昔々あるところに
こんな犬達がいました

という内容のブログです。






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2016-08-23 20:16:58

葬儀と犬 昭和11年

テーマ:離別/慰霊

大牟田のさる料亭の主人が死んだ。

其の料亭は市の一流料亭で、新佛の主人には私も二三の面識がある。

ある日の午後、オフイスの窓から街を眺めて居ると、偶然其の葬式の列が通るのに氣がついた。

田舎町の而も有名な料亭の主人の葬式だ。原始色いとも華やかな花島が数へられぬ程通り、其の後から輿丁に擔がれた棺が續く。

と、棺側の白衣の遺族に混つて、二頭のシエパードが牽かれて行く。グレーの五ヶ月位のが二頭。

私はこの思ひがけない興味に思わず目を瞠つた。

最近の大牟田に於けるシエパード犬熱は、中々素晴らしいものがある。無論一時の流行的のものではあるが、茲数年間、私の懸命な宣傳も係はらず全市を併せ同犬の数は十指にも満たなかつた。

それが今では四、五十頭にも及ぼうか。そして今見る葬列の扈従である。

白芽荘 西村六二「大牟田犬信」より

 

毎度おなじみ、戦前の九州犬界事情を発信し続けた西村さんのお話。

「結婚式と犬」「出産と犬」「葬儀と犬」「墓を守る犬」など、郷土史あたりでチラホラ見かける記録を集めたら面白いかもしれません。

 

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2016-08-20 18:22:09

ロザー(麻薬探知犬)

テーマ:犬籍簿・警察犬

生年月日 不明

犬種 ドーベルマン

性別 不明

地域 満洲國

飼主 満州国税関

 

満朝国境で暗躍する阿片密輸団に対し、満州国税関監視犬部隊は阿片探知犬の訓練を開始。しかし、日本側(朝鮮地域)へ越境して密輸拠点を捜索することは許可されません。

税関では鴨緑江での水際防御に努め、流入した阿片の取締りは満洲国禁煙総局へ任せることとなります。

禁煙総局も、満州国税関監視犬育成所へ委託して麻薬探知犬と取締官を訓練。阿片の押収に成果を挙げました。

 

 

税関犬としての訓練に、或る個々の物品、例へば阿片なら阿片の臭気を嗅ぎ分ける訓練を施すことがあります。

そんな必要がどうして起るかと言ひますと、税関には保税倉庫があつて、その中に阿片の如き、禁止物品のある場合、これを押収しなければならぬからです。

阿片の嗅ぎ分けには非常の優秀な犬がありました。ロザー號は、樽の中に味噌を入れ、その中にトランクを入れ、トランクの中に尚綿を入れ、その中にボール紙に包んだ阿片を、この犬は嗅ぎ出すことが出來ました。

訓練法は、或る物品の臭気に馴致し、その物品を寝臺等にかくし、単に「捜せ」の命令で捜させ、その物品を覚つたならば、吠える様に訓練します。

これはひとり税関のみでなく、警察犬としても、また軍用犬としても毒瓦斯に對する豫知法ともなるのではないでせうか。

 

根本幹太「満洲の税関監視犬」より 昭和13年

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2016-08-16 21:33:50

アダ・フォン・ヤマトガワ(愛玩犬)

テーマ:犬籍簿・ペットと番犬

生年月日 不明

犬種 シェパード

性別 牝

地域 愛知縣名古屋市

飼主 高田定俊氏

 

何處へ行くやら真帆片帆、沖じや汽船が黒煙り、幽かに見ゆるは神風薫る伊勢路の姿、大自然の風景に恵まれた、朝倉海岸に宏壮な近代的別荘を建て、愛犬と居を共に此世の春を謳歌してゐられる同氏を、残暑の日盛りを汗だくで訪問すると、「マア、御暑いに、ようこそ」と御出向ひ下さつたのが、良い意味での現代美人と折紙付の御夫人。

その後からフオン・アサクラ主人「サア、どうぞどうぞ」と導かれた處は陽炎燃ゆる海面を一眸に見晴せる奥座敷。

 

「恵まれた土地で飼はれて、イヌも幸福ですね……」

と伺ふと

「そこですよ、私は決して海水浴を目的として建てたのではなく、夏は涼しく、冬暖く、この邊一帯はオゾンの發生地として名高いばかりでなく、何んと云ひますか、磯臭いとでも云ふのでしよう。この沃度を含んだ香りは全く良犬作出の好適地ですよ」

と御しやる。

高さ丈餘の阪石燈篭の真下にあたつて、エチオピヤ色を染め出した河童連が未だ來て間のない伊太利色童と戦争ごつこの真最中。

で、見て居ても涼しさを増す眺めである。

 

扇風機のスイツチを入れながら「マア一度仔犬を見て下さい。女中にAddaを連れださせますから、上着を取つて寛いで……」

と勧めらるゝまゝに、よく冷へたサイダーを戴いてゐると、「どうぞ、こちらへ」と御夫人の御案内で犬舎拝見に……。

 

「こうして金網を張つて、晝でも蚊取線香を焚いてゐますの」と御説明になる。

犬舎の内で、「一寸見て下さい。小さくても目方はとても重いですよ」と高田氏の差出されたものを手に取つて見ると、よく整つた、俗に云ふ固肥の何れ劣らんぬ逸物ばかりである。

良犬作出の好適地で全注意力を傾けての御骨折の賜物であると感服するの外はない。引止められる儘に、二階の應接室へ腰を下す。

 

華美を盡した調度の彼方に高級ピアノが、ドツシリと控へてゐる。これ一臺でも相當の犬が手に入るがなーと逐ひ淋しい心を起してゐると、冷たい飲物とパイナツプルを御女中と二人で御運びになつた令夫人。

何度見ても見飽かぬ淑やかな、それでゐて溌剌たる健康美の所有者ではある。

あの白魚の如き指もてキーを打たせ給ふとき、その妙へなるリズムは近き人里に、海の彼方に、と書いて來ると何んだか閨秀作家の筆のやうで筆者の脳味噌では後字が續かんからやめにして、たゞこの音律に會ふ人も犬も魚も果報者だとして置く。

 

一寸センチになりかけた時、片隅の机に向つて仔犬の命名に懸命だつた、フオン、アサクラ氏が「牝にBieneつてどうです」との聲に、「エゝ、 Biene と。 Biene は蜜蜂か。蜜蜂の牝と」と無意識に、こんな事を云つてゐる内に訪問子心理が頭をもち上げて來た。

「結構ですなー、蜜蜂の牝は女王ですから、時にAddaは仔犬を可愛いがりますか」と質問すると、「それはそれは可愛いがりますの。今もねー、私の留守中に他人の臭が、ベビーちやんに付いてゐるが、どうしたんですと云ひたげに全身を舐め廻してゐましたのよ」と御笑ひになる。

 

同行のO氏も海千山千だ。

早速「奥さん、Addaに云つて下さい。私達の手に毒は付いてゐませんから心配しないでいゝよつてねー」と應酬して、「マア、マア」と止めらるゝのを辞退して御夫妻に見送られて玄関を出ると、婦人乗の自転車が目に止まつたので、「唯方が御乗りになりますか」と尋ねると、「主人は毎日名古屋の御店へ参りますので、私か女中か手の隙いてゐる方が乗つてAddaの運動を致しますの」と仰しやる。

 

幸福なる者よ。汝の名はAdda von Tamatogawa……。

この好運兒AddaはTitus vom Stolzenfelsとの仲に生れた。3頭の仔犬の成長を楽しみに、ベストを盡してゐるのである。

幸ち多かれ……。栄冠を目指して育くまれつゝある仔犬共に……。

 

S生「名古屋支部訪問記」より 昭和10年

 

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2016-08-12 22:25:22

JSVとKVの合併協議 昭和10年

テーマ:犬の団体/組織

我等が昨年來屢々主張して來たシエパード犬界の合理化運動が、愈よ實際方面から具體化せんとしてゐるのは、犬界にとつて最も大きい吉報と云はねばならぬ。

この吉報の詳細を犬界人、尠くも軍用犬シエパードに関心をもつ人々に、少しも早くお傳へしたく思つたが、生憎今月も超満員の讀物に紙幅をとられたのと、こと重大にして、餘りにお先走りをすることを虞れて、来月まで静観することゝした。

只こゝに銘記したいことは、軍犬資源十萬を目標としてゐるのに、僅か一萬内外のシエパードで既に一部に於て飽和状態の如き観を呈するのは何故か。

その矛盾は何處にあるか。

この點に何人も思ひを致し、各方面が虚心坦懐に和協の實を致さねばならぬ。

白木正光 「巻頭言」より  7月

 

白木正光

「いやそれよりももつと根本的に、つまり犬種を生かすか、殺すかゞ問題で、それにはシエパードならシエパードの統制を計る何等かの方策を講じて貰ひたいと云ふのです」

有坂光威帝犬理事

「それが一番大切なことだ」

白木

「そして實際問題として、ブリーダーは帝犬とJSVに呼びかけて、なんとか發展の一路を辿つて行くやうにしたいと望んでゐるのです」

坂本健吉帝犬副会長

「それは前云つたやうにすれば解決できると思ふ」

中元銀弘エアデール協會理事長

「金を多く拂ひ過ぎてゐるのではないですか」

白木

「金の問題ではなく、折角いゝ種牡がゐるのに、よい犬を作らずに終らせたくないといふのです」

有坂

「それには統制機関が必要です。會が分立してゐてはいゝ牡がゐても充分利用が出來ない」

白木

「それです。それに現在は犬が一局部に偏在し過ぎて仔犬のはけ口も悪いやうです」

(中略)

坂本

「それで、今の犬の動きだが、警視廳や地方廳、それから銀行會社へも犬を貸すといふことにする。さうすれば、或る程度までギヤングなども抑へられる」

白木

「それも統制機関があると有効です」

永田秀吉帝犬理事

「實際、これは犬界全般の喫緊事であるから、犬界人はすべからくその気持を持つて貰ひたいものです。さうなれない人は、共に明日を語るに足りない。で、全犬界の将来を思ふ人達が團結して、人と犬の結合を強固ならしめると共に、その向上を計ることになれば本格的です。この秋の訓練競技會はKVとしても他團體の人にも参加を願ひ、他團體もその意味を理解して協力を惜しまないとすれば、それだけでも今までの競技會に比して、進歩したものだと云はねばならない」

平岩米吉日保理事

「今までのアベコベをやれば、良い事が澤山出來る」(笑聲)

白木

「猟犬の方面では、目下四つの團體があつて、その一つは大いに進歩的な考へを持つてゐます。催しの際には豫め期日を他の三團體に計つて日取をきめる。これは催のダブルことを虞れてのことです。又競技會の審査員は各團體から一名づゝ出て貰ひ、お互に手を取り合つてやらうと云ふのです」

「犬界時事検討の集ひ」より 8月開催

 

齋藤弘日保理事

「軍用犬なり天然記念物となつたことは、地方人をして犬の趣味を起さしめるに非常によいことです。結局日本の犬の世界も、もう一と息といふ所ではないでせうか。

大分判りかけて來たと思ひます。

普及宣傳から統制にはいる時期と考へます。で、この際犬界全體の将来を考へて提携して行かねばなりません

今泉

「各クラブ内で統制を乱す人が分在するやうなことはありませんか」

坂本健吉帝犬副会長

「それは自己の利害から起る。これを除いて掛らなければ駄目です」

今泉源吾ワイヤー倶楽部理事長

「統制を乱したものは如何に處置するか。六ケしい問題だと思ひますが、ある會で除名された人が、他の會へ平気で這入れるやうでは何時までも會の完全は期しがたい。

これは各會で連絡をとり注意するやうにしたら如何でせう。現に私の會でさうした例があつて、自發的に退會して貰つた例があります」

齋藤

「吾々の方にも任意退會して貰つた例があります」

座談会「日本の畜犬界向上策」より 9月開催

 

合併の音頭をとっていた筈の齋藤さんですが、その辺の裏事情はおくびにも出しておりません。

 

我々の期待はもつともつと大きいのです。

たとへば犬界の統制、各畜犬團體の提携連絡、又宣傳方面では犬界諸雑誌の動員等も、帝犬なら多少の強要が唯々として聞かれます。

そして最も焦眉の急はJSVと何等かの形式で握手することですが、その機運が最近やゝ停頓の形であるのは遺憾千萬です。

一日も早く 輿論の軌道に乗つて、實現を期せられたいものです。

白木正光「軍犬燦たり」より 11月

 

帝犬とJSVの合同問題は本誌上で屢々慫慂し、その實際運動のことも多少触れたが、餘りに先ばしりして、却つて不首尾に終ることを恐れて、讀者には甚だ不忠實ながら具體的のことは報導するのを差控へて居た。

しかし今日ではJSV主脳部でも又最も合同に難色のあつた帝犬幹部の一部でも、釈然として合同説に傾いてゐる。

たゞ問題は帝犬とJSVの大團體を如何なる形式によつて握手させるか、これにはまだ相當頭をひねらねばならぬ。

白木正光「犬界近事」より 12月

 

(追記)

 

上記の噂話に対し、JSV側は徹底した沈黙で対処していました。

白木さんと相馬JSV理事が接触したことは公表されたものの、その内容は「JSV会報の体裁が雑誌化しつつある。営業雑誌への圧迫だ」と冗談を言われたことくらい。合併問題に関しては皆無です。

もともと「JSVは他団体への批評を避けるべし」というスタンスだったのですが、外部の報道と内部の情報封鎖のギャップに戸惑うJSV会員もいたようです。

犬の研究8月號にシエパードの合理化を告げ、KVも愈々我JSVと提携の運びに或は成るかの如き言あり。主催は9月號にと又KV奈良支部展の際A大尉も理想論として意味ありげな話あり。

僕等は犬の研究9月號を一日千秋の思ひを以て迎へた處、詳細はおろか何等具體的の記事を發見する事は出來なかつた。

若し此の運動が實現すれば犬界はどれだけ朗らかに成るか。

インチキ血統書、業者會員の問題、仔犬の洪水、蕃殖統制等々。犬界は必ず刷新されると確信する。

従來の矛盾は少なくとも両者の對立にあつた。シエパード犬の黄金時代は過ぎた。是れから真面目な蕃殖のみに與へられる訓練の時代である。第一の急務は愛犬家の自覚だ。

松浦一帆「秋風」より 昭和10年

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2016-08-04 20:00:59

吉田紘次郎

テーマ:犬を愛した人々

父にはじめて犬を飼つてもらつたのは、わたくしが三、四歳のころのことであつた。

黒の小ひさな犬であり、耳が立つて、尾が上に巻いてゐた。遠い昔のことであるから、まだ洋犬といふものはなく、純日本犬であつたと思ふ。

小ひさな犬であつたが、ひどく気が強く、よく人に吠えついたので、近所の人にわるいといつて、父が遠い田舎の人にゆづゝてしまつた。

子供心にもさびしかつた。

 

これは大きくなつてから飼つた犬であるがエスと名付けた。

気のやさしいセツタア種であつたが、近所で鼠捕りのビスケツトを食べたらしく俄かに死んでしまつたが、庭から急に座敷に上つて來て、わたくしの膝にもたれたまゝ死んで行つた。

星の美しい、寒い夜であつた。

本郷駒込の榮松院の墓地に葬つてもらつた。三十四五年も前のことであるが、今でもはつきりエスの姿は記憶してゐる。

 

その次に飼つた犬は雑種の大きな犬であつた。

生後六十日くらゐで貰つて來たが、四つ目の可愛い犬であつた。成長するにつれてとても強くなり、近所の犬を慴伏してしまつた。

わたくしが「タゴールの哲學と文芸」といふ著述をつゞけていたころだつたので、ゴールと名付けてやつた。

止むを得ない事情があつて、ゴールとも別れなければならぬ日が來た。色々貰ひ手を物色してゐる間に日暮里あたりの活動館の主で犬を可愛がつてくれる人があり、その人に貰つていたゞくことにした。

ゴールと別れてから二年ばかり経つたころのことであつた。

或る日小石川傳通院あたりの高木といふ髪結さんの家に出かけて行つた妻が、俥で帰つて來たと思ふと玄関で泣いてゐた。

「何うしたの?」と訊ねたら、妻は湯島の切通でゴールに逢つたといふことであつた。

「あたしが切通の坂を下つて行くと、突然大きな犬が俥の上のあたし目がけて飛びついて來るではありませんか。そして何うしても離れないのです。

ゴールだったのです。映畫館の主さんにつれられて散歩に出かけてゐるところだつたのです」と妻はハンカチーフで眼を拭いてゐた。

その後わたくしたちはゴールのためにおみやげを購めて、活動写真館に訪ねて行つたが、すでに写真館の持主はかはつてゐて、ゴールに逢ふことはできなかつた。

 

「犬とともに」より 昭和19年
 

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2016-08-01 19:09:52

2016年8月度月報

テーマ:近況報告

上司の代理として、とある会合へ出席したときのこと。
座席に案内され、受付で渡された参加者名簿を眺めていると、見覚えのある肩書きと名前が載っておりました。
あらまあ奇遇ですこと。むかしお付き合いしていた人のお父様ではありませんか。
おそるおそる会場を見回すと、お父様は左前方の席に座っていらっしゃいました。

いつぞや

「私の家こない?」「行く行く!」

とホイホイ付いていった先が彼女のアパートではなく実家で、フェイント攻撃に狼狽する私とお父様はそのとき初めてお会いいたしました。思い出すだけで目眩がしてきます。
今回は閉ざされた会議室の中、逃げ場はなし。クーラーがガンガンに効いているというのに、イヤーな汗が滲み出てきます。
会合の内容なんか全く頭に入りません。ひたすら顔を伏せ、身を縮めておりました。
懇親会へ移行してからも、参加者が和気あいあいと話を交わす中、私だけは猛獣の檻に閉じ込められた気分。せっかくの食事も喉を通らず、ビールを何杯のんでも酔いもしません。
どうしようどうしよう。


意を決して、死刑宣告でも受けるような気持ちでお父様の席へ向かいました。
「どうもごぶさたしております」
「ああ、うん。元気そうだね」などと白々しい挨拶を交わすも、そのまま会話が続かず双方沈黙。
しにたい。
ちょうどその時、お知り合いらしきかたがお父様へ酌をしにやってきました。
脱出のチャンス!「では失礼します」と、米つきバッタのように頭を下げまくりながら自分の席へ逃げ戻りました。
どっと力が抜け、椅子にへたり込むと同時に一挙に酔いが回り、そのあとどうやって帰宅したか覚えておりません。
手ひどくフラれたうえになんでこんなおもいまでせねばならんのだ。

 

 

終戦記念日も近いとあって、今年もブログの検索キーワードが「犬の毛皮」「軍用犬」ばっかりになってきました。これまでの教訓から、夏になると毛皮の話をしだす人たちには関わらないことにします(イロイロ不愉快なことがあってですね)。

 

 

オンヲ忘レルナの記事は、「忠犬ハチ公の過去記事を焼き直ししてどうにかこうにか誤魔化そう」とか思ったものの、どうにもこうにもなりませんでした。

うへえ、この暑いなか図書館巡りで調べものかよなどとゲンナリしていたところ、唐瀬原用に集めていた戦時資料が役に立ってしまったので、案外あっさりと叩き台が完成。

叩き台のまま投稿したりするから、後の修正作業が大変になるのですが。

 

 

 

 

 

 

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2016-07-30 21:10:00

児童教育と犬(第1回)戦前教育と犬 

テーマ:児童教育と犬

教育に関する勅語は我が國道徳教育の根本方針である。

學校でも、社會でも、又家庭でも、我が國に於ける總べての教育は勅語の御趣旨に基づいて行はれなければならず、若し御趣旨に基かないものがあるとすれば、それは我が國の教育ではない。従つて我が國の道徳教育とは結局直後の御趣旨を闡明し、之を實践躬行して、聖旨にそひ奉る臣民を教養する教育作用に外ならない。此の意味は教師用書の巻頭に、勅語の本文を奉掲してゐることによつても、又教科書の内容竝に其の機構についても明かに知ることが出來る。

勅語の本文は未だ二年生に授けることは出來ない、―修身教材としての取扱は他日の事に属するにもかゝはらず、巻頭に之を奉掲したのは、すべて「よい子供」の最高理念によつて統一され、その「よい子供」とは結局勅語の孝・友・和・信以下の諸徳を實践し、以て天壌無窮の皇運を扶翼し奉る忠良なる臣民の義であることも、勅語の御趣旨をそのまゝ教材の機構に現はしたものと考へなければならぬ。

かくの如く教科書は徹頭徹尾勅語の御趣旨に基づき、御趣旨を兒童に奉體せしめようとしてゐるが、由來教育は心と心、魂と魂の問題である。口に百萬言を費してもそれが魂の叫でなければ人を動かす力はない。で、我々はまづ 躬らを磨かなければならぬ。

「小學修身指導書 尋常科第二學年」より

 

明治天皇の「教育二関スル勅語」、いわゆる教育勅語は、明治23年以降尋常小学校の修身書に掲載され、教育の指針となっていました。

 

「学研まんが イヌのひみつ」、「名犬ラッド」、「あっちゆきだよ、ヒャータ」、「ボクちゃんが泣いた日」、「マヤの一生」、「畜犬談」。

子供時代に出会った素晴らしいイヌ本はたくさんありますし、今でも手元に置いて愛読しています。

飼っていたシロ、ハヤ、太朗丸、ラリーたちと接しながら読んだ本の数々。そのおかげで道を踏み外し……、じゃなかった、 犬と暮せる幸せを知ることができました。

子供時代の読書体験とは、後々の人生にまで影響を与えるもの。娯楽といえど侮れませんね。

そうやって読書のジャンルを決めていれば、夏休みの読書感想文を書くのもラクでしたし。

 

昭和18年の習字帖にラクガキしてあった、戦時中の夏休みの誓い。

戦争が終わったのは、これから2年後の夏です。

 

児童教育も、子供の人格形成に大きな影響を与えます。しかし、私がイヌ好きになってしまったことに関して、学校の勉強は全くの無関係。 影響力ゼロ。

そういえば自分が小学生の頃、犬を使った教材は……、あったんだっけ?

全く思い出せません。

 

因みに「尋常小學夏期練習帖」より、夏休みの諸注意

明治43年

 

私は巡り合えませんでしたが、児童教育の現場では、明治時代からイヌを使った教材が使われてきました。

自然科学の勉強や動物愛護精神を育む上で、身近な動物はうってつけの教材ですからね。

……などというのは戦後教育を受けた世代の考えるコト。「戦中派」の人々は、犬を使った当時の教育を批判的に捉えてきました。

なにしろ、否応なしに軍国主義を植え付けられた時代なのです。そのルサンチマンとして、戦前の教育を全否定したくなるのも当然でしょう。

 

皇国史観や軍国教育の教材ばかり取り上げて「こんなに酷かった!」「兒童を洗脳していた!」と批判する書籍もあります。

そう言いたくなるのは理解できるんですよ。当時の教科書に目を通せば、宗教本や軍記物と見まがうような教材がたくさん載っていて、国語の教科書では神代から日本の歴史が始まったりする始末。旧石器人や縄文人を無視しといて、国史の教科書とはどうやってバランスをとっていたのでしょうか?

その一方で、近代日本が取り組んできた、海外の文化を学び取ろうとする努力の跡も見られます。モチロン、自然科学や情操教育にも力が入れられていました。

要するにバラエティに富んでいた訳なのですが、すべては国家・社会・学校・家庭の一員を育て上げるのが目的でした。ルールやマナー、責任感や友情、博愛の精神、知識や技術など、「国民の底上げ」に力が注がれてきたのです。

これだけの教育を受けた国民が、なぜあのような蛮行を国内外でやらかし、あげく総力戦の末の敗北へと突き進んでしまったのでありましょうか!?

……などという議論ではなく、この記事では「犬を使った教材にどんなものがあったのか」を取り上げます(犬のブログですし)。

それを確かめるため、明治時代~昭和にかけての国語の教科書を中心に目を通してみましょう。

 

では、尋常小学生になったつもりでスタート。

 

犬

尋常小学修身書「ヨクマナビ ヨクアソベ」より 明治42年

 

【明治時代】

學の庭の第一門たる小學校に入つてから、六年間は夢のやうに過ぎ去つて、今や私は第二の門、―中學校に突進した。

今までは何の障害も迷もなく、唯、一本道を進んだのみであつたが、然しこれからの前途はなか〃険しい。

見渡す所彼岸は遠く、道は蜘蛛の巣の如く多種多様錯雑を極めて居る。或は質朴にして真摯なる學術門あり、風浪荒く競争激しき社會門あり、希望に輝く海外門あり、さては遊楽を以て人を釣らんとする堕落門さへある。

出世門は入るに難く、鍵無き者は扉を開く事も出來ぬ。而るに堕落門は自扉を開いて、素通せんとする人をも招かんとして居る。

嗚呼、我等は将にかゝる難関に臨まんとして居るのである。慎重なれ。一歩の差は千里の差となる。

小塩完次君「門」より 卒業したのは大正2年

 

明治3年に紹介された山岳救助犬(セントバーナード)や水難救助犬などの話は、忠犬・義犬談が大好きな日本人にすんなりと受け入れられます。 明治時代の教科書では早くも犬の教材が登場し、動物を主人公としたイソップの寓話も活用されました。

尋常小学読本巻二「慾深き犬の話」より 明治20年

 

・犬界

幕末の開国によって洋犬が大量流入し、全国へと普及。江戸時代は高嶺の花だった洋犬も、カネを払って購入できる庶民のペットとなりました。西洋式の猟犬、牧羊犬、運搬犬、レスキュー犬などの運用法が日本に導入されたり、畜犬商が登場したのもこの時期です。

いっぽう、地域に根付いていた和犬は、交雑化により姿を消してしまいました。

咬傷被害や狂犬病感染が問題になると、行政は畜犬取締規則をさだめてペット飼育に介入。狂犬病対策でペット分野の獣医学が発展すると共に、残虐な野犬駆除方法を見かねての動物愛護運動も活発化しました。

ネットワークを構築していたのは猟犬界と闘犬界のみで、一般の愛犬家は各個バラバラだった時期です。

 

・教育界

庶民にまで「読み・書き・そろばん」の教育が広まっていたものの、統一の基準すらなかった江戸時代までの教育制度は、明治に入って殆ど機能しなくなりました。

明治政府は西洋諸国の教育システムを研究し、国家として学校教育の改革に着手。明治4年に文部省が発足すると、国民の水準を向上すべく初等科教育と高等教育の整備が進みました。明治19年から尋常小学校による義務教育もスタートし、師範学校の設立による教員の育成も制度化されます。しかし、児童の就学率は低調なままでした。

明治23年には明治天皇の「教育に関する勅語(教育勅語)」が公布され、道徳の教材を元に臣民の育成が図られました。以降、昭和20年の敗戦まで教育勅語が教育の指針となります。

また、優秀な学校には宮内省から勅語と共に御真影が貸与され 、四大節(四方拝、紀元節、天長節、明治節)の全校行事が定着しました。

明治40年には4年制の義務教育期間が6年制に延長され、就学率も向上。エリートや技術者を育成する高等教育機関として、各種中学校・高等専門学校の増設が進みます。各地に設立された帝国大学と共に、慶應義塾大學や早稲田大學などの私立大学も登場。日本を担う人材を輩出していきました。

明治の教育界は外国人講師招聘や留学生支援によって海外の知識を貪欲に吸収。児童の教材にも、従来の漢文のみならず欧米の偉人伝や旅行記などが掲載されるようになりました。

 

 

犬

この時代、木口小平二等卒(当初は白神源次郎一等卒と誤認)や廣瀬武夫中佐など、日清・日露戦争の美談も教材化されました。

 

【大正時代】

わたくしが、一ばんよいきものをきて、お父さんにつれられて、學校へあがつたのは、ちやうど櫻の花がきれいに、さいているときでした。

わたしくは、學校へあがらないうちは、なんにもしりませんでした。けれども先生におしえていただいて、だん〃できてくるようになりました。

それですから、いまでも入學生を見るとおもい出しては、じぶんのがつこうへあがつたときのことを思ひ出します。

神奈川縣 飯島ヤス子さん 大正3年

 

大正時代から、「ハナ・ハト・マメ・マス」のハナハト読本が登場します。

尋常小學國語讀本巻一より、大正6年

 

・犬界

輸入される品種が爆発的に増加。ペット業界は隆盛を極め、各地で品評会も開催されるようになります。

この時代、公的機関も犬の運用を開始します。

大正元年に警視廳は警察犬を配備しますが、大正8年には成果を挙げられなかったとして廃止に。

同年、陸軍は軍用犬のテストに着手。将来の実戦配備に向けて研究を重ねます。国家と犬の結びつきは、まだ黎明期にありました。

大正12年の関東大震災によって関東犬界が壊滅すると、一時は国際港神戸を有する関西犬界が日本の中心を担っていました。

 

・教育界

大正デモクラシーにより、自由な気風が行きわたった時代。

政府の臨時教育審議会は教育制度の改革を推進し、多数の各種学校が設立されます。

教育現場では自由教育への理解も進み、幅広い授業ができるようになりました。綴り方教育の普及により、身近な生活を題材とした作文や詩作の自由表現にも力が注がれます。

いっぽう軍部では、第1次大戦の分析により、将来戦にそなえた予備戦力の充実に迫られていました。

そして大正14年の「陸軍現役将校學校配属令」によって、中学以上の学校には軍人の派遣が決定。これは、宇垣軍縮によって余剰となった陸軍軍人の受け皿でもありました。

将来の「軍人候補者」を育成するため、教育現場で基礎的な軍事教練を施すようになったのです。国定教科書にも、軍事面に関する教材が採用されます。

 

 

青年学校教練科教科書より

 

【昭和初期】

小学校の一年生に入学して、誰一人として忘れることの出来ない思い出と言えば、受持ちの先生から戴いたあの真新しい教科書である。
「サクラ」読本を手にした小学生ならば、最初の国語の一ページの文字が誰でも浮かんでくる懐かしい教科書である。
尋常科用「小學國語讀本巻一」文部省 の教科書を開いてみると
サイタ サイタ サクラ ガ サイタ
コイ コイ シロ コイ
ススメ ススメ ヘイタイ ススメ
国語の読み方の時間になると、一文節ごとに読まれる先生の後をつけて、大きな声を張り上げて音読していたことが、今では、懐かしい思い出になっている。
その文章の下の欄には、親しみやすいように色刷りのさし絵がいくつも描かれていた。
また、現在の道徳の教科書にあたる、兒童用「尋常小学修身書 巻一」の初めのページには、二重橋と宮城の写真が掲載されていた。

関屋文夫氏 「戦争体験を背負った小学生時代を振り返る」より

 

犬

昭和に入ると、ハナハト読本から「サイタ・サイタ・サクラガ・サイタ」のサクラ読本へ変わります。

「尋常科用 小学國語讀本巻一」より 昭和7年

 

・犬界

欧米との畜犬輸入ルーが確立され、シェパード、ドーベルマン、ワイヤーヘアードなどの大量輸入も本格化します。

昭和3年、消滅しかけていた日本犬を保護するため、日本犬保存會が発足。

同年には日本シェパード倶楽部も発足し、続いて犬種別の愛犬団体が乱立し始めました。

これにより、全国規模から地域のサークルまで、愛犬家同士のネットワークが拡大します。飼育知識や訓練法など、情報共有化も進みました。

 

・教育界

昭和恐慌(金融恐慌・農業恐慌)では企業倒産や失業者が急増、「大学は出たけれど」と言われた就職難に陥ります。生糸の輸出減や米価下落で農村も困窮。続く昭和6年の凶作で、子供の身売りなどの悲劇も拡大しました。

深刻な経済不況は、児童の親ばかりでなく義務教育の財源維持にも影響を与えます。

政治経済が大混乱する中、国威発揚を求めて軍国主義が台頭しはじめました。

 

 

戦前の低学年用算数教科書には、児童に興味を持たせるため色鮮やかな教材が用いられていました。

 

国民学校教材 「エノホン」より

 

朝もやが晴れて行く。

海―見わたすかぎり、くつきりと、堂々と、帝國の艦艇、おお、その勇姿。

 

第一列から 第五列まで、旗艦長門以下百数十隻、さんさんと秋の日をあび、今日、おごそかに観艦式。

 

皇禮砲二十一發、御召艦比叡は進む、巡洋艦高雄を先導に、加古・古鷹を うしろに従へて。

 

マストに仰ぐ天皇旗、ああ、天皇旗。

すべての艦艇は うやうやしく、登舷禮、君が代のラツパ。

 

国民学校教材より

 

大空の一角に、飛行機の爆音。

たちまち数百機が 空をおほうて分列式、分列式

 

御召艦ははるばると、艦列をぬつて進む。

青空ははてもなく澄み、秋風はさわやかに海をわたる。

初等科國語四「観艦式」より

 

教育の近代化へ邁進した明治時代、教育現場に軍隊が介入した大正時代、経済不況で教育体制も揺らいだ昭和初期。

そして、昭和6年がやってきます。

この年はじまった満州事変を契機に、日本は15年戦争へと突入。教育界も、戦時体制の尖兵へと変貌していきました。

 

次回は、戦時中の教育について取り上げましょう。

 

犬

「尋常小學修身書巻一」より 明治42年

 

(次回に続きます)

 

 

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2016-07-30 21:08:00

児童教育と犬(第2回)戦時教育とその終焉

テーマ:児童教育と犬

涙を流す父を、生まれて初めて見た。祖父は神棚に祈りをささげた。泣き虫の母だけが不思議に泣かなかった。

戦争は終わってしまった?!考えてもみなかったことが、とつぜんおこった。頭のなかが空っぽになった。眼の前が黒くなったり、赤くなったりした。

冗談じゃないと思った。

そんな馬鹿なことってあるか。この期におよんでなにごとだ。

陛下、なぜ降伏したのですか。このわたくしは、いったいどうなるのですか。

わたくしは、この汚名をどうしてぬぐったらよいのですか。

ここで戦争を止められては絶対に困る。もし罪滅ぼしができるとすれば、それは、敵兵と刺しちがえることしかない。

敵戦車が上陸したら、おれはまっさきに突撃し、体当たりしよう。そうして汚名をすすごうと思っていたのに、それができぬとは!

陛下、なぜ最後まで戦わないのですか。なぜ「朕のために死ね」とおっしゃらないのですか。

 

小熊宗克「死の影に生きて・太平洋戦争下の中学生勤労動員日記」より

 

まだ中学生の主人公が「戦争を止められては困る」だの「罪滅ぼし」だの「汚名をすすぐ」だのと素っ頓狂なことを喚いているのは、止むに止まれぬ事情があったからです(原作を読んでね)。

今までの価値観が一変した昭和20年8月15日。

戦時体制下で軍国教育を受けた児童たちは、それぞれの戦後を歩み始めました。

 

初等科図畫より 昭和17年

 

【満州事変~】

満州事変、日支事変と戦争の続く中、軍歌を歌いながら大きくなった。日の丸の小旗をうちふって、入営兵士や出征兵士、軍用列車の見送りに行った。
出征兵士の武運長久を祈りながら、一針一針、真心こめて縫った千人針、慰問文書き、慰問袋つくりと愛国心は培われていった。

矢野ウメノ「思い出」より

 

 

・犬界

昭和6年の満洲事変当夜、関東軍の軍犬「那智」「金剛」「メリー」が戦死。以降、大陸での匪賊討伐作戦や鉄路警備への軍犬配備が拡大します。

その直後、軍犬の資源母体確保を目的とする帝國軍用犬協會が発足。日本シェパード倶楽部を併呑し、全国規模での軍犬報國運動(軍用犬宣伝・シェパード飼育普及)が始まります。

昭和7年には忠犬ハチ公ブームがありました。忠犬物語は人々に感銘をあたえ、動物愛護運動や日本犬保存活動にも大いに貢献します。

国家と犬、ペットと飼主など、日本人と犬との関係が緊密化した時期でした。

 

・教育界

国際情勢の緊迫化にともない、教育現場からはリベラルな気風が退潮。火災などから御真影を守るため、各校では奉安殿の設置が進みました。

昭和10年、忠犬ハチ公物語「オンヲ忘レルナ」と那智・金剛の武勇伝「犬のてがら」が教科書に掲載されます。それまで情操教育の教材だったイヌは、皇民化教育や軍国教育に利用されるようになったのです。

 

 

 

いずれも国民学校教材より

 

初期の防空演習で用いられた 聴音機、狙塞気球、対空銃架に載せた機関銃、防毒マスク。 想定されていた「幾重もの防空網を突破してきた少数の中国軍機が、1~2発の爆弾を投下する」空襲では、この程度で十分でした。しかし後年の本土空襲では、高速・重武装の艦載機とB29爆撃機の大編隊が飛来します。

 

第1次上海事変で戦死した「爆弾三勇士」の美談も、教科書に掲載されました。

 

 

【日中戦争勃発】

 

小学校の高等科二年生になって、卒業を間近に控えて、それぞれ目指す目標に向かって進んでいきました。
圧倒的に軍人志望が多く、陸海軍の少年兵を目指していきました。
クラスからも飛行兵・通信兵・戦車兵となっていきました。
満蒙開拓義勇軍となって、満州(現在の中国東北部)に渡っていった人も数名いました。担任は、家庭訪問を繰り返して、勧誘に熱心でした。クラスに割り当てがあったらしいのです。
開拓義勇軍は、終戦の前後、旧ソ連軍の参戦で開拓地は孤立・分断されて、辛酸を嘗めることになりますが、遂に帰らぬ犠牲者もクラスの中から出ました。

黒木竹光「開戦から敗戦まで」 より

 

 

・犬界

昭和12年の日中戦争勃発により、内地の軍犬班は続々と出征。シェパードの購買調達も拡大しました。

内地犬界はシェパード飼育熱によって却って隆盛し、ペット業界もその恩恵にあずかります。米国盲導犬オルティの来日は大ニュースとなり、翌年の失明軍人誘導犬事業の実現へ至りました。

その一方、昭和13年には商工省が犬皮を統制下に置き、更には昭和14年の節米運動を機に、「無駄飯を食むペット」の飼育は白眼視されるようになります。

 

・教育界

まだ戦争は海の向こうの出来事であり、内地の暮らしは戦前からの流れを維持していました。

しかし、日常生活は徐々に戦時体制下へ移行。昭和13年には国家総動員法が施行され、教育現場でも国のため尽くす事が教えられました。学校は戦争支援の尖兵と化していったのです。

 

 

水アソビ 思想的表現

要旨

夏休みに兒童の経験した水遊びを畫かせて、思想の發表をさせ、表現への興味を喚起する。夏休み中に兒童の見聞し経験した水遊びを想ひ起させて畫かせる教材で、兒童生活を中心としたものである。従つて前に出た「タイサウ」「アメガフル」「ブランコ」等の教材と連絡してゐるものである。

本教材は國民科「ヨミカタ」の魚とりや、理数科「自然の観察」の水遊び等と関聯して授ける。

 

援農訓練に励む小学生たち 昭和15年

 

 

 

 

「コトバノオケイコ」より 昭和16年

 

【昭和16年・尋常小学校から国民学校へ】

今まで小学校といっていたのが、国民学校と改称されたのは、私が五年生の、一九四○(昭和十五)年のことであった。
そのときの担任の先生は、「国民学校になって、今までの義務教育六年制がこれからは、八年制になったんだ。それで君たちは必ず高等科二年まで進まなければならなくなった」と説明した。

しかし、国民学校と名称が変わっても、周囲で何かが急に変わった訳ではなかった。
私は、こうしてあまり変化のない、刺激には乏しい農村の国民学校の高等科に進んだ。
初等科六年から中等学校を目指して進学した者もいたが、私の家は、父が早くに亡くなり、母親が農家の手伝いをしたりして働いている貧乏世帯であったから、進学など思いもよらなかった

黒木竹光氏「国民学校高等科」より

 

国民学校への移行と共に、サクラ読本からアサヒ読本へ。

 

・犬界

昭和15年を最後に海外からのペット輸入ルートが途絶し、国内繁殖個体のみが流通するようになります。

食糧事情の悪化により、太平洋戦争突入前後から捨て犬の数が急増。飼育者の減少は、軍犬調達にも影響を及ぼすようになりました。

軍需原皮の減産から、一部ではペットの毛皮供出に踏み切る自治体も出現。日本ペット業界は衰退の一途をたどります。

 

・教育界

昭和16年の時点では、海外文化を紹介する教材が豊富に掲載されていました。それも太平洋戦争以降は影をひそめ、やがては敵性語の自粛や英語教材への墨塗りなどへ至ります。 尋常小学校も「国民学校」へと名称を変更。 「國民学校ハ皇國ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ國民ノ基礎的錬成ヲ爲スヲ以テ目的トス (「国民学校令第一條」より)」とあるように、 授業内容も戦時一色へと塗り替えられていきました。

学科が国民科・理数科・体練科・芸能科と実業科(高等科のみ)へ再編されると共に初等科教科書も変更され、修身はヨイコドモ、国語読本はコトバノオケイコ、算数はカズノホン、図画はヱノホン、唱歌はウタノホンとなります。

太平洋戦争へ突入後は、毎月8日が大詔奉戴日に定められました。

 

 

國民學校施行規則

第一條 國民学校に於ては、國民學校令第一條の旨趣に基き、左記事項に留意して兒童を教育すべし。

一、教育に関する勅語の旨趣を奉體して教育の全般に亙り皇國の道を修練せしめ、特に國體に對する信念を深からしむべし。

二、國民生活に必須なる普通の知識技能を體得せしめ、情操を醇化し健全なる心身の育成に力むべし。

三、我が國文化の特質を明ならしむると共に 東亜及世界の大勢に付て知らしめ、皇國の地位と使命との自覚に導き、大國民たるの資質を啓培するに力むべし。

四、心身を一體として教育し、教授、訓練、養護の分離を避くべし。

五、各教科竝に科目は、其の特色を發揮せしむると共に、相互の関聯を緊密ならしめ、之を國民錬成の一途に帰せしむべし。

六、儀式、學校行事等を重んじ、之を教科と併せ一體として、教育の實を挙ぐるに力むべし。

七、家庭及社會との聯絡を緊密にし、兒童の教育を全からしむるに力むべし。

八、教育を國民の生活に即して具體的實際的ならしむべし。高等科に於ては尚将来の職業生活に對し適切なる指導を行ふべし。

九、兒童心身の發達に留意し、男女の特性、個性、環境等を顧慮して適切なる教育を施すべし。

十、兒童の興味を喚起し、自修の習慣を養ふに力むべし。

 

「エノホン」より 昭和16年

 

国民学校では「體操」が「體練科」へ変更され、授業数の増加と軍隊式教練の導入が進みます。昭和18年

 

 

中学校からは軍事教練も強化されました。

 

集団登校する国民学校生徒。昭和19年

 

「初等科図畫」より 昭和17年

 

【戦争後期】

戦争がはげしくなるにつれ、物も食糧も乏しくなっていった。
学用品もなくなり、鉛筆やノートが買えなくなった。
鉛筆は短くなったものに竹をさして長くして使い、紙は帳簿の古いものの裏を使い、消しゴム等はなく、指先をつばでぬらして消しゴムの代わりにしていたが、古い紙はすぐにやぶれるので困っていた。
履物はズックもなくなり、藁ぞうりかはだし、冬でも靴下はなく、ズボンは半ズボン、女の子は親の着物をといて作ったモンペだった。
子ども達だけでなく、先生の使う白墨も配給で、低学年の受持程よけいもらえた。
その頃は、カタカナ語は敵国語だから使うことは出来なかった。
チョークは白墨、バレーは排球、テニスは庭球といい、唱歌(音楽)の発声練習はドレミファではなくハニホヘトイロハと発声練習をしていた。
そして、唱歌は殆ど軍歌だった。
「肩を並べて兄さんと、今日も学校へ行けるのは兵隊さんのお蔭です……」
「若い血潮の予科練の七つ釦は……」
「みたか銀翼この勇士……」
出征兵士を送る歌等々、次から次へと新しい歌が……
その頃「勝ち抜く僕等少国民」という歌の中に「天皇陛下のおん為に死ねと教えた父母の……」という一節があった。
二年生の男の子だった。
急に前に出てきて「うちの父ちゃんや母ちゃんはそげんこつは言わんよ」、と目をくりくりさせて、真剣な顔をして見つめた。

矢野ウメノ「思い出」より

 

戦前の授業では生物の保護色について教えていたのですが、戦争末期は兵器の迷彩効果が取り上げられます。米軍機の目を逃れようと、校舎の屋根や壁をコールタールで迷彩塗装した学校もありました。

「初等科図畫」より 昭和17年

 

・犬界

ペット業界や畜犬団体が活動を休止する中、多くの庶民は犬を飼い続けました。餌が少なくて済む小型犬や、シェパードなどの軍用犬であれば、まだ飼育継続の言い訳もできたのです。

マスコミがペットの毛皮供出を叫び始める中、愛犬家にとって最後の砦となったのが、廣井辰太郎率いる動物愛護會でした。「戦争目的で国民からペットを奪うような国家は、その地位を自ら貶めるだけだ」「アジアの盟主として、動物を愛護する餘裕をもってほしい」という彼らの警告は、しかし一億玉砕へ突き進む総力戦下では誰の耳にも届きませんでした。

 

・教育界

昭和17年以降、連合軍の反攻により戦況は激化。出征で働き手を失った農村への勤労奉仕など、教育現場への影響も拡大します。昭和18年、戦線の拡大と戦死者の激増により、高等教育委機関の文系学生から学徒出陣が始まりました。

昭和16年に結成された学校報国隊の機能は強化され、学徒勤労動員も拡大します。昭和19年には中等学校生徒に対して学徒勤労令と女子挺身勤労令が出され、軍需工場への労働力動員がおこなわれました。

 

 

 

 

 

ニフエイ(入営)

 

 

スヰヘイサン 思想的表現

要旨

水兵を畫かせて海軍に對する関心を持たせ、且人物描写の初歩的練習をさせる。

本教材は前教材と共に、海軍記念日に関聯して採用したのである。

 

兒童等は軍人や戦争には多大の興味を持つて居り、戦争畫は陸戦も海戦も好んで畫くものであるが、軍人は、陸軍は全國的に多く畫かれてゐるが、海軍は全國的に畫かれてゐるとは言ひ難ひ。これは地域的に見て、海軍々人に接する機會の少い地方が少なくないからである。

 

併し陸軍も海軍も共に帝國々防の重責に任ずるものであるから、陸軍の兵士に関心を持たせると同様に、海軍の水兵にも関心をもたせなければならない。此の意味に於て本教材を選んだのである。

 

伸びきった戦線を維持するために大量の兵力が投じられ、連合軍の反攻がはじまると戦死者も激増します。

 

ハタ 模作的表現

要旨

紙で日の丸の旗を作らせて、手指の初歩的な練磨をなし、國民的情操を養ひ、製作への興味を喚起する。

本教材は次の「ハタヲアゲル」と共に天長節の前後に配當し、「ウタノホン上」の「ヒノマル」、國民科「ヨイコドモ」「ヨミカタ」の日の丸の旗に関する教材と相俟つて、國旗に對する認識を深め、國旗を尊重し、國民的情操を涵養するために採用したのである。

 

本教材の題目を単に「ハタ」としたのは、我が國と最も深い関係にある満洲國の國旗を参考としてのせた為で、主旨は他の旗を作らせるのではなくて、日の丸の旗を作らせるにある。
 

【戦争末期】

放課後、受持ちの川村先生が、朝礼で校長が話した「学徒勤労動員」の説明をした。

川村先生は、黒板に大きく「緊急学徒勤労動員方策」と書いた。

数学より書道を担当すればいいのに、とかげぐちをたたかれるだけあって、どうどうとしていてうまい字を書く。

政府は、さしせまった決戦体制を早くかためるため、昨一八日、軍事動員だけでなく、国民動員も徹底しておこなうことにし、中等学校上級生も、戦闘配置につけることを決定したのだ。

もっとも、今回の動員令は、三年生以上が対象で、おれたち一年坊主は関係ない。

動員令がくだると、学業をすてて社会に出、軍需工場で兵器をつくったり、飛行機場で飛行機の整備をしたりして、直接、戦争に役立つしごとをすることになる。

「上級生め、早く動員されればいい」と神戸がいう。おれもうなずいた。

じっさい、敬礼を忘れたの、帽子をあみだにかぶってるのと、すぐ制裁をくわえたがる上級生がいなくなれば、ずいぶんさっぱりするにちがいない。

小熊宗克「死の影に生きて・太平洋戦争下の中学生勤労動員日記」より

 

日々の節約も限界に達し、増産しようにも資源がなく、B29爆撃機は高射砲が届かない成層圏から悠々と侵入してきました。

「初等科図畫・男子用」より 昭和18年

 

・犬界

昭和19年末、軍需省と厚生省は全国の知事にペット献納運動を通達。これにより、膨大な数の犬猫が毛皮目的で殺処分されます。供出を逃れたシェパードも、本土決戦に備えた義勇部隊「国防犬隊」への参加が待っていました。

敗戦を待たずして、近代日本犬界は終焉を迎えたのです。

そのような状況下でも、日本犬保存會や日本犬協會では必死の保護活動が展開されていました。食糧難や空襲に晒されながら、日本犬は戦争を生き延びます。

 

・教育界

本土空襲が始まると、都市部の児童は各地へ集団疎開。地方の児童は農家への勤労奉仕に駆り出され、満足な授業も行えなくなりました。

中等学校生の軍需工場勤労動員は、3月になると全学年が対象の学徒勤労総動員へ拡大されます。学校からは生徒の姿が消えていきました。

高学年の男子は、少年飛行兵や満蒙開拓軍の進路を選択。 男性教師も次々に出征し、教壇に立つのは高齢者や女性ばかりといった状態に。本土決戦部隊の宿舎に利用された教育施設も無差別爆撃され、多くの教師や児童が犠牲となりました。

 

 

 

日本海軍の誇る連合艦隊も壊滅。制空権と制海権は米軍に奪われつつありました。

 

 

戦況悪化からの現実逃避か、何だか凄そうな地下要塞やSFっぽい超兵器が教材に載るようになります。 アンブロシーニSS4みたいなのもいますね。 こんなのを量産できる資源と技術と工業力があれば、そもそも戦争をしなくて済んだワケですが。

「初等科図畫・男子用」より 昭和18年

 

保土ヶ谷の化学工場に勤労動員された学生たち。昭和20年

 

学生たちも、軍需工場や生産農家への勤労奉仕に駆り出されます。

 

【敗戦】

もう一時前だったと思う。地元出身の年老いた先生が職員室から出てきた。
「日本は最後には神風が吹くから必ず勝つ」とよく言っていた先生だった。
「みんな、集まれ」

みんなと言っても二、三十人だけだった。
「みんな、良く聞けよ」

泣き腫らした目がまだ赤かった。
「戦争は終わった。天皇陛下のお言葉があった。お前たちはすぐ帰って家の人達にも報告しなさい。これから、どうするかはまだ分からない」
切り出しの言葉以外は今、一つ一つの言葉を覚えていない。まだたくさんのことを告げられたように思う。

私たちは呆然と聞いているだけだった。
私は戦争が終わったという意味が飲み込めなかった。六年生になっていた私がそうだから、一、二年生など何のことか分からなかったはずである。
五、六年生の中には日本が負けたつよ、米英に負けたつよ、と説明するものもいた。私は帰りながらいろいろ考えた。
「日本が負けた。そっでん、神風はどしたつよ(※それで、神風はどうしたのですか)。最後にゃ神風が吹いて日本が勝つとじゃねかったつか(※最後には神風が吹いて、日本が勝つのではなかったのですか)」

佐藤聿夫「敗戦前後」より

 

敗戦の報に呆然とするもの、涙を流すもの、激怒するもの、徹底抗戦を叫ぶもの、流言飛語に惑わされるもの、安堵するもの、開放感に浸るもの。

 

教師と生徒は、それぞれの気持ちを抱いたまま昭和20年8月15日を過ごしました。

 

国民学校教材「紀元節」より

 

 

【戦後】

何もかもない物資不足の中でも、子ども達の顔に、明るさがもどってきたのは嬉しかった。
復員された若い男の先生も何人か着任され、学校に活気が出てきた頃、進駐軍がジープで多勢やって来た。
何事だろうかと恐ろしかった。校長室にはいっていった。通訳がいて何かはなし合っていたが、六年生の女子級をえらび、受持ちの先生は教室から出されて一時間位自分達が占領した。
はじめにおとぎ話をしたらしかった。
次にアンケート用紙をくばり、いろいろ調査があったらしく、先生にも親にも言うなと口どめされたようだったが、進駐軍が引きあげると子ども達は内容をみんな話してくれた。
好きな先生やきらいな先生の名前、そしてどこかに兵器がかくされているところはないか、アメリカ兵の墓はないか等が主目的だったらしい。
二、三日おきにはやって来て、学校で遊んでいたが、何年か後の新聞記事によると、落下傘で降りた一人の兵士(※撃墜されたB29の搭乗員)の名前がわからなかったらしいとかで、日の谷の松の木にひっかかって、重傷を負っていた兵士が死んだのだそうで、その兵士の名前をさがしに来ていたとの事だった。
来校したたびにオルガンを弾く兵士がいた。
青い眼の兵士は弾くなり、今日もまた、スコットランドの曲「故郷の空」
青い眼の兵士は故国を偲びてか、来るたび弾くは「故郷の空」

矢野ウメノ「思い出」より

 

・犬界

8月15日以降、どこに隠れていたのか、殺戮を逃れたペットたちが姿を現し始めます。北海道などでは纏まった数のシェパードや日本犬が残っており、戦後犬界の復興に貢献しました。

出征していた愛犬家が復員してくると、休眠状態だった愛犬団体も各地で再スタート。昭和23年あたりからペット輸入ルートも復活し、日本犬界は急速に復興を遂げました。

国家地方警察体制のもとでは計21県警が敗戦直後から警察犬の運用を再開、復興期の治安回復に貢献します。警察予備隊や保安隊でも軍用犬の再配備に取り組んでいました。

いっぽう、生産・流通ラインがズタズタに破壊されたところへ海外からの引揚者が殺到、食糧難は悪化します。日々の食すら覚束ない時代、犬の肉も密かに流通していました。

 

・教育界

敗戦後の教育現場では、まず戦時体制から通常授業への回帰が促されました。

9月末には、文部省が戦時教材の排除を通達。教科書の墨塗り作業が始まります。

10月11日、連合軍最高司令官総司令部(GHQ)の指示で、「参政権付与による婦人の開放」 「労働組合の組織推奨」 「教育の自由主義化」 「秘密警察の廃止」 「経済制度の民主主義化」の五大改革が実施されました。

教育現場にはGHQの担当官が入り込み、皇国史観・軍国教育の排除が徹底されます。進駐軍の指導は絶対であり、教職員に対しては戦時思想の是正も図られました。

21年1月1日、「天皇が神である」ことが否定され、その月のうちに修身や国史の廃止、奉安殿の撤去などが完了します。

昭和22年、戦後教育の指針となる「教育基本法」と教育制度を定めた「学校教育法」が施行。新時代への対応と共に、各種学校がごちゃごちゃ混在していた状況も整理されました。

それまでは、「過渡期」の授業が続けられます。

 

敗戦のショックに呆然としていた教師や生徒も、それぞれが新しい時代に何とか対応しようとします。

価値観は180度反転し、戦時体制からの脱却が始まりました。

やがて進駐軍は教育現場へ介入。教材から皇国史観や軍国主義を徹底排除します。

 

戦時教育との決別を象徴するのが、進駐軍の指導による「墨塗り教科書」でしょう。修身や国史のように教科書ごと廃棄されたものから、該当部分の切除や墨塗りで対応した部分まで、その方法は多岐に亘ります。

墨塗り教科書の一例を取り上げてみました。

明治43年から文部省唱歌となった「我は海の子」。敗戦を経て、現代まで歌い継がれました。画像は「初等科國語七」掲載分。教師用のものらしく、指導要領が細かく書き込まれています。

 

敗戦直後の初等科國語七では、軍事色の強い7番の歌詞が墨塗りされています。

 

同じく初等科國語にて、八「日本海海戦」と九「鎮西八郎爲朝」をカットし、 七「姉」と十「晴れ間」を器用に繋ぎ合わせた例。 修正部分が何ページにもわたる場合、墨塗りではなく丸ごと切除されました。


pp.115-124の「いけ花(戦地の兵隊も生け花を楽しんでいるという話)」「ゆかしい心(戦地の通信班が傍受した東京放送、兵士のペットの猫、戦地で詠んだ俳句の短編集)」を切除し、残りは墨塗りが面倒くさかったのか×印で抹消した例。ページがカットされまくった結果、元の3分の2くらいの厚みになっています。

 

裁縫の教材も、軍国的なデザイン(日の丸の意匠など)は墨塗りに。なぜか防空頭巾の作例はOKでした。「初等科裁縫」より

 

戦争後期には、進路として軍人を志願した生徒も少なくありません。少年飛行兵から特攻隊へ配属された場合、ある者は出撃して戦死し、ある者は出撃前に敗戦を迎え、「自分だけ死に損なった」という負い目を抱えたまま復学しました。そして、所謂「特攻くずれ」として母校へ鬱憤をぶつけたのです。

教え子に軍国教育を施した教師は、それに黙って耐えるしかありませんでした。

 

入学式から二・三日後のことであった。その日から授業が始まると言うことで、我々新入生は、不安と期待で緊張して先生の来られるのを待っていた。

その時である。

「黙想」と言う、われ鐘のようなどなり声が聞こえて来た。そして、教室の戸を荒々しく開けて特攻帰りの先輩達が入って来た。

飛行服、飛行靴、首には真っ白なラッカサンのマフラーをまきつけていた。

その中の一人が教壇にあがり、「貴様等は、この伝統ある小林中学校に入学してきた。しかし、貴様等の態度はたるんでいる。いまから気合を入れてやる。目をつぶれ」とどなられ、持っていた青竹で教卓を激しくたたいた。

我々新入生は生きたここちもしなかった。

そして「我々は祖国を護るために戦場におもむいた。しかし、戦いに敗れ、いま、このように生き恥をさらしている」「」貴様等は、戦争に敗けてくやしくないのか」等の説教が終わると、「よーし、これから一人一人に聞くからはっきり答え、いいか」と言って、前列の方から個人尋問が始まった。

「おい、こら立て」「お前には姉がいるか」

「います」と答えると

「名前は、住所は、姉の名は、年齢は」と聞かれる。

「よし、坐れ。明日姉さんの写真を持って来い。分かったか」

「はい、分かりました」といった具合である。

いよいよ私の番が来た。必死に目をつぶっている体に緊張が走った。

「立て、名前は」

「柊山です」

「出身学校は」

「飯野国民学校であります」

「姉はいるのか」

「いません」

「馬鹿もん、何でおらんのか」と言ってほっぺたをたたかれた。自分の番が終わると全身の力がぬけていくのを感じた。

この説教が終わる長い間、教科担の先生は廊下の入り口の外に立って教科書をかかえ待っていたのである。

柊山富弘氏「特攻生き残りの先輩たち」より

 

戦時中「予備戦力」を育成していた教職員たちは、その反省を踏まえて「教え子を戦場へ送るな」をスローガンに戦後教育に取り組みます。

イヌを使った教材も、本来の情操教育用途に戻されたのでしょう。動物愛護精神を育む上で、たいへん喜ばしいことです。

 

センセイ 写生的表現

要旨

先生を写生させて、人物描写の練習をさせ、写生の趣味を養ふ。圖畫教育に於て写生の重要であることは言を俟たない。故に初等科五・六年にもなれば、写生は圖畫教育の中心となつて來るのである。併しまだ此の時代の兒童にとつては、写生と言つても真の写生は出來なくて、思想的表現と相去ること遠くないものとなるがそれでよいのである。只かう言ふ混沌たる時代から徐々に写生的態度に導くために、一年から写生的表現をさせて行くのである。

「エノホン 一」より 昭和16年

 

戦後の教育現場からは徹底的に軍事色が排除されました。しかし、その残滓は本当に拭い去れたのかどうか。

何だかキナ臭くなりつつある昨今は愛国心教育(?)なるものが復活しつつあるそうで、生徒より先生のほうがザワザワしていらっしゃいます。まあ、そんなことはどうでもいいとして、問題なのはイヌが利用されることです。

さすがに軍犬武勇伝が教科書に載ることはないとしても、対抗手段としての平和教育のテーマに「戦争と犬」を用いるケースもある筈。

 

犬が戦争の犠牲となったことを授業で教えること自体は、とても大事です。

しかし、その目的が日本畜犬史(日本史のサイドストーリーとしての)を学ぶためではなく、「都合の良い平和教育ネタ」と勘違いされているのは残念ですね。

日本の犬の歴史は、センセイがたの思想闘争の道具ではありません。そもそも、日本人と犬の1万年にわたる歴史のうち、何で戦時の15年間ばっかり切り取りたがるワケ?

動物愛護精神を育むならまだしも、犬を道具扱いすることを教えてどうすんだと。

押し付けと反発がせめぎ合う21世紀の教育現場で、双方が忠犬ハチ公や軍用犬を「再利用」しないよう、切に祈るのみです。

 

このような歩みをたどってきた日本を、これからどうもりたてていけばいいでしょうか。

それは、民主主義ということばをほんとうに生かしていくよりほかに道はありません。

ことばを生かすということは、身に行うということです。

こうして、みんなの歩調がそろったときに、はじめて、日本が正しい、美しい國となることができましょう。

「國語 第五学年」より 昭和23年

 

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2016-07-30 21:05:00

児童教育と犬(第3回)犬の教材アレコレ

テーマ:児童教育と犬

ボクノウチニハ、ジヨニートイフ シエパードガヰマス。

ボクガ學校カラカヘツテ來ルト、ヨロコンデトビツイテキマス。

アタマヲナゼテヤリマスト、ハナヲクンクンナラシテ カラダヲコスリツケテキマス。

クボサンノゾンネガ オバサマニツレラレテウチノ前ヲトホルト、ジヨニーハ「ボクモイキタイ」トサカンニホエマス。

チヤ目コウ(茶目公)見タイナ目ツキヲシテ、中々ノイタヅラモノデ犬シヤ(犬舎)ノハシラヤユカイタヲ、ガリガリカヂツテハ オカアサマニシカレレテヰマス。

ケレドモ ホントニカハイイトオモヒマス。

碑小学校一年一組 清水明君「ウチ ノ ジヨニー」より 昭和12年

 

「尋常小學國語讀本巻一」より 大正6年

 

前回は近代日本の教育史と犬との関係を説明しました。

戦前の教育はガチガチの国粋主義だったんじゃないの?とか勘違いしている向きもありますが、鎖国政策は幕末で終了しております。

近代日本は海外の文化を学びながら発展しました。当然ながら、戦前の教科書にだって西洋や漢文の教材は載っています。

尋常小学校で取り上げられるのは日本の皇族・武将・軍人ばかりではありません。コロンブスやエジソンやジェンナーやワシントンやナイチンゲールといった偉人伝も勉強します。中学生の教科書になると、モーパッサンやトルストイなどが論じられていました。

意外なことに、日米開戦直前まではアメリカ旅行記も教科書に掲載されていたんですよ。しかも、アメリカ文化を肯定的に評価する内容で。

まあ、戦前・戦中の日本人もアメリカの大衆文化が大好きでしたからね。ハリウッド映画や洋楽に親しみ、街頭には横文字の看板が溢れていました。

そんな教材や娯楽で相手国について学んでいながら、太平洋戦争突入と共に「鬼畜米英」とか叫びだしたワケですか。

 

対米戦下で敵性語が自粛されてしまうと、多くの人が「禁断症状」に苦しむこととなります。軍人も同じで、米艦隊へ突入する特攻隊員も「アメリカと 戦ふ奴が ジャズを聴き」なんて川柳を遺していました。

インテリ御用達だったロシア文学だのヨーロッパ文化だのとは、ちょっと違った感覚だったのでしょう。

 

いったい何のハナシをしているのかというと、戦前の教材も意外と幅広い分野を網羅していたんだよというコト。

それは動物に関しても同じです。

当時はどのようなイヌの教材があったのか、今回は分野別に取り上げてみましょう。

 

【自然科学教育と犬】

 

「動物繪合」より 明治34年

 

教授の方法は既に前巻に記載するが如く、其分界等を懇に説示し、何獣は何の類にして、何部なるや等を記憶せしめ、而して後其性質効用等に及ぶべし。

動物とは、生命を保存して常に自由の運動を為すべき諸機関を具有する物の總称にして、其類凡そ三十萬に下らずと云ふ。而して之を論ずる學を称して動物学と謂ふなり。

動物を大別して、有脊動物、無脊動物の二網とす。更に又有脊動物を分ちて四網とす。

哺乳類、鳥類、爬蟲類、魚類なり。無脊動物を分ちて、三網とす。多節類、柔軟類、多肢類なり。又其各網を分ちて目とし、目を細別して族となす。

猶植物に於きて、目を分ちて科とするが如し。

哺乳類は有脊動物の最も高階に位する者にして、皆形體を具へて児を生ず。故に胎生と謂ふ。温血にして、其児に哺乳す。因りて哺乳類と名く。其中人類を第一等とし、之を分ちて十二目となす。

長瀬寛二「教授法及動物略説」より 明治16年

 

小學校教科書用書新讀本「小鳥と蜂」より 明治20年

 

動物について学ぶのは理科(生物)の授業が中心です。その他、国語の分野でも動植物を教材化していました。

動物としてのイヌについては、図譜のかたちで解説されています。

 

「小學博物教授法 動物之部」より 明治16年

狗は世界中處として産せざる地なし。土地の寒暖に依て、種類異なり、家畜中最も能く人いに馴れ、且信義愛情の深きこと、諸獣に卓越す。夜中門戸を守らしめ、又猟の用に供す。大に人に益あるものなり

などとイヌを褒めちぎっている素晴らしい本でありますが、文部省検定の教科書ではなく、検定外の副読本か何かと思われます。

 

この本には豺(ヤマイヌ)も掲載されていますが、当時の日本には、まだニホンオオカミとエゾオオカミが棲息していたんですよね。

 

オオカミについては、明治21年の「高等小學讀本巻之二」でも掲載されています。

これが日本産狼の生態記録なのか、外国の話なのかは不明(ゾウやトラの話と一緒に紹介されていますので)。

 

猫の解説はこんな感じ。明治16年

 

高等小學讀本よりネコの解説。

 

自然科学の教育も、明治時代から重視されてきました。さまざまな動植物、さらにはケンクリコ(カンガルー)のほか、カモノハシやセンザンコウ、アリクイやハリモグラのような珍獣も紹介されています。

ちなみに、明治10年代の「両生類(遊水類)」はイルカやオットセイといった海獣を指していました。

本来の両生類はどうだったのかというと、カエル、サンショウウオ、イモリは蝦蟆類(カヘルルヰ)で纏められています。時を経ずして教科書でも爬虫類と両生類が区別されるようになりました。

 

「ジラフ」が日本で「キリン」と呼ばれるようになったのは明治40年からですが、明治16年の教材では既にキリンと称されています。何だコレ?とか思ったら、江戸時代から麒麟呼ばわりされていたんだそうで。

 

……さすが教科書、勉強になるなあ。

 

【道徳教育と犬】


 

礼儀やマナー、思いやりや動物愛護を楽しく学べるよう活用されたのが、寓話(童話)です。

「アリとキリギリス」「狼と狐」「犬と肉」「ウソをつく子供(オオカミ少年)」といった動物を主人公にしたイソップ物語が教材化されていました。

イソップの寓話が日本に伝わったのは関ヶ原合戦より7年も前のこと。児童用の題材としても、 明治6年から現代に至るまで活用され続けています。 我が国でも古典なんですねえ。

 

特に「慾深き犬」の話は人気があったらしく、複数回掲載されました。

 

帝國ノ犬達-イソップ

とらト呼ベル犬アリ。
慾深クシテ。常ニ食物ヲムサボリ食フ。
アルトキ。肉屋ニテ一ト切ノ肉ヲヒロヒケレバ。急ギテニゲ去リタリ。
ミチニ小川アリ。
橋ヲ渡リテユカントセシニ 橋ノ下ニモマタ犬アリ。
肉ヲクハヘテオナジク走レリ。
とらハ此ノ犬ヲ見ルニ 己ヨリ大イナル肉ヲクハヘタレバ 忽慾心ヲオコシ。其ノ肉ヲモムサバラントシテ。カミツキタリ。
シカルニ。橋ノ下ノ犬ハ。己ノ影ニテアリケレバ カヘリテ。己ノ肉ヲ水ノ底ニシヅメタリ。

小學教科書用新讀本 「慾深き犬」より 明治19年

 

狼

尋常小學修身書巻一 十九「ウソ ヲ イフナ」より、 明治42年 。 オオカミ少年の他に、「狼と狐」も教材化されています。

 

犬

よい子は助けてもらえるのだ。

尋常小学修身書巻一 二十一「キンジヨ ノ ヒト」より 明治42年

 

【情操教育と犬】

 

庭のすみで、先程からちやらちやらとすゞの音が聞える。
しやうじを明けて見ると、小さな犬ころが二匹、上になり下になりしてじやれてゐる。
あまりかはいら しいので、僕はしばらくそれを見てゐた。
すると其のうちに、僕の見てゐるのに気がついたと見えて、じやれ合ふのを止めて、尾をふりながら、ちよこちよこや つて来た。
僕が庭へ下りて、かはるがわる頭をなでてやると、喜んで僕の手にとびついてぺろぺろとなめる。
僕がえんがはへ机を持出して、おさらひをはじめると、二匹ともくつぬぎに手をついて、ぎやうぎよく僕のすることを見てゐる。
ふと、垣根の外でちやらちやらとすゞの音が聞えた。
二匹はいちもくさんにかけて行つたが、間もなくかはいらしいのを一匹つれて来た。
仲間がふえたので、又一しきりじやれ合ひをはじめた。

尋常小学国語読本八より

 

教訓話だけではなく、動物愛護精神を育む教育は、明治時代から始まっていました。

 

犬

小學修身書初等科之部より、明治16年

 

小學校新讀本参「なさけ」より、雀の雛を救う玉次郎少年。 明治20年

 

尋常小學讀本より、子猫を拾ったお時さんとお竹さん。 明治20年
 

犬

動物愛護教育に関しては、身近な生物を題材にすることが多かったようです。

もちろん、寓話や海外の動物愛護も教材化されていました。

 

国民学校教材より、うらしま太郎。昭和16年

 

ナイチンゲールはイギリスの大地主のむすめで、小さい時からなさけ深い人でございました。

父が使つてゐた羊かひに一人の老人があつて、犬を一匹かつてゐました。

或時その犬が足をいためて苦しんでゐました。その時ナイチンゲールは、年とつた僧と一しよに通りあはせて、それを見つけ、大そうかはいさうに思ひました。

そこで僧にたづねた上、湯できず口を洗ひ、ほうたいをしてやりました。あくる日もまた行つて、手あてをしてやりました。

それから二、三日たつて、ナイチンゲールは羊かひのところへ行きました。犬はきずがなほつたと見えて、羊の番をしてゐましたが、ナイチンゲールを見ると、うれしさうに尾をふりました。

羊かひは、「もしこの犬が物をいへたら、さぞ厚くお禮をいふでありませう」といひました。

尋常小学修身書巻四 第二十 「生き物をあはれめ」より 昭和2年

 

なお、第二十一「博愛」は、クリミヤ戦争におけるナイチンゲールの看護活動に続いています。

 

動物愛護団体も教育現場へ働きかけており、日本人道會は児童や警官(戦前は畜犬取締を管轄していました)に対する動物愛護授業を展開しています。動物愛護會も、明治39年から下部組織である「少年動物愛護會」を結成。各地の小学校で児童会を開催し、動物愛護教育に取り組みました。

これらの活動に、学校側も進んで協力したのでしょう。中には無理解な教師もいたようで、愛護會側を憤慨させていましたが。

宗教家や教育者中にも、往々フーンと云つたやうな顔つきで、深遠なる哲理の背景を有する、動物愛護の主張を聞き流さうとする者があるが、この輩は人を救ふことも出來なければ、人を造ることも出來ない。

學人はこの輩に宗教の返上と、教育よりの退陣を要請する。

動物愛護會「犬儒白す」より 昭和18年

 

少年動物愛護會の会則より
 

【算数と犬】

 

尋常小學校算術は、兒童の数理思想を開發し、日常生活を数理的に正しくするやうに指導することに主意を置いて編纂してある。

尋常小學算術に掲げた教材は、数・量・形に関する事項の基礎的なもので、日常生活によく現れ、しかも、兒童の心理・技能に適應するものを選び、これを大體数理の系統に従つて配列し、尚、兒童の心意の發達に應ずるやうに按配した。さうして、専ら學習に興味をもたしめ、進んで心身を働かしめ、最も自然に、且確實にこれを修得せしめんことを期してゐる。

しかし、生活は地方によつてその情況を異にしてゐる。これ等の事情に鑑み、教師は、本教科書の教材について、適宜取捨し、補充し、場合によつては配列を適當に変更して、一層兒童の實際に適應するものたらしめるやうに努めねばならない。

「尋常小學算術第一學年教師用」より 昭和10年

 

私は数字を見るとじんましんが出る体質なのですが、小学校の算数は楽しかったなあ。

低学年の場合、「学習に興味を持たしめ」るために様々な工夫がこらされていました。

 

「尋常小學算術第一學年 兒童用」より 昭和10年

 

上の教材について、教師側の指導要領は下記のとおり。

 

兒童用書第七頁では、犬と鶏とを数へさせる。単位の名は「匹」と「羽」である。

唱へ方は次の通りである。

イッピキ ニヒキ サンビキ シヒキ ゴヒキ ロッピキ シチヒキ ハチヒキ クヒキ ジッピキ

イチハ ニハ サンバ シハ ゴハ ロクハ シチハ ハチハ クハ ジッパ

兒童用書の下方は、小犬とひよこが綱引をしてゐる所を漫畫風に畫いたもので、数へ方の練習をさせるためのものである。

實際のものについて数へさせることは必要である。犬の他に、兎・猫・牛・馬等、鶏の他に雀・烏、鳩等、兒童の熟知してゐるもので、學校の付近に容易に求められるものを選ぶがよい。

しかし、これ等の動物の集合してゐる場合を捉へることは容易でなく、又捉へたとしても、数範囲が適當でなかつたり、對象が動いたりするために、数へることが困難難場合も少なくないから、取扱には注意を要する」

「尋常小學算術第一學年 教師用」より、指導要領・名数の数へ方 昭和10年

 

【唱歌と犬】

 

唱歌はたいせつな學科ですから、みなさんはよく勉強しなければなりません。

皆さん大きくなって、りつぱなえらい人になるのには、小さいとき學校で、おしへて下さることは、なにでもよく出來なければなりません。

唱歌なんかどうでもよい、唱歌なんか出來なくてもよいなどと、おもつてゐらつしやるかたがあるとするならば、それはたいへんなまちがいです。

學校で皆さんに唱歌を教へるのは、みなさんの心を美しくするためです。心の美くしい人は、りっぱなおこなひをする、美しい人になります。

そのほかに、ことばを美しくして、ことばをはつきりさすのも唱歌のちからです。

皆さんが大きくなつて、がくしやになり、せいじかになり、またぐんじんになつても、大きなおしようばいをするのにも、ことばをはつきりいつたり、たくさんの人の前で大きなこえでお話をするのにも、このこえをよくすることや、ことばをはつきりしてゐるのはたいせつなことです。

それで小さいときから、こうしたおけいこをしておかねければなりません。

なほその上みみのきくおけいこをするから、みみがよくなります。

 

「小學唱歌尋常科第一學年用」より 昭和3年

 

小学校の唱歌にも、犬をテーマにしたものがありました。それらも取り上げてみましょう。

まずは初期のものから。

 

第一学年用第十九「犬」  明治44年

1.外へ出る時とんで來て 追つても追つても附いて來る
ぽちはほんとにかはいいな
2.内へ帰ると尾を振つて 袂に縋つて嬉しがる
ぽちはほんとにかはいいな

 

第二学年用第十七「雪」 明治44年

「いーぬは喜び庭駆けまはり、ねーこは火燵で丸くなる~」という有名な歌。

これは、放し飼いが当たり前だった時代に見られた風景でした。しかし、自治体の畜犬取締規則が厳しくなるにつれて消えていったそうです。

雪が好きだといふと、他人はよく狗兒のやうだといつた。
だが今日では雪の降る日に街路で雪まみれになつて戯れる狗兒を見ることは稀になつた。應挙だの蘆雪だのの描いた雪中の狗兒。
私の少年時代には、それは街頭嘱目の小景であつたのだけれど、飼主の無い犬の生存は許されない今日では、市路傍は犬の子のうちむるる様などは有り得ないこととなつた。

鏑木清方「雪といぬころ」より 昭和10年

 

家畜である犬は、人間のルールにあわせて生活を変えてゆくのでしょう。我が家のフクも、真夏と真冬はエアコンが効いた部屋から頑として出ようとしませんし。

 

「ポチトタマ」 昭和10年

1.このこは ぽちと まうします

ちんちんおあづけ みなじやうず

いまにおほきくなつたなら ごもんの ばんを よくしませう

2.このこは たまと まうします

まいにちげんきに あそびます

いまにおほきくなつたなら ねづみのばん をよくしませう

 

犬が登場する唱歌といえば、桃太郎もそうですね。

 

幼年唱歌「桃太郎」

僕が知っている桃さんと違うぞ。

唱歌じゃなくて軍歌みたいになってる……。

 

♪ひとつ私にくださいな。の唱歌もこの時代からありました。

 

「犬の芝居」

♪チャッポンチャッポンチャッポンポン テテンガチリチリ チャッポンポン

コイヌガ ヒヨコ ヒコヨ タツテデタ ヒゾメノ テヌグイ ホホカムリ 

という唱歌もあるのですが、歌詞からは状況がよく理解できません。

 

国民学校の時代になると、軍用犬をテーマにした唱歌も現れました(因みに、有名な「軍用犬行進歌」は軍歌です)。

 

国民学校芸能科音楽初等科音楽一年「軍犬利根」

1.行けとの命令まつしぐら
かわいい軍犬まつしぐら
カタカタ カタカタ カタカタ ダンダンダン

弾の中

2.あの犬うてうて うちまくれ
のがすなのがすな うちまくれ
カタカタ カタカタ カタカタ ダンダンダン

敵の弾

3.よし來いよし來い 利根來い來い
わたしだわたしだ 利根來い來い
カタカタ カタカタ カタカタ ダンダンダン

弾の中

歌詞だけ読んだ人は「利根は何のために銃撃戦の中を駆け回っているの?隠れてりゃいいじゃん」と思われるでしょうが、これは伝令犬(陣地間を往復して通信文書を運ぶ犬)の活躍を歌にしたものです。初等科國語の教材「軍犬利根」とセットの唱歌であり、生徒たちもストーリーはそちらで学んでいました。

伝令犬や伝書鳩を使うのは、他の通信手段を断たれた証拠。それを知っていた中国軍も、日本軍の伝令犬に集中射撃を浴びせていました。

 


国民学校「エノホン」より 昭和16年


【習字と図画工作】

 

国民学校「エノホン」より 昭和16年

 

ミミズがのたくったような字しか書けない悪筆の私は、習字の授業が大の苦手でした。

いまでも墨汁の匂いを嗅ぐとじんましんが(以下略)

 

尋常小學國語讀本巻一より 大正6年

 

習字の題材に犬を用いる先生もいました。

教師本人が熱烈なる愛犬家だった場合、趣味全開の作品群が教室を飾ることとなります。

生活の友、愛犬の手入れも愚妻一任の始末、研究も又出來ない余だ。
研究欄に目見えるにはあまりに心臓も弱過ぎる。これも先輩各位に御願ひする事にする。
然しこれでは浮世の義理も立つまい。S犬の名さへ知らぬ余を導いてくれたものは會員諸兄の他にはない。
出來る骨折りはし度い自分だ。とうとう子供になきついた。
「先生を助けろ」
「萬事OK」
余に代つて御目見えしてくれたのが愛しの教へ子だ。別掲作品を御披露する。
吾が會のスローガン、巻頭の明朝体で綴られた吾等のモツトーだ。
腰の刀は伊達ぢやない。今一度、今一度反省顧慮する必要も有るんぢやなからうか。
今や本校児童は「軍用犬」「シエパード犬」で持ち切りだ。「あの犬色々覚えてるよ」「強くて負けないわね」と。
然し「体裁良いね」とは言わない。純真な兒童、心理学者の所謂「単純な心理」も穿つたこと言ふものではあると、感心させられる。
こんな子供の正直な告白として再認識し度い。敢て學童を引張り出した所以である。
幸に御笑覧を得ば吾等の幸甚此の上もない 。

日根野高等小学校教師 竹内勣「南泉版」昭和12年

 

「万事OK」って言葉、この時代からあったんですね。

 

武内先生が生徒に書かせた習字。生徒たちは、おそらく意味を理解していません。

 

国民学校時代の習字には、このような題材も。

「初等科習字」より 昭和17年

 

國民學校・藝能科圖畫工作教科書

一、藝能科圖畫・工作教科書は前記各章の主旨に則り次の如く編纂する。初等科第一・二學年は圖畫・工作を一體として編纂し「エノホン」と称し、初等科第一學年は「エノホン」一及び二を、第二學年は「エノホン」三及び四を用ひる。

初等科第三學年以上は圖畫と工作とを分けて教科書を編纂する。

初等科第四學年以上に於ては圖畫・工作各々の教科書を更に男子用と女子用とに分けて編纂する。以上の教科書には總て教師用書を編纂する。

二、一學年間の實際的指導週数を凡そ三十週とし、第一學期十一週、第二學期十一週、第三學期八週として編纂した。

 

國民學校・藝能科圖畫指導の精神

(一)藝能科圖畫の目的

藝能科圖畫 は、形象を看取し、表現し、且、作品を鑑賞するの能力を養ひ、國民的情操を醇化し、創造力を涵養することを目的とする。

(二)藝能科圖畫の指導方針

一、教材の取扱ひに関しては、常に國民的情操の陶冶に留意すること。

二、學習は力めて生活の實際に即せしめ、且、之を日常生活に具現せしめること。

三、確實なる技能の修練に力めしめること。

四、創作態度の育成に力め、個性の伸長に留意すること。

五、表現に於ては東西の様式に拘泥することなく、其の目的に應じて適切なる技法によらしめること。

六、躾を重んじ、姿勢に留意し、且、真摯なる態度を養ふこと。

(三)藝能科圖畫の教材

一、初等科第一・第二學年に於ては、圖畫・工作を兒童生活に統合し、思想的表現を主とし写生的表現及び圖案的表現を加へること。

二、初等科第三學年以上に於ては、写生畫、思想畫、圖案を主とし、臨畫、用器畫を併せ課すること。

三、高等科に於ては、写生畫、圖案、用器畫を主とし、臨畫及び思想畫を加へ、繪畫其の他の美術を鑑賞せしめること。

四、初等科・高等科を通じて、形體・色彩に関する基礎的知識を授けること。

(四)藝能科圖畫指導の精神

第一期 初等科第一・二學年

第二期 初等科第三學年

第三期 初等科第四・五學年

第四期 高等科第一・二學年

(五)藝能科圖畫と他の教科・科目との関聯

一、藝能科工作とは常に密接なる関聯のもとに指導すること。

二、色彩・圖案・鑑賞等の指導は、藝能科家事・裁縫との連絡に留意すること。

三、形體・色彩・圖法等は、理数科と関聯して指導すること。

四、鑑賞教材は、適宜國民科國語及び國史と関聯して指導すること。

 

尋常小學國語讀本巻一より 大正6年

 

因みに、オハナは尋常小学2年の教科書にも出演しています。

 

尋常小學國語讀本巻二「カゲエ」より 大正15年

影絵の教材ってコレ位ですかね?

 

国民学校「エノホン」より 昭和16年

 

初等科図畫より「ポスター」。テーマはカラダヲキタヘヨ(体を鍛えよ)。

昭和17年

 

犬の描き方とクレヨンでの彩色教材。戦争後期は愛玩犬ではなく軍用犬がモデルとなります。

国民学校の初等科図畫「軍犬」より

 

藝能科工作指導の精神

(一)藝能科工作の目的

藝能科工作は、物品の製作に関する普通の知識技能を得しめ、機械の取扱ひに関する常識を養ひ、工夫考案の力に培ふことを目的とす。

(二)藝能科工作の指導方針

一、化学的態度を重んじ、正確精密なる技能の養成に力めること。

二、考案・製圖・製作の學習過程を重視すると共に、適宜批判、鑑賞につき指導すること。

三、持久的に製作完成するの態度を養ひ、實践的性格の錬成に力めること。

四、傳統的技法を重んずると共に、常に新時代の技術の進歩に留意し、適宜之を指導の上に活用すること。

五、既習の知識技能は力めて日常生活の實際に應用し、其の合理化、美化に力めるやう指導すること。

六、適宜共同製作を課すこと。

七、材料・用具に對する理會を與へ、之を尊重する習慣を養ふこと。

八、躾を重んじ、姿勢・態度に留意すること。

九、 藝能科圖畫と関聯して情操の醇化に力めること。

(三)藝能科工作の教材

一、初等科第一・二學年に於ては、圖畫・工作を兒童生活に統合し、思想的表現を主とし、模作的・写生的表現等を加へること。

二、初等科第三學年以上にありては、紙・絲・布・粘土・セメント・竹・木・金属等の材料を用ひ、思想作・写生作・臨圖作・模作及び製圖を課すること。

三、高等科に置いては、木材・金属・セメント等の材料を用ひ、圖案・製圖及び臨圖作・模作等を課すること。必要に應じ其の他の材料による工作を加へること。

四、初等科高等科を通じて、機械器具の操作及び分解・組立・修理等につきて指導すること。

五、材料・工具・工作法等に関する知識の大要を授けること。

六、形體及び造形機能に関する知識を授けること。

 

 

赤い三角形はトロリーポール(集電装置)

 

 

工作や造形に関しても、動植物をモチーフとしたものが多く用いられていました。

 

国民学校教材より、立体工作の作例

 

 

オサカナ 思想的表現

要旨

粘土で魚類を作らせて、思想の發表をさせ、手指の練磨をする。本教材は前に造つた「クダモノ」「木ノハノイロイロ」の二教材と表現上の関聯を有するものである。即ち果物は大體球形をして居り、木の葉は扁平であり、魚類は其の中間にあるもので、作り方の上で一つの系統を有するものである。しかも魚は表現上生き物としての取扱ひをしなければならない點もあつて、前二者に比し一歩進んだものである。

魚類は亦兒童に親しみあるもので、喜んで製作するものであるから、此の點からも取材の意味があるのである。

 

 

国民学校の粘土像作例 昭和16年

 

身近な存在である犬は、絵画やマンガ、彫刻などの題材としてもうってつけであり、実際よく描かれています。

しかし戦争が激しくなるにつれ、この分野も軍事色が強くなりました。

子供たちの人気者だったのらくろも、紙資源のムダであるとして内務省の役人から連載を中断させられてしまいます。

 

 

【皇民化教育と軍国教育】

 

もともとは自然科学や情操の教材であった筈のイヌ。しかし、戦時下へ移行すると共に、ハチ公物語や軍犬武勇伝が利用されるようになります。

 

尋常小学修身書巻五より、昭和5年

 

列強に追いつこうと、明治政府は国民の知的水準を上げることに注力しました。国家、社会、学校、家族の良き一員となるための修身(道徳)は、忠君愛国を説く皇民化教育が基礎となっています。

やがて昭和に入って軍部が台頭。日本が戦争へ向かう中で、軍国教育が強調されるようになりました。

犬の教材も同じです。

 

特に注目されやすいのが、「報恩」の教材となった忠犬ハチ公物語「オンヲ忘レルナ」。

一行も読んでいない人々によって(読んでいたら、ああも軽々しく批判できなくなるのは御存知の通り)、現在では「軍国教育」だという批判が独り歩きしています。

 

 

モモタラウ 思想的表現(共同作)

要旨

桃太郎の童話を紙芝居風に兒童数名づつで共同して畫かせ、思想發表の練習をさせ、日本精神及び協同精神を養ふ。

桃太郎の童話は國民的童話の代表的なものであり、國民科「ヨミカタ」に於ても丁度此の時期に授けることになつてゐるので、それと連絡して此所に入れたのである。

 

小学校で開催された軍用犬実演の写生画。軍国教育の一種です。

 

さて。

現代人から批判される忠犬ハチ公物語は、本当に「軍国教育」の教材だったのでしょうか?

読めばわかる通り、もっと広い意味での「皇民化教育」、もしくは「情操教育」の教材じゃないの?

そもそも皆さんのおっしゃる「軍国教育」の基準って何なのさ?

というお話は、次回のハチ公物語で取り上げましょう。長くなるので。

 

 

(次回、忠犬ハチ公物語に続く)

 

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2016-07-30 21:00:00

児童教育と犬(第4回)忠犬ハチ公物語「恩を忘れるな」

テーマ:児童教育と犬

名称ハチ號
年齢十歳
性別牡
毛色白、肩高二尺一寸三分、體重十一貫匁、尾左巻
産地 秋田縣
以上のことを日本犬誌に描くと共に、當時犬殺しにおそはれた等のことを聞いたり、いくらよい首輪胴輪をさしても、何時の間にか取りはづして盗んで行く人間がある等の事を聞いて居つたので、廣く世人に事情を知つて貰つて愛護して貰ひたく、東京朝日新聞に投書したところ、早速大きく報導して下れたのはハチのために嬉しいことであつたが、現在の耳垂れの状態を見た記者氏が、秋田雑種と書いてしまつたため、折角の記事が誠に残念なものになつた。
直に抗議を申込んだところ、社の方には諸方から抗議あり申譯ありませんと早速数度に渡つて訂正して下れたので、ハチも冤罪がぬぐはれたわけである。

日本犬保存會理事 齋藤弘

 

日本が戦争へ向かっていた時代、教育現場では皇国史観や軍国主義を採り入れた授業がおこなわれていました。

しかし、教える相手は小学生ですからねえ。難解な言葉が散りばめられたキョウイクチョクゴとか、理解できるはずがありません。そこで、児童にもわかりやすい題材が選ばれたのです。

例えば、尋常小学2年生の教材には忠犬ハチ公とか。

 

その指導内容はどのようなものだったのでしょうか?

軍国教育だった!と批判する向きもありますが、教材だけを読めば「どこが軍国教育なの?」と首をかしげたくなります。

軽々しく批判している人たちは、要するに自分では批判の対象に目を通していないのね。

……などと、「こいつの批評は信用に値するか」を識別するリトマス試験紙的な役割も果しているのが「オンヲ忘レルナ」です。

ハチ公を調べている皆さんも、ぜひ活用してください。

 

連載第3回目は、忠犬ハチ公物語「オンヲ忘レルナ」について取り上げます。

 

渋谷驛の記念スタンプ。駅舎、ハチ公、明治神宮、代々木練兵場(現在の代々木公園)などがデザインされています。昭和9年

 

日本犬の再評価と犬の軍事利用が推し進められた昭和の時代。
戦時体制への突入と共に、「国家と犬」はその関係を深めてゆく。
この流れを児童へ植え付けたのが、軍用犬と忠犬ハチ公だった。
戦争へと突き進む日本は、忠君愛国教育に犬を利用したのだ。
軍用犬は日本の戦争に従事する「無言の勇士」として
ハチ公は「国犬」たる日本犬のシンボルとして
国家への忠義を押し付けられたのである。

……などと、それっぽく書いてみました。恥ずかしー。

 

こんな話を聞かされても、「たかが犬に大袈裟な」というのが一般の感想でしょう。
しかし偉いセンセイがたは、こんな事もいちいち小難しい話に仕立て直さないとダメらしいのです。
肩書や立場があるとはいえ、大変ですねえ。

※因みに、日本の国犬はアキタではなく狆です。

 

雪崩から主人を救った猟犬タマ公、月末怪盗を追い詰めた在郷軍用犬アヤックス、数々の犯罪捜査で活躍した南千住署のベル公、山岳レスキューや映画出演で活躍したシトー、溺れる主人を救ったペッツエ。

大部分は存在すら忘れ去られてしまいましたが、戦前の日本にも数多の名犬や忠犬がいました。

その中で、戦後にまで語り継がれたのが忠犬ハチ公です。

もちろんハチ自身が「俺を有名にしてくれ」と売り込んだ訳ではなく、周囲の人間が「忠犬」に祭り上げて大騒ぎしただけの話。

ハチ自身は最初から最後まで普通の秋田犬として生きました。彼の行動理由を、ハチから訊きだせた人はいません。

本質はそこではなく、大ブームとなった背景のほうです。
それが社会批評の格好のネタとなった結果、忠犬ハチ公物語は大袈裟な「国家と犬論」にすり替えられてきました。
まったくの要らぬお世話です。我々が求めているのは涙と感動のストーリーなのですから。

 

そんなことはともかく。

このハチ公物語は、各方面で大いに利用されました。

・日本犬保存會による日本犬復興活動

・日本人道会や東京ポチ倶楽部による動物愛護運動

・ハチ公グッズやハチ公本で一儲け

・文部省による皇民化教育

などがソレですね。

皇民化教育の場合、ハチ公の行動を「忠義」「報恩」の教育へ結び付けた訳です。

ただ、「軍国教育に利用された」という主張には安易に同意できません。

 

当時の教育にもイロイロありましたから、ちょっと掘り下げてみましょう。

「戦前の教育=軍国教育」で思考停止すると、その辺が見えなくなりますので。

 

【忠犬ハチ公とその時代背景】

 

教師用の小學修身指導書より、「オンヲ忘レルナ」の指導要領

 

大正12年末に生まれたハチ公は、飼主の上野英三郎教授から愛育されました。しかし、大正14年に教授は急逝。

転々と預けられた挙句、出入りの植木職人だった小林氏に引き取られたハチは、そこから渋谷駅へ通うのが日課となります。

それから数年が過ぎたある日のこと。消滅しかけていた秋田犬の調査を依頼された日本犬保存會の斎藤弘吉理事は、むかし駒場で見かけた秋田犬を訪ね歩 いていました。そして辿り着いた小林さんからハチの由来を聞いて感激。昭和7年にハチの話を東京朝日新聞へ投書したことで、渋谷駅で邪魔者扱いされていた 老犬は「忠犬ハチ公」へと祭り上げられます。

こうして銅像まで建立され、押しも押されもせぬ大スターとなったハチ公ですが、自身はそれ以降もそれまで通りに暮らしました。

路上に横たわるハチ公の遺骸が発見されたのは、 昭和10年3月8日のこと 。

この忠犬物語は、渋谷駅のささやかなエピソードとして語り継がれるはずでした。

しかし同年春、忠犬ハチ公を題材とした短編「オン ヲ 忘レルナ」が尋常科第二学年小学修身書に掲載されます。忠犬ハチ公は、全国の児童が学ぶべき教材と化したのです。

 

もちろん、鳥獣を用いた教材自体は珍しくもありません。馬、熊、象、虎、鳩、狼、狐、犬、猫、猿、オランウータン、フクロウ、燕、カタツムリなど、多種多様な動物が当時の教科書に掲載されていました。

自然科学への興味や動物愛護精神を育む、道徳や教訓を得るなど、その目的は様々です。

 

そのひとつとして、動物を題材にした軍国教育も行われていました。

戦場に於ける軍馬・軍鳩・軍犬の活躍を描いた武勇伝がそれです。

2年生と5年生の違いはありますが、同じ年の小学国語読本に掲載されたのが「犬のてがら」。満州事変で戦死した那智・金剛・メリーの実話を、教材用に脚色した軍犬武勇伝でした。

 

大陸での状況が緊迫化し、日中戦争へ至るのはそれから2年後のことです。

 

ハチ公の教材が厄介なのは、その立ち位置がアヤフヤな点にあります。

内容は動物愛護を教える情操教育に見えますし、タイトルは忠君愛国を刷り込む軍国教育にもこじつけられますし。基本は人としての心構えを教える皇民化教育に属するのですが、判別が難しいですね。

「犬のてがら」と同じ年に教材化されたことにも、何らかの意図があるかもしれません。

 

つまり、論者の観点次第でいかようにもアレンジできるのです。そりゃあ混乱もしますよ。

 

【兒童から見たハチ公物語】

 

教科書で忠犬ハチ公物語を学んだのは、当時の尋常小学二年生でした。

「児童用尋常小學修身書 巻二」 より 昭和10年

 

当時の教育事情から見た「オン ヲ 忘レル ナ」は、どう評価されるべきなのか。
こちらは「犬のてがら」以上に批判されているから、子供たちに軍国主義を植え付ける内容の筈。
書籍やネットでもそう解説してあるし、皆んなが怒っているから軍国教育が目的だったに決まっているじゃないか。

だったらワタシも便乗しなければ。
「何て酷いことを!」
「子供を洗脳するなんて虫酸が走る!」
「利用されたハチ公がカワイソウ!」

……などと喚いているソレは、御自身で当時の記録を調べた上での怒りなのですか?

一応、確認しておきたいのですが
まさか「オンヲ忘レルナ」を読みもせずに批判している人はいませんよね?
疑うようで申し訳ないのですが、一行すら読んでいない癖に、「ハチ公が軍国教育に利用された!」などと喚き散らす人を見かけるので念の為。

あの教材を一度でも読めば、「軍国教育」の言葉を用いるのはイヤでも慎重になる筈でしょう。安易な批判は、読んでいないのを白状するようなものです。

ネットが未発達だった頃はそれも誤魔化せたんですけどね。一次史料を元にしたハチ公研究が進んだ現在、旧来の思想ごっこ的ハチ公批評はネット上で検証に晒され、神通力を失ってゆくのでしょう。


その手のエセ批評家は無視して、本題に入ります。
きちんと読んでから批判している皆さんにお聞きしたいのですが、「オンヲ忘レルナ」の何処に、貴方がそこまで激怒するような部分があるのですか?
何回読んでも、私にはどこが軍国教育なのかさっぱり分かりません。
「ハチを見倣ってお国に尽くせ」なんて一言も書いてありませんし、現代日本の子供たちが読むハチ公物語と同じ内容です。
「コレって軍国教育じゃなくて情操教育じゃないの?」程度の疑問すら持たないのは何で?


批判しているのは「あの時代」にこの物語を教科書に載せたことなのか、それを利用した当時の教育方針なのか、それとも、「恩を忘れるな」という命令調のタイトルが気に食わないのか。
「教科書に載せたのがケシカラン」というなら、どの部分がどうダメなのかを明確にしてください。
そこに言及しない「ハチ公批評」など、批評の体をなしていません。

 

先入観や他人の意見は捨て去って
今一度、尋常小学二年生になったつもりで「オン ヲ 忘レルナ」を読んでみましょう。

 

犬

 

オン ヲ 忘レル ナ 
児童用尋常小學修身書 巻二 二十六
文部省 昭和10年

ハチ ハ、カハイゝ 犬 デス。
生マレテ 間モナク ヨソ ノ 人二 ヒキ取ラレ、ソノ家ノ 子ノ ヤウ ニシテ カハイガラレマシタ。
ソノ タメ ニ、ヨワカッタ カラダ モ、大ソウ ヂャウブ 二 ナリマシタ。
サウシテ、カヒヌシ ガ 毎朝 ツトメ 二 出ル 時 ハ、デンシャ ノ エキ マデ オクッテ 行キ、夕ガタ カヘル コロ ニハ、 マタ エキ マデ ムカヘ ニ 出マシタ。
ヤガテ、カヒヌシ ガ ナクナリマシタ。
ハチ ハ、ソレ ヲ 知ラナイ ノ カ、毎日カヒヌシ ヲ サガシマシタ。
イツモ ノ エキニ 行ッテ ハ、デンシヤ ノ ツク タビ 二、出テ 来ル 大ゼイ ノ 人 ノ 中 二、
カヒヌシ ハ ヰナイ カ ト サガシマシタ。
カウシテ、月日 ガ タチマシタ。
一年 タチ、 二年 タチ、三年 タチ、十年モ タッテ モ、シカシ、マダ カヒヌシ ヲ サガシテ ヰル
年 ヲ トッタ ハチ ノ スガタ ガ、毎日、 ソノ エキ ノ 前 ニ 見ラレマシタ

(以上全文)

批判派の方へ再度お訊ねしますが、コレの何行目あたりが「軍国主義教育」に該当するのでしょうか?
私にはどうしても分らないのです。

批判されるべき軍国教材はハチ公物語の「オンヲ忘レルナ」なのですか?
軍犬美談の「犬のてがら」の方でしょう。批判の対象くらいちゃんと見極めてください。

 

【軍国日本を象徴する犬とは】

 

教科書に「オンヲ忘レルナ」と「犬のてがら」が載ってから2年後、昭和12年夏に日中両軍は盧溝橋にて激突。

続く第2次上海事変を経て軍部の大暴走が始まり、年末の南京侵攻へと戦線は拡大していきました。まだ戦争は海の向こうの出来事でしたが、銃後日本も息苦しい戦時体制下へ移行します。新聞雑誌では、戦地での軍犬武勇伝が盛んに流されるようになりました。

内地の軍犬班も続々と出征し、その資源母体維持のため、シェパードの飼育も半ば国策として奨励されます。これは当時、「軍犬報國運動」と呼ばれていました。

 

世のハチ公論の中には「ハチ公は軍国日本の象徴だった」とかいうトンチンカンな主張も見られますが、全くの的外れ。思考の浅さと不勉強を白状するようなものです。

ご存知のとおり、日本軍の主力犬種は第一次世界大戦で実戦プルーフされたジャーマン・シェパードです。

教科書で取り上げられた軍用犬も、秋田犬のハチ公ではなくシェパードの那智號でした。

今も昔も、渋谷駅のハチ公像を見て「これは軍国主義の像だな」などと考える人はいません。

軍国日本を代表する犬のシンボルとは、戦時中は神奈川県逗子にあった忠犬之碑であり、現代は靖国神社軍犬慰霊碑です。

 

……などといい歳こいた大人に対しては反論できるのですが、相手は幼い尋常小学生。

「軍国の犬」に関して、児童の捉え方は二つに分かれていました。

 

帝國ノ犬達-ハチ公像

渋谷驛の忠犬ハチ公像。もちろん、像の設置に軍部は関与していません。

その時の軍犬の有様はさながら戦場の敵をかみ殺し、自分も死ぬ覚悟でもつて戦ふ勇ましい有様であつた。

丁度そこが戦場であるかのやうに。背中がスーツと冷たくなるを感じた。

軍犬がいかめしい服を着た兵隊さんと共に、壮烈な戦死を遂げようとする様がありありとうかんできた。

其の軍犬は既に勲章を頂いてゐる。午後の日がピカリとほこらしげに輝かしている。

軍犬は誇らしげに吠へた。

軍犬は勇ましいばかりでなく、主人の体臭は何時までも覚えてゐて主に従ふものである。

忠犬ハチ公もその通りである。

軍犬がこのやうに忠節をつくすのであるからこそ、好ましいのである。

内では主人にやさしく慰められてゐる軍犬も、いざ戦場に向ふと勇気一杯、元気一杯で奮ひ立つのである。

人間も少々ながら及ばぬといはねばならぬ。

尋常五年 安井恭子さん「軍用犬」より 昭和12年

 

ジュリー1

こちらは逗子延命寺の忠犬之碑。 満州事変で戦死した那智・金剛姉弟(「犬のてがら」のモデル)と、ジュリー號(満州から日本へ渡った後、逗子で病死)の慰霊碑です。 「軍犬ジュリーの墓を建てよう」という逗子小児童のささやかな募金活動は、陸軍を巻き込んだ一大イベントへと発展しました。

画像はジュリー像の除幕式にて、功章を授与する陸軍省恩賞課の村山大尉。 昭和8年

午後の一時間目、先生が軍用犬の訓練を見せてあげるとおつしやつた。

私は胸がどきどきした。あの勇ましい犬がすばらしい活躍をするのだと思ふと、嬉しくてたまらなかつた。私達は運動場へ出て犬を取りかこんだ。他の学校の生徒も來て居た。皆で四匹である。

あの勇ましい颯爽たる姿が、今私達の前ですばらしい活躍をするのだ。

其の時、三年生の讀方で習つた、金剛、那智の事が思ひ出されてならなかつた。

尋常五年 藤原美奈子さん 「軍用犬の訓練」より 昭和12年

 

上記は、大阪の東光尋常高等小学校で開催された軍犬実演の感想文です。軍国教育の成果があらわれていますねえ。

どちらかというと藤原さんのように軍用犬=那智を連想する子が多数派。安井さんのようにハチ公を思い出す子は、資料探しに苦労するほど少数でした。

 

大人の皆さんに対しては、日本犬保存運動と軍犬報國運動の違いを説明しましょう。

しつこくてスミマセンが、ハチ公論の前提として二つは区別する必要があるのです。

 

・戦前の日本犬保存運動

 

犬

日本在来犬の再興には、時流に乗って国粋主義も利用されました。

「主人へ忠義を尽くす犬」「武士道精神をもつ犬」「日本固有の天然記念物」

洋犬との交雑化で日本犬が消滅しかけていた当時、降ってわいた日本犬ブームは最後のチャンスでした。それが終息する前に日本犬の評価を定着させるには、手段を選んでいる余裕などなかったのです。

現代目線でソレを批判するのは大いに結構ですが、日本犬愛好家側も「先人の努力も知らないくせに、日本犬保存史を幼稚な善悪論で語るんじゃねえ!」と大声で主張すべきでしょう。

あの戦時下で、日本犬を護り抜いたのは彼らなのですから。

因みに「非常時だから、シェパード以外の犬は毛皮にしろ」と喚いていた軍国主義者は、日本犬保存活動に敵対する存在でした。この辺も勘違いされているんですよね。

 

・軍犬報國運動

 

 

陸軍による民間シェパードの調達システムは、軍の方針に賛同する何万人もの民間愛犬家によって支えられていました。

軍犬を大規模運用するため必要なのは、シェパードの飼主を増やし、調達の資源母体を維持する事。そこで、帝国軍用犬協会による宣伝活動や蕃殖・飼育・訓練支援が全国規模(外地を含みます)が展開されました。これを「軍犬報國運動」と呼びます。

軍国日本を象徴する犬が、国産の秋田犬ではなくドイツ産のシェパードだったというのも皮肉な話ではあります。 まあ、後の同盟国なので気にしない。

 

ネット上の一言居士の中には、時系列を無視して「ハチ公が有名になったのは軍国教育の結果だ」という妄言を垂れ流す向きもあります。

教科書に載る3年前、昭和7年にハチ公が有名になったのは「軍国教育」とかカンケーありません。

当時のマスコミ報道によるゴリ押しと、日本犬保存会による在来犬保護活動(これは国粋主義と関連付けてもOK)が、捕鳥部萬や花咲爺さんや八犬伝の時代から忠犬・義犬談が大好きだった国民性と合致しただけです。

 

ネットや書籍を見渡しても、当時の時代背景や教育指導要領などを総合して「オンヲ忘レルナ」を論じているのは、アーロン・スキャブランド著「犬の帝国」くらいですかね。

しかし、あの本もページ数の都合上概略のみですし、ソレゆえの強引な展開も鼻につきます。「当時の文脈によると結論はコレコレこうなのだ!」とかいう論法だと、幾らでもコジツケられそう。

 

こうもアヤフヤなままだとアレなので、彼らの主張が信用に値するかどうか、読者側にも判断材料を与えるべきでしょう。

良い・悪いとかそういう話ではなく、ソレがきちんとした歴史考証を経ての批評なのか、根拠のない妄想なのかを識別できるようにするだけです。

 

【教師から見たハチ公物語】

 

そもそも論でいえば、「軍国主義教育」って一体何なのでしょうか?「どこからが皇民化教育で、そのうち何が軍国教育なのか」の定義を誰も示そうとしません。イメージとしては思い浮かぶものの、けっこう曖昧です。

ついでに「軍国教育だ!」と息巻くハチ公論者の方々がナニを論拠にしているのかも、サッパリわからないんですよ。 日本の某最高学府が出版したハチ公本でさえ、その考証を思考放棄する体たらくですから。

 

……他人様へグダグダ文句をいう前に、オノレで当時の指導方針を調べりゃいいんじゃないの?

などと反省して、当時の小学修身指導書から「オンヲ忘レルナ」の指導要領を抜粋してみました。

 

この教材が載った小学2年修身書の、大まかな指導方針は下記のとおり。

 

第二修身書の教材はその選擇についても尋一修身書の方針をそのまゝ踏襲した形である。

即ちその方針の主なものは左の三項である。

一、兒童の徳性の情的方面竝びに意的方面の陶冶に一層重きを置くこと。

ニ、児童の経験に即し、兒童の心情に触るゝことに特に意を用ひたこと。

三、心得を授け實践を導くに共同生活観念を基調とすること。

勿論修身書が教育に関する勅語の御趣旨を根底とする以上、國體観念を明徴にし、忠良なる臣民たるに適切なる道徳の要旨を授けその實践を指導するといふことが、是等を一貫する原理たるべきはいふまでもない。

「小學修身指導書尋常科第二学年」より

 

「忠良なる臣民」とかキナ臭い言葉が躍ってますね。

しかしながら、教師用の指導要領は、教材と実際の記録を比較しながら「忠犬ハチ公の虚像」を冷静に評価しています。意外と現実的。

 

小學修身指導書より、「恩を忘れるな」の指導要領(「鶴子が老人の恩をいつまでも忘れない話」と併記)

 

尋常小学校二年生の年間カリキュラムより。ハチ公物語は二年生の最後、三月の授業で教わりました。

 

目的

人から受けた恩は永く忘れないやうにすべきことを教へるのを本課の目的とする( 教師用書)

【廣義の恩】

廣義に解釈すれば、我等の生々發展を助くるものはすべて恩である(概略)

【狭義の恩】

善良なる意志を以て何等の行為をしかけられることと、そのしかけられた事に對する自覚を必要とする(概略)

【天地自然の恩】

自然の力によって生存し、繁栄し、且つ楽しい日々を過してゐる。我等はこの自然の恩恵をあだに思つてはならない。どこまでも自然に親しみ、自然を愛し、自然の力の前に謙虚な態度をとらねばならぬ(概略)

【君父・師友・衆生の恩】

我等は自然の恩恵によつて生存し、君父・師友・衆生の恩によつて人としての生活を営む(概略)

【恩を知ることの必要】

恩を知らないものは自己を知らないものである。自己を知らないものは自己の本文を自覚することはない。「恩知らず」が屢々「不徳」と同義に用ひられるのも洵に意味のある事である(概略)

【恩についての指導】

・尋常科第一學年小學修身書では「おとうさん・おかあさん」で親の恩を説き、「きやうだい」では兄弟の恩、「せんせい」では先生の恩、「天長節」では天皇陛下の大御恩を説いた。

・二年になってもこの用意に何の変りもない。「二年生」では進級した喜びと、過去一年間を顧みて、親、先生、友達、その他の人々の直接・間接の恩恵について、深く考えさせようとした。

・「恩を忘れるな」は小學修身書巻二冒頭の「二年生」と照応するもので、続く三年への進學に当たって一層深くこれらの人々への洪恩を考えしめようとするものである。

・第一學期ではこれらの恩について指導した。第二學期では社会・友人の恩について、第三學期には上皇室の御恩恵について謹話した。

・本課は今まで指導した是等の恩恵を考え、一層その意識を深め、長くこれを忘れないように指導するものである。

 

教材観

一、恩をうけては之に報いなければならぬ。報恩は古來重要な道徳的動機とされて來た。但し報恩は感恩・記恩の次に來るべきもので、幼少の者には、ま づ自分の身の上を考へて、いかに多くの人々の恩恵に生きてゐるかを悟り、長く之を忘れないやうにさせるのを指導の第一歩とする。本課の中心使命もこゝに在 る。報恩を主とする指導は別に機會が豫定されることと思ふ。

二、こゝには二つの例話がとつてある。何れも一旦受けた恩を忘れなかつたといふことを中心とする材料ではあるが、鶴子のは實践の指導に便利が多く、ハチは感恩の念を深からしめるに適してゐる。

三、鶴子さんの話につき略

四、ハチは一般に深い感激を與へた忠犬である。たゞこの物語に對して、これを果して恩を知り、恩に感じた事例として扱ふことが妥當であらうか。
本能的の行動を道徳的に取扱ふのは問題だといふ意見もある。
これも一つの考ではあるが、古人が「渓聲元(※便)是廣長舌(谷間のせせらぎからでも仏の教えを見いだせるという中国の詩)」と喝破したやうに、修養に志 すものは、渓聲にも、山色にも、偉大な教訓を見出す。渓聲はもとより自然の響に過ぎないが、熱烈なる修行者の心はそこに自己を眺め、人生を見、更に新な世 界を發見するのである。

耳に響く渓聲は自己の修行によつて體得せる真理の聲であり、眼に映ずる山色は多年の修行によつて到達せる真理の色である。

ハチが十年一日の如く老躯を提げて、亡き主人を渋谷驛頭に待ち侘びたといふ話に感激した人人は、ハチに自己の心を見たのである。即ち生きたハチに限らない、銅像にも人には同様の感激をもつのである。

かう考へて來ると、ハチの行動の道徳性―有意的かどうか―を餘り立ち入つて穿鑿する要はないと思ふ。

 

指導計畫

 

軍国教育と混同される原因って、陸軍記念日の授業と重なっていたからでしょうか?

 

指導の實際

一、鶴子さんの話なので省略

二、ハチの話

 

帝國ノ犬達-ハチ公

「オンヲ忘レルナ」挿絵のため、石井柏亭が渋谷駅でスケッチしたハチ公

 

1.掛圖観察

イ、この大きな犬はどういふ犬か知つてゐますか。

ロ、此處はどういふ場所ですか。

ハ、ハチはどうして此處に來てゐるのですか。

ニ、ハチは今どちらを向いてゐますか。何をしてゐるのでせう。

・筆者石井柏亭氏

 

「ハチはかはいゝ犬です。ハチは、秋田産の日本犬で、耳をぴんと立て、尾をきりつと巻いた全身淡茶色の堂々たる體格の犬です。
ハチが路傍に佇んでゐると、其處を通る學校の生徒は、みんな「ハチ」「ハチ」と言つては其の頭を撫でて通つて行きます。
それは、ハチが性質極めて温順で、殊に恩を忘れない、りつぱな評判の犬だからです」(教師用書)

 

三、ハチの生立―飼主の愛撫

「ハチは、北の國の田舎で、雪の降る寒い頃に生まれました。
生まれて四十五日目に、東京の或家に引取られ、其の家の子のやうにして育てられることになりました」(教師用書)
※ハチの生年月日、上野教授宅への到着日、上野教授の詳細を添付(教師用の補足資料)


「其の頃、ハチはどういふものか體が弱く、よくおなかをこはしたり、かぜをひいたりして、獣医からも「とても満足には育つまい」と言はれた程でした。
飼主は、それをあはれんで、一入ハチをかはいがり、ハチが病気になる毎に、獣医よ薬よと心配し、ふだんもハチを自分の居間に置いて大切にしました。
さうして自分で毎日蚤をとつてやつたり、一週に一度は必ず入浴させてやつたりして、慈愛の限りを盡して養育しました。
全く其のおかげで、半年ばかりたつてあらといふものは、ハチは以前と見違へる程健康になり、それからはずんずん成長して見事な體格の犬になりました」(教師用書)
・博士は犬小屋を作らず、廣い縁側の下にめいめいの箱を作り居場所を定めて飼つてゐた。
ハチは目方が四十五キログラムにも及ぶ。

 

四、ハチが朝晩主人の送り迎をしたこと

「飼主のかような一方ならぬ愛撫に對して、ハチが主人に深くなついて來たことは言ふまでもありません。
主人は其の頃、お役所につとめてゐたので、毎日自宅から電車の驛まで歩いて行き、其處から電車に乗つて通勤してゐました。
それで、毎朝家を出る主人のお供をして、主人を護衛するかのやうに電車の驛まで見送つて行くのが、ハチの毎日の日課となりました。
其の上、ハチは、いつしか主人の帰宅する時刻を覚え込み、夕方になると、きつとひとりで驛まで出迎へて、主人の帰りを待つやうになりました。
さうして、主人の姿を大勢の人ごみの中に見つけた時のハチの歓びやうといつたら、いつもながら大したもの。
はげしく尾を振り、ぴんと両耳を立てて、いきなり主人に飛びついて行くのが常でした。
それから、さも嬉しさうにして、主人の先に立つて勢よくわが家へ帰つて來るのでした。
雨の降る日も風の吹く日も、その通りでありました」(教師用書)
・渋谷驛 東京市渋谷區上通り三丁目。一日の乗降客昭和八年度平均八萬人。

・大ていは青山口。渋谷驛の入口は青山口(裏口)と東横口と本屋口の三つある。

 

五、主人を失つたハチ
1 主人の急死
「ところが、ハチが主人に愛育されてから二年目の春のことです。ハチにとつては何よりの大切な主人が、ふとした病気で急に亡くなりました」(教師用書)
・大正十四年五月二十一日、博士は駒場の學校で脳溢血で急死した。

 

2 ハチ亡き主人を探す
「さうして悲しいお葬式もすんで、主人の姿がもうどこにも見えなくなつてしまつてからの或日のこと。玄関の柱に繋がれてゐた筈のハチは、鎖を切り、急にど こかへ行つてしまつて姿を見せなくなりました。何處へ行つたものかと怪しんでゐると、其の日の午後、用事があつて驛の前を通りかゝつた家人が、いつもの驛 の改札口の所にぼんやりと、悲しさうに佇んでゐるハチの姿を見つけました。
家人は「まあ、ハチ」と言つたきり、ハチが亡き主人の帰りをいつものやうにそこに待受けてゐるのを見て、忽ち瞼の熱くなるのを感じました。

家人が「さあ、ハチ、帰りませうよ。いくらお前がお待ちしてゐても、御主人はもうお帰りにはならないのだよ」と言つて、無理に連れて帰らうとしまし たが、ハチはじつと改札口の方を見詰めたきり、身動き一つしようとはしませんでした。家人は、致し方なくハチを其處へ残して、用事をすましてから、もう一 度驛に立寄つて見ると、ハチはやはり同じ場所に、悲しさうな瞳をまたたかせてゐるのでした。

「さあ、ハチ。私と一緒に帰りませう」と言つて促しても、いつもの素直なハチと違つて、いつかな家人の聲を耳に入れようとはしませんでした」( 教師用書)

 

3 毎朝毎夕驛脇に亡き主をまつ。

「其の夜、遅くなつてから、ハチは首をうなだれて、すごすごと我が家にもどつて來ました。しかし、如何に利口だといつても、そこは犬の悲しさ、再び帰らぬ主人とは知る由もなく、それから毎日毎朝いつもの驛に出掛けて行きました。

さうして夜遅くなつて、すご〃と、さも失望したやうな顔をして帰つて來るのでした」(教師用書)

・いつも午前九時頃送りに行き、夕方の六時頃にはまた迎へにいつてゐる。

 

五(誤植?)、十年不帰の主人を待つ

「家人も、かうした毎日悲しさうに空しくもどつて來るハチが、気の毒で〃たまりません。色々と考へた末、手離すのもかはいさうだけれど、いつそ別の 人に飼つてもらつたならば、元の飼主の事も忘れて、ハチの仕合はせにもならうといふので、かねてハチをかはいがつてゐた出入りの者にハチをあづけてしまひ ました。しかし、此の折角の心遣ひもむだでした。ハチは、新しい飼主の家に飼はれるやうになつてからも、毎日きつと驛に出かけて行つては夜になつて家にも どつて來るのでした」(教師用書)

・植木屋小林菊三郎氏。代々木富ケ谷の驛から十二三町。

・或人の歌に「亡き主の帰りますかと夕な夕な渋谷の驛に老い犬のまつ」

※ハチとジョンが堀越家、高橋家を転々とし、二年後に上野家へ戻されるも転居後で、最後は小林菊三郎氏へ預けられるまでの経緯を詳述(教師用の補足資料)

 

「かやうにして、ハチはそれから毎日、もとの主人を探しに驛に行き、電車の着く度に、出て來る大勢の人の中に主人はゐないかと探しました。

一年たち、二年たち、三年たち、やがて十年もたちましたのに、しかし、まだ昔の主人を忘れずに探してゐる年をとつたハチの姿が、毎日其の驛の前に見られて、道行く人々のあはれをそそりました」(教師用書)

 

 

かくて昭和九年四月二十一日にはその除幕式が盛大に行はれた。この時には多数の参會者があり、多くの祝辞も多く述べられたが、この盛況は外國にまで傳はつて新聞紙に掲げられた。中華民國の「時報第二報」に

東京府近有一義犬、候其故主於車站門口十年、未嘗或離、死後、好事者爲立一銅像、以資記念、圖爲銅像行掲幕禮時之盛況。

と註して其の写真を掲げた。

銅像は前期安藤照氏の原型により、臺石の正面には「忠犬ハチ公」、右側には前掲山本博士「忠狗行」が彫られてゐる。


六、教科書の取扱
ハチは人々から非常に愛された。渋谷驛にハチの姿を見ないと一種の物足りなさを感ずる程になつた。
わざ〃驛長を訪ねたり、遠くから書き寄せたりして、ハチの老軀をねぎらはうとするものが引きもきらずといふ有様であつた。

ボク ハ キノフ、センセイ ニ、ハチ ノ オハナシ ヲ キキ マシタ。
ハチハ エライト オモヒ マシタ。コレ ハ ボク ノ モラツタ オコヅカヒ ヲ タメタ オカネ デス。
カハイゝ デスカラ、ハチ ニ アツタカイ モノヲ カツテ ヤツテ クダサイ。
これは一年生の手紙。


某校四年生女兒三名は
「先生がハチ公のお話をして下さいましたので、私たちは涙が出ました。それで、私たちはおこづかいをいたゞくとその半分を貯金して、これだけになりました。どうぞこれで、ハチ公のすきなものを買つてやつて下さい」


ハチが老いて大分弱くなつたといふ知らせは一層人々の同情をそゝつた。周囲の人からも手厚く手當をされて、それで一時は健康に復したが、年は既に十三、人間でいへば百歳をも越える年なので、昭和十年三月八日、櫻の花も待たないで散つてしまつた。幾多の話題と教訓を遺して。

※最後に、ハチの死をつたえる新聞記事の内容を掲載。

 

【結論】

 

教材にも指導要領にも、軍の字すら出てきませんね。

ハチ公物語が軍国教育か否かは、皆さんそれぞれのご判断にお任せしましょう(アホか)。

……などと逃げたくなる程、漠然とし過ぎてどう結論づけたものやら。

国家・家族・学校・社会生活への忠義を教える皇民化教育であり、動物愛護精神を涵養する情操教育でもあり、しかし児童を戦地へ送り込むための軍国教育なのでしょうか?

教育界の記録からだと、その辺はどうとでもこじつけられる内容です。

確かな事実は、 新聞報道で有名になる前から渋谷駅へ通い、ラッシュ時の雑踏の中でひたすら座り続けていた老犬の姿だけ。

だから、一次史料をもとにソレっぽい主張を拵えればいいんじゃねえの?的な結論しか出てきません。スミマセンねえ。

 

同時期の日本犬保存運動や国内外の動物愛護運動(東京ポチ倶楽部、ケンネル・ガゼット誌、アテネ動物保護会など)で果たしたハチ公の役割とか、現代の教育現場で児童に伝えられることはたくさんあります。

しかし、世の中には「ハチ公=反戦平和教育のネタ」位にしか考えていないセンセイもいらっしゃるのでしょう。動物愛護精神ではなく、そんな殺伐としたハチ公観を植え付けられる生徒がいたらご愁傷さまです。

まあ、現代はネットがありますからね。それらを駆使し、卒業後に各自で軌道修正でもしてください。

 

「コトバノオケイコ」より 昭和16年


【ついでに】

 

「忠犬ハチ公史」を編纂するには、事実を元に、時系列にそって記録を並べればよいだけです。カンタンでしょう?

しかし、実際は上手くいっておりません。

ハチ公を巡る議論は、なぜにこうも混乱しているのでしょうか?


その原因のひとつが、ハチ公を擬人化し、忠君愛国だの武士道精神だのを背負わせたがる人々の存在です。
あのですね、「愛国」だの「ブシドー」だのを犬が理解できる訳ないでしょう。
ハチの上野教授へ対する思慕の情は、国家への忠誠なんかと関係ありません。
小学生じゃあるまいし、彼らは犬を何だと思っているのでしょうか?

もうひとつの原因が、ハチ公を必要以上に貶めたがる人々です。
「焼き鳥目当てで渋谷へ住んでいた駄犬を、当時の日本社会が忠犬美談に仕立てたのである」などと焼き鳥説の流布に必死なあの人達は、秋田犬に恨みでもあるんですかね?忠犬は待機中に断食しなけりゃならんとか、そんなルールを誰が決めたんですか?


渋谷駅通いは亡き上野教授を迎えに行っていたのか、単なる散歩コースだったのか、エサ目当てなのか。
人語を話せないハチから、その本音を訊きだせた人はいません。

人々は駅に佇む老犬の姿を見て好き勝手に感動したり、焼き鳥を与えては「そらみろ餌目当てだった」などと中傷したり、「斉藤弘って誰?ハチを有名にしたのは俺だ」と吹聴したり、教科書に掲載したり、勢い余って銅像を建てたりしただけ。

そんな有象無象が虚像の忠犬を作り上げ、戦後世代へ伝承しました。戦後世代も、無批判にそれを受け継ぎました。

ハチ公研究が進んだ現在、ネットの普及によって旧来のハチ公批評も神通力を失いつつあります。一方的な美化や批判でドヤ顔できた時代は去り、一次史料を元にした議論や検証の機会が得られたのです。たいへん喜ばしいことです。
等身大のハチは、人々から愛された一頭の老犬に過ぎなかったのですから。

以上。

 

……何の話をしてたんだっけ?

 

(次回、軍犬武勇伝「犬のてがら」へ続きます)

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