~北へ~(94)11日目① 笠石神社(国宝 那須国造碑) | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。


             北関東・東北・北海道・上信越 編 ~北へ~(1)1日目①は、→こちら





11日目、最初に訪れたのは下野國(那須國)に鎮座します、「笠石神社」です。



   

神明造の石鳥居をくぐり、境内に入ると正面に垣に囲まれた
本殿(宝形造)が鎮座しており、手前右手にずれて社殿があります。
(「ズレている意味」を神職にお伺いしましたが正確な事は不明だそうです)

               
 ご祭神は、
那須國造直韋提命      で、あります。

そして、御神体は、
日本最古の碑・那須国造碑   で、ございます。

那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)は、笠石神社に祀られている石碑で、碑文を刻まれた石碑のうえに笠状の石が載せられていることから「笠石(かさいし)」とも呼ばれています。西暦700年、当時の那須国(郡)を治めていた那須直韋提(なすのあたいいで)の没後、その子、意斯麻呂(おしまろ)等が韋提の遺徳を偲んで建碑したものです。それから約1000年後、水戸黄門の名で知られる水戸藩主徳川光圀が、倒れて草に埋れているこの石碑に堂をつくり安置しました。
碑文は、全文8行、19字詰め、152字で六朝風の書体で書かれており、宮城県の多賀城碑や群馬県の多胡碑と並び、日本三古碑の一つに数えられています。昭和27年には国宝に指定されました。-大田原市観光協会Webより




この碑は、今から約1200年前(西暦700年)那須国造(なすのくにのみやつこ)であった那須直韋提(なすのあたいいで)の遺徳をたたえるため、その息子意斯麻呂(おしまろ)らによって建立された牌です。文字の刻まれた碑の上に笠状の石を載せた特異な形をしていることから「笠石さま」とも呼ぱれています。碑には、八行に各19文字ずつの計百五十二字が刻まれており、その書体は中国の六朝時代の書風が感じられます。また、碑文冒頭には「永昌」といい唐の則天武后(そくてんぶこう)の時代に使用された年号が用いられているなど、その当時に朝鮮半島の新羅(しらぎ)から渡来してきた人々の影響が色濃く残されています。この碑の保存には、江戸時代の水戸藩主、徳川光圀も関わっています。長い間倒れ埋もれていたこの碑を、旅の僧が発見し馬頭村小口郷(現馬頭町)の里正、大金重貞に話したところ、やがてその地域を領地としてい徳川光圀のもとへこの碑の話が伝えられました。そして、この碑が貴重なものであることがわかったことから元禄四年(1691)碑堂を建立して、碑を安置しました。これが、現在の笠石神社になっています。多賀城碑(宮城県)多胡碑(群馬県)とともに日本三古碑として知られています。-説明板より

   

思いもよらず、ご神体(那須国造碑)を直接拝する事が出来るとは。

          

祭神の略歴  国造(後の郡長に当る)の官職にあって、名を韋提と云った。位階は追大壱(天武天皇の朝に定められた四十八階の中で、此の位は今日の正六位に当る)で姓(かばね)(家柄の尊卑をあらわすもので、直の姓は多く国造に賜った)は直(あたえ)であった、大化の改新により、那須国が郡に改められたので、永昌元年(唐の則天武后の時の年号で、我が朝持統天皇の三年に当る)四月、飛鳥浄御原火官則ち持統天皇より那須郡長に任命された。そうして葦提は文武天皇の四年(約一千三百年前)正月二日に死去された。依って子息の意斯麻呂が新羅の帰化人(此の碑文の作者)と協力して、此の墓碑を建てた。韋提は豊城入彦尊の子孫で、博愛の心が深く、新羅の渡末人をいたわって芦野町唐木田村に土着させて、一生安楽に世を送らせた。それで韋提の歿後、其の恩顧を受けた渡末人等が、此の頌徳碑を立てた。碑文の中には、大学者が研究しても解しかねる隠語の文句(銘夏より助坤まで)があり、又碑文の書体は専門家が見て中国の六朝、主として北魏時代の書風で非常に勝れたものだというから、学者で、かつ、能筆の人が文を書いたのである。-説明書より

            

社務所にお伺いすると快諾頂き、まずは神職より、国宝「那須国造碑」に
ついて30分ほど説明をして頂きました。

「碑の発見」日本三古碑中(本碑と、上野国多胡碑、陸前国多賀城碑)一番古く、一番由緒の深い此の碑が、何時の頃よりか草むらの中に埋れて、世に知る人もなかった。唯、里民は、碑の頭上に笠石があるので、此の石を降したり冠せたりして、雨乞をしたのに効験があったと云う。然るに貞享四年、水戸黄門光圀が馬頭町梅が平の大金重貞から、該碑の話を聞かれ、保全の恩召を以て、元禄四年に御堂を建立し、現在の如く安置し奉ったものである。明治四十四年早く国宝に指定され、昭和二十七年新国宝となった。「神徳」古くから子供の虫切には神徳甚だあらたかなので、遠方から参詣祈願するものが多い。これには其の子供の肌身につける衣類を持参(郵送してもよい)して神前にささげ 祈祷して貰って持ち帰り、其の子の肌につければ、如何なる強い虫でも、立ち所に全治するという不思議な神徳があるので、毎日、参拝者がある。-説明書より


垣の中へ
 
 本殿 石垣も見事です。



神職が拝礼し、扉を開けてくれます。

碑の撮影は禁止。


社務所にて写真が売っており分けて頂きました。
(掲載の許可も頂きました)

那須国造碑文(仮名交文) 永昌元年巳丑四月、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)の大宮那須国造、追大壱(ついだいいち)那須直韋提(あたいいで)に、評(こおり)の督(かみ)を賜わる、歳庚子(としかのえねやど)に次る、年の正月二壬子(みづのえね)の日、辰節(たつのとき)に弥故(もつこ)す。意斯麻呂等(いしまろら)碑を立て徳(とく)を銘すと称云(しかいう)。仰ぎ惟(おもんみ)れば殞公(えんこう)は広氏の尊胤(そんえん)にして、国家の棟梁(とうりょう)たり、一世の中重ねて弐照せられ一命の期連(きしきり)に再甦(さいそ)を見る。骨を砕き髄を挑るとも、豈前恩に報ぜんや。是を以て曽子の家には嬌子あること旡(な)く仲尼の門には罵る者あること旡(な)し。孝を行うの子は其の語を改めず、夏に銘す堯の心を、神(しん)を澄(すま)して照乾 す。六月童子意うに香は坤(こん)を助(たす)く、徒を作(おこ)す之(こと)大なり。言(こと)を合せて字を 喩(さとす)す。故に翼旡(つばさな)くして長く飛び、根なくして更に固る。-説明書より

永昌元年己丑四月、飛鳥浄御原大宮に、那須国造で追大壹の那須直韋提は、評督を賜はれり。
歳は庚子に次る年の正月二壬子の日辰節に殄れり。故に意斯麻呂ら、碑銘を立て、偲びて尓か云ふ。
仰ぎ惟るに殞公は、廣氏の尊胤にして、国家の棟梁なり。一世之中に重ねて貳照せられ
一命之期に連ねて再甦せらる。砕骨挑髄するも、豈に前恩に報いん。是を以て
曾子の家に嬌子有ること无く、仲尼の門に罵者有ること无し。行孝の子は
其の語を改めず、銘夏尭心、澄神照乾。六月童子、意香
助坤。作徒之大、合言喩字。故に、翼無くして長飛し、根无くして更に固まんと。
永昌元年己丑四月、飛鳥浄御原朝に、那須国造で追大壹の那須直韋提は、那須評督に任じられた。
歳は庚子に次る年の正月二壬子の日辰節に亡くなった。そこで意斯麻呂ら、碑銘を立て、故人を偲んで以下のように云ふ。
仰ぎ惟るに故人は、那須國造一族の嫡承継主で、朝廷の片腕でもあった。一世之中に重ねて貳照せられ
一命之期に連ねて再甦せらる。斯様な一族の中興の英主の恩に、どうやっても報いたい。
そこで儒教の教えに従って、父親への孝心をあらわすべく、
また仏神の御教えも受けて、ここに一文を草す。故人の遺志が長く広く、地に根付かんことを。-Wikipediaより




         
           笠石神社 御朱印




                              つづく