佐世保高1少女友人殺害事件について | JOKER.松永暢史のブログ

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長崎佐世保高1少女同級生殺害事件について、出版社などからコメントを求められている。
この高度資本主義情報社会においての象徴的事件については、イスラエル政府に殺されるパレスチナ一般人と同様に、犠牲者には本当に哀悼の意を尽くせないが、普段子どもの家庭教育に携わる教育コンサルタントとして、愚かなことー後悔するに決まっていることをしてしまった未成年少女のことを心底気の毒に思う。以下は情報が散乱する中での筆者の印象記述である。
筆者は、恨みなき他者を殺すことをする段階で、戦争同様「狂気の沙汰」と認識する人間である。
生きている自分と同様に生きている他人の殺害を容認実行することは自己が生きていることの否定である。
敬愛する母親が膵臓がんで突然に亡くなり、しかもその喪も明けないうちに父親が婚活して20歳年下の若い女性と再婚する。
少女にとってこのことは、敬愛する母親の存在価値を完全否定することを意味するだろう。
東大出の優秀な、教育委員もつとめる母親は、教育関係の教養にも深く、そのことから自分の子どもをしっかり育てるのが他ならぬ親であることを強く自覚していたことであろう。一方で、夫の法曹界における世の高所得者生活を持続するには、高度な学歴がが欠かせないとも判断していたに違いない。
少女はボーイッシュにしていたと言う。このことは少女が自分の器量に自信がなかったことを暗示していると思う。
そして自分は優秀な母親に認められる人間になろうと努力して生きていた。
その母親が亡くなった。
そしてそのできすぎる母親に押さえられ続け来た父親は、若くておそらくそれなりにセクシーな女性を再婚相手に選んだ。
おそらくはこの時期ホルモンバランス不調にも苦しんでいるであろう少女は、当然このことを認められない現実として拒絶して、同時に「発狂」した。
何がなんだかわからなくなった中で、唯一好奇と快感の対象となったことは、生き物を殺めてそれの生体現象を確認することだった。
ではなぜ同級生を殺害することになったのか。
それは、幸福な家庭に生活して常に善者として行動する人間が「否定」の対象になったからではないか。そしてその頭の中を確認したくなったからではないか。解剖して全ての生き物が同じ部位から構成されていることを確認するためではないか。もちろんここには性的な問題がある。
弁護士ならば、人の気持ちというものをもっと考えるのが常識ではないのか。この男は、一生懸命勉強ばかりして、『ボヴァリー夫人』などの世の知的男性必読の一冊もしっかり読んでなかったに相違ない。
愛する母親を失った娘の気持ちが整う前に自己の快感を追求することを容認してしまう。これは娘の傍らで母親以外の女性とセックスをして見せるも同次元のことである。
ともかく、少女はこの「感触」の下で「発狂」したと思う。
母親への純粋な愛が、父親の傲慢な性の下に打ち砕かれる。
これはオイディプスコンプレクスの逆である。
彼女は現代の「サロメ」なのである。
宮﨑事件のときに、信じられないような事件の背後には、偶然多重のヤバい要素があることを文学作品化したことがあったが、ここには書き切れない背後の多重な諸現象があることを認識予感した上での記述であることをご了解願いたい。