生命の科学 VOL36 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


被害は相変わらず受けていますし
再び酷くなる傾向にもありますが今は取り合えず触れません。


我慢できなくなったときに
またコメントを入れることにします。


地道に覚醒者は増えているのか
それとも私達のような意識の人間は
潰されているのか正直想像も付きませんが


ツイッターとかコミュニケーションツールを使用していない
私には工作員だらけの掲示板が一つの情報源となっているのですが
そこからは多くの闇政府有識者の気配が消えましたし


一方私のような覚醒者の意識を感じることも出来ません。


皆が表に出ないで覚醒を心に潜めて
頑張ってくれているのだと信じながら
こうやって記事を書いています。


正しいことを主張すると叩かれるこの社会、
上辺の奇麗事を主張している人間の主張には
惑わされることなく自らの理解と実践で
何が正しいのかを原因と結果の法則を使用して
手探りで探していって欲しいと思います。


本当の事を語っていて
私のような目に遭わない人間は存在しない。。


その事はおそらくは多くの方が気が付いて
くれていると思います。


今日もいつものようにアダムスキーの引用からです。

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【過去を分析して訂正する。】


貴方は、自分が過失をおかしたかどうかについて
確信がもてなければ、結果を注意深く分析して御覧なさい。


誤りをやったと感じるならば訂正する方法が示されるでしょう。


もしその訂正の行為が他人と対立することになるならば
その他人になりなさい。


そうすれば時間の損失なしに何をしたら良いかがわかります。


あらゆる過失は人間を宇宙的印象から切り離し
二点間に真空または空隙のような状態を生じさせます。


これは電話が通話中に切れるのと同じです。


これが電話線の故障によっておこるとし話し手がその故障に
気がつかないとすれば、話し手は送話を続けますが
聞き手は印象をうけません。


修理されるまでは印象を感受しないでしょう。


そこで聞き手にとっては通話は途絶えてしまって
空隙は混乱でみたされることになり
何を話そうとしていたのかといぶかります。


こうして感受されるべきはずの事柄は歪められてしまいます。


訂正されない過失が対立する場合、決して解決されない謎が生じます。


そして一定時間の経過後に謎が生じるならば、本人の”感じ”は
もとのそれと同じではありません。


そこで訂正を無視したことによってロスが生じるわけです。


しかしこうした状態下にあってもなお訂正はきわめて重要です。


なぜならその線に沿ったどこかで失われた言葉または印象が
例え別な理由のためであっても自らを繰り返すであろうからです。


そしてこの知識を持つ人はその失われた言葉を用いて
空隙を埋めることが出来ます。


これは多くの場所に調和する窓ガラスと同じことです。


人は過失を避けようとして過度に用心深くなってはいけません。


過度に用心深くなると何事も出来なくなります。

これは価値がありません。


重要なのはなるべく早く過失に気がついて
それを訂正することです。


なぜなら、人は言葉または交際によって自分に適しているものを
見失うならばそれを発見するのに時として数年、数世紀をも
要するからです。


自分の現世のすべてとも言うべきものを捜し求めていた人々を
私は知っています。


彼らは自分が何を求めているかを知っているときもありますし
知らないときもあります。


しかし彼らはそれを見い出す時期を知っています。


なぜなら不安定な神経感覚は消えて、
彼らは暖かく楽しい感じを持ち、行っている
あらゆる物事を楽しんでいるように思えるからです。


彼らは未来に関心は無く、日々満足して楽しく生きているように見えます。


しかし彼らは成し得るすべてを学び取ろうと言う意欲を持っていて
自分の望むものを持っていると思われる人々との交際を求めます。


これは空隙、すなわち人生のどこかで
失ったものを満たしている良い傾向です。


しかしこれを見い出した後にも迷う人がいます。


こんな人は無数にいるのです。


しかしこれが起きると一つ以上の裂け目が生じ、
時としてこれらの裂け目を埋めることが不可能になります。


人間の心は多くの場合に怠惰であり、もっとも抵抗の少ない
楽な道を求めようとするからです。


こうして心は生涯に多くの裂け目を作り出します。


そうしてこうした心をもつ大衆は真の幸福、平和、満足を
決して知りません。


その証拠は彼らが宇宙的性質を帯びた生活から
外れていることに現れています。


すぐに苛々したり、不平を起こしたり、絶えず文句ばかりを言い
きわめて貧弱なスポーツマンシップを示したりします。


そしていつも自分と同じように浮ついた新しい友人を求めます。


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今回の話は、私達の覚醒が進み
精神の使用が出来ていることが前提の話だと思います。


私達が精神を感じているつもりで
それに従って行動しているつもりでいても


勿論、時にはそれが精神の意志ではなくて
心の意志による行動であって、結果的には正しくない行動を
とったような場合にどんな事が生じるのか?


そしてそれに対して私達は
どのように対処すべきなのかという内容です。


ここではアダムスキーは私達が一旦精神と繋がった状態を、
電話の通話に例えていますが、


私たちはそれを、神の意識である精神から
メッセージを受け続けている状態と考えれば良いのだと思います。。


私達は自分では延々と電話を話し続けている状態、
つまり精神に繋がっているつもりでいても
過ちを犯す事でそれは途切れる事になると言う例えです。


その途切れた時には精神という話し手のメッセージは
こちらには届きませんし


その結果、その時に受け止めるべきメッセージは
私達の意識には反映されない事になります。


それが訂正されなければその後の私達の生活において
私達は延々とその同じ過ちを繰り返す事になる。。。。。


更に自分がそれが正しいと思って行動して
それを知識として持っていたとしても
実はそれが誤りであった場合、


後日、他のメッセージを精神から受け止めたときに
時には自分の行動とその意識の間に矛盾を生じる事になる。。。


わかり易い例えが出てこないのですが
例えば、ジグゾーパズルでピースを嵌めて行く作業を
想像してみてください。


似てはいますが実は誤っっている破片を
ある場所に置いてしまった状態を考えて頂ければと思います。


そこでは誤った破片を置いてしまったために
そのすぐ傍に入るはずの破片がそこには入れられない事になり、
結果としてそこに謎が生じるわけです。


もしも早々とその誤ったピースを正しいものと置き換えてしまえば
その後の作業には支障をきたしません。


でもそれを訂正をしないままで放置すると
その周辺のピースをはめ込もうとするたびに
そこに謎としての”不調和”が生じることになります。


勿論、この時にジグゾーパズルの全体は
宇宙の法則、普遍的真理その物だと考えてください。


ピースは無限に存在するとてつもなく大きなパズルです。


私達人間の生きる真の目的の主たるものが
このパズルの完成にあるのですから、


そこで生じた不調和は、必ずいつか私達の人生の中で
他の断片と誤ってはめた断片との不整合と言う
謎をもたらす事になります。


時間が経てば経つほど、その不調和を生み出した場所を
見つける事さえ困難になりますし
その修正にも時間をとられる事になります。


そんな状態をアダムスキーはここで例えてくれているのだと思います。


私達人間は、このジグゾーパズルのピースを埋める作業を
経験という名の元、延々と行っている存在であると
捉えれば良いのだと思います。


その作業は、あまりにも慎重になりすぎて進まないのであれば、
間違いが少なくても作業自体は全くはかどらない事になります。


結果、私達の精神の進化は進まない事になりますし
それでは意味が無いのだとアダムスキーは触れているのだと思います。


更に「間違ったと感じた時にそれを訂正する」と言うのは
単に行動だけに関して言っている訳でない事は明らかです。


私達はその時々に正しいと信じて実行した内容を
自らの”知識”として蓄えているからです。


そしてその知識に誤りが生じれば
それも訂正しなければならない。


誤った知識は更なる誤った知識や行動をも生む事になるからです。


そうならないためにも私たちは行動も知識も
それが誤りだと気が付いて訂正する作業が必要となる。。


その事からも誤りを訂正する大切さを
理解する事が出来ると思います。


そして誤ったかどうかを判断するにも
精神を感じる事で自覚する事が可能である。


アダムスキーはそう触れています。
(私達には未だ難しいと思いますが。)
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私には耳がいたい話ですが、
アダムスキーは宇宙的意識で生きていない人間は
幾つもの空隙を作っては生きていると話しています。


アダムスキーの指摘では
それは私達の心が楽な方に楽な方へと
その意識を向ける事がその原因であるという事です。


精神を感じるにも心の暴走を止めなければいけないのですが
その心は心地好い事を望むと言う事を私達は学んできました。


その心の身勝手な判断ゆえに
私達は精神の存在を無視して勝手な判断をし
勝手な行動をしては宇宙意識から分離している。。


精神を感じて作り上げるべきジグゾーパスルに
あちこちに誤った断片をはめ込んでしまっては


その周辺は不調和のために開いたままの状態、
もしくは更に誤った断片を並べている状態が
無数に存在しているようなものだと思います。


もっと言えば、私達はそのジグゾーパズルを
再現できる能力を殆ど持ってはいないのです。


勿論、それは私達が心を意識して生きているからですし
宇宙の法則からかけ離れた存在だからです。


そして心で動いてばかりでいて
精神を感じる事の出来ない私達は平和とはかけ離れた存在ですし
幸福感・満足感からかけ離れた存在なのだと思います。


私達の心は欲で満ちているからです。


私達が持っている欲は際限を知らないものだと思います。


満たされても更にそれ以上の心地良さを求める。


それが続く限り私達は物事に対していつまでたっても
幸福感を持つことも満足感を持つことも出来ないのだと思います。


この事は誰もが自分を振り返ってみれば
理解できるのではないでしょうか。


私達が低い水準でも、それを達成することで
そこに喜びや満足を感じる事が出来る存在であれば


小さな心地良さを幸福と感じる事が出来る存在になれれば
他人と比較して自分の生活に
不満を感じる事もなくなるのでしょうし


10000円のディナーコースを食べなくても
1200円の定食で満足できる事にもなる。


3000万円のフェラーリに乗れなくても
100万の国産車でも満足できる。。


五万円の御節セットが買えなくても
家庭で廉価に作り上げた御節でもそれに満足することも出来る。


そして仕事の後のグラス一杯のビールで
幸せを感じることが出来れば、


家族との団欒での会話の中に
楽しみを見い出すことが出来る存在であれば、


ディズニーランドに行けなくても
居酒屋で飲み捲くれなくても、


私達は上を見て羨ましがる事も無くなれば
お金のためだけに生きる事も無くなるのかも知れません。


上を見ればきりがなく、そして上にいる人間は
更なる上をめざしている地球の経済競争。


その中で物欲、金欲ばかりを
膨らまして来ている私達人間と言う存在。


そして物や金の存在を重視し、
私達に更なる心地良さを提供する環境が
更にその傾向を強めてもいます。


私質は環境に適応する傾向があります。


だからこそ心の心地良さに従う私達は
その深みにどんどんと嵌っていくのかもしれません。


社会環境が心の心地良さを追求する社会へと変貌しているので
私たちも無自覚のうちにそれに染まっているのです。


そして気がつくと私達は長い歴史の中で
その人生の目的を、精神を感じ精神を進化させる事ではなくて
心の心地良さを追求し続ける事に変えてしまったのです。。


その状態を続けているからこそ私達は
宇宙の法則とかけ離れることにもなっていますし


空隙は無数に作り上げられ
作り上げるべきジグゾーパズルの絵柄の全体の状態など
まるで理解できないままに放置する事になっているのだと思います。


アダムスキーがここで私達に理想的生き方の
ヒントをくれています。


「日々満足して暮らすこと。」


おそらくはこの事が私達にとって
一番大切なのだと思います。


「真理は現在にある。」


「明日のことを思い悩むな。」


これはイエスや釈迦と言ったマスター達の話にも
通じるものがあると思います。


向上心なるものは大切だと思います。


でもその向上心の目的が
単にエゴを満たすためや心の心地良さを追求するためでは
おそらくは精神的・宇宙的には何の価値も無いはずです。。


小さな満足を精神の進歩と共に。。


私達はそんな日々を送るよう心がけたいです。


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P.S.

本題とは関係ない話ですが。。。


現実社会を引き合いに出して
その中で小さな幸せを追求することが
人にとって正しいことであると誘導しているサイトもあります。


小さな幸せを作れる人間、身近な人間を
幸せに出来る人間でなければ他人を幸せにすることは出来ない。。


そんな主張です。


確かに生活の中で身近な人間を幸せに出来ない人間が
他人に幸せを与えることは出来ません。


しかし私たちが求めるべきはこの現世の幸せではないのです。


大体が人間にとっての幸せとは一体何なのでしょうか。


立派な家に暮らして美味しい物を食べて
旅行したり買い物をしたり
心が心地良い行動を繰り返す事でしょうか。


お金を一杯持ってそれで物欲三昧する事でしょうか。


社会的権力や地位を得て他人に命令する立場になったり
人から賛美される事でしょうか。


それを理解できない人間は、容易に既存の価値観を
美しく語る人間に惑わされる事になると思います。


これら全ては、この地球の私達が暮らしている社会の中の
価値観にそった心の心地良いと感じる事に他なりません。


家族をそんな状態に誘導してあげることが
人間にとって素晴らしい行為だと思いますか?
(私達の本来あるべき姿に誘導してあげることが
本当は一番のはずです)


イエスは自分の事をこの社会での平和の使者ではないと
自らを語っていました。


私は子を親に、そして兄弟を兄弟に
立ち向かわせると。。


勿論これは敵対心を煽るとか
争いを仕向けると言う意味ではありません。


イエスの教えが既存の社会概念の中での価値観と異なる以上
同じ家族であっても違う意識で生きる事もありえると言う
例えだと思います。


イエスの教えでもある宇宙の法則を私達が理解できても
家族がそれを理解してくれるかどうかは別の話です。


そして宇宙の法則に従って生きることは
この社会の中では多分に苦しみを生じる事になると思います。


この社会は神の意識からかけ離れた社会だからです。


誰もが苦しい思いをしたくはありません。


本当であれば他の太陽系の惑星のように
心も精神も心地良く暮らせるのであれば
それが一番だと思います。


しかし現実問題、この地球社会は異質なのです。


私達の持っている既存の価値観の中に幸せを求める人間は
イエスの語ってくれた天の国に入ることは出来ないのです。


家族を守るために
例えそれが真理とはかけ離れていると知っても
その誤った価値観に倣う事。。


それはこの社会の価値観では美徳に見えますが
現実はそうではないと思います。


イエスは十字架を背負って自分に付いてこいと言っていました。


そしてイエスの伝導のために命を落とす人間は
真の生を得るのだとも触れていました。


正しいことを主張し
それを理解して貰うのが容易ではないこの地球社会では


ほんの些細な事が私達にとっては、
神の法則からの乖離となりかねない事を
イエスキリストは理解していて


真理を実践するのは家族や自分の命を捨てるぐらいの
覚悟が必要だと語っていたのだと思います。


と言っても勿論、家族を捨てろとか
家族を省みるなとは言いません。


でも通常の一般市民は既存の価値観にとらわれていますし
私たちはその人間たちの価値観に合わせることで
軋轢なくすごす事も出来ますが


それではミイラ取りがミイラになってしまいます。


時にはそれを振り払う強い意志と勇気が必要なのだと
イエスは教えてくれたのではないでしょうか。


私のような立場に置かれれば
イエスキリストの話は痛いほど理解できるものがあります。


私の主張に興味を持ってくれるような人間が
身近には殆ど存在していないのです。


ただ、私はまだ諦めてはいません。


出来るものなら洗脳やマインドコントロールと言う
私たちを誘導している地球への呪縛から家族を皆解放し、
私と同じ意識を持って貰いたい。


そして自分でも、表面上は一般人同様の暮らしをする努力をする一方で
強い信念と勇気と意志を持って生きて行きたい。


そう考えています。


愛する人間のために
自分が良い意味で変わるのは当然の事としても


せっかく覚醒した意識をも愛する人間のために
封じるような行為は愚かである。


私はそう思います。
(そしてそれを私は誘導されていると思います)


アダムスキーはこう触れていました。


「自分の講演で一人でも覚醒してくれた人がいれば
自分のしてきた行為は決して無駄ではないのだと」です。


私も自分の記事を読んでくれて
それがきっかけとなり覚醒した人間が
一人でもいればこの行為は決して無駄ではない。。


そう信じています。


そして少なからず一般市民の末端にいる私が
未だにマークされていることからも
私の主張は地道ながらも広がっている事を感じてもいます。


今この社会で幸せを感じること
幸せになるために努力する事は神の本意ではあり得ない。


私はそれだけは自分の中でも確信しています。


日々精一杯生きることは大切です。


でもその目的は自分の精神を進化させるためのものであり
そのための行為は現世では評価を受けることはない。。


そして現世での幸せを求めるべきものであってもいけない。。


時にはそんな意識が結果として
この社会でも自分を幸福にすることもあるのかも知れませんが


少なくとも当初の目的が現世での幸せであれば
それは神の報酬を得られるものではないことを
私達は理解すべきだと思います。


地球社会では神の意志を実践することは
周辺との多くの軋轢を生じる事になる。。


だからこそ、その行為は尊いものであり
私達に真の生をもたらすと
イエスキリストは触れていたのではないでしょうか。