生命の科学VOL81 | 不幸のブログ 

不幸のブログ 

三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


私のブログの記事は宗教的な話が多いために
誤解されそうな気がしますし


特定の人間達に利用される危険性をも感じていますが
私は宗教・政治その他一切どこの組織にも所属していません。


更にインターネット上で
ツイッターやミクシーを使用して
私の名を語る人間がいてもそれは私ではありません。


最近は多くが工作員の巣となっていることに
気がついたので、利用される事を恐れて
少なくとも他者へのメッセージには利用してはいません。


それと私が部屋で書いている記事の内容は
リアルタイムで工作員達に見られています。


テンペストのような物も使用されていると思います。


つまり私の記事を彼らは前もって把握しているわけです。


それを影でこそこそと
何かに利用している可能性もありますので
ご了承ください。


他人の印象を悪くするため
そして組織のためには工作員達は
どんな姑息なことでもやってきます。


ユダヤ教徒パリサイ派サンヘドリンの傀儡と化した
創価学会・朝鮮半島連合軍有志が
朝から挑発的に自動車の暴走を繰り返していました。


(彼らは私をジョーカーとして
多くの加害組織関係者達がババ抜きをしているような物で


複数の組織やグループが、時には嬉々として、時には嫌々ながら
私への加害行為に関与していると言うのが実態だと思います。


ジョーカーを引くことになるのは
私の記事で、組織に関係あることを書かれた人間達、


もしくは私が部屋の中で独り言を言ったときに
その内容にカチンときた人間達だと思います。


その内容に応じて関係組織が現れる。。


そして常にその中心にいるのが
フリーメーソンのようなサンヘドリン直に近い傀儡達だと思います。)


昨日は夕方から、
嫌がらせのために水曜日担当の人間がやって来ては
異物製造を強化していましたし


夜間だけの出張協力工作員も来ていました。


今日は朝から異物が排泄できないように
みぞおちを締め付けてきます。


夜中から顔面への照射は止まらず顔も浮腫みます。


寝ているときは
右の耳からなにやら電波か電磁波の照射も
繰り返されているようです。


要するにこの人間達は嫌がらせと自殺誘導
殺害誘導を並行し、人体実験含めて実行し続けているわけです。


人間のあるべき意識からかけ離れて
それに疑問を感じない人間たち。


そしてそれを半ば意図的に放置しているその組織。


まとめてアンチクリスト、サタンの会派として
サンヘドリンの傀儡と化しているとみなして
叩かせてもらう事にします。


最近は工作員を使っているのか
再び創価学会の組織的犯罪関与の否定も始まっていますし
(特に科学力)


自らの罪を認めようとせず、一方では隠蔽を図る手法は
自己正当を目的としているもので
そこからは神仏に携わる人間の意識など感じることも出来ません。


近日、生命の科学の視点から
仏教の教えについて一つ触れてみたいこともあります。


私が仏教徒に見習いたいと思っているのは
自らのエゴ、心の暴走を抑えることを
努力しているような人間達の姿であって


心を持って暴走している人間たち、
怒りや戦いや憎しみの想念を撒き散らしているような
人間の姿ではありません。


負の想念を撒き散らかすのをやめてください。


そして親米メーソン傀儡組織は
地球に人為的な気象変動や
地殻変動を引き起こすのをやめてください。


この地球社会を壊しているのは
そんな人間たちであることを悟るべきです。


今日のやり方は強引なので
年配者や熟練者の関与を想像していました。


毎週水曜日と週末にはそんな人間達が
集まってくるからです。


この人間達は手ごわい事この上ありません。


”善人”であったり、
思考や価値観が凝り固まっていたりするからです。

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昨日はユダヤ教徒サンヘドリン傀儡である
メーソン関係者?の手によって


国内のHAARP技術でも容易に実行できる
気象変動の関与があったと判断しています。


偶然にしては出来過ぎで
過去にも数回できすぎのすさまじい豪雨や雷雨に
晒された経験もあります。


(一時は雷がすぐ近所で
延々となり続けていましたし二日連続で
昼間の停電を食らいました)


彼らは気象変動が容易に引き起こせることや
それを引き起こす技術を、


一般市民が知らず
まして人工的な気象変動などと言う選択肢を
一般市民が持っていないことを良いことに、
遣りたいほう題しているようにしか見えません。


ゲリラ豪雨や雷雨など電磁波エネルギーがあれば
容易に引き起こせるであろう事は理解しています。


気象変動の一番の基礎は大気の気温を変化させることに尽きます。


それを可能にしている電磁波兵器の存在を
一般市民に隠しては使用し続けている人間達から
感じ取れるのはエゴだけです。


頭の弱い人間達、洗脳され思考能力の落ちた人間達を
目に見える現象と社会的権威でごまかし続けても


知恵のある人間達を
いつまでもだまし続けることが出来るわけがないのです。


彼らはあなた方よりも遥かに賢いからです。


真実に近いものを見ている人間は
低いレベルの悪意に騙される事もないと思います。


不思議な事なのですが思考能力の活性化と
精神の進化・覚醒は並行しているように思えます。


つまり覚醒に近い人間は思考能力もあり
賢くなってきている反面、


精神を濁している人間ほど
覚醒から遠ざかり、思考能力も落ち
当然嘘も下手になります。


それはアダムスキーが生命の科学で触れた
精神の働きと併せて活性化する脳の機能や細胞と
無関係ではないのかもしれません。


私に関しては、良くも悪くも
今は脳への科学力の関与状態で
思考能力が決まってしまいますので例外ですが。


そしてそれはイエスが触れていた
「持つ物は更に与えられ持たない物は持っているものまで
取り上げられる」


と言う例えにも繋がるのだと思います。


意識の低い人間達の嘘は
その意識の低さをそのまま引くことになります。


つまり嘘にも精神性が現れてくるのです。


そして丸め込まないと思うと
最後は”実証論”と”理屈”で丸め込めるのが
地球の法則のやり口だと思います。


目に見えるもの、心の価値観で
説明できるものに拘らせるためです。


そしてそれ以外は実証性がないと言って
認めないのです。


彼らと討論しても時間の無駄だと言うことです。
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今日はマタイ13章10節~の引用です。


それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、
「なぜ、彼らに例え話でお話しになるのですか。」


そこでイエスは答えて言われた、
「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、
彼らには許されていないのです。


おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、
持っていない人は、持っているものまで取り上げられるでしょう。


だから、彼らに例え話で語るのです。
それから彼らが、見ても見ず、
聞いても聞かず、また悟らないからです。


こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのです。
『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。


見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍くなり、その耳は聞こえにくく、その目は閉じている。


それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、
悔い改めていやされることがないからである』。


しかし、あなたがたの目はみており、耳は聞いているから、さいわいです。
あなたがたによく言っておきます。


多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと
熱心に願いましたが、見ることができず、


またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、
聞けなかったのです。

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昨日取り上げたイエスの語った”天の御国の奥義”なるものに関して
イエスが自ら取り上げ触れている内容です。


イエスキリストが例え話で話すのは
私の主張ではその人間の資質を測るためだと思いますし
人々に自ら思考の機会を与えるためでもあると思います。


ここでの持っている者はさらに与えられて
持たない者は持っている物まで奪われると言う例えは


一つには道徳であり
一つには知恵だと思います。


イエスキリストが恐れていたことは
人の社会が乱れることで
そこで暮らす人間の魂までもが乱れていくことだと想像できます。


人間は環境とは無縁の存在ではありません。


大なり小なり環境からの影響を受けて
その環境に適応していく側面があるからです。


その環境が泥のごとく濁りが酷くなっていけば
それに対して人々もいつしか
心を濁していくことになりかねません。


そしてイエスの時代にはすでにその兆候が出ていて
その中で自らの魂をその影響と切り離すことが
如何に難しいかと言うことを


イエスは悟っていたのだと思います。


そのために道徳であればそれを持っている人間は
世の中の乱れを感じればその乱れを憂い
更に道徳を意識するようになる一方


もともと道徳心など持たなかった人間や少ない人間は
それを失っていくことになる。。。


そんな意味も含まれていると思います。


一方では私達の覚醒の資質に関して
触れているのだと思います。


もちろんこれも道徳心とは無縁ではありません。


世の乱れを感じることの出来る道徳心をもった人間は
その乱れの中で更に色々なことに疑問を持つようになり
それについて自ら思考を張り巡らすことにもなるでしょうが


一方ではそれに疑問を感じることの出来ない人間は
その乱れの中に適用し、結果、思考をめぐらすことなく
知恵を使用することなくそれに飲み込まれていくことになる。


そんなことを例えたのではないかと思います。


イエスはそんな人間達の資質を計るためにも
そして自ら思考させるためにも


物事を例え話で語って聞かせた。。。。


この時の例え話の解説にあるように
その例え話から30倍60倍100倍の
実を結ぶ人間が出てくることを願いながらです。


イエスが実現していると触れているイザヤ書ですが


【あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。


見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍くなり、その耳は聞こえにくく、その目は閉じている。


それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、
悔い改めていやされることがないからである】


とあるのは二つの解釈が出来て


見て聞いたことを自ら考えようとせず
そのまま現象として受け止めて済ましてしまうから
その結果正しく物事を見ていないし聞いていないことになる。。


と言う例えと


12使徒の様に心の器官としての目と耳を、
心だけではなくて精神をも重ねて使用していない


と言うことの例えだと思います。


イエスの天の国の奥義(言ってしまえば金星の人間達が
実践している生き方)を学んでいる12使徒は、
物事を正しく見て聞くことをイエスから学んだはずです。


私達が生命の科学でアダムスキーに教えられたように
心(個人的真理)を持って、物事の価値観を作り上げるのではなくて


目や鼻や口や耳と言った感覚器官を単に使用して
物事を独自の価値観の元で判断するのではなくて


その四つの器官を調弦されたバイオリンの弦のごとく
争うことなく調和させて使用して、


その上で精神を用いて
四つの感覚器官では認識できない事をも含めて
理解しなければならないと言うことをです。


(四つの感覚器官が常に争っていると言う話は
生命の科学でも学びました)


それが出来る12使徒は、
正しく見て正しく聞くことも出来た。


そしてしっかりと自らの思考で
物事を判断することも出来たのだと思います。


更に彼らは精神から神の意識をも感じる事になります。


物事が正しいかどうかの判断もそこから与えられることになり
結果彼らの精神はますます高まっていくことになります。


そんな状況に関して触れたのが
聖書のここでの記述ではないかと思います。


イエスの天の国の奥義は
私達が物事を正しく判断するための能力を与える物であり、
嘘や間違いを見出すための能力を与える物だと思います。


そしてもう一つ、神の意識から人としての正しいあり方や
私達の欲する知恵を与えてもらうための物でもあります。


”イエスの天の国の奥義”、私達もしっかりと理解して
使用していきたいです。

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【心霊は関係ない】


私が右のような体験を述べますのはただ人間の内奥の
能力は本人の意識の作用にかかっているだけで
心霊主義とは何の関係もないと言うことを明らかにしたいからです。


それは法則、すなわち人間の半身、
つまり意識と言う部分を理解することにあります。


人類の99%は自分の意識の能力に気づかないで
心に振り回されて生きています。


意識によれば貴方は宇宙のどこへ行くのも自由ですが
心に頼っていたのでは一箇所に繋ぎ止められているだけです。


私は講演を行うとき一箇所に繋がれていますが
意識によって私が求められている場所へ行きました。


この法則は心の側でも真実なのと同様に
意識の側でも真実です。


意識は永久的な面にありますが
心は生命の変化する面にあります。


心は新たに学ぼうとするために常に変化していますが
意識はすべての知識です。


トランス(失神状態)(訳注:意識などが陥る一種の催眠状態)
とは一体なんでしょう。


このいわゆる通念は前にも述べましたように
指導霊が自分を指導しているのだと考えるためにおきる
”真実”の歪曲です。


貴方がテレパシーの開発中に
こうした印象またはイメージ(訳注:指導霊がかかってきたと言う印象)
が来たとしても驚いてはいけません。


貴方の意識的な自我が意識の部分を見るときに
このようなフィーリングを起こすのです。


貴方の心は急速に全包容的な意識を
吸収することを忘れてはなりません。


従って心が他の意識と繋がって確固たる発達を遂げるまでは
最初は意識は途切れ途切れに、または異なる局面でやってきます。


たとえば内径一インチのホースは
径一インチの棒状の水流を通しますが
水がノズルからほとばしり出るとそれはさまざまな大きさや
形の無数の水滴となって分離します。


そこで我々は自分の”仕様書”に従って
各水滴を「大きさが異なる」と言います。


しかし植物に落ちる各水滴はそれに水分と生命を与え
水滴が触れるものに実質を与えます。


従って各水滴のエッセンスは総体的には
他の水の水滴と結合するのであって

ホース中を流れているときと変わりません。


”宇宙の意識の流れ”もホース中の水と同様です。


それなくして生きることの出来ない低次な現象界に対して
奉仕をするために意識は絶えず自分を個々に分けているのです。


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【真のトランス状態とはどのような状態か】


言い換えれば、”宇宙の父”と”宇宙の母”はその創造物を決して
見捨ててはいないのです。


心がこのことを理解しない場合、心は神秘家がやっているように
さまざまな不可思議な現象に名前をつけがちになります。


心は理解しない物事にたいして
如何に名称をつけやすいかの例を挙げましょう。


そこで変貌の山におけるイエスの体験について説明します。


その時イエスの心は意識によって恍惚となっていました。
彼は自身の心の意志を意識の意志に譲り渡していて
自身は聞き手と観察者になっていました。


そうなった時に彼の顔は変化し
彼の心と意識がかつて表現したことのある多くの個々の容貌を現しました。


その時自分では何が起こっているのかに充分気がついていました。


これを見ていた弟子達はイエスの容貌がいろいろ変わるのを見て
モーセその他の人間達が現れたとイエスに語りかけました。


するとイエスは「私の生命は多数の人の生命である」
と答えました。


言い換えれば彼はそうした様々の人々の障害を経てきた
(訳注:過去世でその人たちであった)のであって


意識がその事を彼の心のスクリーンに再演し
こうして他人が見ている間に彼の心の生命を
現世の段階にもたらしたわけです。


これはもし貴方が、自分の誕生日にまで遡ろうとする場合
貴方の心を恍惚とさせるかまたは現在までの成長に
関心を持たせることと他なりません。


貴方の意識が自分がこれまで経てきた様々な発達段階や
体験類を心に伝えるのです。


そのために変貌の変化が現れるわけです。


イエスにその時これと同じことが起こったのであって
彼は弟子達が見ているあいだにそれを実現させたのです。


これが唯一の真のトランスであってそこには心と意識が
一体となって働くと言う宇宙の原理があります。


世間のいわゆるトランス単なる幻想希望的観測
自己催眠などであり心が指導霊または
高級霊の指導を受けていると思い込んでいるときは特にそうです


いわゆる指導霊が来たと感じるがするときには用心しなさい。


そんなものよりも貴方の半身である
貴方の意識こそ頼りになる唯一のものです。


だからこそ聖書では「自分の前に偽りの神を持つな」
といっているのです。


人間であろうが他の何であろうが、
万物は多くの体験と変化を経てきているのです。


われわれが永遠の生命を受け入れるならば
永遠の未来と同様に永遠の過去も存在するのです。


だからイエスは言っています。
「私がこの世の人間ならばそれと戦うけれども
私はこの世の者ではない」

彼がこの世の世界へ(転生して)きたのなら
我々も皆(転生して)別な場所から来たと
考えても不合理ではありません。


彼は父の家には多くの住処がある事を明言しています。


しかし現象としての人間の心が記録の保持者である意識に
従属しない限り、この事を知ることはできません。


それが達成できると”啓示”がやってくるのです。

以上は透視や意識による旅行ばかりではなく
いわゆるテレパシーをも含んでいます。


従って貴方は映像の形で啓示を得るのみならず
想念の印象をも感受するでしょう。


忘れてはならないのは我々は必ずしもこれまで
高貴な性格の持ち主でありませんでしたので


何かの映像や印象(訳注:過去世における自分の姿など)
を感受してもそれは自己の現段階の理解力にとって
心地よいものではないかもしれませんが


それはやはり我々の発達の一部分
生命の一部であったと言うことです。


従って歴史の一部分としてそれらを受けるべきで
排除してはいけません。


それらは皆あなた自身であるからです。


「私が長生きできるものなた、色々なことをやってみたい」
と何度私たちは繰り返して言ったことでしょう。


我々は過去の行為を是正する事によって
高貴な方向へ成長するのです。


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まずアダムスキーがイエスキリストの
聖書の中でのトランス状態に関して触れています。


イエスキリストが精神と一体化した状態になったことで
そこにイエスの過去生が次々と浮かび上がったと言う記述でした。


私はこの件に関しては実は独自の解釈を持っています。


スペースブラザーズがイエスの使徒に
イエスへの信頼を高めるように
彼らが演出したものではないかと言うことです。


側近の人間達はイエスのその時の様子を見つめて
「私はイエスとエリアとモーセのために
三つの幕屋を作ります」と触れていますが、


その時彼ら三人が話し合っている姿を見たと
聖書には書かれているので


そこで私が想像したのはスペースブラザーズの
立体ホログラフ映像技術でした。


イエスの側にモーセとエリアのホログラフを映し出すことで
歴代の預言者、救世主とイエスは同等の存在であることを
弟子達に知らしめたのだと想像しました。


その直後に天から神の声が
「これは私の愛する子、私はそれを祝福する。
彼のいうことを聞きなさい」


と聞こえてくることになるのですが


それも併せてブラザーズの科学力による
演出であったと理解するほうが
今の私達の知識や理解力からも納得できると思います。


ただ、アダムスキーが自身の過去の記憶を持って
触れているのであればそちらが正しいのだと思いますが
いずれにしても天から声については
もちろん創造主の声ではありえないと思います。


(ブルービーム計画でも
似たような音響効果を利用することが
想定されているはずです)


もちろんブラザーズの意図は12使徒の
イエスに対する信頼を厚くすること


信仰を強く持たせることが目的であり
それは騙したと言うのとは異なります。


(何よりも行動に関して大切なのは動機だと言うことです。)


ただ、イエスがモーセの転生であったと言う話、
つまりイエスであった魂は過去にはモーセであったという話は
アダムスキーが側近にも触れていますし


恐らくは正しいのだと思います。


もちろんユダヤ教徒はそれを認めることもないでしょうが、
理解できる人間が理解し信じればよいのだと思います。


そしてここでアダムスキーが何よりも強調したかったのは
真のトランス状態になれる人間はめったに存在してはいないと言うこと。


イエスキリストの域に達して初めて可能な物であり
私達が頻繁に体験できたり
意図的に体験できるような物では有り得ないと言うことです。


困った事に人工トランス現象は
麻薬や覚せい剤などを使用することで可能なようです。


しかしそれは一時的な効果があっても
長い目で見れば脳を破壊する行為であり
精神の進化には繋がらないことに触れておきます。


まして自己暗示ともいえるような状態
霊能者が自分の体に霊をのり移らせてその霊の言葉を語るなど
有り得ないと言うことです。



トランスなる物のさきがけを経験したことのある人は多いはずです。
おそらくは自覚がないだけだと思います。


何かを無心でやっているときに
思っていた以上の力を発揮するような感覚。


芸術家があるとき取り付かれたように
一気に作品を仕上げるそんな状態。


私であれば一気に大量の記事を
そのときの閃いた事含めて
書き連ねるようなとき、


そのときに何かの閃きと導きを
延々と感じることになります。


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心霊に関しては繰り返し触れていますので
今日は輪廻転生、永遠の生に関して触れてみたいです。


先日私は48歳の四回目の年男である誕生日を迎えました。


誕生と言えば、地球社会では
新しく生命として肉体に宿る現象と認識されますし


その時から私たちの短い人生はスタートした
と言うのが私たちの社会での認識です。


そしてその誕生の日を祝う習慣も
この社会には存在していますし


私達も毎年その事を意識して一年毎に
自らの成長や老いを感じることにも繋がっています。


ただ、私たち覚醒者の立場で言えば
誕生したと言うことはその直前には
私達には死が存在していた事になりますし


逆に死を迎えたと言う事になれば
同時に誕生が起きている事にもなります。


無自覚ながら永遠の時間を刻んでいる私達の魂は
途切れることがないのですから
現実はそのように生と死はいつも連鎖していることにもなります。


ただ、私達にとって悲劇なのは
折角の転生により新たなる肉体へと移り変わっても
それ以前の記憶がないゆえに


自分が永遠を生きている存在であると言う
自覚がない事です。


そしてその事が私達の心を揺り動かし、


誤った価値観、

一度きりの人生を幸福に
面白おかしく暮らしたいと言う意識へと誘導し


その意識が時には自分がよければ他人の事等構わないと言う
誤った意識をも持たせる事へと繋がって行きます。


どんな生き方をしようが
一度きりしかない人生なのだから
楽しまなければ損だ。


そんな刹那的な意識の裏には
私たちが自分達の真の姿を知らないと言う
原因が存在している事になるのだと思います。


私達が生まれたときには持っていたであろう
今回の生の課題をすっかり忘れては


その後もそれを認識することできないままに
この社会環境に悪い意味で適応して生きることになっている。


そして前世での生き方や意識とは無関係ではない、
自分が生まれてきた環境の意味を理解できないでもいるのです。


私たちが前世も地球社会で暮らしていたのであれば
転生の法則が私たちに自動的に働いているのであろうと
想像もつきますから


今回与えられたであろう課題が
その生まれて育っていく環境の中に
恐らくは存在しているのでしょうが


前世の記憶など持ってはいない私たちは
その課題のことなど気にもかけません。


でも間違いなく私たちが
今の人生を送るにあたって
私たちには課題が与えられていて


私たちはそれを目の前に啓示されているのだと思います。


私が室内で加害者に対して時々触れることがあるのですが
因果応報なるものは
少しばかり解釈を変えるべきだと思います。


「自分がしたことに対して報いを受ける」


因果応報なる考え方をそう捉えれば
創造主は私達が為した事に対して
罰を与えることになると思います。


しかしアダムスキーやブラザーズの認識している創造主は
そのような存在には思えないのです。


もっと愛に満ちた高尚なる存在。


その人間が与えた法則は
罪に対して罰を与えるようなそんなものではなくて


私達が自ら体験して理解できないのであれば
それを理解するための機会を与えてくれる
そのような存在ではないでしょうか。


例えば今世で金持ちとして暮らしていて
自分が何もかもを十分に持っている状態でありながら


イエスや釈迦の教えのように、それを分け与える事もなく、
更に持たない人間の意識を理解できず
それを見下す人間がいたとしたら


その人間は貧しい人間持たない人間の意識を
理解できていないことになります。


その人間が自らの心を持って理解できないのであれば、
精神の囁きを気がつくことが出来ないのであれば


それを理解させるために
次の世では貧乏な暮らしを強いるような環境に誘導する。。


それは罰ではなくて
「自ら精神を持って理解することが出来ないのなら
自ら体験することそれを理解しなさい」


と言う神の意志と取れます。


「まだ理解できないのなら身をもって
体験させてあげますね。。」


という創造主の声が聞こえてくるような気がするのです。


アダムスキーが心を持って行動し
その結果痛い目にあうのは、
それは神の責任ではないと触れていましたが


親の警告を無視して火遊びをしていた子供が
火傷をすることでその熱さを身をもって感じるのは
親の責任とは言い切れません。


そして創造主は、そんな私達が
体験により何かを学ぶきっかけを与えては


私達の精神の進化を促すことを
誘導してくれているのだと思います。


つまり私たちは人生の課題を創造主によって与えられて生まれ
今の世を生きているのだと思います。


(ブラザーズの様な他の太陽系の人間は別でしょうが)


その課題が一体何なのか?


私たちは自分達の人生を振り返ることで
それに気がつくことも出来るのかもしれません。


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私は自分の意識の変化を子供時代まで遡る事で
そこに何かを感じる事が出来たような気がします。


自分が今強く持っている意識と
子供時代の意識とを比較する事でです。


例えば今の私はとても強い意志と
強い正義感、そして勇気を持っている”つもり”でいます。


一方、自分の中からは喜怒哀楽のなかの
とりわけ愛情が減退しています。


昔から変わることのないのは
怒りんぼであると言うことでしょうね。


そんな今の自分を見つめ一方で昔を振り返ると
意外な事にも気がつくことになります。


昔の私は臆病者だったと思うのです。


それは生活のあらゆる場面に現れていて


例えば体育の跳び箱、


いくら幼少期太っていたとは言え
踏み切りを思い切り踏み込んで飛び上がることも出来ずに
器械体操を苦手としていた時代があるのです。


子供時代に喧嘩をする羽目になった時は
そのすべては学校のちょっとした強者に仕掛けられ、
(暴れん坊で知られていたような人間と言う意味です)


その時は夢中でも
自分の心臓は破裂しそうなぐらい
鼓動が乱れていました。


大好きだった女の子に
告白するような場面もありましたが
そんな時もまったく同様です。


行動力はあったと思いますが
ノミの心臓を持っている人間。


私は自分をそんな人間であったと思います。


その一方愛情なるものは
今と異なり溢れんばかりのものを
友人や異性や親族に向けていたと思います。


人懐っこく、誰にでも気さくな人間。


ただし悪意や嫌悪感が苦手だったことは
今も昔も変わりません。


そして他人の悪意を感じるに連れて
私は他人に持っていた激しいまでの愛情を
どんどんと失いました。


でもこれも考えようでは制御したとも取れます。


一方では今も昔もまったく変わらないのは
不条理なことが大嫌いで怒りんぼうなこと


そして頑固なほどの強い意志です。


私はこの生で学んでいる事は
もしかしたら足りなかった勇気を持つことと


溢れすぎていた愛情を抑えること
そんな事だったのかも知れないと思います。


宇宙的意識の中には
極端な意識は存在しませんし
一方勇気のような意識は必要なのだと思います。


そんな意識をこの人生を通じて学び取得していく
そのためにも多くの体験をしてきたような
そんな気がするのです。


そしてそれが私のこの人生の課題の一つ。


そんなことを考えていました。


更にもっと具体的な課題を
自分なりに受け止めているのは


もちろん今までの自分の興味を持ち続けた事が
すべて今のブログ記事に繁栄していることからも


今の私の小さな広報こそが
自分のこの生の一番の目的なのだと思います。


私が宇宙人やUFOや超能力や幽霊や
予言やその他オカルトともいえるもの全般に
激しく興味を持ったからこそ、


そして経営、経済、商法、
税法という地球の奉仕者が作り上げ利用しているものを
学んだからこそ


私は地球の法則の存在に気がつき
そこからの卒業を皆に投げかけることにもなった。


一時の価値観になるようなものではなくて
人生の価値観に深く影響を与えるそんな経験が
私の今の人生の目的と無縁では有り得ないと思います。


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そしてすべては偶然ではなくて
恐らくは精神が導いてくれたものであると
私は想像するに至っています。


例えばもしも、組織的犯罪の存在に気がつかなければ
私は自分の周辺に起きている奇妙な現象を
自らの運命とあきらめて五年前には死んでいたと思いますが


そんな極限状態で偶然集団ストーカーなるものに関して
ネットで目にすることになり
自分の身の回りで起きている事の実体に気がつきました。


もしも若い時代に太田龍サンの著書と
飛鳥昭雄さんの著書を
それぞれ一冊づつですが購入していなければ
(自分の価値観と合わないと当時は放置されていたのですが)


私は宇宙人の実態にも
集団ストーカーの実態にも気がつくことはありませんでした。


そしてアダムスキーの著書を通じて
私の価値観のすべてはつながる事にもなりましたが


それを手にしなければ今のように生命の科学や
宇宙の法則に触れることもなかったわけです。


そんな流れのすべてが偶然には思えませんし
私の人生の分岐点では
精神が常に私を導いてくれていたような気がするのです。


そして考えてみれば私の興味の対象は


宇宙人やUFOや超能力や幽霊や
予言やその他オカルトという現象をみて


その因なるものを求める作業で在ったともいえます。


それは経済学や商法や税法を学ぶなかで
そのようなものがどんな趣旨で作られたのか
などと考えた事も同様ですし


組織的犯罪に出くわして
それがいかなる手法で行われているのかと


これらのすべての見えない因なるものを追求する作業を
その人生の真ん中においていた事になりそうです。


今の私があるのは全くの偶然では有り得ない
私はなるべくして今の状態になったのだと認識すれば


そこには私を導いた何らかの意志を
感じ是ざるを得ないのです。


これはすべて私事ですが
同じように自分の意識や人生を見つめてみて
そこから今回の生での目的を意識することが出来たら


私たちはこの社会での時間をも
精神のために有効に利用していくことが出来るのかもしれません。


自分の趣味思考、そして今の意識と
昔の意識、是非色々と思い浮かべて考えて見てください。


前世の記憶がなくても
自分の今回の課題がそこから見えてくるかもしれません。



そして、


【地球人の苦悩を光の前の暗黒のように消すために

宇宙の創造主を地球の道しるべにしよう】


という、この言葉を
記憶の片隅から思い出すような人達も
いるのかもしれません。

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P.S.


二日前に自動設定で更新してしまった記事ですが
コメントを付け足して最更新します。


実はもう一つ自分の変化に気がついたことがありました。


私は幼少時期から青年期、つまり成人するまでは
とても女性に対して奥手でした。


全く女性に縁がなかったわけではないのですが
いつも好きな女性に拘り延々と片思いをしているような男で


しかも女性と話すことすら恥ずかしくて、
殆どが同性とばかり話しているような男でしたし


それが災いして?10代の末ごろ浪人時代には
純情な男心?を利用されてデート商法ともいえる
詐欺に掛かったこともあります。


真っ直ぐで融通が利かなかった事もあり
若いころは自分に好意を向けられても
それには対応できずにいましたし、


とにかく他の親しかった友人達と比較しても
その度合いが激しかったと思います。


そしてこの生での私は20代に入って、再び女性に遊ばれて
それの反動で一時は女性なる物に対して持っていた
概念(とても美化していた)を一転させることになりましたし


一時は女性に対しては尊敬の意識もまるで持てないようにもなっていました。


その上に若いころはなぜか不思議なほど
性的な欲求が激しかった事もありますし、


女性の尻を追っかけるようなそんな場面もあったわけです。


しかし今の自分が、そんな経験の過程の後に
落ち着いた価値観をもてるようになった事にも気がついています。


もしかしたら今回の人生での経験の一つが
女性なる物を理解する事だったような気がするわけです。


つまり私は前世まで女性にまるで縁がなく
堅物として生きていたような
そんな存在ではなかったのかと自分の事を想像しているのです。


私達は転生してもその経験で培った資質は
心の資質として残るはずです。


子供のころから異性に対して平気な人間もいれば
私のようにまるでだめだった人間もいるのは


おそらくは心が持って生まれた資質と
関わっているのでないかとも想像したわけです。


そしてそんな私の過去世は
女性とは縁のない生活をしていた


結婚とは縁がなかったのかもしれないと
最近は考えるようになった。。という話でした。。。


私達の今現在の資質と
幼少時期の資質を比べたときに変化している物事は


私達のこの人生の体験によって
培われた物であることは間違いありませんが


それがもしかしたら今世において
私達が学ぶべき課題なのかもしれないと
最近強く感じるようになりました。


そして子供時代の資質はそのまま
前世の資質を引き継いだ物である可能性がたかい。


そこから過去の自分の姿を想像するのも
自分の過去世を探求するのも面白いかも知れません。