小さきキリストへ VOL1 | 不幸のブログ 

不幸のブログ 

三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。

7日までの記事を予約設定してありますが
内容はおそらくは支離滅裂になっていますので

どうかそこから私の意図を読み取ってやってください。


日本社会を取り巻いている人間の中には
人としての心を持っているかどうかも怪しい
恐ろしい人間が紛れ込んでいる事だけは触れておきます。


身体への関与に関しても、付きまといに関してもです。


外では、魔の使いの様な人間なのか
相変わらず集スト車が低周音を鳴らしながら走っていきます。


末端の加害者の中にはつける薬が存在していない
そんな人間達が確実にいます。


洗脳されてしまった人間は新たな価値観を持つことも
自らを間違いだと認めることもできないと思います。


しかし一方では価値観をおきかえれる人間もいることになります。


と言うことでそれを加害者全般に当てはめることなく
時には加害者母体の人間にも
理解を求めて見て頂きたいと思います。


思考回路が落ちていますので、
誤字脱字は勿論、内容的にもおかしな表現や
論理的表現がありましたら勘弁してください。


----------------------------------------------

確か二年前のメーデーには
自分のブログの宣伝のビラを沢山もって


代々木公園で企業の労働組合の人間に混じり
ビラ配りをしていました。


私としては一人で外での広報をする最初の試みで、


その後にダンボールで作ったプラカードを掲げて
渋谷や池袋に出没するようになり
国会議員会館前にも出向くようになりました。


今では外での広報はしてませんが



ブログでは懸命に心を込めて
少なくはないけれども多くもないであろう理解者に対して
覚醒を促し続けているのです。


振り返れば私も進化しました。


そして同じ事を多くの覚醒者が
今感じているのではないでしょうか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
”キリスト”と言う言葉は”救世主”なるイメージが強く、
それらを名乗ることで自らを高めるような人間も後を絶たないようです。


でも私達は”キリスト”なる言葉を
神の意志、神の摂理、そしてそれを実践するものであると
理解することが必要だと思います。


そして、キリストと言える人間が
この社会に存在しない今、


きっと生命の科学を学んでくれている方こそが
小さなキリストとしてこの社会で
神の意志の広報者として暮らして行ってくれると信じています。


私の成長を超えている方に対しては失礼なのですが、
まだ私の記事を参考にして頂いている方々に対して


私が自分で”生命の科学”を学び、
それを他人に説明しようとしたときに
一番苦労する事になった内容、


そして、それを克服することで私達の生命の科学
イエスの奥義の理解が飛躍的に伸びたと言う内容に
今日は触れたいと思います。


それは、先日も触れたところの三次元と四次元の話です。


アダムスキーの生命の科学の内容を、
私達は昨年九月から手探りで学んできました。


しかいアダムスキーが
生命の科学の中に”ヒント”をちりばめていることからも
私達はその全体像を中々つかみ難くなっている事と思います。


勿論、私の記事を読んでくれていた方にしてみれば、
私の説明が悪く、言葉と理解力が足りないがゆえに
理解不足が続く事になったわけですが


私も生命の科学の全体像が
最近になってはっきりと見えてくる様になり、


アダムスキーが私達に伝えたかった事や
新約聖書のイエスの言葉が
とてもよく理解できるようになったばかりです。


先日は天国なる物の存在とそれが作り上げられた原因も、
聖書の影響である側面と、私達の心の側面の両方から
理解することにもなりました。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11232871797.html
天国(霊界)の謎が解けた


精神(意識)の存在を理解出来れば
私達にとって神秘現象はなくなるという
アダムスキーの言葉どおり


私達はここでまた一つ、
精神を心で感じようとして作り上げていた虚像を


生命の科学・イエスの奥義を使用して
消し去ることが出来たかと思います。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11225509554.html
聖書のイエスキリストの奥義


そして私は自分の中では
先日のイエスの奥義といい天国の作られた原因と言い、
大きな発見となりました。


そして私がそれに気がついたのは言うまでもなく、
私達が”生命の科学”の学ぶにあたっての
根幹となるべきものとして


【三次元と四次元を理解すること】


というアダムスキーからの課題が存在していることに
漸くはっきりと気がついたからです。


アダムスキーにしてみれば、
本当は自ら考えて自ら気がついて深く理解して欲しいのが
”生命の科学”であり、


イエスキリストが”例え話”で説明することで
個人が自ら思考する中で多くを理解させようとしたのと同様に、
アダムスキーもそれを期待しているのだと思いますが


しかしながら、今のこの社会の中では
私達人間は思考能力と想像力を失いつつあり、


以前にもまして心に依存して生きている私達には
それは大変な作業だと思うのです。


ましてアダムスキーの”生命の科学”の
内容は抽象的な物も多く、


聖書のイエスの引用も多かったために
結果的には難解な内容にもなっています。


心を持って、その価値観を持って理解しようとしても
それは不可能である事が私達には理解できるはずです。


それを多くの方に理解して貰おうとすれば
やはり一番難解な部分を集中的に
理解を求めることが大切かと思います。


そこで、私達が小さなイエスとなるために
今学び続けている生命の科学の基礎を
自分の理解者に効率よく説明するためにも


ここではその中でも特に大切な概念である
”三次元”と”四次元”と”心”と”精神”について
考えて行きたいと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

まずは私達の心と精神の関係について。


私達の魂は心と言う側面と精神と言う側面を持っていました。


心と言うのは三次元において私達の意志を示し
価値観を表現し、その行動を司っているものであり


魂の三次元的側面であり、おそらくは具体的には
脳や肉体の細胞の受け止めている記憶や感情を
脳機能を中心に表現しているものだと思います。


一方では私達の魂の四次元的な側面であり
本当は私達の本体とも言えるものが”精神”でした。


肉体がその死と共に滅ぶように
心もそのとき滅ぶことになり
その記憶も同時に失うことになりましたが


精神は肉体が死んでも滅ぶことなく
半永久的に存在し続けるものでした。


そしてここへと記憶された物は
次の生でも引き継ぐと言うことでもありました。


具体的に言えば、私達は心を持って三次元の物質社会を生きていて、
同時に精神を持って四次元を生きている存在です。


つまり私達は三次元社会と四次元社会を
同時に生きている存在であると言うことでした。


三次元とはこの物質社会です。

そして四次元とは想念や思考や神の意識の領域です。


さらに三次元と四次元の関係は
四次元で思考したものが三次元で具現化されるという
関係がありました。


私達が思考したものその想念が
肉体や物質を通じて三次元で表現されるように


四次元での神の想念、意識が
この三次元の社会において元素成るものを利用して
具現化されたものが三次元での万物であり


それに神の意識の分身としてのエネルギーを
魂として与えられたのが生命体です。


例えばメタルベンディング(スプーン曲げ)が
四次元で思考した想念が
三次元での物質を曲げるように


念写なる能力が四次元での思考のイメージを
三次元において感光紙に焼き付けるように


思考、想念は四次元で発し
三次元で表現・具現化されるという
関係があったわけです。


私達は行動を起こすにもまずは思考するように
四次元と三次元は並行して動いているのでした。


しかし通常私達は肉体とその司る器官(目、耳、鼻、口)、
更には心のエゴ(心の本質は自己愛だと思います)を持って
三次元なる物質社会だけを認識して生きていて


そのために四次元という目に見えない領域を
理解できないで暮らしているわけです。


なぜならば三次元で使用している器官が
それぞれ認識する対象があるわけですが
(映像、音、匂い、味)


精神の認識する領域はそれらの器官では
勿論認識する事ができないからです。


私達が三次元の世界で四つの感覚器官を持って
受け止めている情報は映像、音、匂い、味です。


しかし四次元を司っている私達の精神が受け止める感覚は、
魂が肉体に覆いかぶさることで受け止める触覚や


想念や神の意識の発するところの
”印象””閃き””イメージ”と言った物です。


これらは三次元を司る器官では認識できないわけですが
実は時々は精神を通じて私達はそれを感じることがありました。


受け止めた想念が”意思””映像”であれば
それはテレパシーとか霊魂と言われるでしょうし


神の意識であれば”啓示”と言われるでしょう。


”知識”として想念を受け止めたときは
それが自らの閃きであると考えるかもしれません。


そしていずれもそれぞれは”印象”であり

三次元の言語であり音として存在する言葉として
捉えられるものではありません。


しかし精神の存在に気がついていない私達は、
そこから何かの情報を受け取っても
その印象が何であるかを正しく受け止めることもできず、


その印象を自らの心を持って作り上げあげたものであると勘違いしたり
時には心で説明できなくて神秘現象や超能力として
それを認識しているのです。


その結果、心が正しく把握できないもの、
心の価値観を持って説明できないものは


天国や幽霊、超常現象、超能力といった具合に
一まとめにして片付けられて
心の意識の隅へと追いやられています。


つまりそこで”神秘現象”が
出来上がることになったわけです。


しかし私達が心の働きと
精神の働きを正しく理解して、


それぞれを私達の魂の三次元の領域の反応であり
四次元の領域の反応であると捉えることで
神秘現象なるものはすべて説明できる事になるわけです。


目を持って匂いを嗅げないように
心を持って神の意識や想念を受け止めることはできない。


そのことを理解することになるからです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

心と言うのは”自由意志”であり


同じ生物の中でも植物はそれを一切持っておらず、
動物にはその形態によって僅かづつではありますが与えられていて


そして私達はとても大きなものとして
与えられる事になっていました。


アダムスキーが”自然に学べ”と言うのは
自然なるもの、植物なるものが心を持っておらず、
彼らは精神によってのみ生きている存在だからでした。


つまり彼らは100%神の意志を表現している存在だと言うことです。


しかし私達人間は、心と言う、
自由意志を表現できる道具を与えられています。


その結果、私達はその心ばかりが先走り、暴走をはじめ
精神のささやきが聞こえなくなっていると言う話でした。


私達は起きている時は心を利用しているのが常で
実は24時間私達にその存在と情報を語りかけている
精神の存在を理解できないでいるのです。


私達が理解しなければいけないのは
私達は三次元的自我としての心を持ち
一方では四次元的自我としての精神を持っていると言うこと。


両者は魂の両面ともいえますが
心は肉体と共に滅ぶものであり


精神は永遠を生きている(条件付で)存在だと言うことを
まずは認識する必要があるのです。


これだけの情報でも私達はそれを読み取り理解するには
ずいぶんと時間が掛かった事と思います。


しかし今私達が小さきキリストとして
知恵ある人たち資質のある人達に説明するには
長い時間をかけることは無理だと思います。


大切な要点を知らせることで、
それを知らせ資質ある人を選別し、
理解できる人には生命の科学、イエスの奥義を伝授する。


この地球社会の行く末を想像するに
私達が今出来る一番有効な手段は


私達がイエスの奥義を深く理解して
それを多くの人達に易しく説明することだと思います。


【地球人の苦悩を光の前の暗黒の様に消すために
宇宙の創造主を地球の道しるべにしよう】


今の社会状況を考えるに
広報できる時間もどうやら短くなりそうですが
(社会の二極化は加速化しているように見えるからです)


一人でも多くの同胞をこの社会から救ってあげて
そして同時にこの社会を少しでも良い環境へと
変貌していけることを願っています。


そして勿論私達はこの社会からの卒業を果たすのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
P.S.


地球の法則の奉仕者達は
資質ある人間に印をつけては洗脳し思考を壊し、
もしくは淘汰しているように見えます。


一方では、生命の科学のように”心と精神”ではなくて、
すべてを科学を持って無理やり心の領域で説明して見せることで
生の神秘と言われる四次元の側面を隠蔽する気配です。


地球の奉仕者達は”頭が良い”と言うよりは
その”脳の機能が左脳の論理能力に特化された人間達”と
考えることが出来るかと思います。


脳の進化が左脳に特化している人間達だと言えば
わかりやすいかもしれません。


人間の脳の使用領域の増大が進化であるとすれば
彼らはその特定部分だけを進化させ続けている人間だといえます。


彼らには右脳左脳をバランスよく持つことで
理解し感じることの出来る精神を、
自ら感じ認識することはできないと思います。


そうでなければ、彼らは意図的に創造主に
挑戦状を叩きつけているのだと思います。


そんな人間達の価値観を信じ受け入れた人間達は、
左脳信仰ともいえる論理と科学を持って全てとしては


それを使用して自らの心を納得させられる事だけを
正しいと信じて疑っていないようです。


三次元科学重視の傾向は加速化する気配もあります。


彼らの思考の根底となる価値観は
人間が心を持って作り上げたものなのですから


その認識の限界があることに気がついていないために
真理なるものを自ら追求することなど出来る筈もありません。


彼らの持っている真理をアダムスキーは
個人的真理と呼んでいました。


しかしこの世界には普遍的真理があります。


そしてそれこそが私達が求めるべきものです。


多くのイデオロギーや思想にはまず真理(例えば経典)なるものがあって、
それを個人が正しいと信じることで心に独特の価値観を持たせ、
そこから派生させた生き方を善であると誘導しているのです。


しかし私達がやっているのは、先入観や心の価値観を一旦消して
精神を通して無から真理を求めながら
今までの価値観を真理に置き換えていく作業です。


脳機能や知識に応じて与えられることになる
相対的真理、個人的真理にとらわれることなく


私達は自らが精神を持って”普遍的真理”の
欠片を自らの認識の元集めては
心の価値観をそれに置き換えていきましょう。