれ、縫はれてゐる。
クルゼンシュタインは、八五年前に、はでな絹の「澤山花模様の刺繍のある」服を着たギリヤーク人を見かけてゐるが、今では、そんな伊達男は、サハリン中を提燈さげて探しても、恐らく見つからないであらう。

ギリヤーク人は一般に顴骨(けんこつ)高く、顔は多骨形で鬚は多く、一見してオロチヨン人とは區別する事が出來る。彼等は髪を中央に於て分け、後の方に短い辮髪を垂れる。而して婦人は後の方で髪を結んで居る。
家屋はオロチヨン人とは稍々趣きを異にして永久的の建物を作り、即ち丸太又は木の皮を用ひて居る。
然し其の他の習慣は此の頃になつて餘程オロチヨン人に接近し、彼等が以前飼はなかつた馴鹿の如き者も今は頻りに飼ふ様になつて居る(西田源蔵)

 

「ニヴフとウィルタの文化が混在していった」とある一方で、戦時中になっても民族ごとにカラフト犬が棲み分けていたという証言もあります。

先住民をコントロールするための「オタスの杜」は次第に観光地化し、ニヴフやウィルタの文化も観光資源化することで保存されました。良くも悪くも、当時はそのような状況だったのです。

 

オタス観光を旅行記として発表したのが、作家の生田花世。

昭和15年に南樺太を訪れた彼女は、豊原の「バケツ位の顔をした大犬」、元泊郡の「毛の長く深い、獅子のような犬」、オタスの「キツネのような犬」を目撃しました。「川一つ隔てただけで、犬の族まで事変わっていた」とあるように、同じ地域でも全く違う犬種が分布していたのでしょう。

東京の小説家にカラフト犬が識別できるのか?と思われるかもしれませんが、四国出身の彼女は土佐闘犬を愛育し、ペット雑誌にも犬のエッセイを寄稿するほどの愛犬家でした。その視点で現地のカラフト犬を見聞した記録は、とても貴重なのです。

 

樺太の次の町、落合といふところ、そこで驛から宿泊する王子製紙の甲倶樂部まで乗つた馬車は快走だつた。同好の歌人、北見志保子さんは叫んだ。

「あの馬、よろこんでゐる!」

私たちをつれてゆくのがうれしいと、馬が喜んでいるといふのだが、随分、自己中心の事ながら、さうも見られた。もし、これが、犬であつても、同じ事だつたらうとおもふ。北では、犬でも、馬でも、いぢけた點がなかつた。

オホツク海を東に、車走すること十何里、眞縫山道(昔、間宮林蔵も、岡本監輔も、十八年まへ、私の先輩の詩人、三石勝五郎もこの道をこえた)へ入る地點の白浦を見、突阻山の山麓をすぎ、有名な小沼の養狐場町を左に、知取につき、私たちは、又、ここの犬を見た。

何れも毛の長く深い、獅子のやうな犬たちであつた。

氷下魚のすむ幌内川の濁流を見て私たちはソ聯カラフトの空をのぞんだ。何と近い事であらう。そこなので、飛行機を要しない。それなのに、ソ聯でも、飛行機が居るらしい。

オタスの森は皇恩に浴するギリヤーク族、オロツコ族のすみどころである。そこが、平らかな河水の上に、はるかに眺められた。私たちは、河を渡つた。ソ聯に、水源のあるこの幌内川と、隣りのチヨロナイ川とは、馴鹿が水をのむのだ。

オタスの森の人たちの飼つてゐる犬は、狐のやうな犬であつた。私は、これを意外に思つた。もはや、川一つへだてただけで、犬の族まで事かはつてゐたのである。バケツ位の顔をした大犬は、一頭もゐなかつたのである。

狐のやうなオタスの森の犬たちは可愛げでなかつたので、○人の子の頭はなでたが、犬の頭をなでる氣がしなかつた。これらの犬は、木の下につながれてゐる馴鹿たちの番犬の役をしてゐるのであつた。

 

生田花世『樺太犬族(昭和15年)』より 

 
生田さんが訪問してから5年後、ソ連軍の南樺太侵攻を受けて敷香の町は放棄されます。北海道へ避難した和人が戻ることはなく、オタスにはソ連のコンビナートが建設され、先住民たちも散り散りになってしまいました。
敗戦時、彼らのカラフト犬はどうなってしまったのでしょうか?
日本に皇民化を強要された南樺太と同じく、ソ連領サハリンの先住民も「ロシア化」「共産化」を迫られました。日本とロシア/ソ連によって先住民族の文化は衰退し、やがてカラフト犬の消滅へとつながってゆくのです。
 
(次回へ続く)
 

彼は私の船がいるのを聞いて、ひそかに村を出、丘を越えて船にやってきた。彼は日本語を相当上手に話せたし、英語も多少話した。
彼は私に彼らの深い悲しみと、みんながどんなに昔の家に戻ることを望んでいるかを訴え、悲痛な次の言葉で話を終えた。
「シコタン(※色丹島)よくない。ウシシル(※宇志知島)よい。トドたくさん、ラッコたくさん、オットセイたくさん、鳥たくさん、シコタン何もない、シコタン何もない」
彼が来船後、しばらくして五、六人の乗った小船が湾に入って来るのが見えた。彼は一行を見て、探しにやってきたのに違いないから、立ち去るまで隠してくれと頼んだので前甲板の水夫室に入れた。
小船に乗った人々は来船したが、短かい時間いただけで、私たちの友人、千島アイヌのことはたずねも探しもせずに去った。

 

H・J・スノー著 馬場侑・大久保義昭訳『千島列島黎明記』より

 

【千島アイヌの犬たち】

 

さて、謎多き「北海道犬の歴史」「カラフト犬の歴史」には更なる謎のエリアが存在します。それが、カムチャツカ半島から北海道を結ぶ千島列島。

厳しい気候ながら豊かな海の幸を得られる千島列島には、まずオホーツク文化人が定住。15世紀頃からアイヌが進出し、「千島アイヌ」として独自の文化を構築しました。

 

酷寒ゆえ農業には適せず、農業がダメなので畜産も小規模、林業は船の運搬費だけで赤字、鉱業としては硫黄が採掘される程度。千島列島の主要産業は漁業であり、海鳥、海獣(ラッコやオットセイ)、陸生動物(ヒグマや狐)などの毛皮が高値で売買されていました。
その毛皮を入手するため、松前藩や帝政ロシアが千島列島へ進出したのは1700年代のことです。

千島のアイヌからラッコ毛皮が松前藩に献上されたのは1615年のこと。1711年、占守島に上陸したアンツィフェーロフはアイヌとイテリメンに毛皮税を強要しますが、抵抗を受けて失敗します(1741年、アラスカへ到達したヴィトゥス・ベーリングも、千島の測量を計画していました)。

1749年には占守島にロシア語学校が開設され、アイヌに対するキリスト教の布教をスタート。正教への信仰が深まった1766年、千島アイヌにロシア国籍を与えて毛皮税を課すようになりました。

1770年代はロシアの圧政に対する武装蜂起、松前藩との交易中止など千島アイヌの抵抗運動が相次いだものの、「ロシア化」は否応なくおし進められました。

 

不潔さと強烈な酒への渇望と日本人への恐怖と言語以外は、南の同族(※北海道アイヌ)とは共通していなかったし、衣類、住居、武器その他はまったく異なっていたが、これは手に入る原材料が南部のアイヌのそれと異なる事実によるものであった。
彼らの古いアイヌの風習も、キリスト教に帰依した時にロシア僧侶の教唆によって、廃棄された。私は今日まで彫刻したマキリ(小刀)の木鞘や家庭用道具や、南のアイヌによって使われてる独特の鮭を突く槍(マレック)や魚三叉を見たこともなかったし、南では一般的な熊祭りや踊り、あるいは飲酒の際、箸をもってひげを上げる風習も目撃しなかった(H.J.スノー)

 

外部勢力の影響を受け続けた結果、当時の千島アイヌがどのような犬を飼っていたのかはよく分かりません。「コタンの長は熊、アザラシ、犬などの毛皮をまとい、他は羽毛や植物繊維の服を着ていた(休明光記)」とあるので、千島に在来犬がいたのは確かです。

いっぽう北海道に近い北方四島は道北アイヌの文化圏であり、犬橇の記録は見られません。明治25年の『千島探檢實紀』では、多羅尾忠郎が「アイヌの冬季旅行具」として鮭皮製のケリ(雪靴)とテシマ(かんじき)を記している程度です。

北海道アイヌの猟犬、樺太アイヌの橇犬に対し、千島アイヌはどんな犬を飼っていたのでしょうか?少なくとも、カムチャツカ半島の犬橇文化は北方四島の北海道アイヌに広まらなかったようです。

 

アイヌの北方起源説を人に納得させるものは、ほとんどあるいはまったくと言っていいほど存在しない。
実際、かなり多くの否定的証拠があり、彼らが北方民族でなかったことを示すに足るものと私は思う。アイヌは北方民族特有の風習、器具、武器、ボートその他を持っていない。
酷しい気候に住む原始民族の特徴としては、全部とは言えないが―例えばなまの食物や油や鯨の脂肪への嗜好、犬橇の使用、雪靴、皮製のボートやカヌー、セイウチの牙製の装飾具や武器、それにもっとも共通のものとしての皮や毛の衣服への利用、防寒のために造られた家屋がある。
ところがアイヌは常に食物を料理する。彼らは非常な肉食家ではあるが、油や鯨の脂肪は好まない。アイヌは犬を持っていて、冬期間は蝦夷やエトロフ島では犬橇の利用に適しているにもかかわらず犬橇を使用しない。
竹槍を現在も、少なくとも以前は使っていた。セイウチやマンモスの牙製の武器や装飾品は持っていない。もし、アイヌの起源が北方であるなら、当然これらの幾つかが保存されているか、伝えられているはずである(H.J.スノー)

 

北海道アイヌや樺太アイヌの犬については大量の記録があるのに、択捉島から北、千島アイヌの犬だけが歴史の空白となっています。

千島と同じくカムチャツカ半島から延びるアリューシャン列島は犬橇文化圏でした。ベーリング島を訪れたスノーは、アレウト族の犬橇について記しています。

 

十五日になってようやく群棲地に戻れたが、オットセイは、ほとんど残っていなかった。私たちは原住民から皮を二三五枚入手しただけであった。”賓客”の首長は、上陸するやいなや教会への誓約を果たすため、一団の犬に引き具をつけた。教会は、四〇キロメートルも離れた村ニコルスキーにあった。私たちは、アレウトの友人たちに分けてやれるだけの衣類、食糧を与えた。彼らは金は信用できない、として受け取ろうとしなかった(H.J.スノー)

 

アリューシャン列島の犬橇文化は、千島列島にも伝播した筈です。

1827年、ラッコ猟拡大をはかるロシアは100人のアウレト人を千島列島へ送り込みました(1799年に設立されたの露米会社はアレウト人を傭兵や労働力として動員しており、千島もその投入エリアだったのです)。

アレウト人移住策は数十年間続いたため、千島アイヌとの民族的・文化的な交雑が発生。

その過程でアリューシャン列島の犬が千島列島へ渡来し、在来犬へ影響を与えた可能性もあります。クリルアイランド・ボブテイル(千島産の猫)のように、もしかしたら「北海道犬界」「樺太犬界」から独立した「千島犬界」が存在したのかもしれません。

 

しかしロシアや日本が介入したことで千島列島の在来犬は姿を消し、その後は島外から持ち込まれた洋犬やカラフト犬が定着していきました。

だから、千島の犬を調べても見つかるのはラッコ密猟船のペットばかり。更に検索したらソ連KGBの国境警備犬などへ時代が走り幅跳びして、とても困っています。

 

帝國ノ犬達-PV
パトロール中のKGB国境警備隊員。制帽や肩章の緑色は国境警備軍の兵科色です(スパイ組織のKGBにとって、北方領土の国境線監視も任務のひとつでした)

 

【千島探検のはじまり】


 

明治8年に樺太・千島交換条約が締結されると、千島列島は日本領となります。新たな支配者である日本も、和人への同化策をとりました。

千島アイヌは国籍選択を迫られ、ロシア国籍を選んだ者は千島から退去。日本国籍を選んだ者も明治政府にとって親ロシア勢力(政治的ではなく宗教的な)と見做されました。監視の目が行き届かない国境で、ロシア側から隔離するため「アイヌの保護」を口実にした色丹島への移住が実施されます。

 

シュムシュ島の酋長にお茶に招かれたが、これはウシシル島、ラショワ島、その他の島では、聞いたこともない贅沢なことであった。

酋長の家は、部屋が三室あり、盆と茶碗と皿があった。同島のいい家々には、粗雑な作りだが、テーブル、椅子、棚が備えつけられ、どの家にも小さな聖壇のようなものがあった。

その上にはキリストや聖母マリアのあざやかな色彩画が置いてあり、いくつかの家にはロシア皇帝の絵があった。

彼らの財産は非常に限られていて、二、三の鍋や平鍋、多少の工具、一、二の小刀や古い先ごめ銃に多少のガラクタで全部だった。ある者は犬を飼っていたし、各部落は大概二隻あるいはそれ以上の木造船を持っている。これはごく普通の財産のようであった。これらの貧しい人々の間にさえも階層があって、ある家庭は他の家庭よりも裕福であった(H.J.スノー)

 

色丹島への移住の際、千島の在来犬たちは殺処分されてしまいました。こうして千島犬界の歴史は失われ、それを調べる手段もなくなります。

 

日本領土になった後も北千島に留っていた住民は数年間古い部落に住みついていたが、大いに悲しむべきことは、日本政府の命令でシコタン島に移動させられたことであった(一八八四年=明治十七年)。
犬は全部殺され、船は置き去りにされた。彼らは北海道に近いシコタン島の北側の小さな湾のシャコタンに移住した。村が造られ、働かされ、小さな土地を開墾するよう奨励された。飼育用に家畜や羊も提供された(H.J.スノー)

 

明治25年に千島列島を探検した笹森儀助は、国策・国益の面から千島開拓の推進を主張。
南方探検では沖縄県民の窮状を救おうとした彼ですが、北方探検では千島アイヌに対して「色丹土人は實に日本政府の厄介者なり」と断じています。「それゆえにアイヌへの支援強化で懐柔をはかり、ロシアから離反させるべきである」と。

彼らに必要だったのは、故郷の島で漁業に従事し、キリスト教を信仰することでした。しかし、これに逆行したことで明治政府の千島アイヌ支援策はことごとく失敗。

明治17年に占守島から色丹島へ移住した97名の千島アイヌは、異なる風土や農業への適応ができずに健康を害し、出生率も低下したことで人口が激減します(色丹に移し以來の減少とすれば重に風土の異なる異なると、其職業の彼等に適せざるとは原因の主なるものと斷定せざるを得ず。夫れ陸生動物を海洋に移さば其生命を全ふせざると同じく、其境偶總て其身心に適せざればなり)。

 

笹森儀助は、色丹島移住の失敗がバレたらアイヌの反乱を招きかねないとし(死亡出生の比例に據り推測すれば、向ふ十年の后には、彼等種族悉皆斷絶して遺類なきに至らんのみ。假へ小數の人種とはいへ内外非望を抱くの惡漢をして之を知らしめば立どころに一反旗を建るの口實となるや必せり)、不満分子とロシア側との内通を懸念し(毎年東京ニコライへの通信あると、時々根室希臘宣教師小松韜蔵等の穏に誘導するの内實ある)、千島列島へ役所や病院を建設したり、莫大な補助金を投じることへの是非を問うています。

 

【英国人がみた千島列島】

 

日本統治時代の千島列島で活動していたのが、イギリス人のH・J・スノー。鉄道技術者として来日した彼は、あるアメリカ人船長と出会ったことでラッコ猟の世界に足を踏み入れます。

日本とロシアの巡視船から逃げ回りつつラッコを密猟していた彼は、和人にもアイヌ民族にもロシア人にも肩入れしない、第三者的視点で千島列島の事象を観察できる人物でした。

単なる密猟者かと思いきや、あのブラキストンの鳥類研究に協力したり、自身も鳥獣の標本を収集したり(ロシアに拿捕された際、すべて海洋投棄させられましたが)、千島列島の地図を作製したりと、自然科学や測量の知識もあったようです。

そしてイギリスへ帰国した彼は、千島列島における活動記録『IN FORBIDDEN SEA(日本語タイトルは千島列島黎明記)』を上梓。

 

国権や国益で千島を探検していた日本人の記録と比べ、冒険心で行動していたスノーの千島列島談はとても参考になります。

惜しむらくは、彼にとって大事なのは愛犬ネルだけであり、「和人やアイヌの犬がどうなろうと知った事では無い」という態度。ネルを自慢するその半分でもいい、千島の犬についてもう少し詳しく書いてくれていたら、貴重な資料になった筈なのですが。

これはスノーだけではなく、明治時代に来日した欧米人は似たり寄ったりの思考でした(彼の友人であるブラキストンも、函館の犬がジステンパーで倒れていくのを見て「邪魔な犬を日本人が毒殺してくれた」と勘違いしています)。
動物愛護の対象は洋犬に限られ、日本の在来犬は絶滅させるべき駄犬扱いだったのでしょう。
スノーの同僚もイロイロとやらかした結果、択捉島の犬が大量殺処分されてしまいました。
 

私の船長Tは元気な男で、大変いたずら好きであった。村には飼主のある犬や野良犬がたくさんうろつき廻っていた。
ある老齢のアイヌの女は五、六匹も飼っていたが、船長はその犬たちを私たちの宿舎におびき寄せるのを何よりの楽しみにしていた。
二匹を荒繩で縛りつけて、尾に古いブリキ罐を結びつけ、大声を出したり、かんじきを振り廻して追いかけ村中を疾走させた。村中の犬が加わって大変な騒ぎだった。
アイヌの老女も家から駆け出て犬を離し古罐をとり、かん高い声で船長をどなりつけた。
長官は二匹の手頃の大きさの豚を飼っていた。ある時、Tは豚の檻に二匹の犬を放り込んだ。犬は豚に咬みついて振り廻しはじめた。
一匹は非常にひどく咬みつかれたので、アイルランド人の諺のように「その命を救うためにそれは殺されねばならない」ことになった(安楽死のこと)。
長官は私たちの所に使いを寄越し、村の犬が豚の檻に乱入して一匹がひどく咬まれたので、誰かに殺して調理してもらいたいが、料理人か給仕のどちらかが屠殺の方法を知っているかと聞いてきた。
同時に長官は部下に鉄砲を持たせ、飼主のない犬を全部殺せと命令して、多数の犬を射殺させた。幸いにもこの長官はこのいたずらが船長の仕業とは全然気がつかなかった(H.J.スノー)

 

……ひどいなあ。

このT船長、調子にのって択捉島のアイヌ女性にセクハラしまくったあげく、ブチ切れた被害者からボコボコに殴られております。

 

【郡司大尉の千島探検】

 

スノーが千島列島のラッコを乱獲していた頃、ある陸軍軍人が千島探検に赴いています。

彼こそが白瀬矗。日本最初の南極探検隊を率いた人物です。

もともと白瀬が夢見ていたのは北極探検でした。しかし「北極の前に樺太や千島を探検してみろ」という児玉源太郎のすすめにより、明治26年の報効義会千島探検隊(郡司成忠指揮)に参加します。

この千島探検は、スタート時点から運に見放されていました。出航後に八戸沖で輸送船鼎浦丸とカッターが遭難、計19名が死亡したのをはじめ、輸送船泰洋丸でも水腫病(脚気)で乗員一名が病死。さらに途中立ち寄った択捉島でのヒグマ狩りでは、アイヌ人ガイドが熊の逆襲をうけて死亡しています。

 

ようやく千島列島に到着後、報効義会メンバーは複数の島に分散上陸します。

幌筵島で越冬したのは和田平八。「彼はニコライ大僧正の門弟で強烈な希臘教(ギリシャ正教)信者で、其の隆盛を計らんとし、千島アイヌを再び舊北千島に移して、彼等に斯教を弘めんとする抱負の下に一行の勸告も退け孤獨赴いた」とあるとおり、たった独りで上陸しました。

捨子古丹島越冬隊は、田中留吉(医学生)、高橋傳五郎(キリスト教宣教師)、鶴島久次郎、島村金一、中村重吉(いずれも海軍兵)、堀江彪(壮士)、木村佐吉、目黑廣吉、井上儀三(いずれも陸軍兵)で編成。

郡司大尉、坂本吉五郎、加戸乙平、上田幾之助、森音蔵、小野龜二郎(いずれも海軍兵)、白瀬矗(陸軍兵)ら探検隊の主力は占守島へ上陸します。

 

千島列島の多くは、日本の漁業関係者や外国のラッコ密猟船が立ち寄る程度の無人エリアと化していました。アイヌと犬が消えた島々に、再び犬を持ち込んだのが郡司探検隊だったのです。

彼らの犬は択捉島から連れてきており、犬種は北海道犬でした。占守島越冬隊は「ジョン」「白」「タマ」(ジョンは死亡、二年目の越冬で「白」「タマ」は「熊」と交代)、捨子古丹島越冬隊も犬を連れていました。

占守島のジョンと白は島内踏査につきしたがい、猟犬や番犬として用いられています。

 

越年者(※捨子古丹島)の爲一日一人三合の割にて米を與へ、小屋材料、天幕、カッター、銃器等を分けた。堀江が擇捉(えとろふ)より連れて來た大きなアイヌ犬も殘す事にした。

 

中尉(白瀬矗)は擇捉より連れ來つた飼犬ジヨンを供に狩獵に出掛けた。吹散らしに依つて雪は盛んに移動し、窪地は深い堆積をなして居たので風當りは激しかつたが、雪の堅い尾根筋を選んで歩いた。

 

前路を眺望すれば雪山は漠々として際涯なく續き、唯強烈な日光が積雪に赫々と反映して眼を眩ませるだけであつた。

郡司大尉は幌筵の一嶺を測定し、磁針方位を確かめ、東南さして行進を開始した。白、ヂヨンの二犬は前後になつて盛んに飛びまはつて居る。

(中略)

此の時雪上に假寝して居る赤狐を發見し、二、三百米に接近したが唯首を擡げたのみで逃げる氣配がない。丁度一行より半里も前方に先驅して居た二犬が突然歸來して飛掛つて嚙殺して了つた。中尉は狐の死體を縄で結び引ずる事にした。丘を下り、澤に沿ふと雪は軟かく陥沒して脛部迄潜り疲勞したが、二十丁にして海岸に出た。

すると先驅して居た二犬が又海濱に群遊して赤狐を襲ひ、奮戰二匹を嚙伏せた。

 

いずれも木村義昌・谷口善也『白瀬中尉探檢記(昭和17年)』より

 

択捉島のアイヌが北海道犬を飼っていたことは、遭難して同島に上陸していたスノーも記しています。おそらく択捉島が北海道犬の北限だったのでしょう。

 

この頃、家の近くの新しく降った雪に獣の足跡を発見した。これは犬の足跡よりももっと大きいように見えた。土地の人々は夜、丘から降りて来た狼の足跡(※千島列島にもエゾオオカミが棲息していました)だと断言した。
朝食後、私は銃を持って足跡を追い数キロメートルも追跡したが、雪の中で足を取られながら歩くので疲れ果てて帰って来た。
二等航海士のRは私の銃を借りて狼をさがしに出掛け、夕刻疲れ果てて帰って来た。彼の話によると狼追跡の模様は次のようだった。
彼は何キロメートルも丘を越えて足跡について行って遂に谷に降り、木の間に狼の姿を見つけ忍び寄って撃った。それは見事な獣で、毛の色は淡い灰色で二〇~三〇キログラムの重さがあった。
彼は両肩にこれを背負って村に持ってくるつもりでいたが、雪の中を運ぶには重く、何度も捨てようかと思った。
途中二、三人のアイヌに会った。彼らは彼を見て大笑いをした。彼が撃ったのは狼ではなく、数キロメートル離れたアイヌ部落の大きなアイヌ犬であることがわかった。
私は後でこの死んだ獣を見た。私は彼が狼と見誤ったことは責めるべきではないと思った。それは美しい獣で、肥っていて素晴らしい毛をしていた。犬を殺したことでのトラブルはなかった。
これは本当のお笑い草と見なされたからである。島の住人は犬を実用的には利用していなかった(H.J.スノー)

 

上陸当初の郡司探検隊は精力的に島内を調査し、フレップ(コケモモ)などの収穫でビタミンも補給できていました。しかしすぐに、想像を絶する千島の冬がやってきます。

占守島越冬隊は暴風雨に遭遇、郡司大尉らは低体温症で遭難しかけました。

さらに、捨子古丹島の9名は越冬中に全滅(一酸化炭素中毒で4名が死亡・出漁した5名が行方不明)、幌筵島の和田平八も病死します。猛吹雪で越冬小屋に閉じ込められた和田兵八は栄養不良、酷寒、日照不足などで衰弱。捨子古丹島越冬隊も、暖をとろうと密閉空閑で焚火をしたことが悲劇を招きました。

越冬を終えた5月10日、幌筵島に和田を訪ねた郡司大尉らは彼の遺体を発見。和田の日記は3月22日で終わっており、両脚が腫れて歩けない(脚気の症状)ことが記してありました。捨子古丹島隊は更なる惨状を呈しており、戸外へ逃れようとして力尽き、扉へ寄り掛かったまま亡くなっている隊員もいました。

 

小屋の入口には荒蓆を垂れて戸扉の代りとし、脇にはこちこちになつた山女(ヤマメ)が二匹吊してあつた。

吹溜つて居た雪が厚く戸口を鎖して居たので、四名は代わる〃雪を發掘すると、雪中には未だ青々とした二本の門松が現れ、多分元旦の祝松に相違ないと思はれた。戸口の雪を掻拂つてから、最初に大尉が内に入つて一應檢査したが、和田は居ないと云つて出て來た。中尉も不審に堪へず、入つて見ると、眞暗で成程さつぱり見えない。そこで屋根を破り光を取入れて檢すると、果して和田は小屋の片隅に仰向に臥褥の儘、中尉が前年與へた布團を掛け無惨にも死んで居るのを發見した(和田平八の捜索状況)

 

その島に着いて先づ屯田小屋を發見した。なかに這入らうと思ひ、閉まつた戸を押すと、開くには開くが手を引くと、すぐまた押返すやうに閉まつてしまふ。

二度開けると、二度閉まる。あまりの不思議さに、少し氣味が惡くなつたが、ドンと一つ強く押してみた。さうしたらバタリと音がした。薄暗い部屋のなかに、氣を配りながら這入つてゆくと、眞中の邊に置いた鍋を圍んで、食事をしたまゝ、みんな死んでゐて、ちやうどミイラのやうになつてゐた。そして、今バタリと倒れたのは、やはり乘組員の一人で、まさに戸を開けておもてに出ようとしたその瞬間、死んでしまつたことが判つた。わたし達は暫く茫然としてこの光景を眺めてゐた(捨子古丹島越冬隊の捜索状況)

 

6月に幌筵島へ上陸した際、和田平八の遺体を発見したスノーらは占守島の郡司大尉へ通報。密猟船リッチリバー号を日本船千島丸と勘違いした郡司大尉や白瀬矗はこれを出迎えます。

 

甲板上には獵虎(ラッコ)や膃肭臍(オットセイ)の貴重な生皮が數百枚堆積してあり、其他魚類や鳥が散亂し惡臭は鼻を衝き不潔を極めて居た。

密獵船は全てコマンドルスキーより來た旨語るが、此れは千島に於ける暴虐振りを明らかに示して居た。密獵船は全てコマンドルスキーより來た旨語るが、此れは千島密獵を秘す彼等全ての用ゆる遁辭である。

密獵船には船長スノー以下十九名が乘組み、其内二名の日本人が雜つて居たのは意外であつた。

中尉に依ると、船長スノーは頭髪顎髭共銀白で、顔色は永年の北洋生活に塩燒して赤銅色に化し、最早相當の老齢者であつたが、彼はなんとなく威容備はり、他の多くの密獵船長に比し最も印象の深い奴であつたと語つて居る。船内には北海道から露領に至る海圖や航海暦、磁針器、セキスタント、セオドライト、バロメーター、精巧な散彈銃とがあり、中でも中尉は彼が千島列島の精密な海圖を所持して居るのに驚き、郡司大尉は羨ましがつた。

彼は明治十一年以來禁制の海千島領海の密獵に遠征し來り、其の元祖とも稱す可き者で、明治十七、八年頃から千島全島の沿海を精密に測量し、殆んど十年の歳月を費やし、二十七年完成の上、英國女王陛下に捧呈した由で、彼は其の功に依り英國第三等勲章を授與され、中尉も彼の勲章や勲記を見せられた。

一同は濫獲された無數の海獸に血涙を渺ぐ思ひをして引揚げた。

 

郡司大尉から和田平八の死亡を確認済みであると知らされ、スノーは占守島を退去。

その際、日本隊が食糧不足に陥った理由も判明しました。驚くことに、軍人中心で編成された郡司探検隊には漁業の知識がなかったのです(郡司大尉らが得たのは川を遡上するサケやマスくらいで、各島を調査する際「魚が一匹もいない」と記しています)。

 

当時、郡司大尉の一行は島に来て約十五カ月たっていた。彼のボートが岸に横付けになっている間、乘員はそこに魚がいないのに網を投げていた。

私たちは、前日ちょうど海峡の外で捕えたたくさんのタラやヒラメを持っていた。これを見て郡司は、どこで捕えたのかと尋ねた。一行は一匹も魚がとれず食糧に困っていると語った。この島の周囲の海域は、オヒョウやタラが一杯いるのに、一行の進取の気性の欠如とまったく無気力なのを見て私は驚いた。もっとも肝心なのは冬や春には、もっと深い海に出掛けることであった。

私は彼に魚の居場所を教え、二、三ダースのタラと多少の食糧を贈って別れた。それからわれわれも出航した。

その時以来、タラ漁業は日本人移住者の主要な産業になったと、私は信じている(H.J.スノー)

 

越冬中に何度もラッコ密猟船を目撃した白瀬矗は「あのような小型船でも北の荒海に耐えられる」と確信。それが後年の南極探検計画へとつながるのです。

※スノーの密猟を非難していた白瀬矗ですが、後年に自身もラッコ密猟船の乗組員として二度目の探検に挑戦しています。

 

自活手段に欠けたまま、6月28日には越冬隊を迎えに軍艦「磐城」が来航。しかし、磐城には郡司大尉の父・幸田成延が5名の部下を率いて乗船しており、越冬の交代を申し出る騒ぎを起こします。

 

磐城艦も日清の風雲急を告げる際、猶豫を許されないので、郡司大尉以下海軍豫備役たる他の五名を伴ひ匇々歸國するに決し、七月一日霖雨蕭條と煙る中を午後三時抜錨、出帆して了つた。

其の日同艦は柏原灣に立寄り、和田平八の死體を火葬に附して行つた。

磐城よりは米、米粉、豆、砂糖類を讓り受け、又大尉の父が熊と云ふ逞しい犬を一頭遺して行つたが、大尉は白、タマの二犬を連れて行つた(ヂヨンは死亡した)。


年老いた父を厳寒の孤島に置き去りにするワケにもいかず、郡司父子は白瀬らに越冬延長を依頼して占守島から去ります。一年で撤収する筈が、二度目の越冬をすることになった隊員のうち3名が壊血病で死亡。占守島の状況は酸鼻を極めました。

 

彼は「あゝ切ない。僕は死ぬよ」と眼をつぶり、わたしに凭れかゝつた。

「君―、死に給へ、安心して死に給へ。いづれ一緒にならう。僕も君のところへきつとゆくからね」と耳の中に突込むやうにいふと、彼は淋しく笑つて、わたしに凭れたまゝ死んでしまつた。

なんといふ悲惨な最期であらう。わたしは、握つてゐる彼の指が、一刻一刻冷えてゆくのが判つた。そして、あとでわたしの手を彼から離すのに困つたくらゐであつた。

かうして、同じやうな症状で死んだ同僚が三名に達した。しかもその死骸は動かすことが出來ない。あちらに一人、こちらに一人……と轉がつたまゝである。數日後にはそれが腐つて爛れ、膿がはみ出さうであつた。けれども、どうしようもない。

わたしはそのまゝ二ヶ月のあひだ死骸と同居して暮した。

 

白瀬矗『私の南極探檢記』より

 

生き残った白瀬らは愛犬クマまで食料にせざるを得ない飢餓地獄を乗り切り、明治28年に来航した八雲丸に救助されました。

 

殘る三名も病症未だ癒へず、氣息奄々唯餓死を待つばかりであつた處、食物は缺乏して了つたので五月十五日無惨ながら涙を振つて飼犬熊公を銃殺。其の肉で養分濃き羹物(あつもの)を作り、中尉等三名の命を繋ぐ事を得た。

犬は野鼠を捕食して居たので案外太つて居た。中尉も此の後漸く元氣を増し、渡り來つた鴨や海鳥を撃つたり、漂着した海藻を拾つては盛んに攝取した。

中尉は犬の冥福を祈つて、片岡灣に塔婆を建て、次の碑銘を記した。

 

法名釋報忠俗名熊犬行年三歳

明治二十八年五月十五日滋養品の爲に銃殺せり(『白瀬中尉探檢記』)

 

日清戦争から帰還した郡司大尉は第二次報效義会を結成、再び占守島へ上陸しました。二度目の千島開拓は成功し、缶詰工場の操業に至っています。

いっぽう白瀬矗は郡司大尉を恨み、私的事業ではなく国家事業としての千島開拓を主張。さらには外国のラッコ密猟船でアラスカへ赴いて北洋での経験を積みました。

 

【千島への渡来犬たち】

 

占守島から白瀬矗が救出された翌年、スノーは幌筵島を再訪。奇しくも、同島で和田平八の遺体を発見したのと同じ6月25日のことでした。

その際、彼の愛犬だったコッカースパニエルも上陸しています。どこで入手したのかは分かりませんが、明治20年代にコッカーが来日していた貴重な記録ですね(このコッカースパニエルは横浜へ帰港直後に死亡したとのこと)。

 

あの土室の跡(※和田平八の越冬小屋)は、なくなっていた。残雪があり、相変らず不毛の荒地であった。水をくむために湾に注ぐ小川へ三隻のボートが行った。三人の射手も私のコッカー・スパニエル犬を連れて、丘で狩りをするために同行した。一行は前に土室のあった場所の方へ岸沿いに歩いていた。土室跡は彼らの上陸した地点から八〇〇メートルほどのところにあって、二〇〇メートルほど手前で一行は止まった。そこは奥地の山脈につながる高い崖に向かって傾斜している土地で、犬はその間ずっと一行と離れずについてきた。

ライチョウを撃とうと思って私も銃を持って自分で漕ぎ、土室のあった付近に上陸した。ボートをあげた後で振り返って見ると、犬が私の方に気が狂ったように突進して来た。犬は真っしぐらに駆け私にも気づかないかのように通りすぎ、呼んでも口笛を吹いても、とまろうとしなかった。尾を両脚の間に入れ、両眼が飛び出し首を左右に振り恐ろしいものに追いかけられていて、今にも追いつかれるのをやっと逃げているような恐怖状態にあった。

犬はボートが着いた浜辺まで走ると海に入って船の方へ泳ぎ出した。私は犬がけいれんで溺死するのが心配になって再びボートを降ろし犬の後を追い、四〇〇メートルほど泳いだところでボートに引きあげた。犬はボートの仲でも私の両脚の間でひどく震えながら怖がり、吠えるというよりうなっていて、すさまじい恐怖の表情を帯びていた。乗船してから船室に連れて行き、できるだけ楽にしようとしたが効果はなく、天窓に映る影にさえ新しい恐怖を示していた。

私は、この原因をつきとめようとした。誰かが犬をなぐったかマッチをつけたか、そんなことだろうと思って、また島に行った時に射手たちになぜ犬をこんな恐怖状態にしたのかと尋ねた。彼らも私同様驚き当惑した。
彼らの話によると「犬はずっとそばにいたし、彼らがとまった時にも一緒にいたが何か非常に恐ろしいものを見たらしく、まるで悪魔に追い駆けられているように突然海岸の方に逃げた」ということであった。

 

同じ日、幌筵島には他のアメリカ船からも猟犬が上陸していました。そしてこの犬も原因不明のパニック状態へ陥ります。

一人のヨーロッパ人がポインターくらいの大きさの犬を連れ、高い断崖を越えて、砂丘に降りてくるのが見えた。三時間ほどたって彼がまた岸に現われ、本船を呼んだので私はボートをやって船に連れてこさせた。
彼は五キロメートルほど離れた小湾内に停泊しているスクーナーのアメリカ人射手で、この湾の南側の沼沢地へ高い丘を越えて鴨をとりに来たのであった。
歓待して猟の情報を交換した後で、彼は近道になるので、湾の北側に送ってもらいたいと頼んだ。
彼はボートに乗ろうとした時に「私の犬がどこかへ行ってしまった。もし犬を岸で見たら船に乗せてくるようお願いします。ベーリング海で私たちが会う際に犬を引き取れます」といった。
私は彼にどうしてどこで見失ったかと尋ねると、彼は「いやもう、これが、実に奇妙なことでした。私があそこの砂丘へ降りた時」と、私の犬が怖がり出した場所の方を指して「犬は私と並んでおとなしく早足で歩いていました。このいまいましい犬は突然何か恐ろしい物を見たらしく、まるでたくさんの悪魔に追い駆けられているかのように猛烈に駆け出して、あの谷を上って行きました。私は口笛を吹いて犬の跡を追い駆けて走りましたが、犬はどんどん走り続け、とうとう見失ってしまいました」と話した。
それで私も自分の犬に起こったことを彼に話したが、彼にもこのミステリーはどう解釈していいかわからなかった。私たちは翌朝までいたが彼の犬の気配はなかった。

 

航海中に上空で発光する謎の飛行物体と遭遇したり、仔を撃ち殺された母ラッコに執念深く追跡されたり、ノースは数々のオカルトじみた体験をしています。そんな話はどうでもいいとして。

このように、明治時代の千島列島に洋犬が持ち込まれていたのは事実。中には、主人とはぐれて野生化した犬もいたのでしょう。

それらの外来犬が、島内の犬にどのような影響を与えたのかは分かりません。

明治40年代になると漁業関連施設が進出し、開拓者とともに多くの犬が移入されていきました。

断絶してしまった千島列島の犬界史は、和人が中心となって再スタートしたのです。

 

翁の經歴を問ふに及んで、徐に答て曰く、予の醫官より出でゝ箱館奉行支配組頭となり、其奉行所に赴くや、時は文久二年(1862年)歳四十一の時なり。

北蝦夷唐太(カラフト)の地、魯西亜國と境を接するを以て、事端漸く稠く、時々重役の臨檢を要するに因り、同年七月箱館を發して北渡東西を巡視し、北緯五十度前人未だ見ざる所の使犬部属アイノ人住地の極端タライカ湖に至り、還て久春古丹(クシンコタン)に駐る。

翌年三月任滿るを以て南渡し、北岸を東行して恵戸路府(エトロフ)久奈志利(クナシリ)の二島を巡り、九月箱館に還る。その唐太に在りて冬を渉るや久春古丹に居る、時に狗に橇を牽かしめて、冨内に至れるの日は、積雪皚々天地一色、更に路形無し。及(すなわ)ち崖を攀ぢ氷河を渡り、唯一直線に疾駆すれば、一日三十六里を走る。事に熟せし○人これに騎りて先きに立ち、嚮導をなし暮るれば途に泊り、明るれば出づ。

狗の忠實なる終宵主人の身邊を囲繞して、守護頗る力む。〇人も狗兒を愛育すること、恰も子弟に於けるが如し。冬は橇を牽かしめ、夏は岸に沿ふて舟を牽かしめ、或は獸獵に伴ひ、老ふれば屠りて其肉を食し、皮は衣となして寒威を凌げり。

その狗車(くしゃ)に題する詩及引に

雪深尺、○人及入穴居、干時、少壮調雪車、撃狗牽之、靷端必懸一鐸、其響各異、夷細心心聴別、以指其主、雖百里外人必不誤、到々進也、喈々止也、其調車之號語「海豹 暖穴居初、到々喈々調狗車、可怜于顕閑不得、稜々鐸響遞公書」と。

 

乙羽生『日本戰艦の母(明治28年)』より

 

犬

樺太アイヌの犬橇「ヌソ」に乗る栗本鋤雲。箱館奉行所組頭であった彼は、文久2年(1862年)の樺太探索でヌソを用いました。

日本で西洋式スキーが始まったのは明治44年ですが、ニヴフや樺太アイヌのスキー板(ストー)は江戸時代に知られており、画像の栗本鋤雲も履いていますね。

 

樺太における犬橇文化の最大勢力であった樺太アイヌ。しかし犬橇のルーツはニヴフ族の文化ですし、カラフト犬という品種や南樺太犬界の説明を優先すべきですし、だったら千島アイヌはどうするんだ?ということで解説は5番目に回しました(白瀬矗の南極探検につなげるための順番なんですけどね)。

 

アムール川流域の犬橇文化がニヴフによって樺太島へ持ち込まれ、それが樺太アイヌと交じり合ったのはいつなのか。記録がないゆえハッキリとはしません。

樺太においては、勢力を拡大するアイヌと元朝の援軍をたのんで反撃するニヴフの攻防が1264年から1308年にかけて繰り返された後、モンゴル帝国の衰退と民族間の住み分けによる平和が訪れます。

北方民族への影響力を失った明朝にかわり和人との交易へ比重を移した北海道アイヌですが、今度は和人の軍事力に直面することとなりました。

宗谷海峡を隔てて平穏に暮らしていた樺太アイヌも、やがてロシアと日本の樺太争奪戦に巻き込まれます。樺太島の価値をはかりかねていた日本、ロシア、清国ですが、樺太・千島交換条約、ポーツマス条約を経てロシア領「北サハリン」と日本領「南樺太」の分割統治へ至りました。先住民そっちのけで、北緯50度に国境線が引かれてしまったのです。

 

日本領に住む樺太アイヌに対しては、「旧土人」と差別された北海道アイヌと同じく皇民化が進められました。

その犬橇文化も和人の同化策に呑み込まれてしまい、オタスの杜で隔離・維持されていたニヴフの犬橇文化とは同列で語れません。

樺太へ移住した和人は、犬橇文化もあっというまに吸収。レジャー用の犬橇やリヤカー運搬犬へとアレンジしてしまいました。

犬橇の代りに鉄道や馬車を普及させ、アイヌの暮らしを「日本化」することが正義とされた時代だったのです。

※それは北サハリンや千島列島でも同様で、少数民族は「ロシア化」「ソ連化」を強要されました。

 

樺太沿岸の犬橇運送

 

狩猟採集生活を中心とする北海道アイヌと違い、漁労生活を中心とする樺太アイヌにとって、ニヴフから導入した犬橇は冬期輸送に欠かせない存在でした。

しかし夏の間は犬橇で稼ぐことはできず、多頭飼育による犬の餌代はアイヌの家計を圧迫。樺太の犬橇文化が衰退したのは、ロシアや日本による同化策、鉄道や荷馬車の整備、狂犬病対策、そして過大な飼育費が原因でした。

南樺太が日本領となった明治38年以降、樺太アイヌの生活も大きく変化します。

いつしかアイヌの住居には窓ガラスがはめられ、ユーカラのかわりに流行歌を口ずさみ、荷馬車が往来し、犬の飼育頭数も減っていきました。
彼らの犬橇文化が失われたことを、樺太庁博物館の山本祐弘館長は下記の様に残念がっています。
この樺太犬は橇曳が主なる飼育の目的であるが、冬山へ狩に出る時伴ふこともあつた。因に犬橇(sikeni)は夏は使用しないからその間、食糧倉の下、脚柱の間に紐で縛つてつるしておく。
要するに忘れ去られやうとするこの構築(※犬橇関連設備)も住居に附属してアイヌの生活が深くにじみ出てゐるものの一つである。
 
山本祐弘『建築新書・10 樺太アイヌの住居(昭和18年)』より

 

【樺太アイヌと犬】

 

樺太島の犬橇はニヴフ族がルーツであり、樺太アイヌはそれを後から導入したに過ぎません。その過程でニヴフの犬橇の呼称が訛って「ヌソ」へと変化したのでしょう。
ヌソは犬を含めたユニット全体の名称であり、橇部分は「シケニ(犬用橇)」とナリタ(トナカイ用橇)に区分されます。
ニヴフは宗教的に大型犬を嫌っており、彼らの橇犬は中型のみ。樺太アイヌは大型の犬(セタ)も用いたと思われます。
橇犬(ヌスセタ)には牡犬が選ばれ、ケンカを避けるためか去勢が施されました。その中でリーダー犬はイソホセタと呼ばれ、大切に飼われたそうです。
リーダー犬の頭部にはアザラシ革製の飾り(セタキラウ)を装着しますが、これもニヴフの文化がルーツ。常に装着するワケでもなかったらしく、昭和期の写真でも見かけません。

 

樺太アイヌ、北海道アイヌ、千島アイヌは、同じ民族でありながら全く異なる畜犬文化をもっていました。それぞれが飼育する犬の品種まで異なっていたのです。

狩猟採集生活の北海道アイヌが飼うのは猟犬種のアイヌ犬(北海道犬)、漁労生活の樺太アイヌが飼うのは荷役犬種のカラフト犬。犬橇文化をもたず、海獣狩り中心だった千島アイヌに至っては、どのような犬を飼っていたのかすら分かりません

宗谷海峡を隔てた生活様式の違いは、同じ民族において飼育する犬種の違いにも影響したのです。

 

樺太アイヌが住む豊原のカラフト犬については、作家の生田花世が目撃談を残しています(彼女は熱烈な愛犬家であり、犬に関するエッセイを幾つも書いていました)。

樺太南部にいたのは大型で長毛タイプの橇犬だったようですね。橇が使えない夏季にはリヤカーを曳いていたことも分ります。

 

東北ひた走り、汽車は驀進して、青森からは聯絡船の松前丸。北海道、まつしぐら。聯絡船は、亜庭丸で、一行無事、大泊へ、午後五時すぎにつき、灯の驛から、豊原(※ユジノサハリンスク)さして夜の樺太入りした。

一夜あけたら、私たちのとまつた宿のまへは、晴天で、北方の光はうつくしかつた。二階の障子をひらいて、下を見ると、居る居る。ここにもかしこにも、犬がゐる。樺太なのだから、まさしく樺太犬だ。

つひに待望の樺太犬を見たとはいふものの、何の事、形といひ、身振りといひ、舌の垂らし方といひ、それは別れて來た帝都のおいぼれ犬「クロ」と同型の犬たちではないか。

「さては、多さんとこの犬樺太犬だつたな……」

私は、あらためて「クロ」の事を考へ直した。道理で、「クロ」は立派だつた。大きかつた。善良であつた。そして、うら若き日には精悍ででもあつたらう……。

クロが、樺太犬の一味であつたといふ事は、私の今回の樺太の旅の大収穫であつた。

私は朝食をすますと、宿の外に出て、この町の犬に近づいて行つた。これらの犬はどれでも巨躯だつた(仔犬は例外として)。そして、その犬のどれもが作業仕度をしてゐるのだつた。どんなのが作業仕度かといふと、太い革具を、頸や、胴に装置されてゐるのである。

頸や胴に装置された革具は、荷車に、橇につながれる。その輓犬としての姿は、時またずやつてくる犬によつて示された。豊原近郊の部落の人らしい。キヤベツを入れた藁のつとを十いくつものせた荷車、この左右に、二頭配置してゐる。それがやつて來たのであつた。

二頭は、トツトコ、トツトコこちらへ來る。

こちらにゐる犬が、少しく寄つてゆく。でも、輓犬の方は、氣をうつさず走る。おしつこもしないで走る。電信柱がいくつあつても(犬といふものは、よく電信柱を見つけ次第、おしつこする動物である)殊勝なのである。ツンと立ててゐるその太い尾は、千本の毛を振りはららかして、波のやうに澎湃と崩れたり立つたりする。大きい顔のその周圍にもくれてゐる深毛は濃くて、まるで、獅子のやうだ。私はこれらの犬の中に獅子を感じた。

世に、可愛らしい獅子といふものがあるだらうか。獅子族の中にはゐない。あの獅子の眼はぢつと見てゐると寒くこちらの心を凍らせる冷徹をもつてゐる。しかしこの樺太の可愛らしい獅子は、その眼つきが、見れば見るほどあたたかい。

私はバケツほどあるその橇犬の顔をなでまくつてやりたかつた。しかし、通りすぎたから、手近にゐる犬の頭を撫でたのである。

「僕らの仲間はすばらしいでせう」といふ風な眼をして、大犬は欠伸をした。

樺太犬たちは、雪が來たなら、本舞臺の生活を始める事が出來る。多分、今は、遊んでるやうなものだらう。白皚々たる雪の野を、七八頭の犬に曳かれて、橇でゆく旅をしてこそ、樺太の旅と云はれる。そして、熊に逢へば……。

こわい事だらうとはおもふが、「樺太の生粋」へあこがれる心もわいた。せめて、犬の曳いてくれる荷車にでものりたいなとおもつたが、のぞめない事だつた。

それで、豊原の公園へは、チリン、チリン、チリンと鈴を鳴らして來た空馬車をやとつて、それに、私と、二人の女の友とはのり、肩をそらして、樺太の晴天をたのしんだ。

 

生田花世『樺太犬族(昭和15年)』より

 

北海道アイヌと樺太アイヌでは飼育する犬も異なりました。

 

こちらはカラフト犬でしょうか。

 

いっぽう、北海道アイヌの猟犬がいつ頃から蝦夷地にいたのかは不明。「弥生犬が進出しなかった北海道に残存した縄文犬の末裔」という説も、近代まで北海道に柴犬が存在しなかった理由(縄文犬は柴犬サイズ)を説明できません。「鎌倉時代あたりに本州から移入された和犬ではないか」という説もありますし。

とにかく「猟犬を求めた北海道アイヌ」と「橇犬を求めた樺太アイヌ」によって、北海道犬とカラフト犬は住み分けてきたのです。

 

しかし戦前の文献では「樺太アイヌはアイヌ犬を飼っていた」という記述も散見されます。当然ながら樺太島へ渡った北海道犬もいた筈ですが、和犬に犬橇を曳く能力があるのかどうか。それとも猟犬を別途に飼育していたの?

……などと思って確認すると、どうやら「樺太アイヌが飼っているカラフト犬=アイヌ犬」と称するケースもあったようです。「南樺太でアイヌ犬と呼ばれる犬=北海道犬」と早合点しないほうがよいでしょう。

 

アイヌが樺太南部へ勢力を拡大する過程において、先住民のニヴフが用いるオミクゾンを冬季の移動手段として採り入れました。

 

よって、狩猟用の北海道犬が樺太アイヌに飼われることはなく、犬橇用のカラフト犬も北海道アイヌの役に立はたず、北海道犬とカラフト犬の縄張りは維持されたのです。

 

明治8年、日露間で樺太・千島交換条約が締結されました。樺太アイヌと千島アイヌには国籍の選択が迫られ、日本国籍を選んだ者は北海道の宗谷へ強制移住となります。

開拓吏の黒田清隆はアイヌを対雁に再移住させ、農業への転向を指導。しかし漁労生活者である樺太アイヌは農業になじめないまま貧困と差別に苦しみ、更に伝染病の蔓延などで多くの犠牲者を出してしまいます。

なかには望郷の念にかられ、先祖の墓参りを口実に樺太へ戻る者もいました。ロシア人からの差別は和人に負けず劣らずの酷さであり、帰郷した樺太アイヌの境遇は悲惨なままでした。

ロシアにとっては極東の流刑地に過ぎなかったサハリンで、先住民族の近代化は放置状態が続きます。

 

明治38年のポーツマス条約締結によって南樺太が日本領になると、樺太関連の報道も増加。やがて、樺太アイヌの犬橇が内地の和人にも知られるようになりました。

 

犬橇は單にアイヌ自身の交通の爲めに用ひられるばかりでなく、邦人の爲めにも亦非常の便宜を與へるので郵便物や旅客の如きも是に因つて僅に通ずる事が出來る。
東海岸の榮濱から一臺の犬橇を仕立てゝ是に旅客一人又は二人が乗り、多少の荷物をも積載する時は、高價な場合には三十圓の運賃を取り、廉い時でも十圓以上である。即ち彼等は、犬橇を以て一個の運送請負を爲すのである。
一方の部落で米噌が欠 乏した場合に他の部落は是れを讓受けるにも雪舟(ノソ)の便を借りなければ如何ともする事が出來ぬ。其處で一俵の米は十圓の物が十五圓若くは二十圓の高價となる。
斯の如く冬期の便を爲すので、彼等は競ふて之を飼つて居る。
随つて冬期中若し熱心に運送の請負をしたならば百圓以上の収入も得られるが、由來アイヌには貯蓄心と云ふ者がないから、彼等は行く先々で其の賃金を飲代にする。随つて其の運送の機會が多くなればなる程、却つて貧乏をする事になる。

犬橇はどんな風に出來て居るかと云ふに、通常十二頭の犬を以て成り、アイヌが御者となりて是に先導犬(※イソホセタ)一疋、曳犬(※ヌスセタ)十餘頭で一隊を組織する。橇(※シケニ)は長さ十尺位、幅は一尺五寸位の者で、是には乗客二、三人と外に多少の荷物も積む事が出來、普通は六、七十貫までの物を運ぶ。
速力は一日十五里乃至二十里で、寒月の夜に多くの犬が言々(※言は口偏)として吠えつゝ走る様は壮快極まる者である。
御者のアイヌは橇の先端に跨り、長き四尺ばかりある二本の棒(※カウレ、またはヌソワク)を橇の下に交差し、堅く之を握つて緩急を計り、時々之を叩いて合圖を取る。
橇を止めやうと思ふ時は此の棒を雪の中に衝き入れ、又兩足には足橇(※ヌソホストー)を穿いて橇の進行の舵を取る。
先導犬は一行の中に最も大切な者で、道先を能く知り又他の多くの犬を監視して先導し、御者の言葉も能く聞き分けて、或は停止し或は疾驅し、東西南北御者の意の如くなるのである。

トー〃 ……並足
ケー〃 ……驅足
プラ〃 ……止れ
カイ〃 ……曲れ

橇犬を疾驅させる爲めに此の場合には成るべく少量の食物を與へる。
犬は目的の地に着けば充分の食を得ると云ふ食慾に對する唯一の希望を以て走るのであるが、何せ空腹ではあり氣が猛しくなつてるので、途中何物か食物に遇へば假令(たとえ)人間であらうと牛馬であらうと直ちに嚙みつく恐れがある。只先導犬は怜悧であるから之を顧みずに進むので、多くは無事に經過する。
又途中大吹雪に遇つて到底進む事が出來ない場合は、犬は進行を止めて客の周圍に輪を作り、晴れるを待つて進む様は沙漠に於て風の起つた時、駱駝が風蓋ひになつて主人を庇ふ様な者である。
先導犬は前記の如く重大な任務を帶ぶるのであるから、餘程熟練した良犬を選ばねばならぬ。
他の普通の犬は十圓位の者で、前年及び今年南極探險隊(※白瀬探検隊)に送つた犬も即ちアイヌが冬期此の犬橇を曳かせる爲めにした者で、寒さには堪え然も柔順であり、殊に雪上の橇の旅行には充分經驗があるから探險地に上陸して長途の旅行を爲す場合には立派に其の任務を果すであらう。
慥(たし)か同隊に送つたのも一頭十圓かで、成るべく良い犬を選んで送つた筈である。

 

西田源蔵『樺太風土記(大正元年)』より

 

西田さんは「アイヌは貯蓄しないから貧しいのだ」などと断じていますが、犬橇を維持するためには十数頭の犬を飼育し続ける必要がありました。しかも、犬橇が使えない季節も犬たちを倉庫にしまっておく訳にはいきません。

毎日の餌代だけでも家計を圧迫し、「カラフト犬がアイヌやニヴフの貧困に影響していた」といわれる程だったのです。

 

樺太のアイヌは今灣内には至つて少く、東海岸及び西海岸の各部に散在する者が多い。彼等の大半は殆んど日本化して少しく裕福なる者は皆日本の服を着、日本の言葉を巧みに遣つて居るから一見して夫れと判別する事が出來ない位である。
然しアイヌ特有の風俗をして居る者は、男は前髪を剃つて後を長くし、女は髪を中央から分けて頸まで垂れて居る。今ではメノコの入墨をする者も少くなつたが、中年以上の女子は唇の上下に五分位の幅に入墨する者もまだ方々で見受けられる。

樺太アイヌは犬の爲めに貧乏して居ると云ふても差支ない。彼等は一人で少くとも五、六頭、多きは十二、三頭の犬を飼つて居る。
其の食料は主に鱒の干したのであるが、毎日十二、三頭の犬に腹一杯になるまでの食を與へるのは中々容易な事でない。
即ち彼等は漁期中の収穫物の殆んど大部分を是に費す事にして居る。何故に斯程多くの犬を飼養して居るかと云ふに、樺太の沿岸は夏でさへ道路が完成して居ないので歩行は困難であるが、況して冬期になると積雪數尺に達し一里の路を行くにも中々容易でない。
此の場合には馬を用ひた處が何の役にも立たないので、勢ひ驅の輕い犬を用ひるより仕方ない。
其處で冬期の唯一交通機關は即ち、犬橇(又は雪舟とも書す)を使用するのである(西田源蔵)

 
南極探検隊員のヤヨマネクフ(日本名・山邊安之助)は、橇犬をシェアすることで家計への負担を軽減しようと提案しています。

樺太アイヌの地位向上のため尽力した彼にとって、犬橇の伝統と経済的負担の対立は悩みの種であったのでしょう。

 

抑々アイヌといふものは犬(セタ)を使ふことは日本人で馬を使ふのと同様なものである。そしてアイヌは犬を養ふには魚ばつかり食べさしてるもんだから、犬が澤山あると魚が澤山かかる。

だもんだからアイヌ達は自分たちが食ふだけの魚を捕る分には大した苦勞はないのに、越年中に犬どもの食ふ魚を捕るために働いて苦勞をしてゐる。

そして犬を育てゝ冬に犬橇(ヌソ)で以て遠方へ出かける。見すぼらしい犬橇に乘ると、あの犬橇を見ろと笑はれるもんだから、良い輓犬を得るために春から秋まで苦勞をして澤山の犬を飼つてゐる。犬をも少し減じて賣る方の魚を多くした方がよいだらうにと私は思ふから、犬は半數減じて私は半數程しか私は置かない。

けれどもアイヌたちは犬を使ふ時の事を考へるもんだから、犬を出すことをいやがるのであつた。

けれども此度の事(※白瀬矗の南極探険)は國家の競爭の事業であるから、アイヌ達も自分の國の勝つやうにしたいものだから、自分の使う犬を不足にしても、犬を此の事業に寄附しようと考へて、犬を寄附することになつた。

 

山邊安之助『あいぬ物語』より

 

【樺太アイヌと南極探険計画】

 

ヤヨマネクフにカラフト犬調達が要請されたのは、白瀬矗の南極探検計画がスタートしたからです。

千島探険で越冬隊が壊滅した悲劇を経てなお、北極探検の夢を捨てきれずにいた白瀬矗。あれだけ嫌っていた米国ラッコ密猟船に自ら乗組んで北海での経験を積みますが、日露戦争の勃発により計画を中断して戦場へ向かいました。

中尉に昇進した彼は、戦場で再会した児玉源太郎将軍から「戦争が終ったら北極へ挑め」との言葉をかけられます。しかし支援者であった児玉将軍は明治39年に死去。

絶望の中、追い討ちをかけるように「ロバート・ピアリーが北極点へ到達した」というニュース(現在では真偽不明)が報じられます。

 

明治四十二年であつた。―アメリカのペアリーが北極を踏破し、前人未到の境を探檢したといふ報道が齎された。この報道は、わたしの耳を穿ち心臓を氷らせた。思ひに思つたわたしの計畫が、他人に依て先鞭をつけられたのだ。失意とそれに伴ふ數々の煩悶が、わたしの心をさいなんだ。

わたしは、遂に北極探檢を斷念した。そして北極とは正反對の南極に突進しようと欲した。―これがそも〃、わたしが南極探檢の決意をした發端である(白瀬矗)

 

目標を南極へ変更した白瀬中尉は、国家事業として探検予算の計上を訴えます。しかし帝国議会は一銭も渡してくれず、大蔵省は「学術調査が目的なら文部省へ行け」、文部省は「金の話は大蔵省にしろ」と門前払い。成功雑誌社から東京朝日新聞社への後援を頼むも承諾を得られず、南極探険は私的事業にせざるを得ませんでした。

幸いにも、新たな支援者として大隈重信伯爵(当時)が南極探検後援会会長に就任。熱狂した国民からも多くの寄付金が寄せられます。

同時期にはイギリスのスコット隊とノルウェーのアムンセン隊が南極点到達計画を発表、三ヶ国による競争が始まりました。

 

アムンセン隊と同じく、白瀬探検隊が選んだのも犬橇でした。その犬橇に用いるカラフト犬の調達と輸送にあたったのが、樺太アイヌのヤヨマネクフとシシラトカ。

白瀬中尉だけが脚光を浴びていますが、和人が扱えないヌソの馭者として、二人のアイヌは南極探検の立役者となったのです。

 

ヤヨマネフク

白瀬探検隊のヤヨマネクフ(制帽の人物)とシシラトカ。彼らの橇犬が立耳、垂れ耳、斑模様とさまざまな姿をしているとおり、「カラフト犬」とは多種多様な樺太在来犬種の総称です。

 

計画はスタートしたものの、南極探険船の確保は難航します。海軍省に用廃軍艦(磐城)のレンタルを依頼しても「同艦を貸下げてもいゝが、直接海軍省から貸下げる事は法規上いけないので、いろ〃手續が必要である」との回答。逓信省、文部省にも掛け合いましたが、政府事業になるのが面倒で協力してくれません。

そこで白瀬中尉は漁獲物運搬船「第二報效丸」を改造し、全長33メートルの木造帆船で南極を目指すことを提案。かつての千島列島探検において「殊にわたしの印象に深く殘つてゐるのは、嘗て五十噸内外の密獵船を目撃したことである。それは、山のやうな波の上を巧みに操縦して少しの不安もなく作業してゐた。それを思へば、南極を探檢するのに、どうして特に巨船を必要としよう。船のみ巨大であつても、艱難にめげ、危險におびえるやうな乘組員であれば、却つて寶の持腐れだ。二百噸で結構である」と確信していたのです(実際は多数のラッコ密猟船が荒天や座礁で沈没、占守島で白瀬と遭遇したH.J.スノーも何度か遭難しています)。

ここで問題となったのは、第二報効丸の持ち主が郡司成忠だったこと。郡司大尉は船の売却を断り、再び白瀬中尉と対立します。

白瀬も郡司への恨みを忘れていませんでしたが、寄附金頼りの探検ゆえ背に腹はかえられなかったのでしょう。

それからも引續き船舶の購入については、あらゆる方面に向かつて奔走したが、最後にわたしは、村上幹事と共に郡司大尉を訪ひ、第二報効丸の購入方を交渉した。

一度は拒絶されたが、村上幹事が再度面會の上、眞情を披瀝して再考を促し、さらに大隈伯の盡力により、結局契約が成立して、第二報効丸を南極探檢の航海船として手に入れることが出來た(白瀬矗)

 

帆船の第二報効丸は石川島造船所で汽船に改造、流氷対策のため船体に鉄板・フェルト・厚板の積層装甲を施されたうえで東郷元帥により「開南丸」と命名されました(南極探険の志願者は多かったものの、小さな開南丸を見て辞退者が続出したとか何とか)。極地輸送手段として予定されていた馬橇も、「南極には牧草が生えていない」として犬橇に変更されます。

しかし東京には、犬橇を使える者も、極地の酷寒に耐えられる犬種も存在しません。

そこで注目されたのが南樺太エリア。樺太アイヌの犬橇と、それを曳くカラフト犬ならば南極にも適応できる可能性があったのです。

 

帝國ノ犬達-樺太犬
白瀬探検隊のカラフト犬
 
【樺太アイヌと南極探検】
 
南極探検隊の犬橇係として雇われたのが、樺太アイヌのヤヨマネクフとシシラトカ。
白瀬矗は探検隊の雇員的に扱っていましたが、少なくともヤヨマネクフは「どうかして、同族の此のみじめな境涯は救わねばならぬ。せめて平民並みの生活に引上げてやりたい」とアイヌの立場を向上させるために南極探検を志願した人物でした(そもそも彼は日雇い人夫ではなく、四つの村をまとめる総代です)。
南極探検に用いるカラフト犬の購入は樺太日日新聞を介して樺太庁へ依頼され、地域の代表者だったヤヨマネクフは自らの愛犬5頭を含めた20頭を集めます。
 

樺太アイヌにとっては生活の糧である犬を、かんたんに手放すワケにはいきません。その辺の内情は、金田一京助がヤヨマネクフに取材した『あいぬ物語(大正2年)』で知ることができます。

※ヤヨマネクフは日本語に堪能でしたが、「アイヌが著した南極探検記」にこだわる金田一の要望でアイヌ語口述、日本語翻訳という構成となっています(引用文中、差別的な表現を一部修正)。

 

明治四十三年の夏の頃、南極探檢の噂が聞えた。樺太では日々新聞(※樺太日日新聞)社長財部某氏が主唱となつて、義捐金の募集をし、樺太産の犬(セタ)を探檢隊員へ寄附して、探檢の事業に手傳せんと圖り、まづ最初には方々の村へ云つてやつたが、方々の村のアイヌ達は探檢の事業なんどはわからなかつたから、犬の價を安くしてやる事を氣がつかなかつたらしい。

其の月の十日頃、富内村の警察から私共一同の方へ警官が云つて來た。「犬三十頭にアイヌ一人附添うて、東京の南極探檢隊へ送つてやれ」と命ぜられた。

そこで私はアイヌ達に意見を聞いてみた。

然るにアイヌ達一同は「併しどうも、犬とても目今の處は自分等が使ふに不足な程しかないんだものなあ!」と云つて、「役所からそう云ひ付かつたのなんだから、出すことにはしよう」と云つた。

そこで翌日、早速各々の家々から犬どもを役所の前へ引つ張つて行つて、役人の見る前で良い犬を私が選り抜いて差出した。

 

山邊安之助『あいぬ物語』より

 

樺太の獸獵に於いて最も主要なる者は貂獵なり。之に次ぐ者を狐獵とす。勘察加の土人は年々數十の貂を得て多くの須要なる者と交換す。而して之を得る者一に犬の力なり。

冬季交通の重寶物として、或は貂獵の唯一機關として、又或は死して皮を留むるに於て薩哈口連(サガレン)の犬は多くアイヌに飼はれたり。カムチャダールは往々にして一戸に二十餘頭を飼ひ、樺太のアイヌにも往々にして十餘頭を飼ふ。而して各々アイヌの財産たるに於て、彼等は其の多きを以て誇りとす。

アイヌ犬の上々なる者は一頭五十圓餘に値す。勘察加に於て貂獵の巧みなる犬の如きは貂皮五枚にても尚且つ交換し難しと云ふ。貂は小なり、然も一枚の値三十圓を超ゆ。

冨内の犬は南極探險隊に送られたり。其の値より言ふ時は必ずしも廉なる者に非ず。然も愛奴の純朴なる尚ほ名譽てふ事を解して極めて廉價に其の精鋭なる者を送りたりき。

 

西田源蔵『樺太風土記(大正元年)』より

 

雪原を進むヌソ(戦前の和人は「ノソ」と呼称)の隊列。自家用車である犬橇を維持するには、各家庭で多数のカラフト犬を飼う必要がありました。

 

樺太アイヌやニヴフにとって、多頭飼いが必要な橇犬は経済的負担になっていました。

アイヌの生活を豊かにしようとしていたヤヨマネクフにとって、南極探険への協力は犬の飼育頭数削減・共有経済化を促進させる機会だったのでしょう。

 

此度の事は國家の競爭の事業であるから、アイヌ達も自分の國の勝つやうにしたいものだから、自分の使う犬を不足にしても、犬の仕事に寄附しようと考へて、犬を寄附することになつた。

富内村を除いて外の村の人々に於ては、犬の價高くアイヌ達が云ふといふ噂があつた。先導犬(イサオ・セタ)が一匹で五十圓だの、輓犬は一匹で十圓と云ふ噂があつた。それを私達の村の人々が聞いてゐるから、そんな様な値に勘定してゐた。

けれども私は斯う云つた。

「今度の事は吾々自身の國と思つてゐる此日本の國の事であり、此仕事は外の諸國の人々に對し競爭にやる事でもあるんだから、犬は價を貪らずに廉價にして、半分はたゞの様にしてやるもんだ!」と勸めた。

アイヌ達は、それぢや餘り値が安いと思つたんだらうけれども、役所からもそう云つて來たもんだから、始めて了解してそれではと、價は安くつてもよいからと申出て差出した。さて、犬の値段は先導犬一頭に就き十五圓づゝ、唯だの輓犬は三圓と云ふことにして差出した。

そうしてそれから、其翌日、則ち十二日の日に兼太郎、嘉一郎、由松、オートツクと私とすべて五人で以て廿頭の犬を引張つて大泊へと出掛けた。此の時、二十頭の犬を連れて林の中を通りかゝると、色々の獸(カムイ)の匂ひを嗅ぎつけて、追つ掛けたがつてあつち、こつちへ引張り廻されるもんだから、アイヌ達も皆草臥(くたび)れて、途中で一泊をして翌日大泊へ到着した(ヤヨマネクフ)

 

しかし大泊で「犬の東京輸送は延期」と知らされ、嘉一郎、由松、オートックは村へ引き返します。大泊で待機のまま8月が過ぎ、「9月には東京へ出発できる予定」と聞いたヤヨマネクフと兼一郎は一時帰宅、家族や知人に別れを告げました(ヤヨマネクフは息子の彌代吉と甥の富次郎に遺言を託しました)。

帰郷前、彼は樺太日日新聞の財部熊次郎社長を訪問。南極探検に同行したいと伝えます。

 

それでも尚待つてゐると、八月の月も暮れ九月の月にはひつた。そして尚待つて暮してゐた。その中に私はつく〃考へたのには、一旦どうせ東京迄犬を連れて行くことなら一層の事、南極までも行つて、そして犬を使つてやる方がいゝだらうなと、そう思つたから日日新聞社長、財部氏の許へ行つて斯う云つた。

「今度どうせ一旦、良い犬(ピリカ・セタ)ばつかり選り抜いて、南極へやるとしても、犬を使ふことを知つてる人達がゐなくつちや、いくら良い犬をやつても駄目だらうと思ふから、自ら南極まで行つて犬を私が使つてやつたらいゝだらうと思ふから、そう考へたんだが、前に露西亜との戰の時にでも死んだものと思うつて、軍人達と一所に丸(タマ)の中をもくぐつた時などは、天祐にも死にはしなかつた(※ヤヨマネクフは日露戦争に従軍しています)。

お蔭で拾つた此の體です。其の上、其後段々村の事も萬事緒に就き、それから又、小供等の學校さへも建つて了つたし、今では私の一身は死んでも、餘り惜しいと思ふ事も無くなつた。

それに今又、諸外國と競爭して、日本の國が始めてやる事業だといふ此南極探檢の事だから、一旦拾つた私の體を以て、今一度國家の事業に働いて死んでも本望だと思ふから、どうしても南極まで、皆と一緒に行きたい」

そう云つたら、其時財部氏は「ほんとうに行く氣なのか」

「そうです。本當に行く氣です」と私は云つた。

それから、財部氏の云ふには「その氣なら樺太廳へ私が話して、お前が南極探檢に行くやう私から云つて置かう」と云はれた。

そこで其沙汰を待つてゐると、財部氏から「愈行くやうに許可なつたから、南極迄お前行かれるよ」と話された(〃)

 

その後も東京側の受け入れ準備が進まないまま9月の出発予定も再延期。それに嫌気がさした兼太郎は、家族の生活が心配になって東京行きを辞退します。

 

富内村から若い者が一人、兼太郎の代りに大泊へ來て犬の世話を私と一所にやつた。暫くして此アイヌが歸つて兼太郎が又やつて來た。そしていふ話には斯うだ。

「(南極)探檢隊はずつと前から出發する話であつたから、それで今迄も待つて居たのに、餘り遅くなるし、且つ私は乳飲子を控へてゐる婦一人と小供と殘して置いて遠方まで旅立ちするのもよく無いと思ふから、その上、色々しなきやならない事も閊へてるから、此度の旅立ちは、私には出來なくなつたがな」と云ひ出した。

私の考へるのに、それもその通りに違ひない。小供と嬬だけ殘して置いても、色々な事があるにしても愈々都合惡からうと思つたから、「そう云ふ事なら、お前の云ふ通り、お前は行かんでも宜しからう」と私は答へた。

それから兼太郎は自分のコタンへ歸つてしまつた。あとで役人たちに私が聞いてみた。

「外の村から犬だの、それから今一人のアイヌが來るといふ噂がありますが、どうですか?」と問うた。

すると、役人達が云ふ。

「外の村から犬は來やしない。アイヌも誰一人行くといふものが無い。アイヌ達がいやがるからなあ!」

 

山邊安之助『あいぬ物語』より

 

結局、独りになったヤヨマネクフが大泊を出航したのは10月25日のことでした。さらに海路輸送も時間を要し、小樽経由で横浜へ到着したのは11月5日。白瀬の計画は遅れに遅れていたのです。

 

さて、十月の月二十有五日の日に大泊を立つた。小樽に翌日上陸し、それから小樽に六日暮らして、小樽から横濱までやつて來た。横濱へ上陸したのは、十一月の月の五日の日であつた。

翌日芝浦に來た。其の日、錦輝館へ犬を引張つて、南極探檢の事業の演説を聴きに出かけて行つた。其の時立派な人方の演説を聞いたら、私までも雄々しい心を振り興させられ、どんな事があつても此事業に邁進しようと思つた(ヤヨマネクフ)

 

ヤヨマネクフとは別に、敷香支庁よりカラフト犬の移送を託されたのが支庁職員のシシラトカ(花守信吉)でした。支庁長が集めたカラフト犬5頭の横浜輸送を任された彼は、そのままヤヨマネクフと共に白瀬探検隊の一員となって開南丸へ乗船。南極を目指すこととなります(カラフト犬以外には、ペットの猫「玉太郎」と食肉用の豚も乗っていました)。

 

さてその中に聞く所に據ると、樺太の敷香から花守信吉といふアイヌがやつて來るといふことだつた。

それから又、そうしてゐると、凾舘新聞の人々からもう五頭の犬を探檢隊の人々へ寄送して來た犬が新橋停車場へ來た。其犬どもを受取りに行つて、芝浦の月見亭へ連れて來た。

此の五頭の犬と、花守信吉が連れて來た五頭と、それから私が連れて來た二十頭の犬とで總數三十頭の犬がゐる。

さて、それからも尚南極探檢に出發するまで待つて暮す間には、方々の人達が探檢隊へ義捐金募集の演説を開いた(ヤヨマネクフ)

 

明治43年11月29日、ヤヨマネクフの20頭、シシラトカの5頭、函館新聞の5頭、計30頭の橇犬を乗せた開南丸は芝浦埠頭を出航。その日は船上壮行会が深夜へ及んだため館山沖へ投錨し、翌日から南下を開始します。

荒天、酷暑、真水不足、そして硫化水素の発生(開南丸はかつて千島火山帯の硫黄も運搬しており、船内に硫黄成分が染み込んでいました)に苦しみながら海上を進む白瀬隊でしたが、更なる災難に見舞われました。

出航から一週間もたたずに、カラフト犬たちが次々と命を落としていったのです。

熱中症だったのか、栄養不良だったのか、何かの感染症だったのか。昨日まで元気だった犬が突然死する異常事態に白瀬隊長も困惑しますが、解剖しても死因は不明でした(後に寄生虫感染と結論)。

その経緯と隊員の心境を、『開南丸航海日誌(南極探検隊付書記長・多田恵一)』『私の南極探檢記(白瀬矗)』『あいぬ物語(山邊安之助)』より抜粋してみましょう。

※「南極探検中に公開された航海日誌」と「後年になって書籍化された航海日誌」は細部が異なります。

 

十二月三日。晴。帆走。

起床同時から天候恢復して風波穏かになつた。

一天拭つたやうに晴れ渡つて險惡な雲も見えぬ。一行もぼつ〃蘇がへつたやうに甲板上に出て來る。元氣がつくと食氣がつく。

青白かつた顔色に紅を帶びて來る。皆晝食からは顔が揃ふやうになつた。

今日も犬群を甲板上に引出して手當をしてやる。愛猫玉公もいつの間にやら出て居る。皆まづはお互に御無事でと壽き合つた。

航程百十二浬(多田)

 

「船は滿帆に怒風を孕み、狂瀾怒涛を蹴つて矢の如く一路南へ進む。痛快だ。怒涛が山のやうに押し寄せて來る。船は笹の葉のやうに翻弄され、危ふく海底の藻屑にならふとしたことは幾回か知れない。

南極氷原を踏破する際に使ふために連れ込んだ樺太犬は、物凄く吠えたてる。わたし達は船倉へ坐つてゐたが、動揺のため轉々として室内を轉がされるので、ひもで身體を柱に結びつける者もあつた(白瀬矗)」

 

十二月五日。晴。帆走。

今日も海上平穏であるが、不圖(はからず)も一の悲劇が起つた。

そは輓犬(※橇の輓曳犬)三頭が朝より續いて斃死した事である。犬奉行山邊、花守、兩先生狼狽して御注進と士官室にやつて來る。三井所衛生掛は職掌柄馳せつけて見たが、命數最早如何ともすべからず。

こゝ東經百四十二度廿分、北緯廿九度四十七分の海上!あゝこの可憐なる三忠犬は未だ些の功勲も奏せず、所謂犬死に畢(おわ)つたのである。

午後三時隊長以下全員集合して、南無阿彌陀佛のお念佛裡に嚴かなる水葬に附した。

諡(おくりな)は樺水、南進、北來。アゝ、可憐なる魂魄は今し遠く北海の空に向つて飛びつゝあるのであらう!

航程八十一浬(多田恵一)

 

「晴天が幾日も續き、隊員一同はみな愉快な航海を祝福し合つた。ただ一つ小悲劇があつた。それは樺太犬が三頭も前後してたふれたことだ。花守、山邊といふ二人のアイヌ人が狼狽してこれを報告して來た。三井所衛生部長が駈けつけた時には、犬はすでに死んでゐた。わたし達は三頭の犬を、念佛しながら水葬した。この花守君は、樺太のタライカといふ所の産で、妻君の名はナイロといふ。琴瑟頗る相和し、すでに愛子新太郎君と、はな子さんとがある。天性無邪氣で、一行中の愛嬌者である。

もう一人の山邊君も、花守君に劣らず、夫婦仲がいゝ。この二人は樺太犬の世話係として一行に加はつて貰つたのである(白瀬矗)」

 

「段々行くにつれて暑さが烈しくなつて、三頭の犬が一度に死んだ。私どもは非常に不感に思つたから、隊長(サバネ・ニシパ)を始としそこに居る隊員達一同南無阿彌陀佛を唱へて首へ札を結付けて水中へ葬つた。

其時隊長以下人々一同、斯う云つた。「再び生れ返る時は、立派な人間に生れて來る様に!」そう云つた(ヤヨマネクフ)」

 

十二月十日。晴。汽走。

今日は更に風がないので、午前六時から汽走することになつた。朝から熾熱は酷烈である。

正午晝食して居ると、突然船首で鮪が釣れたと叫ぶ。鮪狂の余は二杯目の飯を食ひ掛けにして行つて見ると、高川水夫が今し丁度、最後の四尾目をつり上げる處だ。ひら〃と太陽を映じながらフホルマストを掠めて、ドツトと計り甲板の上に落ちる。

早速料理して試味する。

皆久しぶりのおさしみでうまいうまいの連發である。玉猫もニヤア〃と敬意を表しながら、傍らで頂戴する。皆で一、二椀の飯を過した。

折から鹽湯風呂に沐浴して居つた武田君は鼻うごめかして、「ドウダ今日おれが鮪の腸で餌を拵えて置いたから一つうまくかゝつたのだ」と得意然となる。二井君は早速撮影するや一時はなか〃の騒ぎである。

この騒ぎが少したつとまた一騒ぎが續發した。そは船首に鮪先生以前にも倍加して來襲して來たのだ。釣のチヤンピオン高川水夫は一氣呵成十二、三疋續けざまに釣り上げる。花守アイノ先生も手際よく釣り上げる。

忽ちにして前甲板は魚河岸同様に鮪の小山が築かれる。西川や三浦の先生は一生懸命に落ち込むのを中甲板に運ぶ。釣る程に釣れる程に午後三時過ぎには五十餘尾の鮪が獲れた。

渡邊コツクは、福島ボーイや酒井島兩先生を相手に前の鮪と共に料理やら貯造法に忙殺されて居る。

犬連も頭や骨を頂戴して意氣日頃に倍して揚々として居る。玉猫も欣然として食して居る。「今日は何て間がイーンデシヤウ」と例の滑稽隊長渡邊水夫は叫ぶ。皆一様にドツト計り哄笑する(多田恵一)

 

「幾日か帆走してゐるうちに、だん〃暑くなつて來た。暑さに耐へ兼ね、甲板上に露營する者が一日増しにふえた。甲板上の露營はちよつと洒落てゐるけれども、驟雨に見舞はれるのは閉口だ。

そのうち、再び犬が一頭病死したといつて來た。まだ三分の一も來ないうちに、かう續々たふれられては心細い。この犬も水葬した。緯經度を計つて見ると、東經百四十九度、北緯十二度であつた(白瀬矗)」

 

※12月28日に赤道通過。

「二十九日は輕風が吹いてゐた。船が赤道に近づくにつれて、一同は「赤道はどの邊だ」などといつて騒ぎ出した。一行中の惡戯者が、望遠鏡の鏡面に赤い横線を引いて「赤道が見えるぞ」といつて見せて廻つた(白瀬矗)」

 

十二月卅一日。曇。雨。帆走。

今日も朝から空が曇る。天も四十三年に別れるのがつらいので、不機嫌なのか知ら。

おまけにけふは午前七時、輓犬一頭また失ふた。赤南號と諡して水葬した。

今夜は除夜だからとて夕食にはなか〃の御馳走が出た(多田恵一)

 

明治44年

一月十一日。晴。帆走。

昨夜は實に寝心地がわるい夜であつた。室内は例のむしあついので、皆室外へ寝た。所が氣候が急に涼しくなつてきたので、それに當てられるからである。

かゝる起居は毎日繰返して居るけれど、マア皆健全なのは僥倖である。

午後隊長は船長と前途の事に就て色々打合せした結果、本船は探險終了まで本國に歸國せぬ事とした。航路の都合であるとか。

亦糧食の補充などに付議した。又隊長と船長と熟議の上、渡邊近三郎と林松進とを陸上隊に加入する事にした。これで陸上隊十一名、海上隊十三名となつた。

午後三時、先日來弱つて居た犬一頭斃死した。南海號として水葬した。

航程九十浬(多田恵一)

 

「午後三時、また〃犬がたふれた。これは南海號とおくり名して水葬した。どうしてこんなに引續いてたふれるのだらうか。極地に到着する頃には一頭も生殘るものがなくなりはしないかと、非常に心配になつた。山邊、花守の二人に懇々とその保護を申し渡した(白瀬矗)」

 

「段々赤道の暑さの烈しい海へ差し掛つて來た。此處へ來た時には隊員たちも非常に暑氣に苦まされ、犬も暑氣の爲に病に罹つてゐるのが段々死んで行く。此時こそは本當に暑さのひどい海であつたから、段々犬どもが斃れた。それを見た時には何とも胸も張裂けるやうな氣もちがして行つた(ヤヨマネクフ)」

 

一月十九日。晴。汽走。

昨夜は風があつたが、曉には又凪いだので午前五時から汽走した。

けふ午前に輓犬一頭頓死したり。原因も不明である。

これで七頭目である。

南白號とす。水葬した。

南無阿彌陀佛はあまり唱へやすいのでかう度々死ぬるのかも知れぬと云ふ處から、南無妙法蓮華經にしたのだ。

夜は一時帆走したが又凪いで汽走。

航程百十五浬(多田恵一)

 

一月廿一日。曇。帆走。

今日は朝からシヨボ〃雨が降る。何となく氣持の惡い日であつた。

朝食の時に愛猫玉太郎は余の手から誤つて潮流中に落ちた。あつと思ふけれど詮方がない。

逆まく波は悠忽(たちまち)彼を生ながら葬つてしまつた。

一部の船員からは舵機室に脱糞したと云つて、いたく忌まれて居たけれど、我等隊員には大に寵愛されて居たのだが……。かねて極地に伴ひ行かんと、かれも又一同の慰藉者であつたが……。

之も所謂天命であらう。生者必滅會者定離の理は人も獸もおなじで、生きとし生けるものゝ上には一度は來るべき神佛の掟である。余嘗て日露の戰時、遼陽城外の斥候戰に愛馬が重傷したのを其儘打すてゝ進軍した當時を追想して、終日無限の感慨往來して何とも云ふ可からざるものがあつた。

が、玉猫冥せよ。余幸に歸國の曉には懇ろに汝が菩提を弔つてやらう(多田恵一)

 

一月廿二日。曇。帆走。

夜來の風波不相で、船は好速力を續けて居る。

午前七時、先日より病臥して居る輓犬一頭斃死した。之で都合八頭目である。

南黑號として水葬した。この様子では極地に上陸する犬は先づ五、六頭位になるであらう。

夜は頗る涼しくなつた。緯度の進んだからではあるが、一つは天候の激變の然らしむる所である(多田恵一)

 

一月廿五日。曇。帆走。

起床して見ると又一頭の輓犬、而も昨日まで頗る丈夫なのが斃死した。こゝで九頭目であるが、病名はまあ腦充血とも云ふべきか。

近極號と諡して水葬した。續々犬が死ぬので甲板上の拾頭入れの犬箱は不用になつたので、朝食後隊員總掛取壊しにかゝつた。

凡て空房と云ふものは氣體の惡いものである、犬箱でもこの内に居たのが斃死したのだと思へばそゞろ惡感を催はされる。

午後も依然風向がよくない。然し大變波は穏かになつた。

午後は故國への通信などを皆書き始めた。夕食前久しぶりに淡水の湯が沸いたので沐浴して垢を去る。

航程五十八浬(多田恵一)

 

一月廿七日。晴。帆走、汽走。

又犬が死んだと隊長に起されて行て見ると、果然昨日まで元氣なのが又斃れた。

三井所君が解剖して見ると、死因は昨日のと同じことだ。南水號として水葬した。

是れでは人一人に犬一頭位の割に行きてくれれば結構だが、と隊長は心配顔である。なんぼ犬だつてかう無暗に犬死許りされては困る。

朝食後隊員總掛りで甲板上の薪炭を片附けて船倉に入れた。船は午前中汽走、夕方になると波が高くなる、少し雨も降る、風が荒くなる。出帆以來第三回の暴風となつて來た。

船長は叱咤命令する。船員は必死になつて右往左往、帆を操縱する。浪は遠慮もなく甲板を洗ふ(多田恵一)

 

「翌日は再び暴風雨となつた。夜に至り波はます〃荒れ狂ひ、船は揉みに揉まれた。その夜が明けると、平静にはなつたが、波はをさまらない。二、三日してやつと風浪がやはらいて來た。

このあひだにまた數頭の犬がたふれた。全體で十二頭を失つたことになる(白瀬矗)」

 

一月卅日。晴。帆走。

昨夜は夜半頃から帆の方向を變じたので、船房内に空氣の流通がわるくなり、例の惡臭(※硫化水素)鼻を衝き、腸に染むので早く起き出て見ると、先日來久しく弱つて居た輓犬が一頭又斃れて居る。是で十二頭目である。

隊長はさりとは佐々木、田中兩幹事の許に飼養されつゝある二頭こそ幸運兒なりと云ひけり。こんなことと知れば今少し後援會に預けて來たらなぞと嘆た。

今日の(諡は)南帶號として水葬した。

午後は最早新西蘭(ニュージーランド)の北島が見えるだらうと待ち暮らしたけれど見えなかつた。

航程三十浬(多田恵一)

 

一月卅一日。晴、少雨。帆走、汽走。

島が見えた見えたと叫ぶ。果然左舷一浬計距てゝ長蛇の如き島影は濤間(なみま)に聳えて居る。陸地近くなつたので、バカ鳥(※アホウドリ)も無數に來た。

彼處は新西蘭の北島であるのだ。

隊長も莞爾として出て來る。武田君始め隊員一同も嬉々然として居る。新西蘭は恰も我行の喜望峰である。

双眼鏡で凝視すれば、丁度馬關から宇品かけての沿岸を見る様な心地がする。山麓に立登る一帶の白煙さへ明瞭に見える。

船は此所から船首を西南に變じた。そして汽走することゝなつた。なつかしき島影はいつしか左舷の後方になりつゝ遠ざかり行くのである。

午前中隊員は總體で犬箱の空になつて居るのを片づけたり、犬箱の移轉など力(つと)めた。

午後になると又一頭の赤犬が斃れた。

これで愈々半數斃死、半數生殘りである。生者必滅とは云へ實に憐むべきである。

南の字を冠らせて諡してやつたが、だん〃増すのでこんどはなんとしてよいやらと隊長と相談して南赭號として水葬した。

夕方少しは凪いだ。夕食後は船尾室で隊長、船長始め皆んな談話が盛であつた。

航程八十浬(多田恵一)

 

二月八日。曇後晴。

いよ〃今日は入港と云ふので朝早くから起き出て見ると、昨日迄行きつ戻りつして居たキヤピト島も後方遥かになつた。空は少し曇つたけれども、風波は平穏である。

朝食後イルカの來訪續々。先生等も我船を歡迎すると見へる。例の銛で十尾許りつくことはついたが、道具がだめなので皆逃がしてしまつた。

朝來流石に港へ近いので、幾多の汽船や帆船は往來して居る。

午前十時、輓犬一頭斃死した。南新號として水葬した。

正午いよ〃ウエリントン(ニュージーランドの首都)港外に達した。對岸の彼方には二、三の荷物があり〃と見える。何となくなつかしい。

港と燈臺附近の邊には蓄牛が放飼してある。と見ると燈臺から二、三人出て來る。衛士にやあらん、我船を見て居る。

折から檣頭には船名旗が掲げられる。隊員船員は何れもニコ〃しながら服装を改める。

いつしか空も笑むらん漸次晴れて來る。

午後一時過ぎ、ウエリントン港内に入る(多田恵一)

 

「暑さが烈しくなつて實に我慢出來ない程であつたけれど、どうとも仕方がないまゝに段々と南へ南へ進んで行くと共に、毎日、毎日犬どもが死んだ。終にニユージーランドと云ふ島が見えるまでに、犬は殆んど死んで了つた。殘つた犬は十頭足らずで、ニユージーランドのウエルリントンと云ふ鄕へ四十四年の二月の八日に到着をした(ヤヨマネクフ)」

 

ニュージーランドで物資を補充した開南丸は、2月11日にウェリントン市民の盛大な見送りをうけながら南極へ出発。以降のカラフト犬については、白瀬中尉の回顧録から抜粋しましょう。

 

二月十一日にウエリントン港を出帆してから、二十六日に初めて氷山に遭遇するまでの二週間の航海は、大體において平凡なものであつた。時に暴風雨に惱まされることもあつたが、そんなことはなんでもなかつた。かへつて一同は勇氣を起したくらゐである。

從つて、このあひだの出來事として記すべきことは別にない。……輓犬が頻に死んだこと、濃霧のなかに閉ぢこめられたこと、鹽鮭を食べたこと、信天翁(アホウドリ)を笑つて眺めたこと……、それくらゐのものであつた(白瀬矗)

 

ようやく南極圏に到達した開南丸ですが、季節は結氷期へ移っていました。分厚い氷に阻まれて前進できず、何とか方向転換して上陸地点をさがすうちに天候も悪化。

流氷に閉じ込められるか、暴風雨で転覆するか。これ以上無理はできないと判断した白瀬隊長はオーストラリアへの撤退を決断。明治44年3月15日、南極大陸を目の前に開南丸は転進します。

そもそも橇犬の半数が死亡した状況で、どうやって上陸踏査するつもりだったのでしょうか。白瀬矗によると、生き残った犬は元気そうですけど。

 

「歸港の航海の無事であることは喜びに堪へないが、これに馴れてしまつて勇氣を失ふことがあつてはならん。平素の修養が根本なりと知るべきである」

頗る簡單ではあるが、要を得たつもりであつた。……折柄、輓犬が尾を振りながら甲板上を飛び廻つてゐたので、わたしはまた一句作つた。

暴風雨歇んで輓犬人に馴れてゐる

 

こうして第一次南極探険は上陸目前で敗退。

5月1日、南極圏から戻った開南丸はシドニーへ入港します。そこではじめて、白瀬矗はイギリス隊が1月2日、ノルウェー隊が1月14日に南極へ上陸したこと、そして探険隊後援会の櫻井熊太郎幹事が逝去したことを報らされました。

しかしオーストラリアから動けない以上はどうすることもできません。翌年の解氷期に向け、白瀬隊は第二次南極探険の準備に取りかかりました。

 

(南極探険編へ続く)

 

 

第二次探檢にして若しも成功しなかつたならば……、日章旗を南極大陸の極軸に立てることが出來なかつたならば……、なんの顔あつて故國の地を踏むことが出來よう。一意専心盡力してくれた後援會幹事諸氏に對することが出來よう。廣く熱烈な國民の同情に報いることが出來よう。

わたし達の責任は、氷山よりも重く、生命はペンギンの羽毛より輕い。

 

白瀬矗

 

南極を目の前にしながら、流氷と暴風雨に阻まれてオーストラリアへ撤退した白瀬探検隊。こうして第一次南極探険は失敗、翌夏までシドニーで待機することとなります。

野村船長と多田書記は一時帰国し、第二次探険け向けた資金調達とカラフト犬の補充を担当(体調不良の船員3名、コック1名も帰国)。

ライバルのスコット隊とアムンセン隊は既に南極へ上陸しており、来夏へ向けた拠点建設と南極点ルート開拓に取り組んでいました。白瀬隊は日本出発が遅れたうえ、さらに南極上陸にも半年間の差をつけられてしまったのです。

 

白瀬探検隊が集めた南樺太の橇犬たち。樺太アイヌが飼育していたカラフト犬は短毛タイプだったようですね(短毛タイプも分厚いアンダーコートをまとっていました)。

 

しかも、東洋人差別が激しいオーストラリアで白瀬隊は歓迎されませんでした。

シドニーの地元新聞は「彼らは日本軍のスパイだ」「クジラの密猟者だ」「人間ではなくゴリラである」などとバッシング。それを鵜吞みにしたオーストラリア軍が基地の警備を強化するほどでした。

 

隊長以下隊員一同は、いづれも豫備軍人にて、名を南極探檢に籍ふも、實はこの地に何等かの野心を有する軍事的日探(スパイ)である。よろしく上陸を謝絶して、萬一の危險を保障すべきだ(サン紙)

 

今度來た日本の探檢隊とかいふのは、僞物だ。あれは一つの捕鯨船に過ぎない密漁船だ。あんなちつぽけな船で南極まで行けるものか。

それから、隊員といふのも僞者だ。その證據には、身體が矮小で、眞黑で、動作が猿そのまゝだ(〃)

 

この誹謗中傷に対し、シドニー大学のエドワーズ・デビット教授(地質学者・南極探険家)が擁護の論陣を張ってくれました。

日本探檢隊はゴリラにあらず、猿にあらず、世界に比類なき勇ましい探檢隊である。僅かに二百噸ばかりの小船で探檢が出來たのだ。

これは世界第一の探檢船である。東洋から萬里の波濤を超えて來港せられたのでさへ異數であるのに、既に三月十日には、南緯七十四度の地 点まで進んだ。いまは不幸にして結氷のために引返したとはいへ、解氷の期に乗じて再擧を圖らんとするものである。

勇しい日本の探檢隊を大いにねぎらはねばならぬ。それが探檢隊に對するわれ〃の義務ではないか(白瀬矗)

 

以降、シドニー市民による「ゴリラへの警戒」は「異国の探検隊との交流」へ一変。剣道や柔道の練習、日本料理は大人気で、ついには結婚を申し込んでくる女性まで現れました。

さらに親日家のホーン氏が所有するミルストン公園の一画を無償提供してくれたため、白瀬隊はここに移動式木造家屋を持ち込んで半年間の野営生活をスタートします。

日本領事館は「国際上、あまり体裁の悪いことをされては困る。何事も形式主義の外人のことであるから、どんな妄弁を構えるかも知れない。なるべくならホテルへ泊まって貰いたい」と懇願しますが、資金不足の白瀬隊は拒否。野営生活を継続します。

 

そのころ日本では後援会による探検隊への寄付運動、そしてカラフト犬の補充がすすめられていました。山邊安之助隊員の故郷では、甥の尾山富治が再度のカラフト犬募集を担当。

同じ樺太アイヌの橋村彌八が犬のシドニー移送を担当します。

 

輓犬の補充については、小川運平氏の盡力で樺太廳及びその他有志の配慮により、三十頭の樺太犬をとりよせることが出來た。その犬の世話係として、アイヌ人橋村彌八君がつき添つて來た。

さて歸國後の野村船長、多田書記長兩氏は、先づ大隈伯邸に至り、第一次探檢の經過を報告し、今後の行動についての決心を述べ「今にしてわれ〃が歸國すれば、必ずや列國の物笑ひを招くであらうと思ふ。なんとかして再擧を決行して歸還したいから、それだけの資金の調達をお願ひ致したい」といふ意味の懇願をした。

 

明治44年5月17日、物資と資金を補充した野村船長がシドニーへ到着。11月16日には多田書記長と橋村彌八がカラフト犬とともに到着します。

既にスコット隊とアムンセン隊が行動を開始していたため、南極点到達はあきらめて学術探査へ方針を転換。下記のチームを編成しました。

荷を運ぶ犬橇の馭者は樺太アイヌの山邊安之助(ヤヨマネクフ)と花守信吉(シシラトカ)が担当、犬橇を扱えない白瀬ら和人は徒歩で随行することとなります。

 

(突進隊)隊長白瀬、武田、三井所、山邊、花守

(沿岸隊)支隊長池田、多田、西川、田泉、渡邊近三郎

(根拠地観測隊)村松、吉野

※シドニーで山邊隊員と再会した橋村彌八は南極探険参加を訴えますが、その願いは叶いませんでした。

 

【第二次南極探険】

 

こゝで、ちよつと橇について書いておかう。橇は二臺で、樺太製のものである。一臺の長さは十一尺、幅は一尺二寸、高さは一尺である。

これに十四、五頭の犬をつないでひかせるのだ。御車臺にはアイヌ人の山邊、花守の兩君が一人づつ乗り、鞭で御しながら進むのである。橇の上には食料品などを載せ、わたし達は徒歩でついて行くこととなつた。歩くと、身體のためにはちやうどいゝのである。たゞ危險なことは、龜裂(クレバス)といつて、谷間に雪がかゝりふさがつてゐて、ちよつと見たのでは分らない場所がある。

これさへ注意すればほかに危險なことは少ない。……龜裂については第二日のところで更に述べることにしよう。

犬橇は前後の二隊に別れ、前隊は十五頭引きで、花守君が御者、後隊は十三頭引きで、山邊君が御して進んだ。さうして前隊には、わたしと武田部長とが乗り、後隊には三井所部長が乗つた(白瀬矗)

 

1月20日、南極点へ向かう突進隊4名は樺太アイヌの犬橇2台で出発したものの、樺太とは比較にならない寒さと暴風、深い雪とクレバス、過積載による橇犬の疲労、霧による視界不良、蜃気楼による眩惑に苦しめられました。

 

明治四十四年十一月十九日―、わが開南丸はいよ〃第二次探檢の途につくこととなつた。

わたし達は早朝に起きて、各自部署につき、出帆の用意をした。芝浦をたつた時のやうな喰ひちがひもなく、一糸亂れず處理された船には、二箇月分の糧食と、南極大陸踏破の際に使用する橇の輓犬三十頭などを載せた。

正午近く荷積みは終了した。さうしてその頃には、ぼつ〃歡送者の姿が船内に現れて來た。

出帆は、午後三時と決定してゐる。午後二時頃、それらの群がる多數の船のあひだを縫つて、勢ひよく走つて來たランチがあつた。

シドニー入港以來、終始わが探檢隊に對し、同情を寄せられたシドニー大學教授デビツド氏が、わざ〃老軀をさげて、われ〃の行を送られたことは、長く忘れることが出來ない(白瀬矗)

 

現地調達が不可能な南極への航海においては、食糧の飲料水の節約が必要でした。問題となったのがカラフト犬です。途中で捕獲した海鳥やアザラシを利用しながら飼料のやりくりが続きました。

 

十二月中旬から月末になるにつれ、いままで節約して來た飲料水も、まもなく缺乏するらしい。……輓犬達は、毎日多量の水を飲むので、係の山邊、花守兩君は、毎日々々船の近くに流れて來る氷片を引上げたり、また、雪の降つた後には、日蔭の解け殘つた雪で、雪の饅頭をこしらへては、輓犬達に食べさせてやつた。

輓犬達は、一日三回、小屋から甲板へ引出し、鰊や鱒の干物と、水を與へてやる。……なにしろ狭い小屋のなかで、窮屈におし込められてゐるので、解放されると、彼等はとても喜んで、方々飛び廻る。そして、所きらはず小便をしたり、糞をしたりする(白瀬矗)

 

海豹を捕獲したが、なにしろ、二百瓩ちかい目方があるので、どうすることも出來ない。柴田水夫も、氷盤にあがつて、三人力を併せ、これをボートの中に引ずりこみ、意氣揚々と本船に凱旋した。

それから綱を海豹に巻きつけて、本船にひきあげた。

「山邊君、萬歳」

「花守君、さすがは名射だ」

などといはれて、兩人は大滿悦―。

そこで係の者は早速料理にとりかゝつた。肉はうまかつた。輓犬達も、思はぬ御馳走にあづかり、尾を振つて嬉んでゐた。わたしは、慰勞として、ブランデーを供した(白瀬矗)

 

巨大な氷山に航路を遮られながら、開南丸は上陸地点を探して前進。途中でアイヌ民族が神聖視するシャチの群れが現れ、山邊、花守隊員は「開南丸も、このやうに鯱の神に護られててゐる以上、前途は安全だ」と祈りを捧げました。

明治45年1月16日、小さな湾をみつけた白瀬隊は偵察チーム4名を派遣します。しかし湾岸部には深いクレバスが散在し、花守隊員が転落しかける事故も発生したために上陸を断念。目標を鯨湾へ変更しました。

前進する開南丸は国籍不明船と遭遇、接近したところノルウェー隊の探査船フラム号と判明します。アムンセン隊は前年12月14日に南極点へ到達しており、ノルウェーへの帰国準備中でした。

 

その日のうちに開南丸は鯨湾へ到着。白瀬隊は南極への上陸を開始しました。

偵察チームは氷堤上へ登攀し、高台から物資揚陸地点を選定。開南丸へ戻り、翌日の揚陸準備を整えます。

上陸部隊が氷堤上への通路を建設する間、野村船長は近くで停泊中のフラム号を表敬訪問しました。18日にはフラム号からも二名が開南丸を表敬訪問。船内を案内したところ「こんな船ではわれわれは到底ここまではさておき、途中までも来ることは出来ない」と驚かれます。

専用の探査船と犬橇4台(犬52頭)で南極点へ到達したノルウェー隊と、小型の改造船と犬橇2台(犬30頭)でロス棚氷の周囲を学術調査する日本隊。同じ半年間を南極で越冬しながらルート開拓したノルウェー隊と、オーストラリアで待機せざるを得なかった日本隊。

南極探険にかける資金や物量の差は、あまりにも大きかったのです。

 

十日以前に、南氷々原上約五哩の地點に投錨中のアムンゼン大佐一行の歸りを待ち受けてゐるのである。船長はニイルソン氏であつた。

……フラム號船員の語るところに依ると、この地方の氣候は、昨年に比べて非常に暖く、殊にこの二、三日は稀は好晴續きだつた。

さういふ立派な船に比べれば、わが開南丸は、實にお話にならない。しかし、そのお話にならない船が、現在かうして同一の地盤に仲よく並んでゐるのを思ふと、わたしは非常に誇りを感じた。

船は粗末でも、目的を達する點においては、聊か遜色もないからだ(白瀬矗)


南極へ出発する前、犬橇の準備をするシシラトカ(花守信吉)。橇は樺太アイヌ式の「シカリ」がそのまま用いられています。

 

降雪によって難航した氷堤上への通路開削も何とか完了。開南丸から根拠地隊・突進隊への物資運搬において、遂に犬橇の出番がきました。

 

十七日、隊員達は午前十時頃になつて起床した。先日の疲勞が甚だしかつたためである。

隊員一同は、船員の應援を得て、本船から氷原上へ四十個の荷物をおろした。この荷物は、陸上隊員として定められてゐる隊長たるわたしと、武田學術部長、三井所衛生部長、山邊、花守の五人と、氷堤上の根據地觀測係員として選ばれてゐる吉野、村松兩君の七人分の衣服と、糧食とをまとめたものである。

さうしてこれらの荷物を山邊、花守兩君が犬橇と手橇を使つて氷堤下まで運搬するのである。犬橇に使ふ犬は、すでに前日から氷原上に引出して、自由に放してあつた。

わたしは、武田部長と共に、花守君の御する十五頭だての犬橇に乗つて道路を開鑿、豫定地點である氷堤下に至り、實地踏査をすることになつた。

この後につゞゐて吉野、村松の兩君も山邊君の御する十五頭だての犬橇に乗つて用具を載せて出發した。「トウ〃トウ〃」とアイヌ語で犬をかりたてる聲も勇ましい。わたし達は、約三十分後、氷堤下についた(白瀬矗)

 
犬橇輸送で物資は揚陸できたものの、ひとときも油断はできません。
解氷期のため上陸地点の氷が割れはじめており、カラフト犬も危うく漂流しかけるところでした。

 

この灣内へ到着した當時には、開南丸の碇泊地點から氷堤までは三哩以上(約5km)もあつた。野氷はいまでは、その大半が流れ去り、殘つた部分もだん〃流れ出さうとしてゐる。

開南丸は流氷の多いために、危險を避け、少しく沖に出てゐる。

わたし達は「開南丸」と大聲で叫んだ。烈風は南から吹き續けるので、前方と應答する聲は聞えて來るが、ボートを浮べるのも危險なので、なか〃迎へに來ないらしい。

そのうちに、わたし達の立つてゐる附近の氷も、突然流れ出さうとした。わたしは「大變だ、大變だ」と叫びながら他の氷上に移つた。と思ったのも束の間、……また足もとの氷が動きはじめた。

わたし達は再び移動する。ところが別の氷盤上では山邊君と三十頭の輓犬を載せたまゝ流れ出さうとしてゐる。これを氣づいた吉野隊員は、咄嗟にその氷上に飛び移り、輓犬達を六尺棒を振り廻して、安全な氷上へと追ひたてた(白瀬矗)

 

明治45年1月19日、突進隊は内陸部へ向け出発。氷原で反射する紫外線により、初日から雪目(電気性眼炎)に苦しむ隊員が続出します。

 

開南丸といよ〃別れるとなればなんとなく淋しい。しかし、いまやわたし達は世紀の探檢の途につかうとしてゐるのだ。

そんな思ひに胸を惱ましてゐる時ではない。本船の人達と握手を交して、わたしはボートに乗り込んだ。

「しつかり頼むぞ」

「うん、大丈夫だ」

まもなく沿岸につき、わたし達は上陸した。そこまで見送つて來た沿岸隊は「隊長殿―、御成功を祈ります」と別れの言葉をはなむけてくれた。

わたしは「なあーに大丈夫だ」と確信をもつて答へた。

「そつちの方も頼むぞ」

「武田部長、お元氣で……」

「花守君、山邊君、シツカリ頼むぞ」

「それでは、これが暫くのお別れだ。お互に元氣で行かう」と代る〃別れの挨拶を交はした。

行く者も、殘る者も名殘は盡きない。しかし、それでは果てしない。

「さあ、行かう、行かう」と促して出發した。わたし達の成功を祈る萬歳の聲―、これに答へるわたし達の萬歳の叫び……。

わたし達は、沿岸隊がボートに乗つて本船へ歸着するのを見とゞけてから、氷盤に並んで、本船の一同と呼應し、再び萬歳を叫び交はした。

開南丸は一聲の氣笛を殘して動きはじめ、やがて灣口を離れ姿が見えなくなつた。

わたし達は荷物を氷堤上に運搬し、急斜面にかけ渡した例の橇もとりはづして氷堤上に運搬した。荷物は犬橇にひかせて氷堤上から南方に向ひ、約二哩の地點に至り、そこを根據地に定めることにした(白瀬矗)


太陽が沈まない南極の夏。日没がないので突進隊は時間を定めて就寝することとなります。

カラフト犬たちは南極の寒さにも耐え、雪の中で眠りました。

 

わたしと、武田、三井所兩君の三人は、狭い天幕の中で、殆ど抱き合ふやうに寝た。山邊、花守兩君は急造の天幕の中に寝た。

犬はさすがに強く、雪の上にころがつて寝てゐる。かうして第一日の突進は終つた。

氷原上の天幕のなかの一夜―、自分の網膜に一生ゑぐりつけられてゐるのは、極地の露營である。しかも萬里の無人境に同胞三人の野宿だ。―これくらゐ珍しい眠りはなからう。

「武田君、眠られたか、眠られたかね」

「いや―、まだ寝られない……。隊長は―?」

「わたしも同じだ。三井所君は―?」

答へはない……。たゞ、かすかに呼吸の聲が氷のやうな空氣のなかに聞えるばかりだ。

「もう眠つてしまつたのだらうよ。……どんな夢を見てゐることだらう」と武田部長はいふ。

夜ならぬ夜は刻々と更けて行き、あたりの夜氣ならぬ夜氣は沈々として天幕に當つて、身邊を襲うて來る。どうも夜のないのはおかしな話だ。

わたしは横になつたまま「寒くはないかね」と訊ねると、武田部長は「全く寒い」と答へる聲も、こほるほどだ。

「沿岸隊はどうしてゐるかな」

「もう、エドワード七世ランドに到着してゐるだらうか」

などと、わたしは武田部長と眠られぬまゝに、よもやまの話をした。

ふと耳をすますと、戸外で山邊、花守、兩君のさゝやきが聞える。彼等もきっと眠られないのか、また夢を破られたのか。語るところはなにか―、故郷の消息か……。

わたしは用達しに天幕の外に出た。ビリッと、針のやうな冷氣が毛皮の隙間から肌にしめいり、體溫も二、三度さがつたかと思はれるほどだ。

犬は並んでうづくまつてゐる。

見渡せば、白一色の世界は果てしなくひろがつてゐる。……靜寂だ。地球の廻轉が止まつたかと思はれるくらゐである。

わたし達一行と輓犬のほかには生あるものは一羽の鳥とてもゐない。まして植物などあらうはずはない。

再びわたしが天幕に入つた時は、武田部長はすや〃眠つてゐた(白瀬矗)

 

犬はといふと、面白い。只、もう、そのまゝ、ぐたりと雪の上に寝る。雪が降りかゝつても體が雪に埋まつても、平氣の平左。時々、頭を振動かしては、頭だけを雪の上に出してゐる。

體は全く雪の中。體の温かみで、雪がとけると、もう寒くはないのださうだ。極地探檢には非常に調法だ(白瀬矗)

 

1月22日には吹雪の影響で前進が困難となったため、9日分の食糧をデポすることで橇の重量を軽減しました。軽量化によって犬橇のスピードはあがったものの、数日後から食料と飼料の不足が行程に影響しはじめます。

 

一月二十三日(第四日)吹雪

輓犬はだん〃橇をひき馴れて來たのであらう。非常に好調に進んで、午後四時近く橇を止めて、晝飯をしたゝめ、午後六時に再び出發した。

雪がちら〃と降つて來たので、前隊の犬は、やゝもすると、道に迷ひがちであつた。そこで三井所部長は橇をおり、犬の先に立つて進んだ。そのうちに、雪は吹雪となり、すさまじい烈風が吹きまくる。

視界はきかなくなつた。そして天幕内で、今日一日の苦心を語り合ひながら晩餐をつとめた。

例によつて鯛味噌のあつい味噌汁は、なにより身體をあたゝめてくれる(白瀬矗)

 

極地の探檢に、犬は實に大事だといつたが、それは橇をひく爲である。

一番前に賢い犬をおいて、後へ後へ澤山つけて、橇をひかすのである。先登の犬が進む方に、すべての犬が不平もなく、不安もなく、只、ついて進んで行く。

處が、只、白い雪ばかりの極地だから、何の目當てもない。眞直に進んでゐると思つても、實は常に右へ左へ曲がり〃進んでゐる。その上、固まらぬ雪が深くて、橇もぬかりこみ、犬も喘ぐばかりで進みが遅い。

仕方なく、橇の重量を減ずる事にした。一番重いのは犬の食物、鰊や鮭の干したのだ。

もう、犬も、今までの様に十分食べる譯には行かなくなつた。もと一月の豫定で船を出ようとして、三分の二しか荷上げもしていない。その上、今、又、犬の食物を減らすのである。食物の少なくなつた位、心細い事があるか。

否、犬が居なくては、この重い荷物を、何うして運ぶか。けれども、時に取つては、此の外に更に仕方はなかつたのである。

 

白瀬矗『南極探檢實歴談(大正元年)』より

 

24日は氷塊に乗り上げて橇が転覆し、観測用のコンパスや磁針器が故障。気温も零下22度となり、修理にあたっていた武田部長が凍傷を負いました。

25日は猛吹雪に見舞われ、突進隊は遭難寸前に陥ります。

 

一月二十五日(第六日)大風雪

輓犬はだん〃要領がよくなつて、人が前にゐて引率しないと進まない。仕方がなく、わたしをはじめ、武田、三井所兩部長は交替に橇の先頭に立つて歩くことにした。相變らず氷骨(※雪が吹き固まった氷塊)は次から次へ現れて來る。

午後二時半、少憩の後、三時再び前進をはじめた。前方には雪が舞ひ狂つてゐる。吹雪襲來だ(白瀬矗)

 

猛吹雪の中を進んでいた前隊が振り返ると、食料を運ぶ後隊の姿は消えていました。気温は氷点下25度に下がり、凍死と餓死の危険が高まります。

白瀬隊長は竹竿とキャンバスで防風壁をつくり、吹雪をしのぎながら後隊の到着を待ちました。

 

しかし後隊の來るのをかうして待つてゐても心配なので、笛をとり出して吹かうとしたが、笛が氷つてゐて、笛が口にはりついて離れないから、用をなさない。

一同は聲を揃へて「オーイ、……オーイ」と叫んでも、一向應答がない。いつまでたつても、後隊の橇は影も形も見えない。

「オーイ、オーイ」といふ聲が聞えて來た。わたし達はその聲を聞きつけて、「おツ、來たぞ」とばかり喜ぶと共に、「オーイ、オーイ」とこちらからも聲を揃へて答へた。

そこへはるか彼方から數點の黑い影が現れ、それが次第に近づいて來た。兩方から互に呼び交しながら、漸く前隊と後隊とは再會することが出來た。

後隊の三井所部長の報告に依ると、前隊の橇を見失つたので、附近を熱心に探索した結果、氷骨上に一場の橇の痕跡があるのを發見し、それに勇氣を得て、大聲で呼んで見たが、一向返事がない。

前隊と連絡がとれなくては大變である。

後隊にはコンパスがないし、天幕の足もない。糧食と石油とはあるが……。

その時、三井所部長はなにか氣づいたことがあつて、歩き出した。するとその方向に、前隊の輓犬が殘して行つた凍傷から流れた血の跡やら、糞尿などの跡が發見された。

部長は躍り上つて喜んだ。これを頼りに橇を進め、暫く進んで行くうちに、前方にわたし達の橇の影をみとめたのであつた。

かうしてわたし達は無事にめぐりあひ、再び進むことになつたが、天候が險惡になつて來たので、露營することゝなり、わたしが造つた例の應急の防寒壁の下へ天幕を張つた。

犬は雪のなかへ身體を埋めて、頭だけ出して眠るらしい。馬に比べて輕便であり、經濟でもある(白瀬矗)

 

カラフト犬のため凍傷予防用の靴(100足分を携行)を携行していた筈ですが、「凍傷の出血」とあるようにこの時点で着用していたのかどうかは不明。

27日は、東に出現した山(実は蜃気楼)に眩惑されつつ傾斜を増す氷原を進みました。

 

犬
趾球の凍傷を防ぐ「犬靴」の事例として、朝鮮戦争時のアメリカ兵の写真を。
第45歩兵師団のブルース上等兵は、愛犬に防寒セーターと凍傷予防用ブーツを着用させています。

 

そして食料や飼料も残り少なくなったことで1月28日に前進を断念。南緯80度5分、西経156度37分の地を「大和雪原」と名付けて日本の領土を宣言します(南極大陸ではなく棚氷上なので宣言は無効)。

南極点に到達したアムンセン隊と比べて短い行程ではありましたが、スコット隊のように全滅することもなく、日本初の南極探査は成功をおさめたのです。

 

暫く休んだ後、この―永遠に記念すべきわれらの領土―「大和雪原」を出發したのは、午後二時三十分であつた。

「大和雪原よ、さらば……」

わたし達は、日章旗に名殘を惜しみつゝ橇を進めた。そして、午後五時三十分頃には、前夜の露營地についたが、橇はそれからも非常な速力で走り、夜半には二十七町の行程に達したので、そこに露營することにした。

この日の氣溫は氷點下十三度一分、雲量は七であつた。

翌二十九日は、午前九時に一同起床。同十一時三十分出發した。午後零時五十分、往路の最後の露營地をあとに、暫らく休憩してから前進を續け、午後六時十分には再び休憩、空腹をビスケツトでしのぎ、二十分後さらに前進をはじめたが、前隊の輓犬は非常に疲勞した。

さうして病犬が次第に數を増して來た。

そして午後十一時三十分休憩することゝなつた。この日の行程は二十四里十一町であつた。

晩餐をとつて出發したのは、翌三十日午前零時三十分で、これからは比較的進行も早く、同四時三十分露營することゝなつた。さうして午後四時まで休憩したので、いくらか疲勞がとれ、同五時出發した。

午後十時頃になつて、霧のなかに、鳥のやうなものが飛んでゐるのを認めたので、駈けつけて見ると、それは、行きがけにわれ〃が捨てた新聞紙が、風に舞つてゐたのであつた(白瀬矗)

 

帰路は濃霧に悩まされたものの、突進隊は1月31日に根拠地隊のもとへ帰還。更に2月2日、開南丸とも合流できました。

しかし2月4日に南極から撤退する際、「帰路の真水不足」を理由としてカラフト犬は置き去りにされてしまいます。救出できたのは6頭のみでした。

 

かうして翌四日午前六時から乗船を開始し、一時間ほどで、全部の収容を終つた。暫く別れてゐた開南丸に乗船した。

「お目出たう」

「お目出たう」

といふ聲が、あちらからも、こちらからも飛んで來る。幸ひに、無事再會することが出來たのは、なによりであると思ふ。

こゝで、わたし達に一つの悲劇があつた。といふのは生殘つた輓犬二十三頭との別離である。

わが隊のために始終、忠實に働いてくれた彼等は、わたし達にとつては恩人であつた。しかし飲料水の關係上、到底彼等を収容しても、保育することが出來ないために、わたし達は涙を呑んで彼等を氷原上に殘して行かなければならなかつた。

しかし、せめても彼等のためにとの心づかひから、干鱒數俵分を陸地に殘して來た。

輓犬係であつた花守、山邊君の歎きは、より以上であつたことであらう。わが子に別れるよりもつらく、さだめし斷腸の思ひがしたに相違ない(白瀬矗)

 

犬を置き去りにした状況について、山邊隊員の証言がこちら。

 

最後に、私達隊員一同と共に開南丸に乗込まうとした―、其時風が烈しく浪が大きく、流氷なども澤山集まつて來て、端艇を漕ぎ行く路もない。其位であつたから、犬はやつと六頭だけ端艇へ連れ込んだが、其餘の犬はみな遺いて來た。

さて、それから開南丸の方へ漕ぎ行くけれど、端艇の進む路も無いので、流氷の上へ端艇を上げてしまつた。

流氷の上を引つ張り〃して、凍らぬ水の所があると、水に卸して水のまゝに漕ぎ廻し、又流氷の上へ上げては流氷の上を引張つて行く。そうやって開南丸の方へやつて行くと、其時岸の上に遺された犬どもが、遠吠えに啼いて吾々を見送つてゐるのを見た時には何とも犬どもが可愛想で、心の裏で泣くやうな思ひをしながら、犬どもを振すてゝ開南丸へ死ぬ目を見てやつと着いた。

 

山邊安之助『あいぬ物語』より

 

南極点を目指した中で、軽い犬橇を主力とした白瀬隊やアムンセン隊は生還し、重い雪上車や馬橇を主力としたスコット隊は全滅しています。

当時の極地探検において、犬橇を選んだのは正解でした。

アムンセン隊は橇犬を食料としても用いており―犬にとっては迷惑な話ですが―柔軟な発想が成功へつながりました。白瀬隊が使った樺太のヌソも、極地での使用にたえうると証明されたのです。

 

 

樺太の犬橇(大正8年)

 

しかし、南極探検への反応は称賛ばかりではありません。

救出された6頭の犬は帰国を果し、うち5頭が東京の後援会員などへ譲渡、1頭はヤヨマネクフたちとともに故郷の樺太へ戻りました。南極へ置き去りにされた23頭の行方は、誰にも分かりません。

帰郷したヤヨマネクフは、同胞から犬の置き去り行為を責められます。後年には、日本犬保存会の平岩米吉も『動物文学』誌上において白瀬隊を批判しました。

 

もし事実とすれば、単に雪あらしにさまたげられて救出できなかつたのではなく、むしろ計画的に、もはや用済みとなつた犬を置き去りにしてきたということになる。いずれにせよ、千島の場合といい(※千島列島探険で、白瀬矗が愛犬を食料にしたこと)、これといい、そり犬の上にしばしばふりかかる苦難は痛ましい限りと言わなければならない。

 

平岩米吉「カラフト犬の記録(昭和34年)」より

 

平岩米吉が白瀬矗を批判した昭和34年、南極昭和基地においてカラフト犬タロ・ジロ兄弟の生存が確認されました。

白瀬隊から40数年後、カラフト犬は再び南極へ上陸したのです。

 

(続く)


 

「またどうして日本人なんだ?彼らは我々にサハリンを奪い返してくれると約束したが、いったい彼らはどこにいるんだ?」と出席者の一人が聞いた。

「今のところソビエト政権を倒すことは、困難だ。しかし、その準備はしていかなければならない。もし我々が一緒にやればもっとうまくいく。間もなく日本は北サハリンを取り戻すはずだ。しかし我々もこのことで日本を支援しなければならない」とイリジャヌゥは答えた。

「ソビエト政権はギリヤーク人とオロチョン人を全部強制的にコルホーズ(※集団農場)に追い込むはずだ」

火に油を注ぎたしながら、日本利権企業の通訳をしているヴァシカが言った。

「コルホーズでは誰も何物をも持てないのだ。すべてが国家の物になる。しかもこのコルホーズに入らぬ者がいると、ソビエト政権はトナカイもイヌも全部取り上げて、監獄に入れるのだ。そうなると、母親と子どもたちだけが残って、皆飢え死にしてしまうだろう」
ヴァシカは強調して付け加えた。
「だから、海に氷が来ないうちに船で日本(※南樺太)へ逃げるべきだ」
「どうして海を行くんだ」
男たちがざわめいた。
「南部に行くには冬でも森の道を通って行けるよ」
「冬、橇で移住するのはむずかしい」
ヴァシカが遮った。

「オロチョン人なら国境を越えられるだろう。トナカイは雪を恐れないからね。しかし、イヌ橇のギリヤーク人はそうはいかない。つかまってしまうだろう。舟なら、岸からずっと離れて出ていくことができる」

 

ニコライ・ヴィシネフスキー著 小山内道子訳『オタス サハリン北方少数民族の近代史』より

 

南樺太にて、戦争ごっこ中の子供たちとワンコ(昭和14年撮影)

 

無益なシベリア出兵が終り、ようやく平和が訪れた樺太島。しかし、その裏では帝政ロシアの後を継ぐソ連邦との駆け引きが始まっていました。

新たな火種になりかねなかったのが、先住民族の独立運動。

ソ連からの独立を目指す南樺太のヤクート人運動家は、日本政府に対して「樺太全土の奪取」と「シベリアへの軍事侵攻によるヤクーチア建国」をはたらきかけます。

いっぽう、治安当局の弾圧を逃れて北サハリンへ亡命する日本人も相次ぎました。女優の岡田嘉子もその一人です。

 

竹内良一

 

上の画像は昭和8年、蒲田撮影所における竹内良一・岡田嘉子夫妻。エアデールテリアは岡田さんの愛犬「花子」です。

皆が羨む俳優夫婦の仲はやがて冷めてしまい、岡田嘉子は演出家の杉本良吉と駆け落ち。昭和12年末、二人で南樺太の敷香へと向かいます。

共産主義者の杉本は、弾圧を逃れるためソ連への亡命を計画していました。当時の南樺太では、同じ理由でソ連への亡命事件が相次いでいたのです。

昭和13年1月3日、慰問を口実に日ソ国境地帯を訪れた二人は、樺太庁警察部国境警察隊の隙をついてソ連側への越境に成功。ここまではロマンティックな恋の逃避行でした。

 

しかし「共産圏で演劇活動をしたい」という夢物語など、粛清の嵐が吹き荒れるスターリン体制には通用しません。北サハリンへ亡命した日本人たちは、いずれも処刑・投獄されていたのです。
ソ連側は、不法入国した二人を受け入れる気など更々無し。それどころか、反体制派を処刑する口実に利用しました。
亜港からモスクワへ移送後、杉本良吉は日本のスパイとして銃殺、岡田嘉子も10年近く投獄されます。
……さて、岡田さんの人生をとやかく言うつもりはないのですが、気になっていることがひとつ。彼女の愛犬である花子は、亡命時に存命していたのでしょうか。
 
日本とソ連が国境で対峙する樺太島は、二度にわたって正規軍同士の地上戦が展開された「最前線」でした。
そこで暮らすカラフト犬たちも、否応なく日本の戦争に巻き込まれていったのです。
 
岡田嘉子
 昭和8年の軍用犬宣傳行進に参加した岡田嘉子と花子。傍らで日傘をさしているのは水谷八重子(初代)。
 
【陸軍歩兵学校のカラフト犬】
 

明治38年から日本の統治下におかれた南樺太では、犬の軍事利用がスタートしていました。大正2年まで豊原に駐屯していた樺太守備隊は、冬季の輸送に犬橇を用いたようです(正式採用だったのかどうかは不明)。

大正7年にはじまったシベリア出兵時にも、樺太で犬橇を使う日本兵の写真が幾つか残されています。陸軍独自の犬橇部隊ではなく、現地の犬橇を借り上げたのでしょう。
 
犬
シベリア出兵時、幌内川上流域のオノールに駐屯していた歩兵第65連隊第4中隊(大正10年末~11年頃の撮影)
 
続いて、千葉県の陸軍歩兵学校もカラフト犬の軍用化テストに取り組みます。
軍馬の知識しかなかった日本軍は、日露戦争で近代的なロシア軍用犬部隊に遭遇。続く第一次世界大戦でも欧州各国が軍用犬を実戦投入したことを知ります。
特に、ベルギー軍が用いていた荷車運搬犬はその奇異な姿から各国で報道されました。小説『フランダースの犬』でパトラッシュがミルク缶を運んでいたとおり、ベルギーには荷車犬の文化があったのです。
武器弾薬や負傷兵を運ぶ荷車犬は(日本では「負傷兵を引きずって運ぶ犬」と誤訳されましたが)、カラフト犬も得意とする作業でした。
新戦術を研究する歩兵学校では、この運搬犬に注目します。
 
帝國ノ犬達-荷役犬

第一次世界大戦にて、機関銃を運搬するベルギー軍輓曳犬

大正2年に各国の軍事レポートを調査した陸軍歩兵学校は、大正8年度から「近代的軍用犬」の研究に着手。まずはドイツ、オーストリア、イギリス各国の訓練マニュアルを参考に、日本独自の方針が模索されます。
 
鳩及犬を訓練して軍用に使用する事に関しては、既に歐洲諸國に於ては古くより若干の實驗を有せしが、今次の大戰に於て長足の進歩を遂げ、軍事的應用の範圍大に擴張せらるゝに至れり。
此に於て我國も亦臨時軍用鳩研究委員會を設け、軍用鳩研究の歩を進めたるも、軍用犬に関しては未だ何等施設研究の方法を設けられしを聞かず。
元來軍用犬の役務は吾人歩兵と最も密接なる關係を有し、之が研究忽せにすべからざるを以て、大正八年秋季より軍用犬研究に着手せり(陸軍歩兵学校)
 
歩兵学校
陸軍歩兵学校でテスト中の輓曳犬。日本陸軍におけるカラフト犬の用途は、犬橇ではなく荷車牽引を想定していました(大正時代の撮影)
 
極めて小規模の試驗的のものを除き、廣く一般の軍用に供する爲には我國軍として必ずしも歐米某國のものを全然踏襲する事能はざる事明なり。故に我國に於ても比較的多くの得數を豫期せらるゝ各種の優良犬(必ず内國産のものに限らず)に就き其能力を査覈し、訓練術の進歩に伴ひ、之に適する役務を判定し、次で戰術上の判斷に基く實際的用途を加味して、茲に我國軍に於ける軍用犬使用の根本方針を概定し、此方針の下に訓練術及戰術的用法を併せ研究すると共に、一方に於ては犬種の改良並新なる方面の研究を爲すを有利とせん。
従つて研究着手の順序は概ね左の如くなるを適當とす。
(1)我國軍に於て採用すべき軍用犬の種類及之に課すべき役務の決定。
(2)戰術上の顧慮に基き、軍用犬使用の範圍即ち如何なる種類の戰闘に於て如何なる場合に使用するを本則とするや、又如何なる部隊に配属するや及其配属方法の研究決定。
(3)各役務に應ずる犬の訓練法並戰術的用法の研究。
(4)以上と同時に犬種の改良増殖並新資料に關する件。
 
試験用の犬を集めるための方針が定められ、その中にカラフト犬が加えられます。
調達対象エリアとして「西伯利亜、樺太」があげられており、当時のシベリア出兵で得た犬を活用しようとしていたのでしょう。
 
飼養數及蒐集の手段
1.本期の研究目的に對しては、成る可く多くの頭數に就きて試驗するを有利とするも、經費の關係上概ね十五頭以内を目途とす。
2.蒐集手段としては、内地諸方面と連絡して軍用に適する優良犬を蒐集するの外、西伯利亜、樺太、滿洲等にあるものに就ても蒐集の手段を講ず。又、千葉付近の雑種犬中優良なるものも収容し、併せ研究す(陸軍歩兵学校)
 
歩兵学校セッター 
第一期計画では様々な犬種が集められました。画像の長毛犬は歩兵学校のセッターですが、詳細は不明。テスト結果は「軍用に適せず」とあるのみです。
 
第一期計劃目的
訓練順致の方法の研究竝、主として内地産各種類の能力(智力、體力)を試驗し、將來國軍に採用すべき犬種及役務決定の概略資料を得る事。
犬は主に内産及樺太に産する血統を一定せる種類を蒐集す(〃)
 
ジステンパーの流行や不適格犬の入れ替えなどを経て、第二期からカラフト犬「四郎」と「九郎」が参加します。残念ながら九郎は病死、四郎のみでの研究となりました。
 
帝國ノ犬達-歩兵学校
大正10年6月、陸軍歩兵学校で撮影されたカラフト犬「四郎」。「狼犬」とは、後のジャーマン・シェパード・ドッグのことです。
 
第二期計劃目的
國軍に採用すべき軍用犬使用の根本方針として次の二問題を解決し、傍ら訓練及馴致に關する研究を繼續するにあり。
1.軍用犬に課すべき役務及び如何なる戰況に於て使用するを本則とするや。
2.軍用犬の編成及之を戰鬪部隊に配属する方法如何。

一、現在収容犬數 

大正十年二月
【獨逸番羊犬(※シェパード)】四頭 
恵智號、恵須號、レオ號(牡)、タンク號
【獨逸ポインター】一頭 
三保號
【雑種犬】一頭 
不二號
【樺太犬】二頭 
四郎號、九郎號

ニ、演習課目及其成績
第一、傳令犬
1.恵智號(獨逸番羊犬牡)
傳令演習をなしたる外、送(受)信所に停止する時間の延長に慣れしむる事を目的として、演習せり。之が初めに於ては距離を減じ、五百米のニ地に於て約五分間停止せしめ、其確實となるに從ひ漸次に其距離と時間とを増大し、中間には約七百米にして十五分間、日本(原文ママ)に於ては、約一千米の距離にて二十五分間停止せしめ、確実に傳令の勤務に服するを得たり。
演習の一例左の如し
距離一千米、一地點停止時間二十五分間。
第一回 經過時間 二分三十秒 
第二回 右同 三分二十秒
第三回 右同 三分
第四回 右同 二分五十秒

2.三保號(獨逸ポインター牝)
病気の爲演習中止中なりしが、十七日に至り全快せしを以て傳令演習を実施し、五十米のニ地間を往復するに至れり。但し、本犬は其獵犬種たる特性上、將來の發達は覺束なきものと認む。
※猟犬種は遭遇した野鳥などに反応してしまい、軍事任務に集中できない恐れがありました。
3.レヲ號(獨逸番羊犬牡)
課目 左側伴行 日数六日(索革ヲ附ス) 自一月六日 至一月十一日 
課目 左側伴行 日数六日(索革ヲ附ス) 自一月十二日 至一月十八日 
課目 正座 日数七日 自一月十九日 至一月二十五日
課目 正座継続 日数六日 自一月二十六日 至一月三十一日
課目 伏臥 日数八日 自二月一日 至二月十一日
四、五、六、三日間病休。
課目 伏臥繼續 日数十日 自二月十二日 至二月二十四日
十五日、元氣不足の爲中止。
課目 行進中伏臥 日数三日 自二月二十五日 至二月二十七日
本犬は性質怜悧にして、理解力に富み、沈着なる爲、訓練の進歩程度目下の處良好なり。

・タンク號(獨逸番羊犬)
教育表略。

第二、輓曳犬
 
1.不二號(雑種犬)
先月に引續き輓曳演習を実施したるも、本犬は其性質怜悧ならざるを以て、現在の程度以上に進歩せしむる事能はざるものの如く、將來研究上の價値なきを以て、廃犬としたき希望なり。
2.恵須號(獨逸番羊犬牝)
先月に引續き輓曳演習を實施す。別に記すべきものなし。
3.四郎號(樺太犬牡 新規購入)
教育表略。
・九郎號(樺太犬 新規購入)
病死。

第三、衛生状態
一、樺太犬九郎號は本月ニ日午前ニ時發病し、三日午前五時三十分死す。解剖の結果膀胱炎と判定す。
ニ、三保號は先月二十五日發病し、本月二十七日全快せり。
三、其他は良好なり。

研究経過の概要 
第ニ期に於ては獨逸番羊犬ニ頭を借用し、一頭寄贈を受けたる外、樺太犬ニ頭、秋田犬二頭を購買したるも、樺太犬一頭は病死したるを以て、目下學校に有する犬は十一頭なり。
逐次傳令輓曳用として訓練したるも、犬の役務の適不適を判定するに及び、分業的に訓練し、獨逸番羊犬は傳令用に、樺太犬、雑種犬は輓曳用に訓練し、本年の甲種學生野營演習に獨逸番羊犬二頭を初めて傳令用として参加せしめ、相當の効果を擧げ得たり。

現時迄に研究し得たる事項
軍用犬研究の目的は、前述の如く三期に分ち詳細に規定したるも、經費僅少にして所定の犬を得る能はざる爲、充分に其目的を達するを得ずして、功勞相伴はざるものありしも、左記事項に就ては概ね研究する事を得たり。
 
1.所要訓練日數
軍用犬の所要の訓練日數は、犬の性質及能力に大なる關係を有するを以て、一定する能はざるも、能力中等の犬なれば、傳令用として概ね三ヶ月、輓曳用としてニ、三ケ月を要す。
2.犬の役務の適不適
内地各地に飼養せらるる雑種犬(本邦に飼養せらるゝ犬の大部分)は、輓曳用として使用し得るも傳令勤務に服せしむるを得ず。
優良なる獵犬として賞揚せらるゝセッター種、ポインター種及秋田犬は軍用に適せず。
獨逸番羊犬は軍用犬として良好なる種族と認む。
樺太犬は傳令勤務に使用し得ざるも、輓曳用として最も適當なり。
3.犬の能力
獨逸番羊犬は傳令勤務に服し、一吉米を三乃至五分の速度を以て、四吉米内外の距離を確実に往復通信し得。
樺太犬並雑種犬の強健なるものは、平坦堅硬なる道路に於て、概ね十一、ニ貫の貨物を搬送し、日々十里内外の行軍に連續耐ゆる事を得。
 
帝國ノ犬達-歩兵学校
研究第三期、大正11年に撮影されたシェパードの恵須と恵智、そしてカラフト犬の四郎。
 
カラフト犬の最終評価は下記のとおり。要約すると「輓曳犬として最適のものと認める」と高評価ながら「ただし、戦地、特に夏期に於ける使用は困難」というものでした。
カラフト犬は優れた運搬犬ではあるが、暑さに弱いから使い物にならないという事。最初から分かりそうなものですが、何でも試してみるのが歩兵学校の役割でした。
 
第三期計劃目的
本期に於ては漸次2期の諸施設を擴張し、第2期に於て決定せられたる方針に基き、益々研究を進め、以て我國軍に於ける軍用犬の使用の根本を確定し、併せて犬種の改良及増殖の研究に任す。

第三期研究計画に基き、第二期の研究を繼續す。而して其重なる研究事項次の如し。
1.各種犬の能力の判定並に各種役務達成能力の鑑識
2.既研究の結果に依る訓練方法並訓練回數の研究
3.各種役務に應ずる犬の戰術的用法の研究
4.保育衛生

第二、研究實施の概況
大正十年十二月より大正十一年十一月に至る間を研究第三期とし、前項研究目的に基き左の研究を実施したり。

一、各種犬の能力の判定並に各種役務達成能力の鑑識
研究初期以來飼養して、其の訓練を略々完了したる狼犬、秋田犬及樺太犬の能力並に各種役務達成能力の鑑識の既研究事項に基き、研究を繼續して之が向上を計りしと共に、新役務達成能力の鑑識に努め、又新に左記犬を飼養訓練して、其能力並に之に課すべき役務並に軍用犬としての可否を判定する爲の研究を實施せり。

左記
【狼犬】三頭
牡(六年九箇月)牡(六年十箇月)、牝(六年十一箇月、大正十一年三月より飼養。
【アイリシユテリヤ】一頭
牡(一歳) 大正十一年三月より飼養。
【エヤデルテリヤ】二頭
牡牝仔犬。大正十一年六月より飼養。

尚、前記より飼養せし秋田犬牡一頭は老齢にして研究を繼續するを不適當と認め研究を斷念せり。且つ土佐犬、秋田犬、番羊犬等研究の目的を以つて蒐集に努めたるも、諸種の障碍に依り其目的を達する事能はざりしを遺憾とす。
右の如き状態にありしを以て、自然既研究事項の程度を深くしたるに止まるもの多く、新役務の研究として僅かに傳令犬に對して渡河連絡法、飛行機より投下する通信筒の捜索、市街地の連絡、夜間の傳令等に研究の歩を進めたると、輓曳、斥候、警戒勤務に一部の研究を實施したるに過ぎず。

ニ、既研究の結果に依る訓練方法並訓練回數の研究
本研究は第二期研究に於て略々正鵠を得たるが如き状態なりしも、之を狼犬以外の犬種に對して直ちに適用し得るや否や疑問にして、特に自ら訓練中なるテリヤ種に依りて得たる研究の結果は、注目すべきものと信ず。
 
一、各種犬の能力の判定
(1)狼犬(※シェパード)
各種の能力卓越し、各種の役務就中傳令捜索及警戒に優秀なる能力を有し、軍用犬として好適のものと認む。本犬の優越点は前年度報告の如しと雖も、特に怜悧にして服從心に富み、熱心任務を完ふせざれば止まざるの美點は益々之を明瞭に知るを得たり。
唯、本犬の不利とするは之が繁殖力の弱き点にして、本邦に於て産したるものは、良好なる成績を擧ぐるに拘らず、外國産の犬は内地に於て其繁殖力弱し(青島は成績良好なり)。
故に之を國軍に採用するの秋を顧慮すれば、之が繁殖には馬種改良の如き機關を必要とせん。
※国内飼育頭数の少なさが心配されたものの、昭和3年にシェパード愛好団体が設立されると、シェパードが大流行しました。ちなみに「青島」とはドイツ租借地山東省青島の警察犬「青島系シェパード」のことです。
(2)テリヤ種犬
本種犬は更に「ブルテリヤ」「ボストンテリヤ」「アイリツシテリヤ」「エヤーデルテリヤ」「ホオツクステリヤ」等各種犬ありと雖も、斉しく自己の目的に向つては飽く迄努力するの美點を有す。而して體躯は小なるも勁健、勇敢にして嗅覺甚だ鋭敏且つ主人に親しみ易き性大なり。
目下研究中に属し、判決を得るに至らざるも、軍用犬として好適なるものゝ如し。
※エアデールテリアが軍用適種犬に選定されました。
(3)秋田犬
前年度研究に使用したる犬の外、良種を得るの機会なかりしを以て、輓曳の外研究を實施せず。從つて之が軍用犬としての可否は更に優良種を俟つて判決を下さんとす。但し、輓曳能力は良好なるものと認む。
(4)樺太犬 
輓曳犬として最適のものと認む。但し、戰地、就中夏期に於ける使用は困難なり。研究に供するに乏しき爲、其他の能力は不明なり。原産地に於て土人の唯一の伴侶として之に課しつゝある役務に鑑みる時は、之に他の役務を課して大に利用するに足る犬種にあらざるやを思はしむ。
故に之が判決は優良種を得て更に研究を實施したる後に於てするを適當と認む。

暑い本州で頑張ったあげく「研究は続けるけど、夏の戦場では使えない」と言い渡されたカラフト犬の四郎號。
それで切り捨てるのはあんまりなので、四郎の雄姿を紹介しておきましょう。
 

帝國ノ犬達-運搬犬

大正10年に陸軍歩兵学校で撮影された連続写真より、まずは荷車を曳く四郎と秋田犬(おそらく雜種)。

 

帝國ノ犬達-犬車

一旦停止する四郎たち
 

帝國ノ犬達-運搬犬

伏せる四郎たち(下顎を地面につけるのが「伏せ」、頭を上げるのは「休止」)

帝國ノ犬達-運搬犬

ご主人も一緒に伏せます。


帝國ノ犬達-運搬

たとえ主人がいなくても伏せ続けます。

因みにコレ、昭和になって絵葉書用に着色された加工写真。元画像に「弾薬車」の文字はありません。

大正10年に歩兵学校が公表した元の写真はこちら↓

 

 帝國ノ犬達-運搬犬

 

上記の連続写真はとても有名で、軍事系サイトでは「日中戦争で活躍する日本軍の荷車犬」として取り上げられたりします。

しかし、大正時代の千葉県で撮影された四郎の写真をあげて「日中戦争で活躍した」と主張するのは困りものです。

 
帝國ノ犬達-運搬犬
輓曳運搬犬に代わって主力となった駄載運搬犬(昭和5年)
 
陸軍が運搬犬に求めたのは、冬季限定ではなくオールシーズンでの作業能力です。
荷車を曳きながら不整地を移動する輓曳運搬は難しく、兵士による介助も必要でした。それだと戦場では役に立たないとして、歩兵学校は輓曳運搬犬から駄載運搬犬へと研究方針を転換します。
胴体に装着したサドルバッグで荷物を運ぶ駄載運搬は、軽装かつ犬単独で行動可能。伝令犬に荷物を運ばせるだけなので、訓練ノウハウも共有できます。
結果、「優れた橇犬」ではなく「優れた伝令犬」が主力軍犬種の座を射止めました。
それこそが独逸番羊犬。後のジャーマン・シェパード・ドッグです。

 

シェパードが主役となったことで、カラフト犬はデータ収集用に格下げとなりました。

昭和3年頃までは、陸軍歩兵学校の記録にカラフト犬の姿が確認できます。しかし同時期から日本ペット界ではシェパード飼育が大流行。カラフト犬よりも容易に国内調達できる品種となりました。
満州事変で実戦デビューしたシェパードは、主力軍用適種犬として戦地へ投入され続けます。帝国軍用犬協会や日本シェパード犬協会といった大規模団体も発足し、調達システムも確立されました。
シェパードの軍事利用が拡大した結果、カラフト犬は戦争に巻き込まれずに済んだのです。
 
帝國ノ犬達-樺太犬

失格判定後も、陸軍歩兵学校はカラフト犬の研究を続けました(昭和3年)

 

【ヴィノクーロフとオタスの杜】

 

陸軍歩兵学校の軍用犬研究が終った大正11年、ロシア革命に端を発するシベリア出兵は、何の成果も得られないまま撤退となります。尼港事件の保障占領として大正14年まで北サハリンに残っていたサガレン州派遣軍も、日本とソ連の国交が樹立されたことで撤退が決まりました。

これにより、北サハリンは再びロシア人の支配下におかれます。

北サハリンで財をなしたヤクート人毛皮商、ドミトリー・ヴィノクーロフは、ソ連による少数民族の抑圧を憂慮していました。

大正14年2月、彼は先住民族の代表者大会に高須俊次少将をまねき、「北サハリンからの日本軍撤退により、我々はソ連の脅威に直面する」と訴えます。

 

ヴィノクーロフがこの言葉に応えるべく登壇した。「ソビエト政権は原地民を侮辱するだろう。私にはこのことが分かっている。なぜなら私はロシア人の中で働いていたからだ。また、この政権は原地民を騙すだろう。金持ちからは財産を没収するはずだ。今、これから全員仕事をしなければならない。
日本の軍人を犬ぞりで運ぶ仕事だ。日本人は十分報酬を支払ってくれる。我々現地民は今では日本国民である(※日本政府は、アイヌ民族以外に戸籍を与えていません)。
もし、日本とソ連邦の間に大きな戦争が起こったら、我々現地民は日本を助けるのだ。ボリシェビキというのは、いわば獣である。我が住民は戦場で戦うことを習い覚えなければならない」
ヴィノクーロフの後にさらに何人かが発言した。
「もしもソビエト政権になったら、ひどいことになるだろう。日本を助けよう!なぜか―我々は今、良い暮らしをしているからだ」
「現地民は皆優秀な射撃手だ。ボリシェビキをサハリンから追い出そうではないか」
「我々住民は無学だから、戦争をするのは無理だ。しかし、もし日本人が教えてくれるなら、我々は断りはしない」
大会決議には次のように書かれた。

「全現地民はこれから日本軍のために犬橇を提供して働くこととする。また戦争になった時には、赤軍と戦うべく協力しなければならない」

 

ニコライ・ヴィシネフスキー著 小山内道子訳『オタス サハリン北方少数民族の近代史』より

 

ソ連への抵抗運動をはじめたヴィノクーロフは南樺太へ亡命。シベリアの少数民族にソ連軍と戦う術はないと理解していた彼は、日本の軍事力にすがろうとしたのです。

迎える側の樺太庁は、ヴィノクーロフを「オタスの杜」の有力者に据えました。突拍子もないシベリア侵攻論に応じる気はなくとも、彼が少数民族を束ねれば越境偵察作戦に利用できるかもしれません。

ウィルタとニヴフの統括者として君臨した彼は、日本政府とのパイプを構築。樺太全土の奪取、シベリアへの軍事侵攻を天皇に直訴しようと上京するも、拓務省はこれを拒否します。荒木貞夫や頭山満が理解を示してくれたものの、具体的な支援は得られませんでした。

日本政府は「ソ連の共産政権が行き詰まるには50年かかる」と予測しており、サハリンの油田開発をスターリンと交渉している以上は満洲の権益確保が優先だったのです。

 

南樺太で大規模な乱開発が進んだ結果、動物たちは自然が残る(開拓が遅れたため)北サハリンへ移動。「国境」という概念がない遊牧民はトナカイを追って国境を行き来し、そのたび日本とソ連の警備隊に拘束されていました。
ソ連内務人民委員部は彼らを工作員として南樺太へ送り返し、スパイ網を構築します。観光地であった敷香は、同時に最前線でもあったのです。

やがて、ソ連当局によって北サハリンの反共勢力は壊滅。ヴィノクーロフも北サハリンへ拉致され、スパイに仕立て上げられます。従順なフリをして南樺太へ戻った彼はソ連側の工作員を捕縛して警察へ連行するも、訊問された容疑者が「ヴィノクーロフは北サハリンへ行った」と白状してしまったため、自身にもスパイの疑いがかかってしまいました。

釈放後もオタスの有力者であり続けたヴィノクーロフですが、日本からもソ連からも見捨てられたまま、昭和17年に死去します。

 

このように、樺太国境地帯では日本軍とソ連軍の双方が先住民族を利用した暗闘を演じていました。

かつてヴィノクーロフが提唱した「先住民族による犬橇部隊」も、上敷香に拠点をおく方面軍特殊情報部樺太支部所属の遊撃戦部隊として発足します。この部隊は国境地帯のソ連軍に対する偵察や破壊工作を任務としており、日本兵では耐えられない樺太の冬季ゲリラ戦も遂行可能でした。

もちろん特務機関は「シベリア先住民の独立支援」など考えていません。国境地帯の地理に詳しく、積雪期の行動にも慣れた先住民を「使い勝手のよい日本軍の手駒」として訓練しただけです。

遊撃隊員には自宅待機が命じられたまま、幸いにも出動の機会は訪れませんでした(昭和20年のソ連軍侵攻も犬橇が使えない夏期でしたし)。

しかし、その存在を察知したソ連軍は日本敗戦後のサハリンで部隊員を検挙。矯正労働へ従事させています。

 

帝國ノ犬達-犬橇

極地戦においては、各国が犬橇部隊やトナカイ橇部隊を編成していました。画像はナチスドイツ軍の犬橇部隊です(東部戦線にて)

 

【戦時下のカラフト犬】

 
短期間で決着するはずの日中戦争は泥沼化。総力戦の様相を呈しはじめ、やがてカラフト犬も巻き込まれていきます。
昭和15年、陸軍第7師団は冬期戦用にカラフト犬の配備を決定。しかし同師団は北海道防衛の要であり、ノモンハンから帰還後は一木支隊(ガダルカナル島)や北海支隊(アッツ島)を派遣した程度です。
「動かざる師団」のカラフト犬部隊が、大陸の戦場へ配備されることはなかったのでしょう。
 
近代戰の兵器として將兵に劣らぬ武勲を輝かしてゐるもの云はぬ戰士軍犬に關しては、専門的立場から北鎮師團(第七師団)で檢討を進めてゐたが、今回酷寒深雪時における樺太犬の威力が認められ、ここに從來のシエパードと共に鄕土部隊が誇る軍犬二種類が新たに登場することとなつた。
石田部隊獸醫部では、樺太犬に對する研究を更に進めるため、來冬から○○頭を大陸戰野、或は特殊地帶に送り、實戰的に使用することとなり、その結果を確める計劃を樹てて居り、殊に長期戰下のこれ等軍犬所有者に對しては、一朝有事の際における晴れの出勤に待機せしめるため、「軍犬カード」を作製することになつてゐる(北海タイムス)
 
また、軍特務機関が先住民で編成した国境遊撃戦部隊とは別に、陸軍独立混成旅団もトナカイとカラフト犬の研究に着手。吠えまくって隠密行動がとれない犬橇はあきらめ、昭和19年にトナカイ橇部隊を編成したそうです。
この部隊は上敷香に配備され、さらに千島列島方面へ犬橇部隊を送り出すため北海道へ移動したものの、敗戦によって計画は中止されました。
ちなみにこの部隊出身者は戦後に北海道へ引き揚げ、第一次南極観測隊の犬橇訓練を指導することとなります。
 
陸軍がこれを利用し出したのは戦争の末期で、敷香の奥の上敷香の駐在部隊にトナカイと犬の部隊が編成されて基礎訓練をはじめたのは一九四四年の冬からであった。翌年に入ってから、千島列島の島々に陸軍部隊が送られたが、島内の連絡には冬季は自動車も馬もつかえず犬ソリ以外にないとして、敷香地方から優秀なカラフトイヌを買い集め、まずそのうち三十數頭を小樽港に送って、千島への廻送を待っていた。しかし戦況はますます不利になり、その一部を千島に送っただけで戦いは敗け、残りは北海道で民間に渡ったのだった。
これとは別に千島の占守島に派遣されていた通信隊の轟部隊は三〇頭のカラフトイヌと三台のソリを保有し、部隊間の連絡に使っていた。戦時でなくても魚類の豊富な千島はカラフトイヌの活用には最も適した場所であった。
 
犬飼哲夫『からふといぬ』より
 
日本海軍においても、北海道・東北エリアの部隊がカラフト犬を配備しました。
下記は青森県の大湊要港部警備隊における記録ですが、東北の夏ですらカラフト犬にとっては耐え難い暑さだったようです。
 

大湊防備隊の軍用犬(總勢十五頭の樺太犬)は最近の暑さにたまり兼ねてか殺氣立つてゐたが、この程教導犬の竹號(牡)は夜陰に乗じて檻を破り出て、海軍病院の大事なモルモツト四十頭を片つ端から咬み斃したといふので、同隊では水兵さんに二、三頭宛つれさせて毎日水泳をさせたり、橇代りに荷車を曳かせて制御してゐる。

 

『暑さに犬も狂ふ(昭和11年)』より

 
これら大湊の海軍カラフト犬たちは、熱中症で全滅したと伝えられています。青森県の夏ですら無理なのに、千葉県の陸軍カラフト犬は大丈夫だったのでしょうか。
 
はじめにこれに着眼したのは海軍で、戦争前のことであったが、青森県の大湊の海軍要港部に三〇頭ばかりのカラフトイヌを飼育しはじめた。ところが冬は無事に過したが、春になって気温が上るにつれてだんだんと消耗してたおれ出し、夏に入ってから丘に土穴を作って暑気を防いだがついに及ばず、夏中に全滅してしまった。敷香の夏の平均気温は六月が八・二度、七月が十四・五度、八月が十六・三度、九月が十三・三度で、一〇月には三・四度に下るから、これよりも一〇度以上も高い青森県の夏の暑さには堪えられなかったのである。
 
犬飼哲夫『からふといぬ(昭和57年)』より
 
太平洋戦争へ突入すると、カラフト犬も最前線へ送り込まれます。
昭和17年、ミッドウェー作戦の陽動として実施されたアリューシャン作戦において、日本陸海軍混成部隊はアッツ島とキスカ島を占領。そのキスカ島守備隊には陸軍のシェパード「勝」、海軍のシェパード「正勇」、カラフト犬の「白」といった軍用犬が配備されていました。
ミッドウェー作戦の惨敗を隠したい大本営は、早期撤退の提言を無視してアッツとキスカの越冬駐留を決定。その間にアムチトカ島へ飛行場を建設した米軍は、圧倒的戦力をもってアッツ島を奪回します。
アッツ守備隊全滅の二の舞を避けるため、キスカ守備隊が撤退したのは昭和18年7月29日のこと。その際、キスカの軍用犬は置き去りにされてしまいました。

私は、終り頃の便の大発(※大型動艇の略。上陸用舟艇のこと)に乗った。振り返って見ると、二隻の最終の大発に兵隊たちが乗り込もうとしていた。
その兵たちに混って白い犬が一生懸命尻尾を振って走り回っているのが見えた。
”いっしょに連れてって”と叫んでいるに違いなかった。
哀れだが、犬は島に残された。
遠ざかって行く海上から見ると、兵舎附近からは黒い煙が上り、可哀想な犬が白い点となって右往左往していた。

 

『キスカ戦記』より 特潜基地隊海軍機関二等兵曹成田誠治郎氏の証言

 
勝や正勇は繋がれたロープを食いちぎり、幾度も追いすがってきました。しかし、米軍の隙をついたキスカ撤退作戦は時間との闘いであり、兵士の救出が最優先。
「軍の装備品」に過ぎない軍犬は、乗船を許されませんでした。
日本側は軍用犬の置き去りに触れず、キスカ島から連れ帰ったように報道しています。
 

B兵長「われ〃の方の生活は、單調を通り越してゐました。軍紀厳正、みな敵撃滅の一念以外にないのですから本當に氣合いがかゝつてゐましたよ。われ〃のキスカ島にも女がゐました。但し二人ではなく二匹です。北千島産の雌犬ですよ、ハハ……」

C一等兵「今度の轉進では、あの犬達も部隊と共に引き揚げたらうと思ひます」

 

報道叢書『キスカ戰傷勇士座談會(昭和18年)』より

 

日本軍の撤退を知らないアメリカ軍は、無人となったキスカ島へ猛攻撃を加えました。幸いにも軍用犬たちは空襲を生き延び、キスカ島を奪回したアメリカ兵に保護されます。

戦略的価値のない北の孤島で無意味な駐留を強行し、救援を信じて奮闘するアッツの将兵を見殺しにした大本営。無能な軍上層部のツケを払ったのがキスカ撤退作戦でした。

白瀬南極探検隊から置き去りにされ、キスカ守備隊から置き去りにされ、戦後は再び南極へ置き去りにされる。カラフト犬は「日本の威信」のために翻弄され続けてきたのです。
 

帝國ノ犬達-キスカ島
キスカ島のツンドラ地帯で橇を曳く3頭の軍用犬

 

【南樺太犬界の終焉】

 

昭和20年夏、ソ連軍は南樺太へ侵攻。先住民族が暮らす敷香では「ロシア人に何も残すな」という理由で焦土戦術がとられ、日本側の放火によって市街地は炎上します。

北海道への脱出は和人優先であり、避難船に乗れなかった先住民の多くが樺太に取り残されました。帰宅しようにも敷香は焼け野原と化し、ソ連領となったサハリンでは「ロシア化」「日本化」に続く「共産化」が強要されます。
犬橇が廃れていった戦後のサハリンにおいて、大食漢の役立たずと化したカラフト犬は激減。

しかし少なくとも、二度と戦争に巻き込まれる事だけはありませんでした。

 

(次回に続く)