極端を排除して | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。

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【本題です】


以前に私は”女神転生”と言うゲームを例に挙げて、


この社会の中で私達があるべき本当の生き方は、
厳格な戒律を守って生きることでも、本能の趣くまま好き勝手生きる事でもないと
記事で取り上げたことがあります。


そのゲームの中では二つの思想が出てきます。


”厳しい戒律”を作り上げてそれを守り
理想の社会を作り上げようとする人間達の思想と、
法質や戒律とは無縁で身勝手に心のエゴの趣くまま生きる人間達の思想です。


主人公としてのプレーヤーはゲームの中の行動や
主張の選択で、Law Neutral  Caos

に分類されることになります。


Lawは法律や戒律に従うことを重視する意識で
Caosは混沌、無秩序を良しとする思想

そしてNeutral は其の中間に位置します。


そして、この社会において
この対極に存在するように見えるLawとCaosの人間達は
ともに真理からかけ離れる事になると言うのが私の主張です。


初めて真・女神転生というゲームをした時には
LawもCaos直感的に両方がおかしいと認識したのが私ですが、
(と言うよりはゲームクリエイターがそんな意識で作り上げたのだと思います。)


極端な価値思想が私達をどのように真理からかけ離れさせるのかは
今の私達であれば論理的にも説明できます。


混沌と言われる状態を良しとする事が間違いなのは言うまでもありません。


自分のしたいと望む事を実行するのは、
心に囚われている私達にとって
本能的にエゴと欲を満たして生きていく事に繋がるからです。


こんな思想を持つ人間は
自らの欲やエゴのために他人を迫害し
それをも正当化する事になるでしょう。


しかしそれと対極に存在する、
厳しい戒律を自らに課してそれをもって理想とし
理想社会を実現しようとする事もこの社会の私達には間違いです。


何故なら其の理想とする価値観や、自らが戒律として課す事になる物が
すべては私達人間が自らの手で作り上げたものだからです。


それは真理とは限りません。


自分達がそれが正しいと認識し、
そしてそれを真理として実践しているだけの話で、
それは真理とは限らないと言うこと。


天使達や私や兄弟姉妹も自らに戒律を儲け、
今では無自覚にそれを実行しようと勤めるように
心を書き換える事になったと想像しています。


しかし私達はいきなり戒律を与えられ、
それを正しいと信じて実行しているのではなくて


自らの体験の中から何かを学びそれが自分の進化にとって
障害になると認識した時にそれを戒律とします。


それは自分が体験の中で納得したものですし
他人からの押し付けでもありません。


そしてそれは魂の存在を意識している人間にとっては
限りなく自分が進化するための神の導きでもあります。


まして私達の個々の戒律は誰にでも共通のものでもありませんし
一般的な道徳と言われる物だけが私達の共通の戒律だと言えます。


個々の人間によって、進化の妨げになる物が異なるのですし
それを優先的に戒律として自らに課してはそれを改善していく。


それは無理のない、そして合理的な行為だと思います。


そして私達は個人の戒律に関しては他人に強要する事はできません。


それは自分が進化するためにこそ必要な戒律だからです。
(道徳意識は別です)


しかし厳格な戒律を作り上げ、それを真理とする人間達は
自らがそれを納得して実践するのではなくて
それが正しいのだと提示された事でそれを正しいと信じて実践します。


勿論、それが其の人間にとっての進化に役立つかどうかも不明ですし
それ以前に人間が心の価値観を持って作り上げた戒律が
真理とは限らないと言う限界もあります。


私達はまずはそれを理解すべきです。


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そして次に問題になるのは私達の資質です。


私が繰り返しているように、
この地球社会の人間は誰もが創造主の法の落第生です。


どんな肩書きを持っていようが、人々に尊敬され褒め称えられていようが
結局はこの社会から卒業できていない
魂の落第生である事に変わりはありません。


其の中で順列を作り上げているとすれば
私達はどんぐりの背比べをしているようなものです。


しかも誤った価値基準を尺度としてです。


つまり今現在私達の誰もが示している”永遠の資質”は限りなく低いのです。


そんな人間が聖典や経典を与えられ、この全てを守りなさいと言われても
私達がそれを受け入れ実践するだけの資質があるのかと言うことです。


宇宙の法則の中で最低レベルの理解しか持たず、
精神的進化の最低限の所から抜け出す事もできていない
宇宙の法則の受講者の中での幼稚園レベルの人間が、


いきなり聖人達が実践している其の全てを受け入れて
聖人と同じような人間になろうとしているのが一番の間違いです。


彼らは宇宙の法則のマスターであり
大学の博士課程を終えたような存在です。


何故に幼稚園児がそれを見本として実践し
そこに到達する事が出来ると言うのでしょうか。


元々が理解も足りなければ資質も足りない人間に
大量の戒律を与え実践させる行為は、
一リットルのビンに10リットルを詰め込むような行為です。


それが身につくわけもないのです。


自分に対して10リットルの知識を流し込んで
こぼれていった9リットルが自分には何の役にも立っていない事に気がつかず
詰め込んだと言う事に満足してはエゴでも増徴させるのがせきの山です。


掲示板での多くの宗教使徒が其の傾向を見せています。


私達には元々がそんな資質はないのです。


まして与えられる聖典には誤った価値観が連なっています。


与えられた全てが正しいわけでもないのです。


だからこそ宇宙の法則とは異なり
自分が戒律をもって守っていると言う自惚れを持つがために
自分の事を善人や義人と看做してはその価値観で他人を裁くのでしょうし


裁いている自分を正しいのだと信じているところが第一の間違いです。


しかし自分が正しい事をしていると信じ込んでいる人間に
何を言っても無駄でしょう。


自分にプライドを増徴させてしまった彼らには
謙虚さなどないからです。


そしてこのように厳しい戒律を課すことも
私達のあるべき意識から私達をかけ離れさせていくのです。


闇政府の人間は上手い事を考えたもので、
そのような混沌と戒律にある両極端の人間達を利用しては
他の人間支配に利用しているといえます。


組織的犯罪などで暴れているのは一方は無法者や犯罪者です。


しかしもう一方は厳しい戒律を自らに課しているいるはずの
宗教関係者です。


つまりは闇政府の人間達は
其の両極端を利用しては管理支配の道具としている事になります。


そしてそこからも気がつく事になるのです。


私達が意識すべきは其の両極端ではなくて
其の真ん中であると言うことです。


私や兄弟姉妹や理解者は聖人を目指しているわけではありません。


私達は自分の資質を身の程を知っているからです。


私達は罪を犯さずにいられない存在であること、
そして私達は正しい事と正しくない事の判断基準すら
全ては持ち合わせているわけではない事をです。


誰もが常に過ちを犯し続ける事になります。


それは天使達太陽系の兄弟達であっても
例外ではないのです。


ただ、彼らは誤りに気がつけばそれを繰り返さないように
そこから学ぶのです。


私達と違って彼らは反省する事が出来るからです。


そして私達に出来る事は、
人として当たり前の事を当たり前に実践すること。


そして体験しては過ちから何かを学ぶことです。


私達は自らに厳しい戒律を課しているわけでもありませんが、
一方では心の快楽に身をゆだねているわけでもありません。


そして今この社会で今結びついているのが


心の快楽に身を委ねている人間と、
厳しいはずの戒律に従っている人間であると言う
不可思議な実態を理解すれば、


私達のあり方こそが正しいのだという事にも気がつくはずです。


両極端な意識はそれが右翼や左翼であれ混沌と戒律であれ、
すべてがユダヤに利用される事になります。


そしてそれは私達が本来あるべき姿ではないからであり
実はそれぞれのあり方が間違っているからです。


心に一切戒律を持たずにエゴや煩悩に従って生きる事も
心に誤った価値観や許容を超える戒律を植え込む事も


私達の精神の進化の妨げになっている事が
ここからも見て取れるはずです。


私達は自分の身の丈に合った進化を目指さねばなりませんし
それは本来は苦しい環境の中で培うものでもないと言うことです。


例として組織的犯罪の被害者の多くが
ネット保守への変貌している実態が上げられます。


彼らは極端に苦しい刺激で
価値観を誤った方向へと変貌させられた様なものです。


そして私も一時はそちらへと流れかけた事もあります。


この社会では常に二つの主流が作り上げられています。


独裁主義と民主主義、
資本主義と社会主義


保守(右翼)に革新(左翼)


そして混沌と戒律です。


そんな両極端などちらかに私達を誘導しその両者を戦わせると言うのが
闇政府の手段であると言うことを私達は理解すべきだと思います。


私や兄弟姉妹そして理解者は
実は善と悪と言う分類が存在してはいない事を知っています。


善と悪と言う基準を作り上げるのは私達の心です。


それは私達の心が今まで作り上げてきた価値観をもって
現象や万物を評価する行為です。


そしてこの善と悪の基準は私達の過去の経験や
自らが作り上げてきた価値観に根ざすことになります。


つまりは100人いれば其の基準は100通りと言う
相対的な価値基準であり、


私達はそんな絶対的なものではないものを
誰もが自分が正しいのだと言う意識を持って勘違いしているに過ぎません。


そして宇宙の法則の中では”正しいか正しくないか”、
創造主の法則に意志に従っているがそうではないかの区別があるだけです。


創造主の作り上げた社会の中で正しいとされるのは、
創造主の意識に叶っているかどうかが基準になるからです。


脅しではありませんが、この社会の人間の生き方が正しかったかどうかは、
いずれこの地球の変貌や社会の変化となって
示される事になるでしょう。


それは私達がこの社会と他人に対して作り上げてきた
カルマの清算という形でです。

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ここ数日、
真女神転生3というゲームを引っ張ってきて
遊んでいます。


以前やりかけて放置してあったものを
再び引っ張り出して来ました。


女神転生シリーズはドラゴンクエストと比べると暗い内容で
常に社会の破局がテーマとなっていて、


見た目の平和な社会が崩壊した状態から
話が始まる事になります。


そしてそこでは悪魔や天使が大勢出てきては
善と悪を自らの価値観で争っています。


極端な話が、
”混沌こそが正しいとする意識の存在”にとっては
戒律は悪なのですし


戒律を善とする存在にしてみれば
無秩序は悪となります。


ところで、この中では多くの悪魔や神が出てきますが
これも興味深いものがあります。


ある宗教では神とされる存在が
このゲームでは悪魔とされているからです。


特定の教えや戒律に従う人間にとっては、
それを正しいとしてくれる存在こそが神であり
それを否定するのは悪魔なのだとこの社会の宗教を見ていて感じます。


そして悪魔と神は私達人間の中では紙一重の存在であると言うこと。


更に其の全てが人間が作り上げたものだと言うことです。


以前までの”女神転生”では翼を生やした天使や
”YHWH”や”エロヒム”といわれる存在まで
敵として存在していました。


アマテラス天神も登場したりします。


でも私はある意味”地球製”の全ての悪魔や神を
一まとめに捉えるのは正解だと思います。


全ては私達が作り上げて息を吹き込んでしまった存在であり、
私達は神や悪魔の呪いに未だ呪縛され続けているように見えるからです。


おそらくは其の殆どのモデルは太陽系の同胞達、
太陽系の先住の人間と後続の人間だと思います。


それは悪までも神でもなくてそれを演じた人間だったと言うことです。


”神”は自分達の価値観にとって心地良い存在で、
それを信仰することで自分が救われるのだと自分を納得させるための手段であり、
自分の行動を正当化する手段でもあります。


”悪魔”は不快なものや不吉なもの不幸の原因として
それを擦り付ける対象です。


本当は全ては自分達の業であり、
自らが改善しなければならないものまでも
他人の所為に仕立て上げている私達にとっては悪魔は必需品で、


同時に、自分の価値観が正しいのだと思い込むためには
神が必需品となっていると言えます。


そして言い訳を作り上げ続けては
自ら謙虚になり反省する事を無視し続けたために
私達が行き着いたのが今のこの社会だと言うことです。


私達はこんな状態になってまでも
未だに自分達の行動を反省しようとすることは出来ないのでしょうか。


私達の意識はそこまでも創造主の意識から
かけ離れてしまったのでしょうか。


正義もなければ勇気も持たない、

そして不安と恐怖を煽られては権力と圧力に屈服して
それを間違いだと認識することも出来ない。


私達はそんな存在である事を止めることは出来ないのでしょうか。


自分の心が心地良くある事ばかりを求め自分の行動を正当化し
そんな自分を省みる事なく他人を裁いてまで見せている。


そんな私達の意識の行き着く先が一体何なのか?


理解できる人間だけでも
人間として魂を表現できる場所へと転生を果たしましょう。


私達は進化と調和を求められている存在です。


それが実践できる場所への卒業を目指したいです。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】