自分を処刑していた私

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梅雨明けした途端、くしゃみと鼻水が止まらなくなり

「え~!夏風邪??( ゚Д゚)」と思ったら

二日で症状が嘘のように消えてしまい

「??何だったのだろう?アレルギー?なんの?」と

訝しく思っております。

 

お陰で、この二日間、レッスンやセッションをキャンセルし

その他のお約束も果たせず、申し訳ないことだ・・・・と

少々氣落ちしておりましたが

 

そうだ、こういった出来事に際して思い出したことを

書いてみよう、と思い立ちました。

 

数年前までの私は

はっきり病気や怪我、親類の不幸とか

誰から見ても「致し方ない」とみなされる場合は別として

約束が守れなかった時の自責の念というものが

非常に強かったです。

 

いえ、よんどころない事情であっても

やはり予定通りの行動を果たせなかった時

私は自分自身を強く責めていたように憶えています。

 

その時の感覚は、とても鮮明で、今思い出しても

身体に当時の感覚が生々しく甦ります。

 

焦りが胃を鷲掴みにしてくるような感じで

せり上がってきます。

肩と首に力が入り、喉が詰まります。

息が苦しく感じます。

頭と身体と心は「重たい」と言うしかなく

次第に鈍い痛みになっていきます。

緊張が身体全体を締め付けて、ひどくなると震えがきます。

 

氣分的には「取り戻さなくては!」という

急いた氣持ちが強く湧き出しているのにも関わらず

実際の動作は、氣持ちに反して緩慢でぎこちなくなります。

どこからともなく「こんな人間ではダメだ」という声がして

絶望が心身に攻め込んでくるように感じられます。

やがて、緩慢だった動作が、完全に停止して

身も心もフリーズ状態になります。

 

「こうやって、私はとめどなく落ちていく」

「底なし沼にはまるように、アリ地獄に落ちるように」

「もう二度と立ち直ることができない」

「一生、誰との約束も果たせない自分で終わる」

 

このような「マインドトーク」が意志に反して繰り広げられます。

 

予定通りに事が運べない時の私

決めた通り実行できない時の私は

「地獄」にいたかのようです。

 

何か事情がある時でさえ、このような有様ですから

特別な事情もなく、ただ疲れて動けない、なんていう理由で

予定をキャンセルした時の罪悪感たるや

大袈裟ではなく「死に値する」ほどの強烈な自責です。

 

こんなに酷くツラい想いをするというのに

それでも、病気でもないのに動けなくなって

当日に有給を取ったり、キャンセルの連絡をすることが

しばしばあったのです。

 

ときどき、ではなく、しばしば、あったのです。

 

ですから、私は、しばしば、自分を「死刑に処していた」

と言っていいと思います(笑)

今は、笑って告白できますが、本当に、本当につらかったです。

 

時が経って、今、「地獄」から脱して

自分を「処刑」することもなくなって

振り返りますと、いったい自分の中の

なにが、どう、変わったのか?

それが朧気ながら見えてきます。

 

まず、自分で予定を組んで、一応決めたとおりに行動しよう

とする日常的な心掛けは左程、変化がないと思います。

 

手帳には、レッスンやセッションの予約はもちろん

誰かと会う約束、その他仕事上のアポや

友達との約束、遊びの予定・・・・だけでなく

 

この日はメールレターを書いて

この日はブログを更新して

この空いた時間には先週のセミナーの復習をして

読みたくて取り寄せた本をこの時間に読んで

この時間には戴いていたメールの返信をまとめてして…

 

などというような自分だけの予定も書き込んであります。

 

違うのは、自分の「これをするつもり」という予定を

あまり厳密に守らなくなったことでしょうか。

 

・・・・守らなくなった?

 

いえ、これは正確ではありません。

「守れなくても仕方がない、という前提で努めている」

というのが近いかと思います。

結果的には案外、予定通りにあれもこれもこなしています。

振り返ると、ですね。

 

でも、自分自身で立てた予定だし(予定は未定)

あくまで「つもり」なんだから、その通りに実行しなかったとしても

別にいいや~、というくらいに感じているようです。

 

で、ときどき(コレはホントにときどき(^-^;)サボります。

ただ、氣分が乗らない、とか

やる気が出ない、とか

今、頭を使いたくない、とか

単にサボりたい、とか

たまにテレビを見始めたら面白くて止められなくなっちゃって、とか

 

すごく適当な理由で(^▽^;)

 

それで、そのあと、やっぱり焦るんです、多少は。

 

あー!今日中にコレをやっておかなかったら

明日以降、まとまった時間が取れないんだった!!

もう~!どうすんのよ!私!とか、思うのですが

「ま、何とかなるよな」というところが

落ち着きどころでしょうか。

実際に、何とかなっています( ´艸`)

 

少なくとも「地獄」には舞い戻りませんし

自分を「処刑」することも、もうありません。

 

これはカッコつけて言えば

「自己受容」ということですね。

 

自分自身との約束(これもカッコよく言うと「自己規範」)を

守らなかったとき

守れなかった自分を責める氣持ちが

まったくゼロになった訳ではありませんが

格段に小さく、弱くなったことが

物凄く大きな変化です。

 

言ってみれば

「テキトーに」

「いいかげんに」

「ゆるく」

なっていった、ということなのでしょう。

 

以前の私(Before)に、今の私(After)がインタビューしてみると

 

A「テキトーでイイかげんでゆるく生きてる人、どう思いますか?」

 

B「信じられない!まずそのような人の心がわからない。人間失格だし、それではちゃんと生きていることにならない。ダメ人間。そんなことでは、必ず困ったことになるし、何も成し遂げることはできないし、生きる姿勢として間違っている・・・・うんぬんかんぬん」

 

という感じに、とめどなく

「それじゃいけない」理由を語るのではないかと思います。

 

本当に、そうなのでしょうか・・・・?

 

結果を先に申し上げると

「絶対に、約束は、守らなければならない。

他者との約束だろうと、自分との約束だろうと!」

と思っていた頃の私より

今のテキトーな私の方が

約束を守る率は格段に上がっています。

 

人の心のトリッキーな部分だとつくづく思います。

 

「絶対に!」と強いると、その通りにならないことが増え

「まぁ、そこそこにね」と思っていると、大抵は思い通りになる

 

たとえ思い通りに行動できなかったとしても

「そういうこともあるよね」で過ぎていくので

尾を引かない

結果的に心身の軽やかさが持続する

 

・・・・みたいなことなのだろうと考えるのですが

 

実際のところは、実はよくわかりません。

 

もっとよくわからないのは

「絶対に守らなくては!」と固く信じ

実際に守ろうと必死に頑張っていた私が

 

どうやって

「イイかげん」で「テキトー」で

「ゆるく」「ほどほどに」「そこそこに」しとけばいいや

と思うようになったのか??

 

その理由や、過程や、理論が

説明できるほどにはまだ腑に落ちていないのです。

 

強いて、説明をつけるとすると

 

カウンセリングを受け続けて

高橋先生に徹底的に受容してもらうのと並行して

 

わざと今までの自分の規範を破るような行動に出てみた

そんな冒険というか、実験をしてきたからでしょうか。

 

実際、私の強く固い思い込みを徹底的に裏切るような

(当時の私にとっては)破天荒で、無軌道な行動を

とっているうちに

 

私が予期していたような、とんでもなく困ったことは

起こらないことが現実としてわかってきましたし

かえって物事はスムースに運ぶことも体験しました。

 

何より、自分に「ゆるさ」を許容してみたら

生き心地が断然ラクだったのです。

それまでより、ずっと自然に活動する自分に氣づいたのです。

 

 

人がもっとも苦しいと感じるときというのは

「自分で、自分が、許せないとき」なのではないでしょうか。

 

よく「自己受容が大切」という言葉は読んだり聴いたりします。

 

実際に、どうしたら

ありのままの自分を受容できるのか?

どうしたら

ありのままの自分を

天真爛漫に出し切ることができるのか?

 

・・・・・

 

それについて、想いを、思考を、心を、巡らせることが

今の私の一番の関心事です。

 

関心事なので、放っておいても、つい考えたり

実験したり、失敗したり、恥をかいたり、落ち込んだりしますが

それが愉しくて面白くて、やめられないのです。

 

毎日、テキトーに暮らしています(*^-^*)

 

 

注:名誉の為に一言追加しておきますけれど、結構真剣に真面目に生きています。

頑張るときは、とっても頑張っています!・・・・テキトーに( ´艸`)

 

 

 

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音を観る

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先週末

大切な友達4人で、鎌倉での一日を愉しみました。

 

円覚寺でお講話を聴き、写経したのち、ビールでランチという“なまぐさ”な私たち(笑)

 

藝大の同期生である私たちは

学生時代から仲良くしていましたが

それぞれの道で活動する中

大人になった今、話の内容はより深く

よい刺激を与えてもらっています。

 

みんな、何かと忙しいけれど

氣づけば年に数回は会っています。

かけがえのない友人たちです。

 

以前、このブログにも書いたことがあるような・・・・

と思って遡ると、ありました!

2年半前の記事です。

やっぱり同じことを感じていたようです(笑)

⇒『かけがえのないもの

 

このメンバーで今までも何度か参加している

北鎌倉の円覚寺のお法話会へ。

9時からお法話を聴き

10時から座禅会、或いは写経会に参加というコース。

 

私たちの間では“朝活”と呼んでいるのですが

9時からのお法話の席を確保するために

都内に住む私は6時台に出掛けて

8時20分には北鎌倉で皆と落ち合います。

普段、早寝早起きなものの

結構朝早いなーあせるという感じです。

 

それでも、氣分は最高によかったです(*^-^*)

 

今回、お法話の内容も、読経も、写経も

「延命十句観音経」でありました。

 

お法話の中では

このお経が大変短く唱えやすい、憶えやすいものであること

延命功徳のあるお経であり

病気やけがの回復祈願を求める人に最適であることなどが

心に染み入るエピソードと共に

わかりやすくお話しされていました。

 

中でも、私がファンである(笑) 白隠禅師が

このお経について

 

観音菩薩から直々に授けられた霊験あらたかなものである。

心をこめてくり返し読みなさい。

すると心の中が空っぽになってくる。

心の中を空っぽにする時間を一日に一度は持つように。」

 

と説かれたことも語られて

私は、大変嬉しくなりました。

 

そして、お法話会に参加した会衆全員で

この「延命十句観音経」を読経し

私たちは写経会の方へと移りました。

 

本当に、心が「しん」と鎮まり

ありがたい時間を「延命十句観音経」と共に過ごしました。

 

今回、このお法話写経会に参加した人全員に

本来販売されている、お守りサイズの経本が

プレゼントされました!

 

 

その日は、写経会のあと、境内でお喋りをしたり

北鎌倉から鎌倉駅方面へ歩き

小町通りでランチをしたり

夕方は由比ガ浜海岸で海風に吹かれ

海の家で美味しいものをたっぷり戴き

お喋り三昧の時を堪能しました。

 

翌日からカウンセリング、声楽指導などのお仕事に勤しみ

この日以来、ずっとバッグに入れ持ち歩いていた

このお守り経本を改めてしっかり読んだのは

週も半ば過ぎでした。

(一日に一度は・・・・という白隠禅師の訓えは

どこにいっちゃったんでしょう?(^-^;)

 

 

ジストニアという病気を得て

「どうか、この病気が治りますように」と祈った頃の私へ

病気やけがの回復に功徳があるという「延命十句観音経」が

改めて染み入ってきました。

 

そして、ページを繰っていくと、目が釘付けに。

 

 

観音さまとは、音を観る菩薩さまです。

音とは声です。

人々の苦しみ、救いを求める声を観てくださるのです。

観るとは、全身で受け止めることを申します。

・・・・

どうしようもない悩みや苦しみを抱いている時

誰かに聞いてもらうとそれだけでラクになります。

・・・・

親身になって、「そうですか、大変だったのですね、

さぞつらかったでしょう」と聞いてあげるとき、

その人のこころは観音さまです。

人はみな誰しも、慈悲のこころをもって生まれています。

観音さまは、あたなのこころにいらっしゃいます。

 

そこに書かれていたことは

私が心の底から「そうしたい」と望み願い

日々、臨んでいることに他ならないのでした。

 

声楽家として声を失った時期を持ったことをきっかけに

病気を克服し、カウンセラーになり

人の声を聴くことを始めた私です。

 

 

観音さまとは、音を観る菩薩様です・・・・

 

音とは声です・・・・

 

人々の苦しみ、救いを求める声を観てくださるのです・・・・

 

観るとは、全身で受け止めることを申します・・・・

 

人はみな誰しも、慈悲のこころをもって生まれています・・・・

 

観音さまは、あたなのこころにいらっしゃいます・・・・

 

 

 

何度も、繰り返し、読みました。

 

 

カウンセラーとしても、人としても

日々、迷い、悩むこともある私ですが

 

このこころにもいらっしゃるであろう観音さまに

私自身の声も観て戴こう、という氣持ちになりました。

 

そうしながら、この生に与えられた使命を果たしていきたい!

という強い想いが、心の底から湧き上がってきました。

 

お釈迦さまが悟られたという

 

人は皆仏さまのこころをもっている

仏さまのこころとは、慈悲のこころである

慈悲の慈、いつくしみとは、人に楽を与えるこころ

慈悲の悲 あわれみとは、他人の悲しみを見ては自分の悲しみとするこころ

 

たとえ、迷い、悩み、時に見失うこ瞬間があったとしても

ここに立ち戻ることのできる謙虚さと誠実さを

備えて生きていきたい

そんなふうに思ったのでした。

 

 

 

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自分に意地悪だった頃

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普段、「私」という存在は一つで

一貫しているもの

統一しているもの

と考えがちですが

実は、分離していることも多々あるようです。

 

これは「解離性人格障害」とはまた全然違うものですが

自分の中にも、いろいろな人格と言ってもいいものが

同時に存在することもあるような氣がしています。

 

ずっと以前に書いた記事

自分の中に敵がいた!』にもありますが

私の中には

・自分の味方で、励まし、応援する声

・自分の失敗をそそのかし、うまくやれない自分を蔑む声

とが、同時に居座っていた時期がありました。

 

もちろん、長いことそんなことに氣づかずに生きていたのですが

ある日、突然、という感じで、それに氣づいた瞬間がありました。

 

 

以前、「アダルト・チルドレン」という概念や

「マインドフルネス」が言われるようになった時期

よく本で読んだり、人から聞いていた

「インナーチャイルド」という言葉・・・・

 

私自身は、通り一遍の知識しかなく

突き詰めたものではありませんが

 

なるほど、自分の中には

幼子のような存在があるな、と

今でも実感することが度々あります。

 

それと同時に、「大人としての自分」も、もちろん

存在している訳です。

・・・・というか、こちらの「大人の自分」だけが

自分自身である、という感覚を

平素は強く持っています。

 

当然のことですが、現実的に私は50歳を超えた「大人」ですし

年齢に見合った分別や、見識や、知識、経験があるのですから

自分が「大人」であることは疑う余地がないのですが

 

そんな自分の中に

やはり「内なる子ども」=インナーチャイルドらしきものの存在を

時どきふと、自覚することがあります。

 

「自分の氣持ちに寄り添ってみましょう」と

よく本などで読みますが

どういう意味でしょう?よくわからないのです。

というご質問を受けて

私なりに考えてみたところ

 

そうか、もしかすると、こういうことかな?と

感じたことがありました。

 

一つの人格であり、存在だと思っている「自分」のうちには

本当は「大人の自分」と「子どもの自分」が同時に存在している

というふうに。

 

「大人の自分」はよくものを考えます。「思考系」です。

道徳観や倫理観がよく備わっていて、分別もあります。
経験も踏まえて、いろいろと多方面から検証し、分析し

その結果、判断して結論を導き出します。
判断の結果、自分に指令を出すことに長けています。

「こうすればいいよ」とか

「そこは我慢した方がいいんだよ」とか

「もっと頑張りなさいよ」とか

また「自分を出さずに抑えた方がうまくいくよ」とか。

一方の「子どもの自分」は、実際の子どもと同じように

大人が持ち合わせている分別や道徳観・倫理観が弱く

ありのままで、正直で、率直で、無邪気で

その分、遠慮がなく、堪えも利かないし、無理も利かない。


「子どもの自分」は、日ごろは

「大人の自分」からの命令・指令を忠実に守ろうと

従順に頑張っています。
でも、あまりに自分の素直な欲求が叶えられないことが続けば

駄々をこねたり、むずがったり、泣いたりします。

なにしろ、子どもですから(笑)


「大人の自分」がいつも厳しいことばかり言いつける

「正論」で欲求をはねつける

自分の存在をないがしろにする

無視する

軽視する

そんなふうに感じたら「子どもの自分」は

拗ねてしてしまいます。

乱暴になったりもします。

正直に氣持ちを訴えてくる子どもに

「そうか、そう感じたんだね」

「そうだったんだね」

「そうだよねぇ」と

きちんと向き合って話を聴いてあげると

子どもが何となく安心するのと同じように


「つらい」とか「悲しい」こと自体は解決しなかったとしても

軽視され、無視され、ないがしろにされるのではなく

わかってくれた、という氣持ちになってホッとして

氣が済む部分があります。

 

自分の中に居る「子どもの自分」に

「大人の自分」=「普段の自分」が

ちゃんと向き合って、耳を傾けてあげる

 

それが、自分の氣持ちに寄り添うことになるのかな?

 

そんなふうに感じました。

 

 

かつての私は

「子どもの自分」を“まるで”顧みるをせず

存在を抹殺する勢いで

従わせることだけに精力を注ぎ込んでいました。

 

むしろ、「子どもの自分」を抑え込み、我慢させ

欲求を無視し、踏みにじり

生気を失わせることに喜びを感じ

「してやったり!」の感覚を強く持っていました。

 

これはまさに、実際

母が、幼い私にしてきた行為であった訳なのですが

そんなことには露とも気づかず

 

自分の意思で、よいことと信じ

「大人の自分」は「子どもの自分」に強制し続けました。

 

うまくやれている自分に対しては

「ふん!こんなことでいい氣になっているんじゃない」と

冷たく言い放ち

 

失敗した自分に対しては

「やっぱりこの程度のヤツだよ、ざまあみろ」とまで

蔑みの声を発していました。

 

今から思い返すと、心底ぞっとしますが

これは、他ならぬ私自身が、私自身へ放っていた言葉です。

 

「小公女」に登場するミンチン先生張りに

とことん自分に意地悪く接し続けた結果・・・・

 

ジストニアという病気に罹りました。

 

これは、「子どもの私」が

もうどうすることもできなくなって

身体が、脳が、音を上げたのだと思うのです。

 

そうなって初めて

いかに自分が自分に意地悪く苛め抜いてきたかに

氣づくことができました。

 

そんな氣づきののち、さて、今度は病気を治したい

疲れ果てた心を癒したい

元氣になって、自分と仲良く生きていきたい、と

願い始めたとき

次の氣づきがありました。


「もうどれだけ長い間、氣持ちを訴えてきたか」

「いくら助けて、と言っても無駄だった」

「無視し、踏みにじり続けたのは、自分自身じゃないか」

と、すっかり心を閉ざしている幼い自分を

見つけてしまったのです。


「どうぜ、聴いてくれっこないんでしょ」と拗ね切ってしまった

私の中の「子どもの自分」に再び心を開いてもらい

信頼を取り戻す為に

「大人の自分」は、どのように接していったらいいか・・・・?

 

それが、私のジストニア治癒への一つの道筋でもありました。

 

慣れない道を歩きながら

時に迷い道に入り込みながら

「大人の自分」は倦まず弛まず

「子どもの自分」に向き合い寄り添う方法を学び続け

その結果、「子どもの自分」は、少しずつ心を開いていきました。

 

現在、両者は何となく、仲直りを果たしたようで

結構うまくやっています(*^-^*)

 

 

たとえ正しいことであろうと

厳しく命じるだけでは

子どもはよく育たない

 

子がなく、子育て経験もない私が言うのも何ですが

想像することはできます。

 

少なくとも私のうちの「子どもの自分」は

いっとき拗けて、とんでもない不良になり

仕舞には病気という形で訴えてきたのです。

 

その存在に、今、私が伝える言葉があるとすれば

「ごめんね」ではなく

「ありがとう」です。

 

教えてくれて

「ありがとう」

 

再び、心を開き、信頼してくれて

「ありがとう」

 

 

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私は誰?

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7月に入りました。

今年も早いもので、もう半分が過ぎたのですね。

 

6月30日に、住まいの真向かいの八幡神社で

「夏越の祓(なごしのはらえ)」がありました。

 

 

茅の輪(ちのわ)をくぐって

半年間に溜まった病と穢れを落とし

残りの半年を無事に過ごせますようにと願う行事です。

 

夜7時からのこの行事へ参加する予定にしておりましたが

急な予定変更が入り、行事への参加は間に合いませんでしたが

翌7月1日の早朝、一人で茅の輪をくぐり

半年分の穢れを落としてきました。

 

7月1日の朝はあいにくの雨模様でしたが、元氣よく行ってきます!≧(´▽`)≦

 

丁度節目の季節を迎えたことと関係があるのか

私の、身辺・心中に変化や、それを知らせる出来事が

最近、いろいろと起こっておりました。

 

このブログを綴る意味、意義

「誰に」「何を」伝えていきたいのか?

 

カウンセラーとしての私

元発声障害患者の声楽家としての私

そして、元被虐者=サバイバーとしての私・・・・

 

いろいろな視点で考えているうちに

さまざまな感情が湧き出て

自分の正直な想いというものと向き合って

 

どうしたいのか、なにを望んでいるのか

どうすることがその望みを適えることになるのか

今、この私にとっての善きことを

感じきるまで感じてみよう、としてみました。

 

そして、何となくではありますが

現時点での結論のようなものがポッと生まれ出てきました。

 

 

私がこのブログを始めたのは

声が喉で詰まって出なくなっていた

もっともつらかった時期です。

 

ジストニアは現代医療では治療法が確立されていない

原因もわかっていない、という。

こんな理不尽な病があっていいものか?

しかも、歌い手である私が声が出なくなるこの病を得たのには

いったいどういう意味があるのか?

はたまた意味などないのか?

 

もし同じジストニアという病気で苦しみ悩む人が読んだら

何か役に立つのではないか?

自分の一連の試行錯誤が

また、諦めずに試行錯誤し続ける姿そのものが

一つの例として、情報提供として、誰かの一助になれば…

そんな氣持ちがブログを書き始めた動機でした。

 

 

いつの間にか、私は自分の病を克服し

歌い手として復帰し

また、自分がカウンセリングというものを通して治癒していった経緯から

自分でもあれよあれよという間に(本当にそんな感じでした)

カウンセラーという職業を持ち

クライアントさんのお話に耳を傾ける日々を送るようになりました。

 

このブログは、私のジストニア克服の記録でもありますし

その闘病の中で思いがけず見えてきた

「被虐者であること」の告白でもありました。

 

そうした中で、次第次第に、自分でも氣づかぬうちに

ブログ記事の内容は

元被虐者、元患者としての立場から

「こうすれば苦悩から抜け出ることができますよ」というような

アドバイスになっていったように思います。

 

しかし、ここに大きな大きな矛盾がありました。

 

カウンセラーは、助言・アドバイスをしない存在です。

カウンセラーは受容者です。

そして、治す人ではなく

クライアントさんが治るのを見届ける人です。

クライアントさんは、心の法則に則って

命の力によって自ら治っていくのです。

 

カウンセラーはコーチではありません。

今、私が無料メールレターを発信することでおこなっているのは

ほぼコーチングと言っていい内容です。

 

そこに重大な矛盾を感じ、立ち止まり、考えていたのでした。

 

 

結果、心に決まったこと。

 

無料メールレターは全力で続けます。

これはコーチとして、魂を込めて書いているのです。

読者さんからのメールにも全身全霊で返信しています。

 

私はメンタルコーチの資格も取得しているのですから。

 

ただ、このメールレターを書いている時

読者さんたちと向き合う時は

カウンセラーとしての私ではない、と

はっきり自覚していなければならない、と感じました。

 

そして、このブログは…

これからのこのブログ『それでも歌って暮らしたい』は

何者としての私が書いていくのか?

 

カウンセラーとしての私は

ここには登場しないのがよいのだ、と感じました。

 

私は、ホンモノの、できれば「腕のいい」(*^-^*)

カウンセラーになりたいです。

師匠 高橋和巳先生に師事し

スーパービジョンでは鋭く至らなさを突かれあせる

それを心底ありがたいと受け取っている

まだ修行中でもあるカウンセラーなのです。

 

それもまた自分の一部であることは確かですから

これからもその一面が自然と見え隠れする記事に

なっていくことでしょう。

 

けれど、これからの記事はその時どきに感じたことを

「一生活者として」綴っていきたい、と改めて思いました。

 

被虐待者から立ち直ったサバイバーとしての私も

元発声障害患者としての私も

音楽を愛し、演奏する者としての私も

妻としての私も

すべては包括的に私自身です。

 

だから、もしかしたら、読んでくださる方にとっては

今までとさして変わりばえのしない

ブログであり続けるかもしれません。

 

けれど、私の意識は大きく変わりました。

これからもこのブログを愉しみながら書き

そして愛していきたいと思っています。

 

生きている私は、生かされている私であり

そして日々変化する私です。

感じ、想い、考察し、探求し、選択する私です。

迷い、悩み、落ち込み、頑張る私でもあります。

 

そのどれをも私は愛します。

この人生を、愛します。

幸せであることを喜びます。

 

昨日は、声楽の師匠 新南田ゆり先生のレッスンを受けて

愉しく優しくしごかれ、やはり私は恵まれているなぁ

ありがたいなぁーと汗を拭き拭きサロンを出ると

重たい雲に覆われていた梅雨空がひととき晴れて

久々の空色を見せてくれていましたドキドキ

 

 

 

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これでいいのか?

何が正しいんだろう?

こうするのは間違っていないか?

間違っていそうだけれど、修正が利かない

どれが正解かがわからない

考えても考えても判断がつかない

 

かつて、無意識的に

どこかに「普遍的な正解」がある

を「前提」として

探し求めて、彷徨っていました。

 

ここのところ

そんなもの、あるようでないんだよな、と

つくづく思っています。

 

特に、生き方に関しては。

 

私たち殆どが日本の学校教育の中で12年間ほど

長ければ16年以上

〇×式の「学び方を学んで」きました。

 

あらかじめ用意された正解があり

それに一致した解答を答案用紙に書けば〇

不一致なら×がついて

返却されます。

 

返ってきた答案用紙の×の部分を復習し

「覚えなおし」たり、「計算しなおし」たり

つまり「誤りを正す」ことで、成績を上げることが出来ます。

 

長い間、このような学習方法を叩き込まれれば

人は自然と「誤りはいけないこと」と思い

「で、正解は何?」という思考回路をとるようになります。

 

もし日本の教育制度の中でよい成績をとる方法が

人生のすべてに適用されるとするならば

私たちは生きやすいはずです。

 

習い、覚え、学び、誤りを正していくことで

自ら正解を導くことができるようになり

100点の人生を歩むことも不可能ではなさそうです。

もしそうなら氣分爽快ですね。

 

ところが、実際のところ、そうはいかないと

本当は誰もが氣づいいます。

 

でも、瞬間瞬間、錯覚する。

どこかに完全なる正解があるのだ、と。

 

「人生のテキスト完全版」なるものは

どこを探してもありません。

近いものは聖書であったり仏典、経典であったり

また論語などもそれにあたりそうです。

 

ところが、毎日それらを読み込んでいたとしても

人は何かにつけ難しい問題に突き当たり

その都度迷い、悩み、苦しみます。

その時に、それらのテキストの中に答えが示されていないか

くまなく当たったとしても

「あなたは、今、こうすべきだ」という形で

答えを授けてくれる文章は見つからない。

 

生きていくことにおける「普遍的な正解」は

実は存在しないのですね・・・・。

 

なのに、「習慣」として、どうしても

「どこかにあるはずの正解」を探してしまう。

見つけられない自分は×だと思う。

〇がつかない自分を責める。

成績悪いな、という劣等生感がある。

苦しくなる…

 

 

問題に直面した時

苦悩の状態から抜け出そうとする時

 

その時どきで、どうすることがよいのか?

決定権があるのは、この世でただ一人

自分自身だけです。

 

そして、それが「正解」であるか

はたまた「不正解」と出るか

実際にやってみないと〇も×もつかない。

 

行動を起こしてみて

或いは、何もせず立ち止まってみて

その結果として、さまざまな氣づきが訪れます。

 

たとえ、当初思い描いていたような結果とならず

形の上では「失敗」であり「不正解」であったように見えても

自分の人生を、自分の足で歩いていると

「学び」や「氣づき」は

ひっきりなしにやってくるように感じています。

 

それらを受け取れたとき

苦しみつつも「ああ、よかったんだな」

と感謝が湧きます。

 

自己嫌悪に陥ったり

恥ずかしくて穴があったら入りたい氣分を味わったり

なお、迷い、悩み、怖れや不安と共にあっても

 

そうだ、こうやって生きていくしかないよな

この不完全極まりない自分が

今のありのままの自分なんだ

というどこか諦め(明らめ)に似た氣持ちが

 

また明日からも失敗しながら

生きていこう(^-^) 

という力になっていきます。

 

どこかスカン!と明るい感じがします。

 

 

あらかじめ与えられている正解があるはず

と思っていた頃の自分を思い出すと

 

正解路線から外れてしまう

不正解の結果を叩き付けられる

取り返しがつかない失敗をしでかしてしまう

 

そうなったら社会から、大切な人たちから

軽蔑され、見放され、見捨てられてしまう

 

という怖れが、日々の暮らしを圧迫していました。

 

それは、本当につらく苦しいことでした。

生き心地はとても窮屈で、不自由でした。

 

そして

失敗して不正解を叩き付けられた自分は

この上なく惨めで、みっともなくて、カッコ悪い

そんな自分を見たくないし、見せたくないし、味わいたくない

それなら死んだ方がマシ

くらいに思っていました。

 

今は・・・・やはり、失敗・不正解には落ち込みます(^^;

でも、そうした自分はみっともないとも、惨めだとも

思わなくなりました。

 

失敗と不正解を経験して、学んで

進んでいく自分

悩みながら、迷いながら

真剣に生きていく自分

むしろ、カッコいいんじゃない?(笑)

 

「普遍的な正解」はない、としてみると

「絶対的不正解」「失敗」もまた、ないのだ、と思えてくるのです。

 

 

 

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