両側が見える』という記事の中に

“究極の恐怖”と、とことん対峙してしまった体験を書きました。

 

人間の持っていてしかるべき恐怖感

 

と書きましたが

 

「私はこんな恐怖感、持っていない」

と思われた方が殆どかと思います。

 

私自身、なんであれほどのとてつもない恐怖感に襲われたのか

その意味や、恐怖感がどこから来たものなのか

或いは、何を原因に発生したものなのか、が

当時はよくわかりませんでした。

 

 

師匠高橋先生にこの体験についてお話したことがあります。

 

そして、教えてもらいました。

 

人は誰もが恐怖感を携えて生きている

ただ、それをつぶさに見てしまうと

生活がおぼつかなくなる

 

心は自動的に自分と自分の日常生活を守るために

「恐怖感の一時棚上げ」や

「恐怖感を紛らわす方便」や

「恐怖感の抑圧」を、その時どきで使い分け

 

日々を送っているのだ、と。

 

そして、こうもおっしゃられました。

 

「辛い体験だっただろうけど

それを感じられて、良かったね。」

 

誰もが持っているものではあるけれど

その恐怖は普段は見えない。

また、いつも見つめている必要もない。

 

ところが、見えないからこそ

陰でコントロールしてくる。

 

見えないものにコントロールされている自分を

意識することはできない。

 

でも、一度でもその恐怖と対面する経験を経ると

自分がその恐怖にコントロールされてきたことに氣づける。

 

そして、はっきりその存在があることを自らが知り

見つめることができたとき

恐怖は小さくなってゆく

 

「その体験は、あなたがカウンセラーを続けていく上でも

歌を歌っていく人としても

これからとても役に立つと思いますよ。」

 

その時点では、先生がおっしゃったことを

すべて深く理解できた訳ではありませんでしたし

しっくり、腑に落ちた、という氣持ちも持てませんでしたが

 

あの恐怖と対面した経験は決してマズいことではなかったんだ

と分かったことと

疑問が解けたことで、とてもホッとしました。

 

 

その後、しばらくしてから本当に

陰で自分の感情や行動・思考をコントロールしてくるものが

勢力を弱めていることに、次々と氣づくことになりました。

 

そして同時に

今までいかに恐怖に陰でコントロールされてきたかも

わかってきました。

 

激しい怒りを感じた時

オドオドして保身に走ってしまった時

誰にも頼らず自力ですべてを解決しようと頑張った時

正直、素直になれず自らを疲弊させた時

卑屈になった時

人を攻撃したくなった時

これをすればいい、と分かっているのに固まってしまった時

 

そう、私を陰で操ってきたのは

あの時、もろにその存在と対面してしまった

あの 恐怖 だったのだ、と。

 

 

虐待された成育歴を持つ私ですが

自ら「死にたい」と思ったことはありません。

 

でも、この恐怖体験の3日間は、さすがに

「これを味わいながら生き続けるほど

人生に価値はあるのか?」と問わずにいられませんでした。

 

それほど深い重い大きな恐怖感でした。

 

この恐怖との対面体験で得られた恩恵は

今なお、日増しに大きく、数多くの場面で感じられますが

 

決して誰にでもお勧めしたい体験ではありません。

できれば、誰にも経験して欲しくない、というのが

正直な氣持ちです。

 

 

少し時を経て

今、私に見えてきたのは

 

その「すべての人が持っていてしかるべき恐怖」の

根っこをどこまでもさかのぼっていって行き着く先は

 

お母さんに、見放される恐怖

 

である、ということです。

 

それは、「死」そのものよりも大きな恐怖です。

 

お母さんに見放される?

見捨てられる?

その恐怖ですって??

 

・・・・・・・・・・・・

 

意識にはのぼらないけれど

存在の深い部分にしっかり結びついていて

切り離すことができないこの恐怖こそ

 

しかし、人を陰から操る恐怖の源泉だということが

私には見えてしまった・・・・

 

そんな体験でした。

 

 

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