罪と義の概念とイエスの十字架の死 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


胃腸と脳への関与が更に激しくなっています。


私が他人と接触する可能性を感じて
攻撃が酷くなっているようです。


証拠を残さないためにも
私を他人と会わせたくないという意図も
感じ取ることが出来ます。


今は低周波の振動が体に響き続けています。


異物も大きくなってきました。


P.M12:45

私の意志を受け継いでくれる方を探しています。



覚醒者もしくは理解者
私のブログを理解してくれていて、


尚且つ強い正義感勇気を持っている方いましたら
是非私宛にメールを下さい。


(私と会って話が出来る方)


おそらくは様々なしがらみや圧力を考えると難しいと思いますが
それでも可能な方がいましたらメールお待ちしています。


以前使用していたメールが使えませんので


こちらのアドレスになります。


morobosiataru04131222@mail.goo.ne.jp


宜しくお願いいたします。


理解者の公募を募ろうとした途端に
顔への関与がひどくなって来ました。


余程顔や風貌に拘る人間達のようで
自分達が目に見えるものに価値観を置いている事が
そこからも理解できます。

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ヤマちゃん、もしもこの記事を見ていたら
連絡ください。


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昨日から挑発するかのように
自衛隊の演習機が頻繁にアパート上空を飛んでいきます。
(真上を轟音立てて飛んでいくことが多いです)


今も排泄妨害が続いています。


今朝は野菜とパンを少々。。

ろくに食べていなくても
異物が膨らんでは腹部を圧迫し続けることになります。


下の部屋の工作員は水分逆流や直腸腫らし
そして水分蒸発、腸の圧迫を当たり前のように
繰り返しています。


大量の日本人を殺した人工地震を引き起こした人間の
協力者が今日本の中で暴れているのだと想像もしています。


もちろん真下の部屋に出入りする人間は間違いなくそれです。


昨日の夜は野菜と味噌汁を食べました。


下剤の効果等もありトイレにもいけましたが


しっかりと排泄制限を受け出てきたのはヘドロのごとく
真っ黒になった腐敗したものでした。
(匂いの関与も兼ねている様で意図的に腐敗物を
腸に残そうとするのです)


私への電磁波(マイクロ波なのか色々混ざっているのか不明です)攻撃も
昨日は朝から晩まで水分逆流や腹部圧迫で激しいものがありましたし


私の体力低下などお構いなしらしく
朝から脳へ腸へと刺激が続きます。


時々刺したように痛むのはミリ波かもしれません。


顔への関与も続いています。


最近は更に電気的な刺激を感じにくくなっていますし
いったいどんな手法を利用しているのでしょうね。


効果だけは以前にも増して強いものがあります。

この人間達は改良を続けていると言うことは
今後も無自覚な被害者に対して
使用し続ける予定があると言うことではないでしょうか。


つまりハイテク関与をやめる気は無いと言うことだと思います。


HAARPエネルギー全開となったところで
やり放題と言うようにも思える今の日本列島の気象と地殻変動。


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<天気>各地で突風や落雷 千葉ではトラック横転…関東甲信
毎日新聞 5月10日(木)22時45分配信


 関東甲信地方は10日、上空に強い寒気が流れ込んだ影響で、
突風やひょう、落雷の荒れ模様となった。


気象庁は同日午後、栃木、山梨、静岡、茨城、群馬、埼玉、千葉、神奈川、
東京の9都県に竜巻注意情報を相次いで発表。
午後6時までに全て解除されたが、各地で交通機関の乱れも相次いだ。


【明日の天気は?】

 同庁によると、上空約5500メートルに
氷点下24度以下の強い寒気が流れ込む一方、
東京・大手町で最高気温が23.3度を記録するなど
気温が高めで大気の状態が不安定になった。


 神奈川県内は落雷が相次ぎ、平塚市や二宮町、
相模原市などの計約1万2600世帯が一時停電した。


相模鉄道では同日午後2時50分ごろ、
藤沢市の湘南台駅付近で落雷によるとみられる停電が発生。
全線で約30分運転を見合わせ、
上下30本が最大40分遅れ約1万人に影響した。


 プロ野球・ロッテの本拠地QVCマリンフィールド
(千葉市)ではひょうが降り、試合は中止された。


横浜市内数カ所と栃木県佐野市周辺でも「ひょうが降った」との情報が気象台にあった。
このうち横浜市西区のJR横浜駅では、午後1時50分ごろ、


ホーム2本の天井の雨どいに直径0.5~1センチのひょうが詰まり、
あふれた水がホームから駅構内に流れ込んで
深さ数センチの水たまりができ、駅員が対応に追われた。


 竜巻で甚大な被害を受けた茨城県つくば市は午後1時過ぎに
竜巻注意情報が出され、消防車60台を出動させ、注意を呼びかけた。


午後2時ごろには、同県小美玉市栗又四ケの木造2階建てアパートが落雷で出火、
2棟計8室のうち2室各約40平方メートルを半焼した。


 千葉県市原市玉前西の市道では、運送会社に入ろうとした14トントラックが、
突風にあおられて横転。男性運転手(58)は割れたフロントガラスから脱出した。
会社の防犯カメラには、竜巻のようなつむじ風が突如発生し、
大型トラックの方へ進む様子が映っていた。

【まとめ・山崎征克】



地震情報(震源・震度に関する情報)
平成24年5月10日9時31分 気象庁発表
きょう10日09時28分ころ地震がありました。
震源地は、岩手県沖(北緯39.8度、東経142.3度)で、震源の深さ
は約20km、地震の規模(マグニチュード)は5.2と推定されます。
[震度3以上が観測された地域]
震度3 青森県三八上北 岩手県沿岸北部 岩手県沿岸南部
岩手県内陸北部 岩手県内陸南部 宮城県北部
[震度3以上が観測された市町村]
震度3 階上町 宮古市 山田町 田野畑村 普代村 野田村
陸前高田市 盛岡市 八幡平市 軽米町 花巻市 一関市
涌谷町 栗原市 登米市


地震情報(震源・震度に関する情報)
平成24年5月10日15時6分 気象庁発表
きょう10日15時01分ころ地震がありました。
震源地は、釧路沖(北緯42.9度、東経144.5度)で、震源の深さは
約50km、地震の規模(マグニチュード)は4.3と推定されます。
[震度3以上が観測された地域]
震度3 釧路地方中南部
[震度3以上が観測された市町村]
震度3 厚岸町

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暫くの間は気象変動と地震と能天気電磁波等に
ご注意ください。


楽観的になると知らなければならないことに対して
興味を失います。


記憶を薄くされても同様です。


私は加害者からの直接の脳への関与で
苦しんでいます。
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今日は取り分け覚醒者と理解者に
聖書と信仰の本質について
理解を求めたいと思います。



聖書を持っていない方はこちらのサイトを参照して
色々読んでみて欲しいと思います。

http://blogs.yahoo.co.jp/jusus_christ_no1

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30 名前:名無しさんの主張 :2012/05/04(金) 19:44:44.86 ID:???


悪いことをしていない人間はいない。
生まれてから人は絶対にひとつ以上悪いことをしている


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この主張は加害者かもしれませんが
少なくとも間違ってはいないと思います。。


(私に言わせれば、ほぼ人間全員が
毎日”悪いこと”=”正しくないこと”をしていると思います。)


この社会の”良い悪い”と言う分類の基準となっているのは
私達の身近にある法律であり規則です。


そしてその人間独自の持っている価値観に照らし
その尺度で測ったものだと思います。


更に法律を作り上げたのも、私達の心を持ってしての価値観であり
つまりは私達は自分達が作り上げた価値基準と戒律によって
善悪の判断をしていることになります。


良い悪いの基準は正しいのでしょうか?


善と悪とは一体何なのでしょうか?


罪とは一体何なのでしょうか?


罪を問われると言うことは
そこには規則や戒律が存在していることになります。


そしてそれを守ると”義”であり
”破る”と”罪人”とされるのがこの社会の仕組みです。


それを当たり前だと考えるところに
私達の悲劇が存在しているのだと思います。


罪なる概念、そして罪を意識させる戒律を作り上げたのは
他でもない私達人間だからです。
(モーセが仕えた神は人格を持った人間だと思います)


法律や規則は限定列挙ではありえませんし、
(これをすべて守れば一切の罪は存在しないと言うものではないという意味)


私達の作り上げた戒律である法律や規則は
普遍的真理、神の意志ではあり得ないからです。

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以前に記事で触れたことがある話をもう一度引用します。


私が広報の途中で池袋の喫煙所付近で喫煙していた時の話です。


最近では喫煙所は所定の場所が指定され
その中での喫煙が規則とされていて
今ではそれを取り締まる監視員もいることがあります。


私はそこで喫煙スペースをはみ出てタバコを吸っていました。


そして監視員に注意を受けました。


「喫煙スペースをはみ出て吸ってはいけない。」


それがルールなのだから当たり前だと言われるかもしれません。
でも私は疑問を感じる事がありました。


喫煙スペースを設けて喫煙させるのは
喫煙を嫌う人がいること、


更に副流煙が他人の健康に
害をもたらすと言われているからだと思います。


私が喫煙スペースからはみ出たのは
喫煙所周辺が人で一杯だったこと、
そして喫煙スペースに妙な薬品の存在を感じたこと


そして付近に電話をかけに来る人がいなかったので
迷惑をかける事もないと判断したからです。


私は、はみ出たところで、携帯灰皿を片手に
喫煙していたところ注意をされるに至った訳です。


つまり私は”悪いこと”をしたわけです。


規則を破っていたからです。


ただその監視員達は喫煙スペースで
タバコの灰や吸殻をポイ捨てしている人間達(大勢)を
見て見ぬ振りをしていました。


今公共喫煙所で存在する規則は
どうやら喫煙スペース重視と言うことなのか
”ポイ捨て”は悪いことではなかったようです。


”戒律”ではそのスペースでタバコを吸っていれば
それは”義”であり
はみ出て吸っていればそれは罪なわけです。


決められたことを形式的に守っていれば
その他のことは正当化されるものかと
正直憤慨していました。


喫煙に関してあるべき”実質的な戒律”は
”非喫煙者に迷惑をかけない事”これを守ることだと思いますが、


誤った戒律を作り上げることで
それを守っていても罪とされ
それ破っていても義とされる事になるわけです。

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これとはまた少し違いますが
事の本質こそが大切であろうと言う事例が
聖書のイエスとパリサイ派の人間のやり取りにありました。


その時イエスがしたことは善行です。


でもそれを罪と批判する人間がいました。


他人の病気を安息日に治療したと言うことが
パリサイ派の人間には罪人扱いされる事になった話の事です。


ユダヤ教の教えでは「安息日を設けて
その日には何も労働をしてはいけない」
と言う記述がありました。


その実質的な意味として理解できそうな箇所として
旧約聖書には


「安息日に働くとそれに付き合って当時の奴隷そして
家畜もが借り出されることになるから、
そのようなものに休息を与えるためにも。。」


と言う記述がありましたが


とにかく「安息日を設けて、
その日には仕事をしてはいけない」
と言う規則を
イエスの時代のユダヤ教徒達は
人格神の教えとして受け入れてそれを守っていました。


そして安息日に病人の治療をしたイエスを
戒律破りであるからと批判したわけです。


でも現実に照らして考えると
医者が「今日は安息日だから」と言って


急患でやってきた死にそうな人間を放置して
それが義とされるものかということです。


つまり人間の作り上げる戒律は絶対的真理ではあり得ず
それを守ることで義と認められるものではあり得ないと言うことです。


それで自分達は神を信仰しているといっても
彼らは神の意志などまるで理解をしていないことに成ります。


彼らは形式を重視し、本質を理解していないからです。


イエスは偽善者達を
「器の表ばかりが綺麗に磨かれて中身は汚れている杯」
に例えていました。


形式ばかりを守って人目には義を見せていても
その心が濁っていては
それは聖書にある”神への信仰”ではあり得ないと言うことです。


そしてこれこそがイエスキリストが旧約聖書と共に
社会から破棄したいと願った、
人間の手により作り上げられる戒律であり


私達に”罪”を意識させる事になる本当の原因でもあります。


私達は心を持って戒律(法律・規則)に従い
心で戒律を意識することで罪をも意識することになります。


そしてそれを破ることで罪人扱いされることにもなります。


しかしそれは勿論神の意識とは限りません。


例えそれら全てが神の意志に叶ったものであったとしても
今度はそこに列挙されていない物事は、


例え神の意志では罪であっても
私達はそれを罪と認識できずに実行するかも知れないわけです。


悪意を持って行動することであってもです。


(組織的犯罪や電磁波攻撃を想像すれば容易です。
法律の規制がないと言うことで、それは罪とされませんが
そんな事を創造主が正しいとするわけがない事は
説明するまでもないのです)


結果この社会の中では、例え神の意識に照らして
誤っている行動をしている人間がいても


それは罪として認識されることなく、
その人間が”戒律”を(法律を)守っていればその人間は義人とされます。


その事のおかしさを理解していたからこそ
イエスは、戒律に拘り事の本質(神の意識)を無視していた彼らを
偽善者と呼びましたし


パウロは「私達は戒律によってではなくて
神への信仰により義とみなされる」


と語ったのだと思います。


物事が正しいか、そうでないかの判断基準は、
人間が自ら作り上げるのではなくて
創造主の意識から導き出すべきだと言うことです。

(心の道徳に照らして考えろと言う言い方も出来ます)


当時イエスキリストが意識していたのは、
戒律なるものを作り上げそれを守ることを重視することで
道徳心なるもの、神の意識なるものが軽視される社会は


神の意識からかけ離れたものへと変貌していく
原因になると言うことだったと思います。


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イエスキリストの”十字架の死”の意味も
弟子達は本当はここを強調したかったのだと思います。


イエスキリストは何も悪いこともしていないのに関わらず
罪人とされて十字架に貼り付けられる事になりました。


罪状など存在しておらず
あったとすれば”神の冒涜者”とされたこと


自ら神のごとく振る舞い、神を汚したと言うのが
おそらくは罪状になるのだと思います。


そしてそのイエスを罪人として罰したのは
戒律に拘り、それを守ることが義であると信じていた人間達や
そのように誘導していた人間達です。


つまりは当時の戒律や律法がイエスの義を否定して
罪人に擬制する原因ともなっていたのです。
(サンヘドリンの策略でもありますが)


イエスは知っていました。


その人間達は法の規制をかいくぐっては非道徳的な行為を
繰り返し、自らの私服を肥やしていたことをです。


所有や相続に関しても都合の良い戒律を設けることで
私有財産を肥やし、
一方では借金で庶民を縛り付けていたこともです。


つまり人間が作り上げた法律は必ずしも人間を正しい方向へと
誘導するものにはなり得ず、


逆に都合のよい法律を設置することで、
もしくは法を悪用することで


その抜け道を利用しては
悪意の実践を推奨する事にもなりかねない事ををです。


そして残念ながらイエスの願いも虚しく
ユダヤ教徒の手によって作り上げられてきたこの社会は


当時のユダヤ教徒の支配するパレスチナ社会と同様の
人間が法律と規則で持って雁字搦めにされる一方


その法律を利用しては権力者達が
私利私欲を満たす社会へと変貌しているわけです。


そして法律と規則と表向きのルールを守っていれば
その人間は魂の濁りに関係なく義人とされる
そんな社会へと変貌しているわけです。


話は飛びましたがイエスの十字架の死で、
”私達が罪から逃れた”と言う本当の意味は


イエスが十字架の死をもって
それまで戒律に従っていた民衆を自らの実践していた
神への信仰へと向けさせ


その結果、民衆が戒律による罪を意識することがなくなり
その事が民衆を罪から開放した、という意味だと思います。


イエスが拭い去ったのは
個々の人間のそれまで犯した罪という意味ではなくて


戒律が存在する限り消えない
潜在的な罪意識から開放されたと解釈すべきだと思います。


パウロは人間の作り上げた戒律ではなくて
神への信仰により生きる事で”戒律”が無効になるわけではなくて
私達は更なる戒律を持つことになると言うニュアンスを触れてもいます。


つまり私達の持つべき戒律は
文字として人間が作り上げるものではなくて


信仰と言う形で神を意識する事で
そこから引き出すものであると言う事ではないでしょうか。


神の意志が限定列挙できないものである以上、
そして私達の作り上げる法律が
処罰と個人の権利ばかりを追求しているものである以上


戒律なるものは私達が神の意志に沿った生き方を
実践するためのものではないと言うことを
私達は理解すべきだと思います。


そしてパウロが12使徒として
イエスの奥義を理解して使用していた言葉ですから


”戒律の行いではなくて
神への信仰を重んじる
”と言う一説は


人間が心を持って作り上げた価値観を実践することではなくて
神を信頼して神の意志なるものを信仰から感じて
それを重視すると言う事を意味しているのだと思います。


生命の科学の理解者と覚醒者は気がついているはずです。


法規など与えられなくても
神への信仰を持つ人間は自らに戒律をつくり
それを守って生きることになる事にです。


それこそが大切であり
罪を限定列挙しているこの社会のあり方が
私達の意識を創造主からかけ離れさせている


その事を理解して頂きたきたいと思います。


【地球人の苦悩を光の前の暗黒のように消すために
宇宙の創造主を地球の道しるべにしよう】


私たちは聖書の解釈を誤ることで
過去と同様の戒律によって生きていることに
気がつかなければならない。


そしてイエスと12使徒の言葉は
精神を通して語った神の意識であり
それは限定列挙ではないことを理解して欲しいと思います。

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P.S.


アダムスキーが触れていたのは
創造主の意志に反する事は
全てが正しくない(罪である)事で


創造主の意志に適う行動が全て義ということです。


それを理解し限りなく創造主の意識に近づくことが
私達覚醒者の目的でもありました。


そして私達は誰もが日々大なり小なり
多くの罪を犯していることになります。


神の意志を100%実践できている人間は
この社会にいないからです。


つまり罪から完全に逃れている人間は
一人もいないのです。


更に神への信仰が戒律の実践に先行すべきだという

パウロの言葉を、私達は誤って解釈することで


まるで神への信仰は実践を重視しないように
勘違いすることにもなっているのではないでしょうか。


パウロが伝えたかったのは
人間が作り上げた戒律を守るよりも


心の道徳(神の意識)に従うことであるという事だと思います。


パウロはイエスの奥義を使用していたのですから
それを前提に聖書を読まなければその真意は読み取れません。


本来あるべき人間の姿は、全ての物事を神の意識で
正しいかそうでないかを判断する事になるのですから
直接それを創造主の意識から伺ったほうが良い。。。


そういう話になると思います。


多くの場合それは私達の持っている道徳と重なるものですし


生命の科学を理解してくれている方であれば
それが「結果を分析することで判断できる事だ」と言う話を
思い出すのではないでしょうか。


結果が多くの物事にとってプラスであれば
それは正しくて


動機が万物への奉仕であればそれは正しくて


動機が個人的エゴから出ていたり
結果が多くの物事にマイナスであれば
それは誤りと判断できると思います。


私達は行動の前にそれが最良の結果になることを意識し
一方では生じた結果を分析すると言う二段階において
精神を意識することになります。


そして誤りをしたと思えば
それを繰り返さないように努力をする。


それを日々努力しているのが私達覚醒者と理解者だと思います。


イエスの奥義の本領発揮する場面は一体どんな時であるか?


私は身をもって体験しました。


それは人に対して広報しようと
口に出して話しているときの様です。


それはイエスキリストや12使徒が実践していたのと
同じものだと思います。


ただしその時の精神状態はそのまま
言葉に反映されることになるようです。


精神を強く感じることで
私達は正しいと感じたことを表現できると言うことです。
そしてそれこそがイエスの奥義の大きな一面。


是非、真理を語ってみて欲しいです。


そして既存のキリスト教は
イエスと使徒の本意をつかめていないために


今度はイエスと使徒の言葉を
限定列挙の戒律としてとして捉えてえてしまい


それを実践しているのだと言うことに
気がついて欲しいと思います。


イエスの奥義が理解できない人間や
理解しようとしない人間には新約聖書の
本質は理解できない。


私が出した結論です。