生命の科学 VOL47 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。



今日3つ目の記事となります。


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良くぞ精神の記事をこんな時に下書きを書き直しながら
更新する気になるなと自分でも思います。


でも生命の科学を学ぶ人間に
少しでも協力できればと言う意識も
忘れてはいません。


それに加害者組織が”生命の科学”を嫌うなら
余計に其の記事は大切であると考えてもいます。


まして自分が壊される事等も想定すれば
少しでも多くの人間が少しでも覚醒に向かって
進んで貰いたいと言う意識は強くなります。


”私を潰したところで覚醒者は山ほど存在している”


そんな状況になれば私も何も慌てることなく潰されますし
記事の更新妨害に目くじらを立てる事も無くなるでしょう。


まだ覚醒者は多くは無いかも知れませんが
普遍的真理を理解した人間は
他の人間に対して強い影響力を持つようにも成ると思います


工作員や嘘つきと違って説得力を持つことが出来ますし、
心に真理を強く携えていれば


そしてその真理と言う岩の上に教会を立てると言う
イエスキリストのごとく意識を持てれば、


多くの覚醒者はイエスの使徒のごとく
人々に真理を説くことも出来るようになる。。。


この社会に再び神の法則を
もたらす事も出来るのかもしれません。


私一人の出来ることは限りがあっても
多くの覚醒者が出来ることは無限です。


例によってアダムスキーの
21世紀生命の科学からの引用です。

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【意識による知覚力を拡張せよ】


生命の宇宙的な概念を得るためには、
自己内部の知覚力の拡張が必要であって、これに尽きます


このようにすればあなたは二つの面において自分の行為に
一層警戒的(知覚的)になるのです。


それは飛行機の中にいるか
または高いビルの屋上にいるのと比較できます。


というのは、自分の頭上にある者と同様に
眼下にある物をも知覚するようになるからです。


貴方は同じ心を用いているのですかが
その場合はただ貴方の知覚の範囲が広がったに過ぎません。


自身がどこにいようとも、
貴方がこれをなすことが出来るようになれば


多くの過去の体験を洩らしてくれる意識の記憶に関連して
貴方は制限なくどこまでも探ることが出来ます。


こうして自分の真自我を見出して
永遠の海の中に生きることが可能となるのです。


この生命の特殊な面は是非とも学ばなければならない
主要な部分です。


心がこれまでやってきたように、
勝手気ままに行動する変わりに意識とともに行き始めるなら

ば、
右の主要部分を身につけるのは然程困難ではありません。


心と意識の二つが一体となって生きるとき
結果はすばらしい物となるでしょう。


この事はこれまでうるさいほど繰り返してきた事ですが
繰り返しは一つの記憶となります。


【二人の人間の一体化】


この良い例は生活を共にしようと決めた
二人の人間の間に見出せます。


両人とも各自の生き方の中に
それぞれ異なる習慣を持つ人間ですが


何年かを共に過ごした後は、
互いに相手の習慣を身につけ合うのみならず
両方が相似た人間になり始めます。


これはまったく両者が一体であるかのように
相手を知覚しあうようになるからです。


犬や猫などの動物でさえも
主人の個性を真似たりすることがあります。


そこで結局絶えず気になるような人またはものが身辺にある


それは(気になる物事は)そのまま相手の自動的な現象とな


もはや努力は必要となくなることが判ります。


人間は記憶している手本に基づいて行動するからです。


ここで気づかなければならぬ最も重要なことは
その記憶している手本は、それに似せて人間の個性を
作り直すと言うことです。


その場合は本人はもう下のままではなく
他人が本人にとってかわったとも言えるでしょう。


一方が他方を吸収してしまって両者は一体化したのです。


以上、ここでは互いに密接な関係にある二人の人間を例に挙

げましたがこれはまた大勢が同じ手本を応用する場合に
一人だけを代表者にする例にもなります。


この事はわれわれが神と呼んでいる意識なるものは
全包容的であることを示しています。


二人の人間が親密になる事によって一体化し
互いに相似てくる同様に


一個人はエゴの代わりに常に神(意識)というものを考える

ならば
いつか神と一体化し、神に似てくることになるのです。


しかし本人の個人性は存続します。


ただ、普通の人間と違うのは本人の心が我々が神と呼ぶ
知覚されている意識と混和していると言う点です。


その場合の心は従来どおりに日常の仕事を遂行しますが
結果(現象)の世界において賢明に行動するための力と英知

とを


それに(心に)与えている意識なる物の存在に
本人は気づいています。


すると心はイエスが次のように述べた言葉の意味と
同じ感じを持つ事になります。


「私がするのではなく。父が私を通じて成し給うので」

これが”宇宙的意識”です。

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アダムスキーはここで知覚の拡張なる事に触れています。


勿論ここでのアダムスキーの話は
精神を拡張して物事を認識しろと言う事だと思いますが


私達はその前提として感覚器官の拡張を意識する事が
その練習になるかもしれません。


精神と言う存在は五番目の感覚器だからです。


私達は通常は複数の感覚器の受けた刺激を同時に認識し
それを元に体験として記憶し知識としてそれを持つことにな

ります。


ただ、私達が理解すべきは、全ての感覚器は
実は皆独自の世界を体験していると言う事実だと思います。


たとえば、私達が目隠しをして
鼻を塞いだ状態で居る時に、
感じる感覚は主として聴覚と言うことになります。


日常では複数の感覚器の同時の活動で複数の世界が
まとめて一つの現象を表していると考えれば
視覚には視覚の、聴覚には聴覚の世界がある事になります。


聴覚だけの世界を体験しているときは
私達は視覚も嗅覚も働かせる事がないために
その神経は聴覚に集中することにもなります。


結果研ぎ澄まされた神経は音に敏感になります。


視覚を失った方が聴覚に敏感になるのはこのためですし、
その敏感になった状態は
まさに知覚を拡張している事と同様だと思います。


私達の精神は同様に独自の感覚を感じているのだと考えれば
良いのだと思います。


勿論、精神が感じる世界は神の意識の世界であり
因の世界です。


もっと言えば四次元の世界と言っても
良いのかもしれません。


私達は視覚と心中心の生活を送る中で
その力を退化させ続けているために
精神の感じるべき感覚を感じ取ることが出来なくなっていま

す。


勿論、中にはミステリー現象やチャネリング現象といった事


深い興味を示しては、


結果的に精神を感じ安くなっているような
人間も居るのだと思います。


それを如何に拡張するのか?


私達の課題の一つだと言うことです。


一つだけ私が昔寝ながらやっていた事のある、
今から考えてみれば精神の練習になりそうな方法があります


当時はオカルト的な発想で練習してたのですが
其の手法はと言えば、


先ず幽体離脱をするようなつもりになって
寝ている自分の意識を外へと向かわせるのです。


まずイメージの中の自分は
布団の中から起き上がって寝室の扉を開いては
そこから廊下を進み、そして玄関の扉を開けます。


階段を降りて進んでいくと
いつもの道があって、それを駅に向かって進んでいく。。


勿論、全てはイメージであり、現実に肉体を離れた魂が
その場所まで行っているわけではありません。


ただ、この精神の拡張と言う話になると
その様なイメージ含めての今現在実際には見えないはずの場

所を
認識しようと言う方法は有効だと思います。


アダムスキーもイメージの中で宇宙旅行をしたと言う
体験を持っています。


そして後の講義では金星や土星や火星を
イメージで体験する方法と言うものを紹介しています。


つまり私のやっていたイメージで外を歩く行為を
更に遠くの場所まで発展させたようなものだと思います。


流石に私達には行ったことも無い場所を歩くと言う
イメージを持つことは難しいと思いますが


イメージをすることで、今現在知覚できないはずの場所を
知覚するトレーニングは
きっと私達の精神の進化に役立つのではないかと思います。


少なくとも、精神の発する想念は距離を関係なく
送られる事になるとアダムスキーやブラザーズは触れていま

す。


私達の精神は神の意識を通じてであれば
距離も時間も関係のないものであると言う趣旨のことを
アダムスキーも触れています。


つまり私達が本当に精神をフルに使用できれば
家の中にいても他の場所を
知覚できるようになるという事です。


なぜなら私達は神のエネルギーとも意識ともいえる物の
内側に存在しているものであり、
其の魂は神のエネルギーそのものだからです。


だからこそアダムスキーは
万物はみな意識が繋がっているのだと触れているのです。


そのためにも精神の使用の初期段階にある
私達にとって大切なことは
右脳の使用によるイメージ力を高める事かもしれません。


当初は自分の心の想像した物ばかりが
イメージされる事になるのでしょうが


精神と心が併さるようになると
そこにはイメージとしてではなくて


正確に知覚された遠方の世界すら
見渡せるようになるのだと思います。


極端な話が宇宙空間を想像したり
金星など他の惑星の社会を想像するのも良いかもしれません


勿論、単に勝手な想像をするのではなくて
自らがあたかもその場所に向かっているような意識から初め


金星の厚い雲を通り抜けて地表にたどり着き
そこで自分の目でその光景を見ているような
そんなイメージが良いのだと思います。


精神を強く感じることの出来ない私達にとっては
今はは単なるイメージの延長でも


精神が併用されるようになることで
それは単なるイメージでは無くなっていくのだと思います。
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アダムスキーが二人の人間が一緒に暮らす中で
お互いが相手に似ていく過程を
”心”と”精神”のシンクロに例えて説明してくれています


心は私達の今現在強く感じている意識ですし
精神は其の影に隠れたもう一つの意識です。


その両者を併せていくことは
人が他の人間と生活をしていく中で


相手の意識と自分の意識を
接近させる事に似ていると言う事のようです。


一緒に暮らしていく中で
相手と折り合いを良くしたい、
相手と仲良く暮らしたいと思えば


当然妥協も生まれる事になりますし
価値観も似ているほうが良いのは言うまでもありません。


私達は夫婦生活や共同生活の中で
無自覚に自分の意識を他人に合わせて変貌し続けている
存在なのだといえます。


ただ、それがこの社会の中では
一番の価値観が精神からずれていますので


他人に合わせての意識の変貌は
必ずしも私達にとって良い事とは言えないのだと思います。


私達が他人と意識を併せようとするのは
例えば初対面の人間と会って話をするような場合にも
顕著に現れると思います。


お互いが相手の事を全く知らないわけですし
話をしていても共通するものがなければ会話も弾みません。


相手と会話を盛り上げようとすれば
相手がどんなことに興味があるかとか
相手の思考を知ろうと勤めることになると思います。


そしてその行為は相手の意識とこちらの意識を
近づける行為そのものだと思います。


相手が人間であれば意識をシンクロさせる事も可能ですが
では一体どうやったら私達は神の意識でもある精神と
心を合わせることが出来るのでしょうか。。


そこで辿りつくのはやはり
自然や植物や動物と言う事になるのだと思います。


彼らは限りなく精神だけを感じて生きている存在であり
さらに彼らの存在は神の表現でもあるわけです。


万物は神の表現であることを私達は学んできました。


神は、そんな自然や動植物を眺めては
微笑ましく思うような存在なのですから


それと同じ意識を持って動植物を眺める行為は
私達の心を確実に神の意識に近い状態にするのではないでし

ょうか。


何かの行動をしようとした時に
「神ならどうするだろうと」と言う事を
判断するのは難しくても


神が自らが表現して作り上げ
調和を感じている自然や動植物の世界は


神の理想の表現でもあるわけですから
神はそれを不快に思うわけがありません。


創造主は自然や動植物を自分の予定通りの存在として
満足して見つめるはずです。


そんな動植物を創造主と同様に微笑ましく見つめることや


彼らを見て其の生態を深く理解して、
そこに自然との調和や神の表現を感じ取る練習をする事が


神の意識(精神)と心とをシンクロする
きっかけになるかもしれません。


少なくともその時だけは私達の心は
精神に限りなく近い状態に成れるのではないかと想像してい

ます。


自然の中で爽快感を感じたり、
動植物に心癒される状態は実はそのまま
私達が精神を感じている時間なのかもしれない。。


と私は最近考える様になりました。


これに関してはイメージ力が足りない人でも
思考回転が鈍っている状態であっても
誰もが体験できる事だと思います。


私達が都会での生活を望むようになっている事は
精神からかけ離れ心の価値観に囚われてしまっている
証拠なのではないかと思います。


そして「自然から学ぶ」と言うアダムスキーの言葉から
私達が学べる事は沢山あるのだと実感しています。


私達は”行為”を”心”に従って行っています。


しかし、もしも私達が其の行為を
”精神”に従い行うようになったなら


其のときはイエスキリストやアダムスキーのように


「私を通じて父が行っているのだ」


と言う意識を持つことが出来るように
なるのかもしれません。


其の時にはおそらくは未知能力の一つや二つは
開花しているのでしょうね。


それが今世なのか次世の事になるのかは資質と
日々の努力次第でしょうが


今私達がすべき事はUFOを追い続けることでも
超能力を求める事でもない事は忘れないで下さい。


私達、放蕩息子は父の元に帰ることこそが
この生で求められているのです。

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P.S.


イメージトレーニングと言うことで
場面を想像しながら考えて貰いたいクイズがあります。


主として論理的思考で解答を導き出せる問題を
一つ紹介します。


これも私が学生時代に友人が出題してくれたもので
似たような問題が”EVE”というタイトルのゲームの中で


出題されていましたので


答えをご存知の方も居るかもしれません。


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Q.

刑務所の看守が、
ある日三人の死刑囚を呼び出しました。


死刑囚はそれぞれが帽子をかぶらされた状態で
ある部屋の中へと案内されたのですが
彼らは自分の被っている帽子の色を知りません。


看守の話では白もしくは黒の帽子を
かぶらされていると言う事だけは
彼らは知っています。


室内に三名が集まると看守が言いました。


「もしもお前達三人の中で、二つの白い帽子を見た者、
もしくは自分の帽子の色を当てる事が出来た者は
死刑を免除して刑務所から開放してやる」とです。


実は彼ら三人の被っていた帽子の色は皆黒でした。


と言うことは少なくとも彼らが二つの白い帽子を
目にすることはありません。


しかし、少しして三人のうちの一人が
看守に自分の帽子の色を言い当てて
その部屋から出て行きました。


その後残された二人は自分の帽子の色を当てられず
開放される事は無かったそうです。


開放された囚人は看守に自分の帽子の色を言い当てた時に
”なぜ自分の帽子の色を認識できたのか”を
論理的に説明していました。


その開放された囚人は一体どうやって
自分の帽子の色を当てる事が出来たのでしょうか?


其の囚人がどんな説明を看守にしたのか
答えてください。


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勿論トンチではなくて論理的な思考から
回答を求めるパズルです。


ヒントは、


三人の死刑囚の一人は物事を考える事が苦手なタイプで
一人はごく普通の思考能力の人間、


そしてもう一人は思考能力の発達した人間だったとして
考えてみてください。


ここでは自分が死刑囚の立場に置かれたと想像して
その場を頭に思い浮かべながら


自分の被っている帽子の色を当てるための
思考をめぐらせる事になります。