イエスキリストは宗教嫌い?! | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。

今日一つ目の記事です。



下の部屋と隣の部屋から
科学力の関与が続いています。


朝鮮工作員の今度の関与は
再び妻の鈍感さを利用しての私への精神的な苛々の増幅。


後頭部に電磁波食らっているだけでも苛付く事知っていて
それを色々増幅して来るから性質が悪い。


私は心底朝鮮人が大嫌いになりつつあります。


"ニュースの裏側を読む"の記事を書いていて
朝鮮関係に否定的なコメントを書いていたら途端に

朝鮮人のマイクロ波攻撃が強まっています。


要するに朝鮮を批判すると
こういう目に遭うんだとでも言いたいのでしょうが


私はそういう根性が一番嫌いです。


悪口も批判も彼らには全て一緒。


プライドばかり高くて手に負えない朝鮮工作員です。

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寝ているときは頭への関与が激しいらしく
朝から目にはクマが出来ますし
朝から脳の回転も悪いです。


おまけに苛々を誘導されても居ます。


薄ければ、匂いがしなければ判らないとでも思っているのか
一日中薬品の関与を受け続けています。


科学力の関与もその時々ではありますが
酷くなる事も在りますし、止む事はありません。


頭髪への嫌がらせと言える関与も続いています。


ただ、判っている事はこいつらは関与をやめる気はなさそうだと言う事。


判らないように、痛みが出ないように、
只管実験を繰り返されているのが今の私の置かれている実態です。


勿論妻も私の巻き添えです。
今日は胃腸への関与は最近にしては弱いです。と思ったら


もう一つの記事で朝鮮批判に触れると途端に背中に激しいマイクロ波


暴力や圧力で屈しようと言う

その根性が気に入らないと言っている事が理解できないようで


私は意図的にでも朝鮮を批判してやりたくなります。


気に入らない事を力ずくで押さえつける.........
私が人間として一番嫌いな行為なのです。


自分達の批判をする人間が居なくなれば
日本を我が物にするのも容易でしょうね。



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私が宗教に触れると
記事を書いている最中に頭の回転を悪くされる事が頻繁です。


普段部屋の中で工作員相手に”あらゆる罵声”を浴びさせている私に
偉そうな事を言われたくないとでも思っているのだと思います。


確かに私はめちゃくちゃ口が悪くて野蛮な男ですが、
少なくとも彼らみたいに
他人に危害を加えているわけではありません。


人の部屋を勝手に盗聴しては
腹を立てている人間のほうが悪いと思います。


そして記事で批判されるような事を
現実にやってきた、そしてやっている人間こそが
責め立てられるべきだと思っています。


批判されて怒るなら初めから批判されるような事を
しなければ良い。私はそう考えます。


それに私は宗教に関しては正論を言っているつもりです。
しかし宗教にどっぷりと浸かっている人間には
その事が理解できないのでしょうね。


しかしながら私に見えている今の日本の宗教は危険なもの。
だから言わずに居られません。


何で私がイエスキリストの話を引き合いに出しては宗教を批判するのか?


正直言えば創価学会・統一教会やエホバ信者へのあてつけでも在ります。
全ての宗教の在り方を批判するものでもありません。


創価学会は総体革命と言っては日本支配を企てましたし、
統一教会は偽メシアをメシアと信じていますし
その上に日本を悪の国にするなどと言うとんでもない目的を持って
イエスを慕う人間とは思えない行動を繰り返しているからです。


そしてそれだけでなく、
宗教を実践しているとか信仰していると言う人間の中には
心無い人間が山ほど存在していると言う現実を見ているからでも在ります。


誤った信仰を持っていたとしてもその事すら気が付くことなく
それを批判する人間を悪だと信じて疑わない。


そんな人間達の中には、信仰を盾に悪を実践している事に
気が付いて居ない人間が大勢居るのです。


そんな人間が沢山作り上げられてしまう宗教など信頼するに値しない。


冷静な意識で見つめれば
誰もがそういう結論に達するかと思います。


私もイエスの教えは好きです。


ですがイエスを神の子とは思っていませんし
キリスト教を信仰しているわけでも在りません。


無宗教の人間だからこそ見えることがあるので
其れを主張したいわけです。


と言う事で宗教関係者は読まない方が良いと思います。

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なぜイエス・キリストは宗教を嫌うのか


2010年10月06日


 カリフォルニア州南部の都市アーバインの教会で先月から行われている
礼拝メッセージがクリスチャンの注目を集めている。米紙クリスチャンポストが4日報じた。


 マリナーズ教会牧師、ケントン・ビショア氏はこの1カ月の期間、
礼拝に出席する信徒ら1万人に対し、見せかけだけの無意味な形式的信仰生活を脱して
キリストとの真の関係作りへと前進するよう礼拝説教の中で語り続けてきた。


 「これが宗教です。全てにおいて表面的なのです」
とビショア氏は3日に行われた礼拝で語った。


「宗教は儀式と規則と信条を集めて、神にこう叫ぶのです、
わたしはあなたに言われたことをやっているではありませんか
、こうすればわたしは義とされ、あなたはわたしの行いを喜んでくださいます、と。」


 ビショア氏は宗教を「神と人間との間にある隔たりを解消しようと努力する人々」と定義して、
宗教には数多くの良い面があると述べた。
その上で、宗教は最終的に人を神へと導くことはできないと強調した。


 「だからイエス・キリストが来てくださったのです。宗教では不可能なことをなさるために。
すなわち、人を内側から新しくするためです。」


 キリストは宗教が人の人生を変える力のない偽りの契約であり、
価値の無いものとみていた、とビショア氏は説明した。
また、「偽善という罪で全てを台無しにする」と批判した。


 イエス・キリストは聖書の中で、パリサイ派の集団に対し、
信仰者を演じているだけの偽善者であると批判した。

パリサイ派は十分の一献金、祈祷、断食を公の場で行い、
自分たちが義人であることを周囲に証明することに熱心だった。


 ビショア氏は「全ての俳優は台本と観客を求める」と指摘する。
クリスチャンは敬けんな字句を並べることを好むが、
多くの場合、内心は邪悪と欲、自己中心で満ちている。


 ビショア氏は集まった聴衆に対し、
「芝居はもう止めて、観客を変えるべきだ。演じることを止める秘訣は、
神をあなたの観客にすることだ」と説いた。


 この説教シリーズ「なぜイエスは宗教を嫌うのか」は9月19日から始まった。
マリナーズ教会は教団、教派に属さない単立教会で、
毎週の礼拝に1万人以上が出席する「メガ・チャーチ」のひとつ。
ビショア氏は、イエス・キリストとの深い関係を阻害するとして、
偽善と表面的な行いを批判するメガ・チャーチの牧師のひとりとして著名。


 マリナーズ教会はメッセージを公式サイトに公開していて、下記のリンクから視聴できる。


外部リンク:Mariners Churh Messages+Media


(出典元:クリスチャンポスト)

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この記事を読んでとても嬉しく思いました。


クリスチャンの中にも聖書に捕らわれる事無く
何が大切かを判っている人が居るのだと言うこと、


そして恐らくはこのような意識が
今後少しづつでも広がっていく可能性があると言う事に対してです。


クリスチャンの中で
今後変貌していく人間が大勢現れる前兆かも知れません。


イエスが宗教を批判していた?


イエスはキリスト教の創始者ではないのか?


恐らくはそう考える人が多いかと思います。


しかしながら例えばイエスはユダヤ教を批判していましたし
偶像崇拝を批判していました。更には偽善を批判していました。


この事を具体的に示せば、ユダヤ教がそうであるように
先ずは特定の宗教を信仰している人間だけが救われると言う
選民思想や特別待遇意識をイエスは批判していた事になります。


そして次に豪華な建物や彫像や
装飾等を崇拝するような行為を批判していました。


更に自分は宗教をしているから、心を磨く実践をしているのだと示す行為や
自分を他人に美化して見せる行為をも批判していた。


そういうことに成ると思います。


はっきり言ってしまえば今現在の既存の宗教の多くは
これらの資質をそっくりそのまま実践していると思います。


自分の宗教は正しい。だから自分の宗教を信じなさい。


殆どの宗教の原点はまさに其処です。
宗教同士の争いだって多くは其処に集約されます。


更に偶像崇拝


十字架や仏像やその他尊ぶべき象徴を作り上げ其れを只管崇拝する。


豪華な建物を建築しては其処に宗教的な構造物を作り上げては
表立って壮大なイメージや神秘的なイメージを醸し出し信仰の場とする。


これも宗教が金になる今の世界では多くの宗教団体が実践しています。


更に偽善。


要するに自分は教会に通っている
自分は題目を唱えている。自分は宗教をやっている。


だから心が清らかで将来幸せになれる
将来救われるのだと言う意識を持つ。


そして人の目に付くボランティア行為をして見せて
以下に自分達の組織が善人の集団であるかを知らしめ其れを宣伝する。


人前では良い人の振りをして見せる


(人と良好な関係を心から築きたいと考え好意的に接する、
と言う意味ではなく、心にある意識と逆の行為をしてみせる。)


こんな態度に関しても、多くの新興宗教の信者は
まさに其のとおりの言動を繰り返していると思います。

それは勧誘のためであり、営業の手段のようなものでもあります。


しかしこのような行為もイエスは批判していました。


其れは自己満足であり、人の視線を意識した偽善であると。


自分達を善人で在るように見せ付けるために
たとえ人前では善人を装って見たところで
その人間の本質が其れと異なればその態度は偽善と言われる事になります。


とりわけ今の日本は実際そんな人間が多く
一見善人を装ってもその心の中が汚ければ


その意識は必ず言動のどこかに表れる事に成りますし
そのギャップこそが醜い物であります。


そしてイエスに言わせれば
悪意を持つような貧しい心をしている事こそが問題であり、
他人への親切心や穏やかな対応も心から自然とにじみ出てくる物だと言う事に成ります。


無理して他人の前では良い人間を演じて、腹黒さとのギャップを持っている人間は
自分の欠点含めて他人と接して居る人間より更に悪い事にもなります。


自分を良く見せようと振舞う行為は
時には他人を騙す事に繋がる意識だからです。


そしてそんな主張を総合すると、
今の日本で言えば既存の宗教の殆どは
イエス”キリスト”によって批判される立場だと思います。


つまりイエスは宗教を批判しているのです。


キリスト教の創始者が宗教を批判すると言うのは
矛盾ではないのか?


そう言われそうですが決して矛盾ではないと思います。


イエスキリストは自分の教えをキリスト教という
宗教になどしていないからです。


自分の事をキリスト(救世主)とか
神の子などと言ったと言うのは後世がイエスを神聖化するための
装飾であり、


本当はイエスの精神は弟子に伝えられ
イエスの関わった人々に伝えられただけだと思います。


しかしながらイエスの死後、
其れを美化して宗教に作り上げた人間達が居るのです。


イエスの語った言葉はそのまま宗教とされてしまったのだと思います。


イエスの教えは本当は宗教では無くて、
心の在り方と真実の道を唱えそれに近づくための手段を追求した物だと思います。


しかしながらその教えが曲解された事と
宗教を持って国家を管理する立場の人間が
イエスの教えを利用するためにそれを美化し、ねじ曲げた。


全ては其処から始まっているのだと思います。


(そして当時は国家管理に色んな国で使用されたキリスト教ですが
今では其れが国家ではなくて、組織力を利用するため、金を設けるために
宗教法人という名の組織によって利用される事が多いわけです。)


つまりはイエスは神の子でもなければ救世主でもない。


普通の人間であり、心の在り方の大切さを唱えた聖人だと思います。


今日本に常時数人存在している、生き神様や生き仏様のように
自ら其の教えを記述して配ったと言うのであれば
イエスの教えも単なる宗教になるかと思います。


しかしながらイエスの教えを編纂したのは
弟子達であり後のキリスト教関係者達であり
それで出来上がったのが聖書です。(新約聖書)


しかしながら、其れはその時点で改竄され
その後もそれを利用していた管理者の手によって
都合よく改竄されながら後世に伝わったと思います。


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ビショア氏は宗教を「神と人間との間にある隔たりを解消しようと努力する人々」と定義して、
宗教には数多くの良い面があると述べた。
その上で、宗教は最終的に人を神へと導くことはできないと強調した。


これが一番うれしく感じた一節です。


私も宗教と言う物は、神に近づくための手段でも
自分の心を磨くための直接の道具でも無いと主張しています。


勿論ビシュア氏の言うように
宗教には多くの良い面が在ります。


其れはその宗教を心から信じて救いを求める事によって得られるものではなくて
自分の心を考える大きな機会と尺度を与えてくれると言う事です。


そして宗教に頼っている分には人は決して
自分の魂を成長させる事が出来ないと思います。


宗教組織に所属すると言う事は、云わばバリケードの中、
現実世界から遮断された状態に置かれる様なもので
其の状態は悪く言えば大きな権力に依存している状態なのです。


そしてこれは他人に無理強いされる物では無いと思いますし、
絶対的な正解が存在するものではないと思います。


勿論、宗教の教えはどんな宗教であっても
魂について考えるためのツールやきっかけに成ると思います。


しかしながらその教えについて100%理解してそれを実践したとしても


自分がその行動の意味を理解しての行動ではありませんし
所詮は他所から借りてきた知恵であり価値観です。。


その知恵を大学入試の勉強の如く必死で覚えたところで
人の持つ精神は何も変わりはしませんし
知識を実践するには心の成長も同時に必要だと思います。


残念ながら多くの宗教はその心が伴っては居ない。


多くの方が無意識の内に知識や知恵や価値観として宗教を利用しているだけで


それが本当の意味で心の肥やしに出来るかどうかは
個人の意識に掛かっているのではないでしょうか。


そして困った事に宗教は現実逃避の手段ともなっています。


自分は信仰をしている。。。だから救われる。


何かある度に神頼みをする。
強く祈れば願いはかなう。。。


そんな意識は自分の器を大きくする物では在りえません。。


自分の心が大きくなるかどうかは自分の精神や意識に関わっていて
知識や知恵では人は大きくはなれません。
心は豊かにはならないのです。


そしてイエスの教えの本質は,神を信じろと言うのではなくて


"全ての人間の心の中に宿っている
神の分身としての自分の意識をしっかりと持ち続け
其れを常に維持して生きろと"
いう事だと思います。


つまりは人間はより良く生きなければならないと言う事を
イエスはあらゆる面において実践して見せた存在であると言うことです。


更にこの場合の神というのは人格を持つ神様ではなくて、
恐らくは宇宙の法則とか人間の真理の様なものを指し示していると思います。


日常生活の中、忙しさや辛い事が多い現実の世界では
人は自分の心を考えると言う行為をおろそかにしがちです。


いつしか心について考える事をも放棄してしまいがちです。
そして心が貧しくなる事もあります。


しかしながら人間が人間であるために大切な物は
心の中に元々備わっているはずです。


そして其れは誰にでも平等に存在していて
後は其れとどう向かい合っていくのかを
各自が理解し実践しなければならない。


そのための基本的な姿勢をイエスは説いてくれたのだと思います。


宗教は私達が忘れがちな、心を考えるための機会を
与えてくれるきっかけにはなりますが


それ自体をいくら追求しても
所詮は人間の作り上げた物ですから決して神の真理に近づく事は出来ず


ある特定の場所までたどり着いた人間は
心を考えるための借り物であり地図である宗教を捨てさり


自分の心を自ら探求していく事になるのだと思います。


その意味では私の様な無宗教の人間であっても
其れは可能であると言う事。


現に宗教をやっているような人間の多くが
大暴走を繰り返しているようなこの世の中においては


宗教に縁の無い人間の方が
かえって神の法則に近づく事が容易かもしれません。
(一旦カルト組織に嵌ると抜け出るのは容易ではないからです)


そして心の成長を齎すための原点は
夢を見たり現実を逃避することではなくて
現実をしっかりと見つめる事。


奇麗事を並べ立てて心が伴わない精神ではなくて
泥を被ってもそこから這い上がる意識だと思いませんか?


更に、宗教組織に所属する事は
権力にもたれ掛かり安心感という安らぎを得る事であり、


其の余裕のある状態で心を学んだという錯覚をさせられながら
管理される事に他ならず、


人間が本当に意識を高めるには組織は必要ないと思います。


組織は時には弊害なのです。


心の中の神と向かい合うのは自分ひとりだけ。


組織の他人の言動に意識や行動が左右されるのは
自分の価値観を持てていない証拠に他ならないと思います。

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P.S.


つまり宗教は役に立つが宗教組織は不要と言う事。


宗教組織が有害にならないのは
個々の人間が独自の信仰を持った集団として

存在している場合だけだと思います。


オカルトな事を言えば

私は太田龍さんがイエスの生まれ変わりだったのではないかと
考えることがあります。


色々な事に広く目を向けて中でもユダヤの策略には敏感に反応し
其の危険性を訴え続けてきた。


まるでパリサイ派ユダヤ教徒とイエスとの2000年前の戦いを、
この時代に再び再現したのが太田さん。


勿論宗教に対しての見解も素晴らしい物があります。


厳しいながらも多くの人を弾きつけましたし、
何よりも最後まで戦い続けました。


私は心のどこかでそんな太田さんをイエスに
重ねているのだと思います。