生命の科学 VOL43 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


今度は顔への関与に変えています。

いかに効率よく色々な目的を
同時に達成するかを意識しては


薬品を撒いたり電磁波兵器での攻撃場所と目的を
その時々で変更したりしてきます。


創価学会広宣部とメーソン公安系の関係者
そして在日・帰化関係者の有志が
週末から張り切って攻撃を加えてきます。


最近はじわじわと時間をかけて
自然を装っているつもりらしいことも判ります。


もちろん効果はすさまじい物があります。


とりわけ有志の中には年配者が大勢いて
そんな人間が集まると


私は不思議とヘルプサポートも受けることも無くなり
危害を加えられまくりとなることが多いです。


そして胃腸への関与はとりわけ激しくなります。


最近頻繁に姿を見せる人間の多くは年配の男性達。


はっきり言えば老人軍団です。


憎しみたっぷりの視線を飛ばしてきたり
咳をしたり唾を吐いたり。。。


自動車やバイクや付きまといも
そんな人間達が中心となっているようです。


公安や警察のOBなどの関係者ではないか?とか
創価学会の熱心な信者なのか?とか
在日系の人間達ではないか?とか色々想像していますが


私はその全てが正解のような気がします。


元々集団ストーカー行為では
彼らは提携して動いていたはずだからです。


被害に関しては触れるまでもなく
胃腸と脳への関与が続いています。


ED状態への誘導も始まったようですし
(性器への刺激で無自覚に性的な欲求不満にもされて
 同時にメラトニンの分泌を妨害されているようで
 

それに対抗できないように(自慰行為を妨害するために)陰萎状態への誘導も
始まっているようなのです)


つまりは目指すところは掲示板での反抗予告にあったのですが
私を怒りの化身にする、


つまりは脳への単なる刺激だけでなく
男性ホルモン強化や精神的なストレスをもためては
何とかして切れさせると言う事が目的のようです。


私への苛々の誘導があまりにも非人道的ですし
今後は私の精神はさらに過酷な状態に
置かれる事も覚悟しなければならないようです。


恐らくは”生命の科学”の理解者の中にも
大勢の宗教信者や在日・帰化関係者の人間が
存在していることと思います。


その方々にお願いがあります。


自らが宗教組織や民族に対して持っている
拘りやプライドは捨ててください。


私は創価学会や在日帰化関係者、公安関係者の中の
有志としての加害者達とは完全に決別したと判断しました。


私への一切の加害行為とこれらの人間の実態を
時には記事として公開して行きたいのです。


それは批判でなくて理解に基づく内容にしようと努力し
多くの人々の理解を求めるためのものとします。


努力して理性的な意識で書いた記事としたいと思います。


しかし民族意識や宗教意識が強いとその記事を読んで
全てを批判として捉え
それに敵対心を持つ人間も中には出てくると思います。


覚醒者や覚醒者予備軍には
そんな意識を持っては欲しくないのです。


覚醒者であれば差別や区別と言う意識が良くない事は
理解していただけると思いますが


民族や国家やイデオロギーに執着していては
正しい精神の進化は望めないはずです。


私は、生命の科学や宇宙の法則の広報を
妨害する人間達と言うことで


アダムスキーの言うサイレンスグループである
闇政府そして結果的にその傀儡として活動し続ける
人間達の事を放置することは出来ません。


精神を乱され、思考能力を落とされ
記事書くことすら妨害されている状態で


しかも頻繁に私に対しては
命を狙っていると言わんばかりの脅しも続いています。


低俗な嫌がらせも未だ頻繁にあります。


そして私を病院送りにして
洗脳することも未だ視野に入れての関与のようです。


このまま放置しておいて
私の広報にとって良いことは何もないのです。


私は覚醒以来自分の生きている目的は
宇宙の法則の広報だと考えています。


そして今はその事を中心に据えて
危害を受けながら暮らしています。


つまり広報できない状態で生きているなら
死んだほうがましなのです。


(その時は転生してマークされていない立場で
この社会の改善に協力したいです)


半端な状態で延々と広報しても
妨害その他の地道な影響で


尻すぼみになることも想定できますし
まともな記事も書けなくなりかねません。


私は濁ったままで安定しそうなこの社会に
一石投じてやりたいと思います。


今後そんな内容の記事も増えるかと思いますが
心ある方々は是非ご理解頂ければと思います。


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今日は以前に”真訳聖書のVOL7”
で取り取り上げた内容と一部重複しています。



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【放蕩息子の物語の真の意味】


聖書中の放蕩息子の物語は
どうすればよいかについての良い観察力を我々に与えます。


放蕩息子の心はあらゆる人間の心(複数)を描いたものです。


なぜなら、帰ろうと決心したあと、彼は家の誰かが
自分を指差して自分の悪い行動を思い出させることを
息子は良く知っていながら、


自分を謙虚にし、自分の自尊心の全てを投げ捨てて齎される全ての物事に
直面しなければならなかったからです。


息子は家の者達の生活態度は自分のそれと異なることを
知っていました。


しかも彼らは似たような体験はあったかもしれませんが
息子が経てきた体験を持っていません。


これらの全てを知っていながら、息子はなおも自分の心の意思を征服して
自己の真自我である意識(精神)の意志ー万物の父ーの元へ
帰ろうと決心したのです。


家へ到着したとき息子のエゴは驚きました。


と言うのは父親が放浪の息子のために宴会を開き
あたかも何事もなかったかのように両腕を開いて歓迎したからです。


エゴが自らを征服しようとするほど大きな勝利はなく

その努力に報いは無限なのです。


そして各個人は生活の必要物全てが既に与えられているのであって
何も不足している物はないのです。


この放蕩息子の内部には、悪いことをしたのだぞと
自らを咎めた一つの小部分がなおもありました。


それは家を出た事の無い長男によって象徴化されています。


あらゆる個人には本来の魂があるからです。


そこでその小さな本来の魂が放蕩息子にその行為を思い出させたわけです。


しかしこれはまもなく”宇宙の意識”によって克服されました。


その意識は裁きや差別をしらないからです。


しかしこの勝利を勝ち取り、”宇宙の意識という海”の中へ
エゴたる自我を滅却させるには大いなる決心を必要とします。


【真の生まれ変わりとは何か】


これはイエスがいったように、心を新生させて個人が新たに
生まれ変わることを意味します。


なぜなら自我の自尊心が”宇宙の意志と栄光”
の中に生まれ変わるときにこそ、
人間は実際に死ぬことになるからです。


(訳注=これは肉体の市を意味しない)


これは先述のように、海水と一体化する事によって
もはや一滴の水ではなく海洋そのものになる水滴と同様です。


あなたがいかに多くの書物を読もうとも、
いかに多くの宗教を遍歴しようとも


いかに多くの講座や教師につこうとも
放蕩息子がやったようにやらなければこれらのどれも
無意味であって、真理を齎しません。


自我のプライド(自尊心)を死滅さて
謙虚さと”意識の意志”の中に生まれ変わりなさい。


だからと言ってあなた方の今の生活で楽しんでいる物事を
捨ててしまう必要はありません。


ただ、極端にやっている物事を適度にやればよいのです。


そしてあらゆる生命体や固体を作り上げているあらゆる細胞の中に
現れている”神”を見るように自分の心を仕向けなさい。


あらゆる生命体の生命や細胞の生命は万物を通じて
さまざまの度合いに現われている神の生命であるからです。


そうなればあなたは金星人や他の惑星の人がやっているような
生き方をし始めることになり
あなたの生活に差別と言うものは存在しなくなります。


此れをなし得る時(誰もがやれるのですが)
あなたの心は此れまでに知らなかった大いなる美と
平和に満ちた物事を見るでしょう。


そしてあなたの肉体は完全さの証拠を示すでしょう。


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人が、精神の存在に覚醒する事を
イエスは聖書で”死人が蘇る”と例えたり
”生まれ変わる”と例えたりしていますが


その辺に関してはその時々で判断して
解釈して頂ければ良いかと思います。


大体の場合は、


「今まで心を持って物事を見つめ
神の意識から乖離していた人間が


精神の存在神の意識に気がつき
神の予定通りの人間として生きるようになった」


という意味であると解釈して頂ければと思います。


”死人が死人を葬る”


などと言う表現もありましたが勿論、


「真の生を感じていない死んでいるような人間達が
肉体としての死体を葬っている」


と言うことの例えだと思います。


イエスに見えていたのは
精神を感じることなく死んでいった人間の残した抜け殻を


精神を感じることなく死人の状態で生きている
人間が運んでいる姿だったと言うことです。


アダムスキーが聖書からの引用をしてくれているのは
多くのクリスチャンに興味を持ってもらいたいという意識と
自分がイエスの使徒であると言う意識からだとおもいます。


(私も自称アダムスキーとイエスの使徒です)


聖書でイエスが語った言葉が、そのまま宇宙の法則の教えを
当時の地球の人間に判り易い様に例えた物と捉えれば
それを引用する事は広報にも効果的なのです。


旧約聖書はイエスの暮らしていた環境では
当たり前のように読まれていたものですし
イエスはそれを話の引用に使用していました。


アメリカで暮らしていたアダムスキーの環境では
クリスチャンが大勢いたわけですし
新約聖書のイエスの言葉に触れることが効果的でもありました。


本当であれば日本の中で多くの理解者を得ようとすれば
仏教や神道に触れて説明するのが効果的なのでしょうが、
お寺の生まれなのに私にはその知識はないのです。


それに私達が一番理解しやすい教科書として
ブラザーズ直伝の教えをアダムスキーが残して言ってくれたので


私達はそれを利用して学びながら広報することが
一番だと思います。


それにアダムスキーがイエスの信奉者として
イエスの言葉を使用したと言う側面を考えれば


私達がイエスやアダムスキーを信奉できるのであれば
その言葉を引用するのが一番だと思います。


そして彼らは常に宇宙の法則を意識して
教えを伝えている人間でもありましたし


私達にとってのお手本は
全て彼らの言葉の中に凝縮されていると思います。

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”生まれ変わる”と言うよりも、本当は”目覚める”とか
”真の生を始める”と言った方が”転生”と間違うこともなく
語弊はないかと思いますが


今までと同じ肉体を持ちながら、
その意識が大きく変わる事になるのですから
生まれかわるという表現が適切なのかもしれません。


それに転生が精神の進化をもたらす様に
覚醒も私達に精神の進化をもたらすものです。


両者は精神的には同じような物ともいえます。


放蕩息子は自らの体験の中で
自分の行動の過ちに気がつきました。


苦境に立たされた事が息子を変えたのでしょうが
その息子はプライドを捨てて謙虚さを身に着けた事により
覚醒したのです。


プライドは心の持つ大きな弊害でもあるようです。


私達の心の持つ弊害は例えば恐怖心、不安感、
負の感情、プライドなどがそうなのだと思いますが
これらを取り除くことは容易ではありません。


だから私達は意識的にその努力することで
心の暴走を抑えて精神を感じる練習をしています。


私達はその意識に目覚めたところで
この放蕩息子と同じステージに立ったのだと思います。


自らの生き方を変えようと、心の暴走を抑えることを意識して
一方では神の存在を意識する。


私達にとっての生まれ変わりの時は
私達の生きる真の目的を理解して
それを実践始めた時かもしれません。


心だけではなくて精神を用いる。


そんな目で社会を見つめ、
この社会の実態に気がついて地球の法則から卒業する。


それが私達の最初の覚醒だと思います。


そして次なるステージは
精神を少しづつでも高めることで
神の意識を感じる努力をすること。


そして結果的には宇宙的意識に目覚め
宇宙と一体化する体験をする事になるのでしょうが
それをアダムスキーは”啓示”と読んでいました。


そこまで進めば地球社会の中で私達がやるべき事を
全てこなした事に成るのでしょうが、
そこまでの道は容易ではないと思います。


アダムスキーでもそこまでは数年掛かったといいます。


恐らくは若い人や思考の柔軟な人ほどそこまでの時間は短く、


そうでない人間の中には
宇宙的意識との調和を感じる事のできないまま
この生を終えることになる人間もいるのだと思います。


でも嘆くことはないと思います。


そのときでも、意識は限りなく
神の意識としての精神を感じるようになっているはずです


私達は魂に残した軌跡から、
次世への進化した転生が神の法則で認められる事になるはずです。


ただ、私達が目指すべきは
宇宙的意識の覚醒まで進む事だと思います。


その結果、自らの過去の記憶を取り戻すことで
自分と言う魂の実態の全てを知る事になるからです。


私達の真の生命へのパスポートと言える魂の記憶を
私達は啓示を体験する事で
導き出す事が出来るようになる。。


”宇宙的啓示”は意識していたからと言って
容易に受けとれるものではないでしょうし
恐らくは私達の精神の進化とも無縁ではないはずです。


日々地道に精神を感じる暮らしを積み重ねる中で
それを受け止める機会があれば幸いだと捉える。


宇宙的啓示が受けられないからと言って
悲観的になる必要はないと思いますし


恐らく私などは生きている間にそれを感じる機会は
持てないだろうと思います。


それほど私達の住んでいる環境は
精神にとって過酷なのだと認識しています。


だからこそ極僅かの人間だけが
真の命の道へと進むことになると
イエスも触れていたのだと思います。
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心で生きている事が当たりまえの私達は
片目をつぶって暮らしているような存在なのかも知れません。


片目では視界も狭くなりますし
遠近感も掴めないのはご存知のとおりです。


ただ、その状態を当たり前として暮らしていれば
私達はその状態に適応する事になるのだと思います。


私達の住んでいる社会がまさにその状態であると
今の私達であれば理解できるはずです。


心と精神は私達にとっての両目のような存在かもしれません。


アダムスキーは、人間は二つの魂を持っていると表現し
それらを重ねて使用することの大切さを訴えてもいます。


しかし私達は目に見えている物だけに捉われて生きている。。


全ての価値観や知識は
視覚で確認できる物に拘る事になっている。


極端な事を言えば。
”三次元世界が全て結果としての現象ばかりの世界であり
因となるものを認識できない世界”である事を
私達は気がついては居ないのです。


神の意識は四次元世界に存在するのだと言います。


しかしそれは私達の世界から
遠くかけ離れているものではありません。


以前触れた話ですが、


視覚を持って視界を感じ聴覚をもって音を感じ、
味覚を持って味を感じ、嗅覚を持って匂いを感じるように


私達は触覚の延長である精神をもって
感じる事が出来る世界があるのです。


精神の働きが退化しているからこそ
私達は神の意識の世界である因の世界が理解できない。


そして神の意識が四次元にあるのであれば
現象の因としての原因は四次元で起きていると
言っても過言ではないと思います。


つまり私達は三次元と四次元を同時に認識できるだけの能力を
本当は備え持っている事になります。


私達は精神の使い方が理解できていないだけなのです。


視覚を使用しても匂いを感じる事も出来ませんし
音を聞く事も味わう事も出来ません。


そして視覚を使用しても
精神の受け止めるあらゆる想念や
イメージを感じることも出来ないのです。


しかしその視覚に頼りすぎている私達は
視覚ばかりに囚われ三次元の現象だけに捉われて
現象の大元となる原因を捕らえる事は出来ません。


そして多くの現象が一定の法則に従っていて、
その法則を司るのは神の意識のある四次元なのですから
それを精神で感じてこそ理解できる物事も一気に増えるわけです。


以前に視覚と聴覚と味覚が合わさる事で
同じ料理を堪能する行為であっても


私達はその料理を深く理解する事が
出来るのだという例え話を取り上げたことがあります。


複数の感覚器官を同時に使用することで
私達は現象を深く理解することが出来るのだと思います。


例えば、オレンジジュースの入ったコップが
目の前で砕けて割れたときに、


視覚はその映像を認識し、聴覚はその砕けた音を聞き
嗅覚はその飛び散ったオレンジジュースの匂いを感じる事で
目の前で起きた現象を深く認識する事になります。


ただこれらの感覚器は全てが三次元の目に見える現象を
私達に訴えているに過ぎません。


コップが落ちて割れると言う事であれば、
そこには目に見えない重力が存在している事になりますし


コップの分子間の結合が
そこで分裂させられた事にもなります。


そんな因を司っているのも神の作り上げた諸法則です。


そこでも私達の心では理解できない
神の法則が働いている事になると思います。


私達はこのような時には
重力が存在しているのだから当たり前だと捉えるでしょうし


物に衝撃を与えればそれが壊れる事も当たり前であると
単純に捉えていてそこに疑問も感じません。


更に経験諸法則として重力の存在を既に知っているわけですから
それが当たり前であると認識し
その現象に何の疑問も感じないのです。


私達が当たり前と考えてしまう事柄は
それを日常に繰り返し体験しているからこそ
そう捉えるようになっているだけであり


私達はそれを詳細に説明する事は出来ないのです。


幼い子供に
上述の現象に関して、


「何でコップが割れたの?」
「何でジュースがこぼれたの?」


と聞かれた時にも
それさえ的確に答えることの出来る人は
多くはないと思います。


そしてなぜに物質が接合したり分裂するのか
重力がどのようにして発生しているのかまで
説明できる人間は稀です。


私達は経験則とも言える結果重視の知識を詰め込み
それが全てであると思い込んでいます。


科学者であっても結果としての積み重ねをもって
それを諸法則と置き換えているのですから
元々なる因へと辿り着く事もありません。


私達の価値観と知識は視覚等の感覚をもって確認し
心が作り上げたものばかりなのです。


でも私達は感じてはいるはずなのです。


因の世界としての四次元の存在をです。


精神が感じる事の出来る想念は、
三次元に現実に存在していて
精神によって感知されるものです。


ただそのエネルギーは、
神の意識と同様四次元的な存在なのだと思います。


つまり精神の感じる感覚は四次元的な意識であると言う事です。


私は過去記事で自らの霊体験に触れました。


それは心が停止した睡眠間近な状態で
精神が想念を感じたものだと今では理解しています。


しかしそのような現象は感覚器が混乱を起こすために
私達に正しく認識される事はありません。


現に私もそれを霊体験であると
信じ込んでもいました。


しかし間違いなくそんな現象は現実に説明できる
”現象”として存在しているのです。


アダムスキーは
この世に説明の出来ない現象はないと言っていました。


「怪奇現象も不可解な現象も
全ては科学で説明する事が出来るのだ」とです。


そしてそれを私達がオカルトや怪奇現象と受け取ってしまうのは
精神で理解すべき事を肉体の感覚器で理解して説明しようと
しているからなのです。


心を用いて想念や神の意識を正しく理解することは出来ないのです。


その事に気がつけば、私達の社会には
一切の神秘と言われるものなど存在しない事に
私達は気がつく事になります。


地球社会では精神を使用してそれで物を感じ、
そこに法則の因を感じると言う作業は存在していません。


それ以前に一種の感覚器である
精神の機能を理解していないのです。


精神のつかさどる触覚を
他の四つの感覚と一緒にしては五感と呼び
それで理解できないものを第六感と呼んでいる事が


私達が精神を理解していないことを
如実に語っているのです。


全ては目を持って認識できる”結果”(現象)を集めては
それを説明する事に労力が結集されているからです。


そしてその事で私達は自分達が理解すべき事の
半分の知識も持つ事が出来ないで居ます。


心が原因なる精神の働きを正しく評価することは出来ないからです。


一方ブラザーズの社会では
精神で認識する事は当たり前なのです。


地球社会のように、目に見える実証に拘れば
単に未知の科学力を使用しての現象すら
理解不能となる事を私達は体験で判っていると思います。


そしてその事が私達の心の暴走を加速化し
精神の存在を更に私達の意識から遠ざける事になっているのです。


しかし一方では
神の世界は間違いなく精神の世界であり因の世界です。


それを理解してこそ
私達は多くの事を正しく知ることができる。


そのために必要なのが精神の働きを理解する事であり
神の意識を感じる事であること
私達覚醒者には理解できるはずなのです。


結果ばかりを繋げては、
それが全てでありそれが現象であると捉えている内は
私達はこの社会からの覚醒は望めません。


地球が誕生したのであれば
それを誕生させた諸法則が存在していて


そこにはエネルギーと何かの意思が存在している事を
認めるべきなのです。


神が理解できない人間であっても
精神なる感覚器の発達が未熟である事だけを認めて


それを鍛えていくだけでも
私達は今まで理解不能だった事でさえも
容易に理解できるようになる。。。


その時は宇宙の意識へと私達は参加していく事になりますし
結果嫌でも創造主の存在を感じることにもなります。


その時私達は神の意識の元へと
戻った事になるのだと思います。


そしてここでも放蕩息子が父の元へと帰還する事になる。。


父は心から祝福してくれる事でしょう。


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P.S.


かなり苛々を誘導されていますし
記事の手直しで精一杯です。


コメントはほとんど書けそうにありません。


一つ触れておきたいことがあります。


「目に見えなくても信じるものは幸いである。」


聖書のイエスのこの言葉
覚醒者であれば私が説明するまでもなく
理解できると思います。