奥多摩清流沿い焚火 | JOKER.松永暢史のブログ

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書きたいことが多すぎて書き切れない。
ブルックナー交響曲第8番は、現在You tubeであらゆる演奏を引き続き聴きながらデスクワークしている。
1947年のフルトベングラー/ベルリンフィルの演奏には眼を見開かされる。これがこの交響曲の演奏の一つの原点である。
しかし、続いてチェルビダッケ指揮のミュンヘンフィルを聴くと、これは素晴らしく行き届いた演奏でピカイチである。この演奏は最後まで少しもしらけることがない。
でも、カラヤンベルリンフィルも美しい。しかし、整い過ぎていて最終場面で洗練し過ぎて失敗していると感じる。ブルックナーはダサいままに再現するのが良いのだ。
マゼール指揮の演奏も繊細なところの理解がきちっとしていて美しい。でも、カラヤン同様、この人らしく、「優等生」的であり最後の和声の解釈を間違っていると感じる。
奥多摩焚き火は、夜のトントロ焚火と、朝のおでん作り、滝壺飛び込み、清流蜘蛛の沢登り、とつい筆者も参加してしまった。
昼は豚ロースに、スイカ、焼きそば。渓流の風で涼しいので皆快適に過ごす。
童心に帰ると言うが、歓んでいる子どもに導かれてともに遊ぶことは愉しいとしか言いようがない。
滝壺飛び込みでは、前回も眼鏡を喪失したものが出たが、今回もそれが出た。
なくした本人に、そのとき眼鏡をかけていたかのはっきりした記憶がないので、そこいら中を探す。
でも、ない。
仕方がないので筆者が滝壺に飛び込んで水底を捜すが、ヤマメに遭うくらいで、眼鏡はない。おまけに水が冷たすぎて長くは入っていられない。
なくした中学生本人があきらめて、意気消沈して焚火を眺める中、背後の滝壺から「あったー!」の声。しつこいまでの潜水により、奇跡的に滝壺から、墜落した眼鏡を発見したのである。
これは、素晴らしいことである。
他の者がようできぬことを達成した。
救われた中学生も、救った小学生も嬉しい。
でも、小学生の方が自己の存在確認が強くできてその「体験効果」が大きい。
他者のために本当に良いことをすることは、少しでも利潤を追求する時の心の働きとは逆に、深い快感である。
子どもたちのやっていること、口にしていることを体感して自分がバカガキだった頃のことを嫌というほど再確認されてしまうが、子どものときに何かに目的なく打ち込んだ時の体験達成は貴重である。そういったことの積み重ねこそが自己のアイデンティティを確実にすると思う。
目的や目標なしにとりあえず何かに自分から打ち込んでしまう。そのことによる充実感と「夢」が、子どもに将来のためのエネルギーを与えるのだ。そうしたことの積み重ねこそが、自己が本当にしたいことの「礎」になるのだ。
他にも、そうした機会が偶然多く現れるのが焚火体験なのである。
大人に与えられた夏の体験の記憶。
どうか少しでも多く、この夏、子どもたちの自然環境への開放を!
涼しくなった。今日も家ではエアコンを使わずにパンツ一丁で過ごした。こうすると好い眠りが得られる。生徒たちにはいびきのうるささを指摘されたが。
ブルックナーに疲れたので、今は深町純のピアノを聴いている。